荒・二
荒・二
獅鳳の北方、テーミン高地の中に九辛の隠れ家はある。
そこは古の剣豪ドルン・クンが設けた砦の一つと言われている。非道な領主に憤り、義を通すために森に立てこもり、多勢を圧倒したと伝説は謳っているが、今はただの廃墟だ。
とはいえ、完全に野に帰した訳ではなく、少し手入れをすればまだ仮の宿として使えた。屋根の大半は落ちてしまっているが、数度の激震にも耐え切ったほど念入りに厚く塗られた土壁は残っている。
元々、荒斗には定住など許されず、短期間で流れ歩く事が常である。普段、自然の環境で生きているが、人の手が入った空間にいると、妙に安心できる。たとえ天井が抜けていても、自然の物ではない壁があるだけで、守られている気がするのだ。
砦跡だけあって、大人数を収容できる広間もある。そこに数十人の荒斗が集まり、一息を付いていた。
食べ物が供され、廻人(商人)の荷を強奪して得た酒まで振舞われている。ほとんどの者が酒という娯楽に慣れておらず、一気に飲み込んで、あっさりと飲み潰れている。
今回はいつもより大規模な襲撃戦となったが、九辛としてはほぼ犠牲を出していない。予定通りに事を運べたので、喜んで良いはずだが、それを単純に喜べるものはいない。貴重な酒でもつぎ込まないと、沈んだままで、一向に気が緩められそうになかった。
広間の端で、一段高くなった所に、十人の男女がいる。九辛の幹部達である。
彼らは、各邦の出身者、または、その近辺に根付き、長く活動していた者の中から選ばれている。土地勘があり、知人がいることを有効利用する為である。
常時は各邦に散り、九辛に賛同する荒斗を遣い、まとめる役をしている。今は策戦に合わせ、各々十人弱の手下を連れてここにいる。
黙って座っている者、距離を取って半分影に潜んでいる者、饒舌に話しかけて儲け話に乗らないかと誘う者……。幹部達はみな曲者で、一筋縄では行きそうにない雰囲気がある。
その中で、最も猛々しい空気を纏った者が動いた。
飲み干した杯の上に拳を叩きつけた。欠けずに辛うじて形を保っていた杯は粉々になっている。その甲高い破壊の音により、嫌でも皆の注意が向けられた。
「そろそろ、いいと思うんだがよ、俺は」
素面では無いが、正気は失っていない。彼は比較的育ちが良く、酒に慣れており、この程度ではつぶれない。
全身から立ち上る熱量は只事ではなく、彼が熱く憤っているというのは一目瞭然だ。
止まらなかった舌が止まり、半分影に潜んでいた者はさらに気配を消していく。最も過激で苛烈であると目されているゴオクに、しかも何事か本気で頭に来ている巨漢の真正面に立つ事を誰もが嫌がっている。
自然と皆の目が、頭領へと向けられる。だが、そもそもゴオクの異変にも気付かなかった様に、ゲンヴは静かに座ったままだった。
チッと、ゴオクが舌打ちする。立ち上がりそうな気配を見せた所で、「待て、ゴオク」 と、壁にもたれかかって酒を啜っていた男が声を発した。
「何の話か、はっきり言え」
背が高く、引き締まった体を持ち、精悍な顔つきをしている。低いがはっきり腹に響く声には、人を威圧する力がある。
「グント……」 と、ゴオクは喉の奥で唸るようにその名を呟いた。
二人の男は、無言でにらみ合った。
双方とも九辛の中で最も好戦的で、危険な男である。ライ・グントは貴峰で騎馬を駆る歴戦の強者で、ゴオクは恵まれた巨躯を持つ猛者だ。
裏切りや死闘は荒斗にとって日常茶飯事である。そんな中でも、両者の激突は只事では済まされない。ついにその両雄が激突するのかと、皆は固唾を呑んだ。
「それで良いのかい? ゴオク」 と、静かな声がした。「それがゴオクの望んできたものならば、僕は止めないよ」
声の主は、幹部の席に居る若い男である。少年といってもよい見た目だが、成人しているかどうか、落ち着いた雰囲気からは判断しにくい。
ゴオクの気性からすれば、口を挟むなと怒鳴りつけようものだ。ところが、反論すらしなかった。グントも、何事も無かったかのように視線を落とし、杯を手で弄んでいる。その滑らかな指の動きは、彼の手が実に器用に動く事を想像させる。
ゴオクは渋面を作り、顔を背けて言う。
「そろそろ、と言ったのは、謝罪なり言い訳なり、当然あるべきだと思っているからだ。勿体つけずに、そろそろ始めたらどうだ、ということだ」
「と、いうと、どういう話でしょう?」 と、青年の側にいた男が代わりに話を受けた。
「……順調だった。予想外にな。そりゃあ、最初の取り決めでは、別行動となっていたが、状況により判断は変わるはずだ。あのままいけば、制圧できたかもしれない。俺たちの土地を、僅かながらでも、取り戻せていたんだ。それはトツカ、お前も思ったことだろう。ちまちま命を拾わずに、このまま制圧してしまてばいい、とな。それなのに、その決断が出来ず、こそこそ逃げろという。だから、その判断が間違いだったと、詫びの話が始まるはずだ」
トツカと呼ばれた男は、ふむふむと頷く。
「ゴオク殿は、策戦通りではなく、状況次第で行動を変えるべきだったと、仰っているのですな。そして、あのままアデオの佑を追い出して、町一つを占拠してしまえばよかったのに、と悔いている」
「そうだ。戦いでは、その場の判断が生死を分けることもある。その見極めを十分付けられるほどの経験は積んできた俺が、いけると判断したのに、予定だからと取り合わなかった」
「馬佑は?」 と、トツカは迫りつつあった脅威について指摘した。「いつまでも留まっていたら、あっという間に包囲されてしまったでしょう。そうしたら、いくら町を制圧しても、もう逃げられない。廣翼の攻団が着いたら、殲滅させられてお終いだ」
「ふん、四足どもがどうだというんだ。多少早く走れるだけだろうが。囲まれても蹴散らせば良い。それに、こちらにも騎馬はいる。あの伝説の英雄グント・ラターグ様の御子孫がな」
ゴオクの皮肉に対して、グントとは微動だにしなかった。それよりも、別の者が、ゴオクの言葉に妙な反応を示した。
「ねぇ、ゴオク……」 と低い声で口を挟んだのはナヴだった。
「もしかして……。彼らを見捨てた事について、言っているの? 見捨てた事が、悪い事だって、言っているの?」
ゴオクは息を呑んだ。ナヴの様子が激変していた。大きく目が開かれ、眼球がせわしく左右に動いている。抑えようとしているが、内から狂気がにじみ出ようとしている。
「見捨てるなんて、そんなこと、私達にとっては、日常的なことでしょう。それを、間違っていると、言うの?」
「ゴオク殿。ここは、刺激しないほうが……」 と、トツカは指を口に当てて言った。
「どうなのよ! 見捨てたって言うの? 私が、見捨てたと? ……見捨てた? 私が、誰を……?」
ナヴは頭を抱えて、震え始めた。何を思いだしたのか、精神が均衡を崩しかけている。このまま追い詰めると、狂乱し戻れなくなることは明らかだった。そこまでは望んでいないらしく、ゴオクはため息をついて、宥めにかかった。
「……分かったよ。いや、ナヴ。違うんだ。聞いてくれ。何も、見捨てた事を、悪いと言っているんじゃない。そんなこと、確認するまでも無い。時には、人は人を捨てることもある。それは、当たり前のことだからな」
「当たり前……」 と、ナヴは少しほっとした表情を見せた。だが、まだ警戒するようにゴオクを下から睨んでいる。
「なら、何よ? 何が問題だっていうのよ」
「あぁ、つまりだな……。策戦通りとはいえ、まだまだいけたんじゃないのか。引き上げを命じたゲンヴが、状況分析できていなかったんじゃないか。頭としての資格があるのかどうか、それだけを、問い質したかったわけだ」
「まだ殺し足りない、っていうこと? あれだけ殺してきたのに?」
今回の襲撃に加わった中で、奪った命の数はゴオクが群を抜いている。他とは協調せず、出会い頭に斬り付けているのだから、当然そうなる。
「あぁ、殺し足りないな。手が届いたのに、奴らを生かして残してきた。町を占拠すれば、好き放題できたのにな。悔しくてたまらねぇ」
「……どうかしているわ」
「ゲンヴ、お前も本当はそう思っていたんだろう?」 と、ゴオクは挑むように言った。さきほどとは違う緊張感を持って、皆は成り行きを見守った。
ゲンヴは九辛の頭領であるが、グントやゴオクよりも腕っ節が強いわけではない。コタラやトツカのように人を言葉で操る才もない。
それでも彼女は、深く恐れられている。
なぜなら彼女は、一度、死んでいる。その怨念が起き上がり、ゲンヴを動かしていると、言われているのだ。それが本当のことならば、九辛の中の最悪を体現しているといえる。
また、ゲンヴは、自ら明言した事は無いが、東獄から来たと目されている。
東獄は、東の果てに有り、荒斗たちが囲われていると言われる。最も激しく大地が鳴動し、地形は変わり果て、未だに復興の兆しが見えない。見上げるような切り立った山で遮られ、そこに送り込まれた荒斗たちは戻って来られない。
ゲンヴがもし、本当に東獄から来た者であるならば。そして、噂どおり一度死して尚、恨みを晴らそうとしているというならば。その九辛の中でも極めつけの経歴が、彼女が頭領とされる所以の一つである。
そのゲンヴに、ゴオクは食いつこうとしている。
「それとも、お前は他の命を奪うよりも、まず自分の命が惜しいのか? 報復するよりも、我が身が大切か」
「そんなことはない、ゴオク」 と、ナヴが反論する。「ゲンヴ様は、皆が十分に働いた上で、確実に逃れられる策を採られたのだ。退いたのは、皆の事を考えたが所以だ」
「そんな事をしてくれと、誰が言ったよ。何が何でも生き延びたいなどと、ここにいる時点で皆、諦めているだろうさ。そんな当たり前の事も分からず、俺たちの死に方まで決める権利は無いな」
「……」
「何とか言えよ、おい。大体な、お前、恨みが小さいのではないか。だから、少し溜飲が下がればそれでいいのだろう。だが、俺達は違う。奴らを、皆殺しにせねば気が済まない。俺たちの土地に我が物顔で住んでいる奴らを、全て殺してやる」
ゲンヴが急に立ち上がった。思わずゴオクが身構える。
緊張した皆を制して、ゲンヴは言う。
「良かったな、ゴオク」
「な、なに」
「次は、大きく動く。そこで思う存分、やるが良い」
それから、有無を言わさず、その場を後にした。