第6章 最後の晩餐
「――呆気ないもんだな」
辞表があっさり受理されて、さっそく有給休暇の消化期間となる。
ビルを出たところで振り向き、四年余り勤めた会社を見上げてみたものの、感慨深さはちっとも湧かず、むしろ浴びせられた不条理や理不尽ばかりが頭に浮かぶ。
サービス残業を口には出さずに暗に要求し、その時間数で評価する部長。
明らかな間違いを指摘しても部長の言ったことには決して逆らわず、後になってやはり間違いだったと判明しても、指摘の仕方が悪いとこちらのせいにする課長。
朝、突然書類を持って来て、『今日俺が出るまでに仕上げろ』と無理難題の営業。そしてその営業達は、自分たちが仕事を取ってきているからお前らの給料が出ているという口ぶり。
そんなことばかりの毎日に、机の引き出しに忍ばせていた辞表に何度手が伸びたことか。それを今日まで思い止まらせたのは、自分の度胸のなさと主任の励ましだったと言える。
会社には何の未練もないが、主任の厚意を裏切る結果になってしまったことだけは心残りだ。
「山王子くん、ちょっと待ってよ」
「あ、主任。お世話になりました」
ちょうど主任のことを考えていたところに、当の本人が僕の元に駆け寄る。
肩に手を掛けたまま切らした息を整える主任に、改めて退社の挨拶をした。その言葉が気に障ったのか、顔を上げた表情が険しい。
「薄情者。今日で退社なんでしょ? だったら『最後に食事でもどうですか?』ぐらい言ってくれても、バチは当たらないんじゃないの?」
「うーん、確かに会社は最後ですけど。主任とは最後じゃないですし」
「そ、それはそうだけど……よし! 行こうか」
主任は険しかった表情を緩めると、突然僕の左腕に自分の右腕を絡めた。
そして、強引に駅の方へ向かって歩き始めたので、僕も慌ててついて歩く。
「ちょ、ちょっと何処へ行くんですか?」
「あたしも早退してきちゃったからね。食事よ食事、最後の晩餐てやつ?」
「だから、最後じゃないでしょうに……」
洒落た薄暗い店内は、席もほとんど埋まっているというのに、聞こえてくるのはわずかな食器の音ばかり。高層にあるので眺めも良く、利用するのは恋人同士か新婚カップルぐらいじゃないかと思えるほど雰囲気の良い店だ。
目の前の主任はいつもと違う雰囲気のせいか、会議室で面と向かって説教をするときとは全く違う緊張感がある。
「主任は、よくこんな所で食事するんですか?」
「するはずがないでしょ。こんな所に一人で来られるわけないじゃないの。今日はあなたがいるから、興味があったこの店に無理やり付き合わせたのよ」
運ばれて来るのは皿ばかり大きくて、乗っている料理は一口か二口で食べきってしまいそうな上品さだ。だが色どりは美しく、味も格別に美味い。
割り勘と言い出されたら、一体いくらになるのだろう……。いや、そんなことを考えていては折角の料理が台無しだ。今は、二度と食べる機会のなさそうなこの料理を、しっかりと堪能しておくとしよう。
メインディッシュを終え、コースも終盤に向かうと緊張も緩み、会話が弾み始めた。
「それにしても突然すぎじゃないの。半月ぶりに出社したと思ったら、今日で退社なんて……」
「いや、僕もビックリしました。まさかあっさり辞表が受理されて、明日から来なくていいなんて」
「そうじゃなくて……。あなたがこんなにも早く、辞表を提出したってことを言ってるのよ」
『実は、僕はヒーズル王国第一王子候補なので、反国王派に命を狙われているんです。だから身を潜めるために、会社は辞めることになりました……』
――なんて話は、既に異世界へ行った話をしてある主任が相手でも、打ち明けるわけにはいかない。
とはいえ、主任を納得させるためにはそれ相応の理由が必要だろう。
話せる事実だけを端的に答える。
「実は一ヶ月半ほど先ですが、また向こうへ行くつもりです。準備もあるので、今のうちに会社は辞めることにしました」
「え? そんなにすぐなの……」
主任は口に手を当て、驚いた表情で聞き返す。
そして、すぐさま寂しげな表情を浮かべたので少々の罪悪感と、不謹慎ながら嬉しさも感じる。僕が居なくなるのを寂しがってくれる人もいるのかと。だが、やはり会社でずっとかばってくれた恩人に、背を向けて退社したことを考えるとやはり胸は痛む。
コーヒーと小さな菓子がテーブルに載せられる。空気が重くなりかけたところだったので、ウエイターに救われた気分だ。
「こちらで最後になります」
「最後か……」
主任は寂しそうな表情で呟いた……。
「今日は、本当にご馳走になって良かったんですか?」
「そりゃ、こんな店に強引に連れてきて、その上割り勘なんて言ったらパワハラになっちゃうでしょ。一応、有給の消化が終わるまでは上司と部下なんだしね。
それよりも、……やっぱり、もう帰る?」
「ええ、この世界をまだ良くわかってない妹が、留守番してますしね……」
そう答えると、主任は俯きながらコートの袖を掴む。
このあいだ家に来たときといい、主任の様子がどうもおかしい。いつも凛として、弱みを見せるようなタイプではなかったのだが、僕のいない半月の間に一体何があったのだろう。
僕が主任の悩みを解消してあげられるとは思えないが、ここまで心細そうにしている彼女を放っておくのは忍びない。せめて、もうしばらく付き添うことにしようか。この程度では恩返しの一助にもならないが。
『……今日はちょっと帰り遅くなるから……。じゃあ……』
アザミの携帯に連絡を入れ、『最終出勤だから、会社の人と別れを惜しんでいる』と、本当ながらもどことなく嘘をついているような理由を伝える。
心配ではあるが、カズラもいるしきっと大丈夫だろう。
「妹には連絡入れたんで、もう少し付き合いますよ」
「よーし、今日ぐらいは山王子くんを独り占めさせてもらうわよー」
「え? 何か言いましたか?」
背中を向けて、会話を聞かないように気遣っていた主任が、笑顔で振り返る。
さっきまでの儚げな主任の姿はそこにはなく、いつも会社で頼りにしていた彼女に戻っていた。
そして、すぐさま僕の左腕に主任は右腕を絡ませると、ぶら下がるようにしがみつく。さらにそのまま、抱きかかえるように左手も添えられる……。この分では、そう簡単には開放してもらえないだろうと、覚悟を決めた。
「――今日は、とことん飲むわよって言ったのよ!」