雨降る夜に眠りたい(1)
六道先生とは別に、ショッピングモールから自転車で先生の屋敷に向かうつもりだったけど、
先生は気を遣って自転車も積めるタクシーを呼んでくれた。
ワゴンタイプで、今ではスマホアプリですぐ手配できるらしい。
そういうものがあるということ自体、初めて知った。先生と出会って以来、こういう機会が増えた気がする。
身体も心も特に変わった気はしないのに、ぼやけて見えていたものが断片的に解像度が上がる。
ずっとフワっとしたものに見えていて、そう思い込んでいたものが、実は意外と色あせた固い塊だったと気づかされたりもする。
……大人になるって、こういうことなのかな。
揺れる車の中で先生の隣に座って、わたしはそんなことを考えていた。
だとしたら、わたしを決定的に大人にしたのは、両親がいなくなったことなんだけどね。
屋敷に戻ってきたわたしは、いつものようにメイド服に着替え――これが『いつものこと』になってしまうのもどうかと思うんだけど――更衣室を出たところでちょうど六道先生と鉢合わせた。
先生のほうも、すでにいつもの英国紳士スタイルに戻っている。お風呂場のほうで着替えたのかな。
レアな私服(?)姿ももうちょっと見ていたかった気もするけど。
言葉少なく、何かを考え込んでいる空気を漂わせて仕事部屋に向かう先生の背中に、わたしはあえて声をかけなかった。……たぶんだけど、鯖野さんの小説を読み、彼と会って話したことで、先生の創作意欲も刺激されたんじゃないかと思う。
「オカエリナサイマセ、ゴ主人サマ」
丸いお掃除ロボットが足元に寄ってきて、合成された女性の音声でそう言った。
「わたしはご主人様じゃないよ、サルサ」
さて、わたしは何をしようかな。
何しろ雇用主からの要望が『メイドらしくあればいい』というだけで、特に細かい仕事内容が決められているわけではない。なので、だいたいその日に目に付いた家事をこなすことにしている。
(窓の拭き掃除でもしようか……)
わたしは用具の準備をして、中庭に向いた大きめの掃き出し窓の前に立った。
窓ガラスの清掃は、曇りの日がいいと聞いたことがある。湿度が高いほうが汚れも落ちやすく、直射日光が当たらないのでムラよく見えるそうだ。
台所用の中性洗剤を薄めて内側のガラスにスプレーし、拭き取る。高いところはつま先立ちで何とか手を伸ばす。
……何だかこういう姿は、六道先生の考える“メイドらしさ”のイメージにかなり近いんじゃないかという気がする。
そう言えば、窓ガラスは新聞紙で拭くと綺麗になるという話も聞いたことがあるけど、ヴィクトリア朝のメイドさんも、新聞紙で窓を拭いたりしていたんだろうか。
……現代とは紙とインクの材質も違うからどうなのかはわからないけど、最近となってはもう新聞紙がある家庭のほうが少なくなってしまった。エプロンのポケットに入っているスマホで窓は拭けない。
窓の外には、小じんまりとした中庭が見えている。六道先生としては裏庭にしたかったらしいけど、そうなると嫌でも周囲の町並みが見えてしまうので、壁に囲まれた中庭にしたのだと聞いた。
晴れた日はここにベンチでも置いて読書をすれば気持ちよさそうだなと思う。
先生は植物にはあまり興味がないみたいだけど、何か植えたりプランターを並べたりすれば、室内からも見えていい感じなのにな……。
そんなことを考えていた時だった。
ポツン。
背伸びしたわたしの顔のすぐ前で、水滴が当たってはじけた。
続いて、二度三度と大きめの粒が窓に当たり、わたしはようやく気付いた。
「雨……?」
風も出てきたのか、窓ガラスには幾筋もの滴の跡が斜めに走りはじめた。
そしてすぐ、雨が木の枝や屋根を叩く音が響き、どんどん早くなるそのテンポが視覚以上にその激しさを伝えてくる。
篠突く雨――
昔、本で読んだその言葉が気になって調べたことがあった。
篠とは細く群がった竹のことで、まるでそれを地面に突き刺すような激しい雨を指すんだって。
いつ頃にできた言葉かは知らないけど、現代みたいにどこにでも丈夫な屋根や建物がなかった時代の人にとって、雨に打たれるのはそれぐらい心細くて苛烈なことだったんだろう。
スマホで天気予報を開いてみると、赤い警報や黄色い注意報でいっぱいになっていた。
このバイトの時間帯的に、わたしが洗濯することはない(と言うか、だいたいの洗濯は先生が午前中に自分でやってるっぽい)。
自宅の家のほうは、たぶん妹が取り込んでくれるだろう……あの子、ちゃんと帰宅できてるかな……。
そう考えていると、手の中のスマホがブルブルと震えだしたので、驚いて取り落としそうになる。
いつまでたっても慣れないなぁ。たぶん、わたしがスマホを見ているときはだいたい神経を集中させすぎてるからだと思うけど。
通知を見ると、咲からの着信だった。
『やほー、有紗。もう先生ん家に戻ったの?』
「うん、そうだけど……。どうしたのよ、人をショッピングモールに置き去りにしておいて」
『だって、早く帰らないと雨が降り出しそうだったし』
「……咲は予知能力者か何か?」
『小まめに天気予報を確認するクセが付いてるだけ。私って雨女だから、よく出先で降られたりするし……ってか、有紗が未来のことを気にしなさすぎなんだと思うよ』
だってどうせ、気にしたところで、なるようにしかならないし。
『そもそも、学校が早く終わったのも、夕方から天気が荒れるかもしれないからって言ってたじゃん』
そうだったっけ。
家計のこととか将来のこととか、考えることが多くて、授業以外は聞き流していることが多かった。
……そう言えば。
言われてみれば確かに、ショッピングモールで咲も鯖野さんもそれっぽいことを言っていた気がする。深く気にしてなかったけど。
『でも、もうお屋敷に着いちゃったかぁ。もうちょっと雨が降るの早ければ、途中のホテルかどっかで雨宿り、みたいな展開もあるかと期待してたけど、少し残念』
「バカなこと言ってるんなら切るよ。妹に電話して洗濯物取り込むように言わなくちゃ」
『あー、洗濯物ならさっき結伊ちゃんが取り込んでたよ』
「……へ?」
『ほうほう、これが有紗の下着かー。カップが小鉢どころかお茶碗ぐらいありますなぁ』
「やめろ。……ってか咲、いまわたしん家にいるの? なんで?」
『この天気の中、結伊ちゃんひとりじゃ不安だろうし、有紗のかわりにいてあげようと思って。食料も買い込んできたから、心配いらないよ』
「いやまぁ、それは正直ありがたいけど、なんでわざわざ……ん、ちょっと待って」
急なことで混乱してしまったけど、あらためて今日の咲の言動を思い返してみる。
「じゃあ咲は、大雨になるとわかってて何も言わずにわたしとノンビリお茶して、わたしと先生たちを置いて、そのままわたしの家に向かったってこと? 最初からそのつもりで?」
『うん。そりゃあ、普通のバイトなら休ませてもらいなよって言うとこだけど……作家先生と一つ屋根の下にいるんだから、安心でしょ? あ、別の意味で危険かな?』
スマホの向こうで咲が含み笑いしている。
『……この雨、朝方まで続くみたいだって。こんな天候で外に出たら危ないから、そこで泊めてもらっちゃいなよ。明日、土曜日だし』
とりあえず、咲がドーナツショップでどうしてあんな破廉恥トークをしだしたのか、完璧にわかった。学校を出たときからこの展開を仕組んでいたんだ。
「……もういい、結伊にかわって」
『はいはい。――結伊ちゃーん』
軽い物音のあと、妹の明るい声が耳に飛び込んでくる。
「あ、お姉ちゃん? うん、咲ちゃんが来てくれたし、こっちは大丈夫だよ。これから一緒にアニメのDVDとか見るんだー。お姉ちゃんも、バイト頑張ってね!」
立て板に水でそれだけ言って、妹はさっさとスマホを咲に返したらしい。相変わらずマイペースな子だなぁ、と考えて、ドキリとした。
「ちょ、ちょっと咲、まさかバイトのこと、結伊に――」
『あー、うん。知り合いのネカフェで働いてるから、もし帰れなくなっても平気だって説明しといた』
わたしはホッと胸をなでおろす。さすがに中学生の妹に、男性の家でメイドをしてますとは言えない。いや、やましいことは何もないんだけども。
こんなふうに、咲には事あるごとにイジり倒されてるけど、わたしが本当に嫌がるだろうことにはちゃんと気を遣ってくれる……特に家族のこととかには。
……それにしても、あまりに手回しが良すぎて、ありがたい反面ちょっと引くけど。
『ま、そういうわけで。こっちは気にせず、先生とふたりっきりのドキドキお泊り体験を楽しんできてね♪』
咲の言葉で、わたしはあらためてこの現状を自覚した。
自宅と妹のことが気になるあまり……そしてそういう経験がなさすぎて実感できていなかった。
……六道先生と、この屋敷で、一夜を過ごす……?
窓の向こうで降る雨は、よりいっそう激しさを増していくばかりだった。





