第15章 闇の中へ 1
「やっべえ、さすがに緊張してきたぜ。しょんべんちびりそうだわ」
「王女の前で、何てこと言うんですか」
ケンゴをたしなめたものの、僕自身もかなり緊張している。
約半月の短い期間とはいえ、苦楽を共にした二人の運命が掛かる大一番だ。ケンゴは十年振りの帰宅、アザミは命を狙う者からの脱出、どちらも失敗が許される状況ではない。いやが上にも肩に力が入る。
そして散々みんなに迷惑を掛け続けた僕が、カズラに対する罪滅ぼしも含め、その汚名を返上するにはこれ以上のチャンスはない。緊張するなというのが土台無理な話だ。
今は待ちに待った五月十五日になったばかりの深夜零時、界門が出現すると思われる時刻まであと二時間ほどだ。ソーラス神社の鳥居が視界に入る路地の陰で円陣を組んで、最後の作戦会議を開く。
「しかし、暑いですね」
「仕方ねえだろ、俺らに向こうで凍死しろってえのか?」
手のひらを団扇代わりに首筋辺りを扇いでみるが、その程度で涼が取れるほど甘くはない。
事前の作戦通りケンゴはダウンジャケット、アザミはカウチンセーターのパーカー、そして僕も念のためセーターを着込んでいる。クローヌを含まない素材で魔力の伝達を阻害する作戦は、ケンゴの家のテーブルで成功を収めた。しかしアルミホイルと違って、隙間だらけの衣服でも効果が見込めるかは未知数だ。
それにしてもこの初夏に、防寒着を着込んだ三人組は怪しすぎる。我慢大会でもしているのかと言いたい。お互いの暑苦しい格好が、なおさらに暑さを助長させる。
「アザミちゃんはフード被って顔隠すんだぜ。ここは国王の息が掛かってんだろ?」
「はい、わかりました」
「お前さんは先遣隊頼むぜ。やばくなったら警備を引き付けて逃げてくれ。危険な役回りだが気を付けるんだぞ」
「頑張ります」
作戦開始は一時の予定だ。
作戦内容の確認は何回やったかわからない。普通ならこれだけ繰り返したら嫌になりそうなものだが、これ程の重大な作戦と言うことで緊張感は持続できている。
一昨日の下見の景色を頭に浮かべ、イメージトレーニングを開始する。ここで見張りに遭遇したら、こっちへ。ここで追われたらこっちへ。そしてここに敵が現れたら……詰んだ。発想がネガティブになって来たのでシミュレーションは中止にする。
空を見上げると満月が煌々と輝いている。
こっちへ来たときも、こんな満月が光っていたことを思い出す。そういえばこっちへ来てからというもの、ゆっくりと月を眺める余裕もなかった。ボーっと見上げていると心が洗われていくようで、気持ちが落ち着いてくる。
僕が月を見上げているのに気づいて、アザミも一緒になって隣で眺めながら尋ねる。
「これから行く世界にも月はあるんですか?」
「ああ、ちょうど同じぐらいの大きさだね。こっちほど奇麗には見えないけど」
「じゃあ、寂しくなったら月を見上げますね」
「僕もそうするよ」
そう答えるとアザミは嬉しそうな笑顔を浮かべ、目を閉じて月に向かって手を合わせる。カズラのことを思いながら成功を祈っているに違いない、そう直感して僕も同じように手を合わせ、月に向かって作戦の成功とカズラの無事を祈った。
しばらくの間二人で一緒に夜空を見上げていたが、時間は有限ではない。
ケンゴに作戦開始の時刻が近づいたことを告げられ、三人で再び円陣を組む。ゆとりを持てる時間はこれが最後かもしれない。
別れを惜しんでいると、居残る僕に向けてアザミが最後の挨拶を始める。
「家出早々絡まれて怖い思いをしているところにカズトさんが通り掛かって、それ以来今日までほんの短い間でしたけど、お世話になりました。
今までの人生辛いことばっかりだったけど、二人が居なかったらこうして将来に希望が持てていたかわかりません。そしてカズラのことを思うと、胸が……張り裂けそうですけど――」
アザミが涙を浮かべて言葉を詰まらせたので、思わずもらい泣きしそうになる。
「――でも……カズラはきっとどこかで……元気にしていると思ってます。だからせっかくもらったこの機会、みんなのことを思いながら大切に生きていきます」
アザミは二筋の涙を流しながら、笑顔で頭を下げる。
そのまましばらく肩を震わせていたが、やがて嗚咽が漏れ始めた。心配になり、そっと肩に手を掛け身体を起こすと、顔をくしゃくしゃにしてひどい泣きべそだ。
これでは作戦どころじゃない。アザミの両頬に僕の手を添え、そのまま目の下をそっと親指でなぞり、涙を拭ってやる。すると僕を見上げる目に少し落ち着きが戻り、今度は照れくさそうな表情を浮かべた。
「魔法のない向こうの世界は、アザミさんにはきっと住みやすい場所になると思うよ。だから慣れないうちは大変かもしれないけど、頑張るんだよ。
もし我慢できなくなったら、ケンゴさんに相談すればきっと、こっちに戻る方法を見つけてくれるから安心して行っておいで」
「はい、でもこっちの世界で居場所のなかった私が、向こうでやって行けるでしょうか…………」
サラリーマン生活に嫌気が差し、居場所を求めてこの世界に逃げてきた。しかし、憧れの魔法は使えず、また逃げ出すことを考えたりもした。結局、探しているあいだはいつまで経っても居場所なんて見つからなかった。
だが今は違う、自分の居場所なんていつの間にか考えなくなっていた。ここに居たいから居る、それだけだ。
「行く前からそんなこと考えてどうするんだ。居場所っていうのはね、探すんじゃなくて自分で作るもんなんだよ」
自分のことを棚の上にあげて良く言えたものだ。しかも、こんな恥ずかしいセリフを臆面もなく……。
そもそも『ここに居たい』と思ったのも、カズラとアザミを守るという目的があったからだ。結局僕の行動はいつでも受動的で、人にアドバイスできる器じゃない。
だが、旅立ちを不安に思っているアザミを見たら自然と言葉が出ていた。これも一種の中二病だろうか。
「はい、頑張ります」
すっかり涙は乾いたようで、大きな瞳を輝かせながら嬉しそうに大きく頷く。この顔が見られたなら、さっきの恥ずかしい言葉も無意味じゃなかったと満足した。
「言うじゃねえか」
ケンゴがニヤニヤしながら顎を指で掻く。
つい夢中になって存在を忘れていたが、今までのやり取りの一部始終を見られていたかと思うと、顔から火が出そうだ。
「俺からは別れの挨拶じゃねえ。なあカズト、お前さん本当に一緒に来なくていいのか?」
確かにカズラは消息を絶ち、アザミはケンゴに連れられて向こうの世界へ行くことになった。守るべきものがこの世界からなくなる今、『ここに居たい』理由も同時になくなる。
だが僕までが向こうへ行ってしまったら、一体誰がカズラのことを待っていてあげられるというのか。この世界で無事を祈りながらカズラを待つ、それが僕の望む役目であり、新しくできた『ここに居たい』理由だ。明確な理由がある以上、心に迷いはない。
「――僕はこの世界で生きていきます」