第4章 美味しい物は人を笑顔にする 1
「ちょっとあんた、いつまで寝てんのよ! もうお昼よ!」
せっかくの安眠を現実世界に引き戻したのは、カズラの大声だった。
しかも、息がかかるほどの耳元で叫ばれては目が覚めないはずがない。
そういえば、この世界に時計はあるのだろうか。
あるとしたら今は何時だろうか。
そもそも一日は二十四時間なんだろうか。
……どうやら、まだ寝ぼけているらしい。
やっぱり昨夜のうちに、そういったことをケンゴから聞いておきたかった。
結局ケンゴの、帰国は可能だという熱弁が主題になってしまって、質問はほとんどできずに眠ってしまった。
だがまてよ、なんで起こされなきゃならないんだ? ケンゴに起こされるならまだしも、カズラにだ。
昨夜は遅くまで起きていたし、まだ寝足りない。ほっといてくれとばかりに、再び机に突っ伏す。
「二度寝とはいい度胸ね! この時計が見えないの? もう十二時なのよ!」
反抗的な態度が不満だったのか、カズラに服を掴まれ、引っ張り起こされる。
さらにこれ見よがしに、十二時を指した懐中時計を目の前に突き付けられた。
ああ、この世界にも時計があるのか。
そして、今は十二時なのか。
この世界でも、十二時がお昼なんだな。
実はカズラは、この世界のことを懇切丁寧に教えてくれているのではないかと錯覚してしまう。だが考えていることがわかるはずもないだろうし、僕自身がまだ寝ぼけているだけだろう。
さすがに、この大声で二度も起こされると目も覚めてくる。ゆっくりと立ち上がり、洗面所を求めて流浪の旅に出る。
「おう、お前さんも起こされたのか」
風呂場のドアを開けっぱなしで、顔を洗おうとしているケンゴを発見。
洗面所を求めてしばらく家の中をさまよっていたのだが、見つかるはずもなかった。この世界には水道がないのだから。
水は汲み置き。そこから洗面器にすくい入れ、洗顔や歯磨きをするのが常識らしい。
広くない風呂場では、並んで洗顔をするゆとりはない。ケンゴが終わるのを待つ。
だがボーっと待っていては、立ったままでも寝てしまいそうだ。他愛のない会話で睡魔を追い払う。
「なんで、あんな奴に起こされなくちゃなんないんです? まだ、眠いですよ」
口を手で押さえながら、大きなあくびと共に愚痴を吐き出す。
「まあまあ、生活が不規則になると堕落するぞ。これからあいつらと買い物に行くから、お前さんも付き合え」
「まだ、全身筋肉痛ですよ……」
「でも、その服でいるわけにもいかんだろ? だから、カズトも連れて行くって言ったらあの女、張り切って起こし始めたんだよ」
カズト?
寝ぼけているせいもあって、理解に数秒を要した。そういえば昨夜、自分で偽名を名乗ったんだった……。
洗顔を済ませたケンゴと入れ替わりに、風呂場へと入る。
ケンゴに教えられるままに、足元の桶から洗面器に水を汲む。限られた水量しか使えないというのは何とも心細い。
手のひらで洗面器から水をすくい上げ、口に含んで、まずはうがい。
リュックの中に歯磨きセットは入っている。だが、プラスチック製の歯ブラシにチューブ入りの歯磨き粉なんて使っていたら、あの二人に不審がられるのは確実。今日のところは、うがいで我慢だ。
続けて、今度はすくった水を顔に叩きつける。ぬるい水なので今一つスッキリしないが、二度三度と洗ううちに、重かったまぶたも開いてくる。
ケンゴが差し出すタオル……というより、手ぬぐいを借りて顔を拭くと、やっと清々しい朝が訪れた気分になった。
「確かにこの服じゃ、やばいですね」
「だろ? とりあえず、今日は俺の服貸してやるから。それ着て街へ行くぞ」
「あ……、お金も持ち合わせないんですが……」
「わかってるって、それも貸してやるから。でも、餞別もくれないなんて不親切な案内人だな」
「確かに……」
居間に戻りながらの会話は、どうにも弾まない。
ケンゴに世話になり通しで、冗談も笑えない。
だが、ここはケンゴに甘えるよりほかないだろう。所持金もゼロ、身なりも異様なままじゃ、この世界で生きていけない。
「ついでに、歯ブラシも買ってもらっていいですか?」
甘えついでだ。開き直って図々しく、自分用の歯ブラシもねだる。
そしてスッキリした気分で開く、居間へのドア。
「――遅いわよ」
待ち構えていたように、生暖かい視線で出迎えるカズラ。
腕組みをしたまま二の腕を人差し指で叩く仕草は、絵に描いたような苛立ちのポーズ。絶えず噛み付いていて疲れないんだろうかと、余計な心配をしてしまう。
「街へ買い物に行くわよ」
「ケンゴさんに聞いたよ。で、二人は何の買い物?」
「女性に買う物を尋ねるなんて失礼ね。恥を知りなさい!」
「はいはい、失礼しました」
突発的に女性特権を発動するのはこの世界も一緒だなと、妙に感心してしまう。
秘密にされると余計知りたくなるが、何となく想像もつく。
「四十秒で支度しなさい!」
服を着替えに行こうとする背後から、カズラの追い打ち。
どこかで聞いたセリフだなと思いながら、支度のために居間を後にした。
そういえば、ケンゴはどこへ行ったのだろう。
先に居間を出て行ったはずだが、貸してくれる服を見繕ってくれているのだろうか。服を置いてある場所といえば寝室か。
それにしても全身筋肉痛で、歩くだけでもぎこちない。
特にひどいのは足だ。あれだけへとへとになるまで走ったのだから無理もない。そして、リュックも重かったせいか肩も痛い。首を左右にコキコキと傾けながら、寝室へと向かう。
一度は目覚めたものの、やはりまだあくびが止まらない。
昨日の運動量を考えれば、今日一日ぐらいゆっくり休息に充てても罰は当たらないだろうに……。そんなことを、ぼんやりとしてきた頭で考えつつ、形式的にノック。
そして、開いた寝室のドア――。
白い肌を露わにさせたアザミの背中が、目に飛び込む。
首から肩にかけての柔らかい曲線。程よい肉付きの、上半身から腰にかけてのくびれ。そしてまたそこから始まる、下半身に向けての緩やかな広がり。
女性というのは曲線でできているのだと思わせるような、神々しいまでのその美しさ。そして、その透き通るような肌の白さに、目が釘付けになる。
ぼんやりしていた頭は覚醒し、口も大きく開いたまま時間が止まる。
放心状態になっている僕に、アザミが静かに声を掛ける。
「あ、あの……、ドアを、閉めていただけると…………」
「あ、す、すみません」
その言葉に我に返り、声を裏返しながら、慌てて背後のドアを閉める。
やれやれと軽く息を吐き、一息つく。
そして振り返ると、そこには引きつった笑顔のアザミ。
両腕で身を守りながら、今度は大きな声を張り上げた。
「出て行ってくださーい!」
パニックに陥り、ドアノブを握る手が汗で滑る。
早くこの部屋を出なくては……と、焦るほどに上手くいかない。たかがドアを開けて、外へ出るだけだというのに……。
そして、ドアノブがガチャリと音を立てて自動的に回る――。
次の瞬間、勢い良く開かれたドアに額を激しく打ち付けられ、大きな鈍い音と共に後ろに弾き飛ばされる。
激しく痛む額に手をやるが、さする暇も与えられずに今度は胸倉を掴まれ、必然的に顔を持ち上げられる。
「あ、カズラ……」
名前を言いかけるや否や、カズラの振り上げた手のひらが素早く振り下ろされる。
何が起きているのか考える間もなく、乾いた音を部屋中に響かせながら僕の頬は張り倒された。額に続いて今度は頬に手を伸ばすと、さらに追い打ちをかける罵倒。
「――もう、この変態! ばっかじゃないの! あんたなんか外界に飛ばされちゃいなさい!」