第7章 ケンゴの忘れもの 3
前を留めていないコートから覗くのは、制服と思われるベージュのブレザー。ネクタイはだらしなく緩め、ブラウスのボタンも二つ開けている。化粧はまだ不慣れと見えて、大人ぶるつもりが余計にあどけなく見えてしまうという、無理に背伸びをしている典型だ。
そして、初対面だというのに『ツラを貸せ』という口調。
根っからの不良なのか、それとも虚勢を張っているのかはわからないが、理不尽な要求を突き付けられたわけでもないので、素直に言われるがままに付いて歩く。決して恐れているわけではない。
「ちょっとあんた、どこまで連れて行くつもりよ」
「あん? 黙って付いてくりゃいいんだよ」
慌ててカズラの前に割って入り、なだめる。
決して恐れているわけではないのだ。
夕日に照らされる塗装の禿げた動物の乗り物に、錆びた鉄棒。そして、乗ったら歯の浮くような音を立てそうなブランコ。連れてこられた児童公園はどことなく、あの日僕が異世界へと旅立った場所に似ていた。
「あんたら、親父とどういう関係よ」
連れ歩かれながら、そんな気はしていた。
さっき見た卒業アルバムとは随分雰囲気が違うが、やはり間違いない。この子がケンゴの娘だ。
「新島 詩音さん?」
「もう新島じゃねえんだよ」
「あ、ごめん。松崎 詩音さんだったね」
「その名前で呼ぶんじゃねえよ」
どうしろというのだ。年頃の女の子は難しすぎる。
こういうときは女性同士の方が話やすいだろうか。アザミに目配せしてみると、一瞬戸惑ったが、恐る恐る彼女に話しかけ始めた。
「私たちはね、ケンゴさんの無事を伝えに来たんだよ」
「んなわけあるかよ。だったら何で本人が姿を見せねえんだよ」
「それは……、帰りたくても帰れない所にいるからで……」
「ざけんな。そんな都合のいい話、信じられっか」
彼女の言葉も当然だ。
十年間も音信不通だったというのに、突然訪ねて来た人物に『お父さんは無事だ』と言われて信じられるはずがない。ここは話しにくいが、全部話すしかないだろう。
「信じるか、信じないかは詩音さん次第だけど、ケンゴさんは異世界に飛ばされたよ。僕たちはそこからやってきた。本当は僕じゃなくて、ケンゴさんが帰ってくるはずだったんだけどね」
「は? バカバカしい。そんな話、信じるわけないでしょ。何なの? あんたたち……。詐欺集団?」
「現実離れした話だけど信じてほしい。何でも答えるから、嘘か本当か判断できるまで問い詰めてみてくれ」
苦し紛れに言ってはみたものの、詩音はきっと相手にしないだろう。そう思ったが、意外にも矢継ぎ早に質問を繰り出す。それを次々に的確に返すと、詩音はだんだんと口ごもり始めた。
そして完全に言い負かされるのを恐れたのか、負け惜しみとも取れる言葉を吐く。
「良くできたマニュアルね。さすが詐欺集団だわ」
「この調子じゃ、何を言っても無駄みたいね……」
「私たちはケンゴさんに、あっちの世界でとってもお世話になったの。今こうしてここにいられるのも、ケンゴさんのお陰なんだよ。だから、向こうで聞いた家族への思いを伝えにきたの。残してきてしまったお詫びとして……」
アザミの言葉に詩音は反転して背中を向けると、肩を震わせ始めた。
その揺れは次第に大きくなり、嗚咽が漏れ始める。
そして我慢も限界になったのか、堰を切ったように泣きわめき、アザミの胸倉を掴みながら大声で詰め寄る。今まで耐えてきた思いが一気に爆発したのだろう。
「――今さら、そんなこと言われてもどうすればいいのよ! もう、何もかも手遅れよ」
アザミが肩を叩き、「そんなことないよ」と優しく声を掛けると詩音は泣き崩れ、その場にへたり込んだ。僕とカズラはそんな詩音をそっと抱きかかえ、すぐ近くにあったブランコに腰掛けさせる。
詩音はしばらく下を向き足元に涙を滴らせていたが、右手で涙を拭うと、ポツリポツリと呟くように生い立ちを語り始めた。
「親父が居なくなったのは七歳の時だから良く覚えてない。あたしが寝てから帰ってくるのも珍しくなかったし。でもママが真っ青な顔で、『お父さんが帰ってこないの』ってうろたえてた姿は焼き付いてる」
確かケンゴも、娘は当時七歳だったと言っていた。
姉妹を欲しがっていたと言っていたが、本人は覚えてなどいないだろう。何しろ、ケンゴが居なくなった時の状況も良く覚えていないというのだから。
「ママは朝、あたしを起こすと先に仕事へ行くの。テーブルには袋から出しただけのパンとジャム。学童保育が終わって家に帰っても、真っ暗で誰も居ない。お腹が空いて我慢ができなくなった頃に、買ってきたお弁当を手にママが帰ってくる。毎日そんな感じ。
でもそんなのは大したことじゃない。我慢できなかったのは周りの声。
親父の失踪事件は、元の家の近所じゃ知らない人はいないぐらい有名な話。『親父に逃げられた』とか『親父に嫌われた』っていつもいじめられて、学校へ行くのも嫌になったし、外でも遊ばなくなった」
涙が収まるにつれて口調は軽やかになっていくが、語られる言葉は対照的に重みを増す一方だ。もはや挟む口などない、せいぜい相槌を打つ程度で、聞き役に徹するしかない。
「小学五年生の時だったかな、時々男の人が家に来るようになったのは。馴れ馴れしい声で、『詩音ちゃん』て呼ばれるのが鳥肌が立つぐらい嫌だった。
中学校に上がる時に、ちょうどいいタイミングだからって引っ越すことになった。でも、ちょうど良かったのはママとあの男にとっての話。当時は良くわかってなかったけど子供ができたの、あたしの弟が。だから、この機会に親父の失踪事件の噂のない場所で、新しい生活を始めようって話になったみたい。
まあ、そのお陰であたしは小学校の同級生と、顔を合わせなくて済むようになったけどね」
詩音は淡々と事もなげに語り続けるが、思春期に親が再婚するというのやはり衝撃だろう。突然見ず知らずの男を、父親と呼ばなくてはならない子供の気持ちは計り知れない。
僕自身は両親の記憶もなく育ったせいで一般家庭に憧れていたが、こんな身の上話を聞かされてしまっては、こんな思いをしなくて済んだ自分の方が幸せなんじゃないかとすら思えてしまう。
「小学校の頃にいじめられたせいで、中学校に入ってからは舐められないようにって悪ぶって虚勢を張った。そしたら、ズルズルとこの有様。
こんな風になっちゃったあたしなんて、ママもあの男も愛想尽かして当然よ。今じゃ家に帰っても、居場所なんてどこにもない」
そう言って詩音は言葉を締めくくると、再び俯いて肩を震わせる。
そして次の瞬間顔を上げると、まぶたを泣き腫らしたままアザミに詰め寄る。
「ねえ! これでもまだ間に合うって言うの? 親父が居なくなったせいで、あたしはこんな人生を歩んできたんだよ? 今までの嫌な思い、全部なかったことにして『お父さん、会いたかった』って抱きつけとでもいうの?」
詩音に肩を揺すられるアザミは、返す言葉もなく涙を浮かべるばかりだ。
いや、これほどの心の底からの悲鳴を突き付けられては、僕を含めてこの場にいる誰も、掛けてあげられる言葉など見つけられないだろう。
沈黙ばかりが続き、すっかり日が暮れた公園に街灯が灯る。
今日ここへ来た目的が未だに果たせていない。
ケンゴの思いは伝えたいが、圧倒された詩音の言葉と比べてしまうと、いくら振り絞っても薄っぺらい言葉しか思いつかない。やはり、心境は本人が吐露するから心を揺さぶられる、他人が代弁するなんて不可能だ。
それでも黙って立ち去るわけにはいかない、ほんのわずかでも伝わって欲しいと願って、詩音に言葉を掛ける。
「でもね、ケンゴさんは十年間ずっと、奥さんと詩音さんのことを忘れず思い続けてたよ。本当だったら帰れるはずだったその前日も、『これでやっと家族を守ってやれる。今までの時間を取り戻す』って言ってたんだ。
許してやって欲しいとは言わない。でも、ケンゴさんも異世界で辛い思いをしていることだけは、わかってあげてくれないかな」
「…………」
詩音は無言で地面を見つめている。
僕の言葉は、どう受け止められただろう。
だがこれ以上、今ここで僕にできることはなさそうだ。
「もう日も暮れたよ、家まで送るから帰ろう」
「うるさいわね、一人で帰れるからほっといてよ!」
一人ブランコに佇む詩音を残してこの場を去るのは気が引けたが、いつまでも付き纏ったところで逆効果だろうと公園を後にした。