第3章 望む者、望まざる者 5
――元の世界に帰れるかもしれない。
なるほど、ケンゴの豹変ぶりはそういうことだったか。そういうことなら納得だ。
望まない異世界に放り込まれたケンゴは、帰るための手がかりを必死に探す。
望んでやってきた僕は、この世界で生きていくための情報をケンゴから聞き出す。
なんという皮肉な話か。
突然飛ばされた異世界で過ごす十年間。
きっと、冤罪で牢屋に放り込まれたようなもの。
そして、目の前に投げ込まれた鍵。期待を胸に飛びつくのが当たり前。
今のケンゴは、まさにそんな心境だろう。
色々と聞きたいことはあったが、そういうことなら今日のところは譲るとしよう。
ケンゴも日本人だという最低限の事実を確認できただけでも、充分に意義のある時間だったのだから。
「確かに向こうからこっちへ来る方法があるんだから、こっちから向こうへ行く方法もありそうですよね」
「その程度のことは十年前から考えてたさ。だけどな、お前さんの話を聞かせてもらったおかげで、絶対帰れるって確信できたぜ」
確信とは大きく出たものだ。
僕の言葉でケンゴに希望の明かりが灯ったのは喜ばしい。だが、さすがにそれは言い過ぎではないだろうか。
「そりゃあ、向こうからこっちへ来た時のことを考えれば、こっちから向こうへ行くための入り口も、特定の場所と時刻に出現しそうだっていう予測はできますけど……」
「そりゃ、お前さんは予測できるだろうよ。指定された通りの日時と場所から飛んで来たんだからな。
だけどな、俺はなんでこっちに来たのか、狐につままれた思いだったぜ、ほんと。それこそ神罰でも下るような悪事でもしたっけかと、三日三晩自分を問い詰めたよ…………」
そう言ってケンゴは、手のひらで目を覆った。
話しながら、当時の辛い思いが蘇ってきたのだろうか。
しばらくそのまま俯いていたが、やがてそのまま目を拭うと、ウィスキーの入ったグラスに手を掛ける。
確かに自分本位で考えていた。何の前触れもなく飛ばされたケンゴからすれば、不慮の事故にしか思えないだろう。
そして、口に含んだウィスキーを飲み込んだケンゴが、また呟く。
「結局、何かの拍子でこっちへ来ちまったって事実を受け入れるしかなかったよ
何かの拍子でこっちへ来たんなら、何かの拍子で帰れるかもしれねえ。そんな起こり得るのかどうかもわかんねえ確率にすがりついて、気付いたら十年も経っちまってた…………」
掛ける言葉が見つからない。
いや、安っぽい慰めの言葉をかけるぐらいなら、沈黙で返した方がずっとましだ。
そう考えて、黙ってケンゴを見守る。
しばらくグラスを見つめていたケンゴだったが、やがて吹っ切るようにその中身を一気に飲み込んだ。
「すまねえ、湿っぽくなっちまったな」
「いえ……」
迷惑を掛けられたわけでもないので、謝られても逆に困る。
だがケンゴにしてみれば、気を取り直すための区切りのようなものだろう。
徐々に表情も元に戻っていく。
「さて本題だ。あの街灯に触れたら姿が消えるのを知ってたとしても、普通はその先に異世界が待っているなんてわかりっこねえ。こっちに来たことでもなけりゃな」
「マスターは間違いなく、両方の世界を知ってるでしょうね。でなければ、案内しますなんて言えないでしょうし」
「で、そのマスターとやらは、こっちへの入り口が現れる日時と場所を知ってた。だったら、こっちから向こうへの入り口だって知ってて、そいつは自由に行き来できるんじゃねえのか?」
マスターの顔を思い浮かべてみるが、そんな超人的な雰囲気は微塵もなかった。
穏やかな表情。愚痴る僕を気遣う優しい言葉。むしろ、理想的な父親像といったところか。
実際、この人が僕の父ならいいのにと思ったこともあるぐらいだ。
だからこそ、ついついあの店に常連として通い詰めたのかもしれない。
ケンゴより少し年上の、どこにでもいる普通の人。何度思い返しても、そんな風にしか思えない。
「マスターがこっちへ来てくれれば、顔は知ってますし紹介はできますよ。けど、この世界だって狭くはないでしょうから、出会えるかどうか……。そもそも、マスターがこっちへ来るかどうかもわからないし」
「そりゃ、その人物に出会えりゃ一番話は早いんだが、同じような奴は他にも居るって思うんだよ。さっき俺が話したこと覚えてるか?」
「どの話でしょう」
「俺がこっちに飛ばされた時、工事現場の作業員に止められた気がしたって言ったろ?」
「ああ、そんなこと言ってましたね」
ここまで告げたケンゴは、ニヤリと笑う。
何やら、自信たっぷりという表情だ。
しかし『元の世界に帰れる』と言い出してからのケンゴは、結論ありきで話を進めているようでどうにも信用し難い。
だがまあ、否定はいつでもできる。一通り話を聞き終えてからでも遅くはない。
「――あいつ、思い返すと街灯に人が近づかないように、見張ってたんじゃねえかって気がしてきたんだよ」