荒・一
荒・一
獅鳳(満洲)は九つある邦の一つで、昂国の東南にある。昂国の真ん中を縦断するターレイル大河が海と交わる一帯は三角州となり、その豊かな土壌の恩恵で多くの昂民を育んでいる。
起近以前は、瑗環国という大国の都があり、北方にレノガという大森林があったが、降灰の所為で今は見る影も無い。それでもテーミン高地に守られ、獅鳳の北部・オル州やエンスク州には幾らか緑が残っている。そこで得られる作物と、南部にある港町で揚げられる海産物により、獅鳳は比較的豊かな暮らしができている。
その港町の一つであるアデオで、異変が起こった。
気持ちの良い穏やかな夜であったので、遅くまで陽気な笑い声がどこかしらで上がっていた。それらの和やかな雰囲気は、突如鳴り響いた鐘の音と共に途絶えた。
切羽詰った鐘の叩き方は、凶事の到来を嫌でも感じさせ、支士たちの怒号らしきも遠くに聞こえる。
まず心配した事は、火の不始末である。この地の民は、火に対して強い畏れを持っている。取り扱いは過敏なほどで、大火ともなれば恐慌をきたすこともある。実際に空を仰げば、沿岸地帯が赤く照らされており、火の粉が舞っていた。
脳髄を直接叩かれているかのような、甲高い鐘の音はまだ止まない。その音に呼び寄せられたか、護士までもが緊迫した雰囲気を纏って駆けて来た。邦境の監視の任に当っていた者達まで招集される事態ということだ。
「一体何なんだ? 何が始まったんだ?」 と、住民達は怯え、佑の邪魔にならないよう、隅に集まっていた。
心配そうに囁きあう民たちの髪は、みな揃って白い。すべて老人というわけではなく、若者や子供もいる。老いて色が抜けたのではなく、元々銀に近い色の髪を持っているのだ。
「まさか……」 と、囁きが漏れる。「また、あれが繰り返されるのでは……」
口に出すことすら憚れるが、真っ先に心案じられることがある。起近と呼ばれた、最悪の事態の再来である。
ここ百年ほどは、目立った災害はないが、いつまた大地が牙をむくか分からない。
佑は元々、その時のためにこの国にやってきた。そして、今その本領を発揮しているのではないか。そうならば、このままで良いのか、一刻も早く逃げた方が良いのではないか。
「しかし、揺れは感じなかったぞ。それに、大地の唸りは聞こえたか?」 と、闇を見通して、遠くの山々に眼を向ける。目だった異常は眼に付かず、そこにあるのはいつもの夜景である。
「あれではない、のか……。しかし、これは単なる失火ではないぞ」
火が猛威を振っていると知れると、民達は動揺する。それは日向人も同じだが、とにかく火消しを、と対処はできる。それなのに、今はむしろ佑達の方が平常心を失って見える。たまに起こる昂民の暴動でも、佑達がこれほど殺気立ったことはない。
「奴らじゃないか?」 と、一人が恐る恐る囁いた。
「奴ら、とは?」
「九辛だ」 という答えに、数人が呻き声を洩らした。
「あの九辛が、ついに獅鳳にも出たんじゃないか」
日向人を悩ませるものは多々あるが、今最も難儀しているのが荒斗である。九辛はその一派であるが、一段と過激な集団だという噂があった。自分たちが受けた九つの恨みを晴らすため、昂民、日向人を問わずに襲いかかり、殺戮するのだという。
くそっ、と、一人が拳を建物に叩き付けた。
「あの厄介な奴らがでたというのか……。何故俺たちがこんな眼にあわねばならないのか」
「あぁ。俺達は日向人の言う事を聞いて、真っ当に生きている。それなのに、なぜ九辛の奴らは――――」
「おい、今、何と言った」 と、背後から険しい声がかかった。
振り返ると、そこには年配の日向人がいた。刖は帯びていないが、怒りで興奮した面持ちだ。
「川本様……」
その老人が以前支士として治祐部にいたことを知っていた者達が頭を下げた。それには構わず、川本は赤黒い顔をして言う。
「九辛と言っておったな。奴らが現れたのか」
「いや、それは……。確証はないのですが、もしや、と思って」
「ならばなぜ黙っておる」
「は?」
「それと分かったならば、なぜ知らせぬ。それとも、このまま隠し通すつもりであったか」
「川本様、決して、そのような……。ただ、我らは―――」
「同胞だから、庇い立てするつもりか」
「庇うだなんて、そんな」と、慌てて首を振って一人が答えた。
「ならばなぜ口を閉ざし、支士たちの難儀を傍観しておるのだ? それは、そうすることが奴らの益になるからではないか」
まるで自分たちが罪を犯したかのような叱責に、民たちは不条理を感じながら耐えていた。
「川本様、お待ちください」 と、か細い声で一人が抗弁した。「この騒動を起したのが、正に九辛であるならば、それは、私達とは何の関係も―――」
「やかましいわっ!」 と、川本は怒鳴った。 「関係が無いだと? 嘘を吐きやがって。九辛とは、昂民の集団だろうが。それでいながら、恥知らずに恩人へと牙を向けるという、人でなし共だろうが」
荒斗は、祖先を同じくするかもしれないが、外から来た民である。ずっとこの苦難の地で生きてきた昂民からすれば、もはや別の民族である。
支士であったならば、そのことは承知しているはず。だが、それは理屈であり、激昂する頭には、もはや同じにしか思えないのだろうか。
川本は唇を震わせて、己の中で勝手に怒りを高めていた。
「私達と、彼らとでは、もう違うのです。彼らは祖国を捨てた荒斗。私達は、ずっと我慢をして、生き延びてきた、この国の民なのです。一緒にされると、こちらも迷惑なのです」
「痴れ者が!」 と、川本は唾を飛ばして怒鳴った。「昂民は昂民であろうが。お前達をどうにかしようとして、我が祖先はこんな所まで来たのだぞ。見ず知らずのお前達を救うために、祖国を捨ててまでして、だぞ! それなのに、感謝するどころか、反抗してばかり。この恩知らずどもめ」
「私達とて、奴らを憎んでいます。あんな恥知らずと一緒にされたくない。私達はこの邦で必死に……」
昂民の訴えは、そこで掻き消された。一際大きな爆発音が轟いたためだ。ただの火事にしてはありえない爆音である。風に乗って、喊声も聞こえてくる。それは集団同士がぶつかっておきる、殺し合いの声だった。
「……殺される……、このままでは、殺される!」
一人が叫ぶと、急に飛び火したように、民は正気を失った。大声で、意味の分からない言葉を喚き、四方に駆け出し始めた。
その金切り声に顔をしかめ、我慢の限界に達したのか、川本は腰に手を伸ばした。
「引導を渡してくれる―――」
血走った目で民を睨むが、手先には頼みの刖は無い。正常心を失って忘れているのか、彼はすでに隠居の身だった。
「待て、逃げるな!」
川本は焦るが、体は付いてこない。その隙に、川本に体当たりを食らわして、民は散り散りに逃げて行った。
*
騒動の中心と思しき港側から逃れようと、民は山の方角へと押し寄せた。人の波は他の波に追いついた所で停滞し、互いを押し退けようとした結果、より滞っていった。
人は知らずの内に、人のいる所に寄ってしまう癖があるのであろうか。人が群れて込み合った所もあれば、閑散としている通りもある。
その人気の無い暗がりで、不審な行動をしている者達がいる。
男が一人、俯いて座っていた。黒一色の着物を着ているように見える。垂らした髪で表情は窺えない。どこか具合が悪いのか、そう心配した心ある人が、見かけて寄って行く。
「おい、どうかしたのか、早く逃げた方が良いぞ」
間近に寄った所で、ぎょっとなって、動きが止まった。
違う、この黒は染められた色ではない。これは、大量の血が染み付き、乾いたものだ―――。
「―――逃げたほうが良い、確かにそうだ。だが、それは、お前のことだ」
男が顔を上げた。怒りで真っ赤になっているようでいて、悲しみで歪んでいるようでもある。喜びが発散されているようでもあり、およそ人のものとは思えない醜悪な形相であった。
驚いている間に、短刀が宙を飛んだ。親切にも人を案じた男は、胸に刃を突き立てられて絶命した。
物音を立てて暴れまわらず、警戒せずに寄って来た者を静かに仕留めた。こうした惨劇が諸所で行われていた。
その犠牲者は昂民だけに限らず、日向人にも出ている。この非情な襲撃こそが、昂民達が心配していた九辛と呼ばれる集団の仕業であった。
九辛は、九つの恨みを晴らすために活動していると言われる。その恨みとは、暴力を受けたこと、不自由を強いられたこと、強奪されたこと、家族と別れさせられたこと、人との繋がりを裂かれたこと、侮辱され貶められたこと、信を逆手に騙されたこと、人の扱いを受けなかったこと。
そして、殺されたこと、である。
彼らは各邦に出没していた。共通しているのは、静かに的確に獲物を仕留めていること、衣を赤く染め抜くまで犠牲者を出し続けること、いつの間にか消え去ること。
まるで怨念が実体を得て、手当たり次第に祟って回っているかのようである。昂民だけでなく日向人もその襲来を恐れている集団なのである。
そんな中、女が一人、歩いている。
その前に、子どもが飛び出して来た。顔は鼻水や涙でぐしょぐしょになっている。慌てて逃げる内に、親と逸れたのか、それとも置き去りにされたのか。出くわした相手を見上げ、庇護者たりえるだろうかと考える。
「おかー、さん?」
まるで落し物を拾うかのような自然な動きで、その女は屈み込んだ。そして、抱き抱えようとするかのように手を伸ばした。子どもは反射的に前に進み出て、その懐に入ろうとした。だが、女の片手には、小刀が握られていた。
この女もまた、九辛の一員であった。
子どもの背に、刃が突き立てられようとした、その時。
「―――待て」 と、鋭い声がかかった。危うい所で、子どもの命は残った。
声をかけたのは年配の男だった。刀を腰に差しており、着物も和風で、佑ではなさそうである。
「お前達、九辛とか言われる者達だな。どうして、こんなことをするのだ」
嗄れた問いかけには答えず、女は立ち上がりつつ、子どもの背を軽く押した。険悪な雰囲気を感じ取り、子どもは泣き出しそうな顔でその場を離れて行った。
「昂民を皆殺しにして、自分たちがなり代わろうとは、思っていないのだろう。恨みを晴らすために暴れるなら、もっと激しく感情にまかせてやるはずだ。あっちの奴らのようにな」
遠くから熱風が吹いてきた。火の粉を含んでいるが、その熱さにも怯まず、老人は目の前の相手を見据えていた。まだ刀の鞘にも手をかけていない。
風に煽られ、女の顔が露になる。まだ若いが、焦りも怒りもない、しんとした表情であった。それだけに、何故という思いが募り、老人は縋るように問いかけた。
「お前達が口を開いてくれぬと、どうしてそんなことをしているのか、わしには分からん。お前達の頭の中にあるものが見えぬと、話ができん。教えてくれ、どうしてお前達は、こんなことをしているのだ」
ほとんど泣き出しそうなほど苦しげな問いかけを受けて、か細い声で返事があった。
「―――どうして? さぁ、分からない」
その覇気の無い声に虚勢はなかった。とぼけているのでもなく、本当に分からないようである。
「だって、そんなもの、なのでしょう?」
「そんなもの?」
老人は当惑した。言葉は通じる。なのに、必死になって考えても、何を言っているのか、よく分からなかった。
「意味もなく、摘み取られる。必然性などなくても、軽く縊られる。強い欲など無くても、たまたま眼に入れば、蹂躙される。命って、そんなものなのでしょう?」
「は?」
困惑する老人に向けて、女は、薄く微笑んだ。
「私達の命は、そんなもの。私達と貴方達は、違うものなの? 同じ生き物なら、同じ命でしょう。それならば、同じ目に遭っても、おかしくはないでしょう」
「同じ……。つまり、お前達もまた―――」
言葉の途中で、老人の腹から剣の先が突き出てきた。呆然とその切っ先を見つめて、それから老人は膝を突いた。
その動きに合わせて、剣が引き抜かれた。いつの間にか背後に迫り、無防備な背に剣を突き刺したのは、別の赤衣の者だった。こちらもまた、女であった。
「……うぅぅむ」
苦悶の声を出しつつ、老人はなんとか顔を上げた。死の気配が濃厚となっているが、眼差しはまだ懸命に抵抗の意を示していた。
「わしは、これで死ぬ訳にはいかない……。ここで死ねば、あいつまで不幸にする。あいつを鬼にしてしまう」
震える両手を差し出す。眼に見えない、誰かに向けているようである。
「この、両の手は……。一人、ではなく、双方の……」
そこまで言って、力尽きた。意志を失った体が無造作に横たわる。
「時間だよ」 と、手をかけた方の女が急かす様に言う。
長い髪の女は答えず、亡骸をじっと見つめている。
「ゲンヴ」 と、女は苛立った声で名を呼んだ。 「もう時間がない。馬佑が来る」
馬佑とは真府の九幹部の一組織である。所属の佑は普段は渡士として、食料や特産品運搬の護衛をしているが、有事の際は、馬の足を活かして迅速に駆けつけてくる。追い返すか捕縛するかを主とする護士とは違い、馬佑は有無を言わさず武力で制圧する。
ゲンヴと呼ばれた女は、港側に眼を向けた。騒動の気配はあるが、だいぶ鎮まって来ている。
「あっちはもう終わり。暴れるだけ暴れて、あれだけ目立ったんだもの。囲まれたら、逃げられやしない。それとも、あんたも、あっちに行きたかったの?」
遠くを見つめ、ゲンヴは答えない。
「あっちはね、派手に暴れられて、すっきりしたんだろうけど―――。確実に死ぬよ」
消え入りそうな声で、ゲンヴが囁いた。
「それのどこが悪いの、ナヴ」
眉を顰めて、やっぱり、とナヴと呼ばれた女は応える。「目が離せないわね、あんた」
ゲンヴは、急にその場から駆け出した。
「あ、こら」 と、ナヴは手を上げる。ゲンヴの向かう先が、騒乱が収まりつつある港の方ではなく、反対側の山地であることを確認して、ナヴはため息を付いた。
「とんだ首領サマだよ、まったく……」
呟いて、ナヴは彼女の後を追った。