なきごえ
ミゥトから教わった方法は、確かにトゥーに言葉を教えるのに大いに役立った。
水を教えるのも、カーペットを教えるのも、壁を教えるのも、布団を教えるのも、ベッドを教えるのもすぐに終わってしまった。
原色の部屋にあるものは全て教えきってしまったほどである。完全に覚えているかどうかは定かではないものの、記憶の片隅にはあるだろうし、暫く何度か繰り返せば完璧に覚えていくだろう。
しかし、問題は思いのよらぬところで発生した。
部屋の中にあるものは一通り教えたと判断した原色は、トゥーの手をとると、そのまま部屋の外へと進んだ。
トゥーは原色の歩くスピードにどうにかこうにか追いつきながら、原色の手を何度も握り返して。
「て」「て」「て」「て」
と繰り返していた。
原色はくすぐったそうに口元を緩めて全身を震わせる。
「トゥー、くすぐったいよ」
「て……?」
「そうだよ。これは手だよ」
「なにをされてるんですか?」
と、声をかけられた。
原色が声のした方を向いてみると、そこには三人の同じ人が二人立っていた。
同じ背丈で同じ服装で同じ髪色。
「ああ、スゥロ。クゥル。今ね、トゥーに言葉を教えてるんだよ」
「どちらがスゥロか分かりますか?」
「分かりません。ごめんなさい」
「まあ、名前を同時に言っていた時点で想像はついてましたよ」
「いい加減覚えてほしいですが、まあ、ティティですから」
「あ、右がクゥルだ! 絶対にそうだ!」
原色が素直に頭をさげると、三人の同じ人は顔を見合わせて笑った。原色はふてくされたように頬を膨らませながら三人の同じ人を指さした。まるで、三人の同じ人に区別の方法があるかのようだった。
三人の同じ人はまた笑う。
原色は唇をとがらせる。
「それで、言葉を教えてるんですか?」
「うん。ミゥトに教え方を教えてもらったから」
「ミゥトに? ああ。そう言えばあの子でしたね、ティティに言葉を教えたのは」
「私たちはそれ以外を教えましたね」
「私が勉強」
「私が運動」
「私としては、スゥロが運動というのが未だに信じられないんだけど……」
「そうですか? これでも私は運動ができるんですよ?」
むん。とガッツポーズをとる三人の同じ人に、原色は眉をさげながら笑った。
「あ。でもちょうどいいや。トゥーに二人のことも教えないと」
「どちらがクゥルですか?」
「そういうことを言う方がクゥル」
口元を小さく歪めている三人の同じ人を、原色はじろりと睨んでからトゥーの方を向いた。
話している内容がさっぱり分からないトゥーは、早々に興味を失っていて座り込んでいた。ただ、いつもと違って眠りはしておらず、靴下を履いている自分の足を触っては。
「あし」「あし」「あし」「あし」「あし」
と繰り返していた。
「ティティ様より勉強が好きなのかもしれませんね」
「ティティより賢くなるかもしれませんね」
「私の方が賢いから! 飼い主私だから! トゥー。ほら立って。立って!」
焦る声が聞こえてきて、トゥーは自分の足を触るのをやめて原色の方を見た。下から上に、持ち上げるように両手を動かしている。その手の動きに合わせて、トゥーはゆっくりと立ち上がる。
原色は振り返って。
「ほら。二人も並んで並んで」
と言う。三人の同じ人はスカートの前で両手を組むようにして直立する。両足の踵をひっつけた、ぴん。とした姿勢も同じだ。こうしてみると、鏡合わせのようだった。
「いい。トゥー?」
「…………」
原色は二人を指すように広げた手を向ける。
「二人はこの屋敷の使用人だよ。クゥルはその中のリーダー」
「…………?」
「あ、えっとね。だから」
トゥーが理解できていないのが分かった原色は考え込んでから。
「使用人」
と二人を指しながら言った。三人の同じ人はスカートの端をつまむようにして頭を下げた。トゥーは首をひねりながら口をもごもごと動かす。
「し、よーに……」
「し、よ、う、に、ん」
「し……し、ように、ん」
「そう。使用人」
「しようにん」
「で。こっちがスゥロ」
「よろしくね。トゥーちゃん?」
「…………」
「トゥー? だーれだ?」
原色は三人の同じ人を指さした。
トゥーはじっと見てから、小さく口を開く。
「し、ようにん」
「……あれ?」
原色は首を傾げた。教わった通りに言ったはずなのだが。
「あのね。トゥー。それはね、スゥロの名前じゃあないんだよ?」
「……?」
「うーん。絶対分かってなさそうな顔をしてる……」
原色は腕を組んで困ったように唸る。
聞いた通りに言ったはずなのだが、なにか違うのだろうか。
分からない。
「もしかして、『名前』がよく分かっていないのでは?」
「どういうこと?」
三人の同じ人が言う。原色は眉をひそめた。三人の同じ人は「ええと」とこまねく。どうやら自分の考えをまとめるのに少しばかり時間がかかっているようだった。
「つまり、一つのものに対して名前は一つという認識であり、二つ以上あることが分からない。とか」
「名前は一つだよ? 私の名前は『ティティ』だけだよ」
「いえ、そういうことではなくて」
疑問を覚えている原色に、三人の同じ人はどうにか説明しようとする。
「例えば私は『使用人』であり『三つ子』であり『三女』であり『末っ子』であり『スゥロ』です」
三人の同じ人は隣にいる同じ人を見やる。
「例えば『クゥル』は『使用人』であり『三つ子』であり『長女』であり『使用人長』です」
そして。と三人の同じ人は原色を指した。
「『ティティ』様は『村の長の娘』であり『私たちの雇用主の娘』であり『一人っ子』であり『駄々っ子』であり『愛玩』です」
「ねえ、最後どういう意味? なんで自然な流れで愛玩とか言われるの私!?」
「愛らしい。かわいらしいってことですよ」
文句をさらりとかわされてしまった原色は、唇を尖らせて睨む。
「つまり、その人を指す言葉というのは意外とたくさんあるということですよ」
「でも、『使用人』じゃあクゥルかスゥロかミゥトかも分からないじゃん」
「ええ。でもそれで私たち三人を指すことも可能です。さっきティティ様がしたように」
そして、それでトゥーは迷っているのだと思いますよ? と三人の同じ人は付け足した。
「えっと、だからつまり、トゥーはクゥルとスゥロを『使用人』という名前だと思っていて、別の名前がだされたから混乱しているってこと?」
「はい。恐らくは。同じ名前であることには疑問を覚えてないみたいですけど」
「まあ、絵を見せられて『これは馬です』と言われた後に『これは犬です』と言われたら誰でも困惑するって話。それがどっちもあってたら尚更」
「なるほど……えっと、じゃあどうしたらいいのかな?」
「普通に名前を教えたらいいと思いますよ? それで、言葉を覚えてきたら新しく教えたらいいんですよ」
彼が口にしているのは名前であって、音であって、言葉ではないのですから。
三人の同じ人はそう続けた。
***
三人の同じ人はどうやら『クゥル』と『スゥロ』というらしい。
同じ人にしか見えないが、名前が違うのだから違う人なのだろう。
ともすると、『しようにん』というのは一体なんだったのだろうか。それを言うたびに原色は首を横に振るのだから、多分関係のない言葉なのだろうとは思うが。
さて。
クゥルとスゥロと別れを告げた原色は、そんなことを考えているトゥーを引きずるようにして屋敷の中の物を教え続けた。
これはこれで。あれはあれで。それはそれ。
教えてもらった言葉を、トゥーは舌足らずというか、喋ることに慣れていない口で黙々と反復し続けた。
なにが琴線に触れたのかはさっぱり分からなかったが、教えた言葉を何度も反復し続けるトゥーに、原色はやっぱり賢い子だな。と思いながらきちんと言えるようになる度に頭を撫でた。トゥーはその度に、老犬のような表情は崩さずに、けれどもかすかに気持ち良さそうに目を細めて、また言葉を反復するのだった。
もしかしてこの子、撫でられるために反復しているのだろうか。と、原色は途中で気づいた。
確かめてみるために原色は言葉を反復しているトゥーに対して、わざと頭を撫でなかったりしてみた。
最初は反復を続けていたトゥーであったが、撫でられないことに気づくとじっと原色の手を見るようになった。
じっと。
じっと。
じっと。
その目は手が動くのを待っているようにも見えた。
自分の頭の上に移動するのを。
しかし、手が一向に頭の上に移動しないと理解すると、今度は反復することをやめてしまった。
――そう言えば。
――ティティ様は運動後におやつがないとふてくされて、マジメにしてくれませんでしたね。
そんなことをスゥロが昔言っていたことを思いだした。
原色にとっておやつがご褒美であったように、トゥーにとっては頭を撫でられることがご褒美だということだろうか。
自分の頭を撫でてみながら、原色は「?」マークが浮かびそうな表情を浮かべる。
頭を撫でることぐらいの、一体なにがご褒美なのだろうか。
よく分からない。
誰かに頭を洗ってもらうのは気持ちいいから、そういうものなのだろうか。
ともかく。原色はトゥーがなにか良いことをするたびに頭を撫でてやることを決めたのだった。
言葉を覚える。撫でる。言葉を覚える。撫でる。言葉を覚える。撫でる。
そうしているうちにトゥーは少しずつだが、ぎこちなく会話らしきものができる程度には言葉を覚えはじめ、原色はトゥーが喜ぶ頭の撫で方を覚えてきた。
髪の毛を梳くように撫でるより、頭皮を掻くように撫でた方が気持ちいいようだった。
かゆいのだろうか。風呂に入っているときに頭をしっかり洗っているのか、今度確認することにしよう。
「おおかみ」
と、不意にトゥーが声をあげた。
ぎこちなくて、舌足らずな口調である。
言葉を教えはじめてから二週間ほどだから、むしろ覚えるのがはやいことを褒めてやるべきかもしれない。
「どうしたの。トゥー」
頭を掻くように撫でながら尋ねる。言葉をちょっとだけ覚えて会話らしきものができるようになっても、老犬のような表情は変わらない。
どこを見ているか分からない目も健在だ。
そんな目は今は細くなっているけれども。
「おおかみ。いる」
トゥーは森の方を指さした。
二人が今いる原色の屋敷の庭からは屋敷の裏にある森が見えるようになっている。
屋敷を囲う壁が、庭だけ柵になっているからだ。
せっかくの庭なのに壁に囲まれては閉鎖感があって息詰まる。
そう、原色の父親が言ったからだ。
もちろん、柵の高さは壁と同じくそう簡単に登れないぐらいになっているし、壊そうにも壊せない材質のものを利用している。
原色はそんな柵の向こうにある森を見やった。
森の中は昼間だというのに生い茂る木々のせいで暗くなっている。
「んー?」と原色は目を細めながら森を注視するが、それでも狼の姿は確認できなかった。
「いないけど?」
「いる」
「気のせいじゃあなくて?」
「いる。おおかみ」
「ホントー?」
と、原色が訝しむように呟いた瞬間だった。
ガサ。ガサリ。と草を掻き分ける音がしたと思うと、狼が柵に体当たりをしかけてきた。
いや、体当たりというよりは柵に気づかずに激突してしまったのだろう。げんに、キャイン。と痛そうな鳴き声をあげた狼は体を振るってから、森の奥へと消えていったのだから。
原色はトゥーの顔を見た。
表情に変化はないものの「ほら見ろ。いただろう。いただろう」と目で語っているようにも思えた。
原色ははあ、と驚いたように息を漏らす。
「目が良いんだね。トゥーは」
「見えてない。いる。思った。なんとなく」
「気配を感じ取ったってことかな」
「けぇ……は?」
「ああ。えっとね……うーん、触れないものはなんて説明したらいいんだろう」
困ったように原色は腕を組んでうんうん唸ったが、答えが見つからなかったので。
「『なんとなく』が気配」
と教えた。
トゥーが覚えている言葉で説明するのなら、これが一番適格で簡単な説明だろう。
――あとでミゥトに触れないものの教え方も教えてもらおう。
いつの間にやら、教えることを教わることを当然のように思っている原色であった。
森の向こうから狼が鳴いた。遠くまで届く、遠吠えだ。
トゥーは遠吠えの聞こえた方を向いてから、首を傾げる。
「なにしゃべってる?」
それは、原色が教えた『分からない言葉を教えてほしい時』の言葉だった。
遠吠えのことを言っているのだろうか。
原色は困ったように唸る。
「トゥー。あれは鳴き声だから、意味はないんだよ」
「……な、なきごえ?」
「うん。鳴き声。意味のない声」
そうだね。と原色は空を見上げる。空にはちょうど鳥が飛んでいて、ぴーぴぴぴ。と鳴いていた。
「あれも鳴き声」
「なきごえ」
「庭の向こうにいる馬の声も、鳴き声」
「ひひーん?」
「そう、それ。よく覚えてるね。トゥー」
頭を撫でる。トゥーは目を細めながら原色の顔を見上げて、指さす。
「なきごえ。なにしゃべってる?」
「え?」
「なにしゃべってる?」
それは恐らく、『原色の鳴き声はなに?』という意味合いであることは原色も理解することはできたが、それの意味が理解できなかった。
「えっと。つまり私の鳴き声はなに? ってことだよね?」
原色は自分の顔を指さしながら尋ねる。トゥーは頷いた。聞き取りは喋る方よりかはできるようになっているようだった。
「え、えっとね。トゥー。私たちには鳴き声はないんだ」
「……?」
「私たちが使っているのは音じゃあなくて、言葉だから」
「……?」
トゥーの顔は明らかに分かっていない感じだった。
言葉が矢継ぎ早であったし、ちょっと聞き取りにくかったかもしれない。いや、単純に理解できなかったのだろう。
とはいえ、原色自身、鳴き声について詳しく説明できるほど詳しくはないし、ましてや説明する相手がトゥーである。どう説明したらいいのだろうか。
腕を組んで、唸る。
原色は。
「あー」
と言った。
トゥーはそれに驚いて目をちょっとだけ見開く。
原色は自身の口を指さした。
「声。が、鳴き声」
苦し紛れであった。
首を傾げながら、自分の口を指さす。
――どうだ?
伝わったかどうか不安だった原色であったが、トゥーは暫く悩むように首を傾げてから頷いた。理解してくれたようだった。
帰ったらしっかり勉強しよう。
人に言葉を教えることの難しさを原色はここ数日で痛いぐらい学んでいた。
***
夜になった。
今日もしたことと言えば天井が青い間は外にでて言葉の勉強。
天井は『そら』と言うらしい。
『そら』が赤色に塗り替わり、屋敷に戻る。
屋敷ではまだ胃が萎縮していて、すぐ吐いてしまうトゥーのためにつくられた呑み込みやすいサイズに切られ、柔らかくされたスープを飲んだ。腹にたまる温かな感覚がとても心地よかった。
風呂は嫌いだ。最初は気絶していたから知らなかったが、あんな熱い水をかけられて、熱い水の中に入り続けなければならないなんて。
この時間になると全裸でトゥーが屋敷内で目撃される。
たまにびしょ濡れになっていて、その時は三人の同じ人が悲鳴に近い絶叫をあげながらトゥーを追いかけている。
風呂が終われば原色の部屋で眠りにつく。
それがトゥーの毎日である。愛玩動物としての役割は存分に果たしていると言えた。
しかし、この柔らかい地面――ベッドで寝るのは未だになれない。気持ち悪い。
隙を見つけては逃げだそうとはしているのだが、原色がトゥーが地面で寝ないようにしっかり抱きしめるようにして眠るようになってから、トゥーは両手両足をバタバタと動かす程度で、逃げることはできなくなってしまった。
今日もまた、抱きかかえるようにして眠りにつこうとしていた。
動き回ったトゥーの体力は限界を越えていた。ベッドの上で抱きかかえられた時にはすでにうとうとと船を漕いでいて、まぶたは閉じかかっていた。
まどろみの中に、体を沈めていく。
と。
その時だった。
それに、理由はなかった。
ただ『なんとなく』『そんな気がした』。それぐらいである。
トゥーは目を開き、原色の腕の中でぐるりと体を回転させると、原色の肩越しに向こうを見た。
原色の部屋の、ドアがある方である。
誰もいない。なにもない。
そのはずだ。
「……どうしたの、トゥー」
腕の中でもぞもぞ動いているトゥーに起こされてしまった原色は、まだ覚醒しきっていない、緩んだ口調で尋ねる。また逃げだそうとしているとでも考えたのか、抱きしめる腕の力が少しだけ強くなった。
「ダメだよ、トゥー……ベッドで寝ることも覚えなきゃ」
「……あ」
トゥーは原色に声をかけようとした。
しかしそれは、声がもれるだけにとどまる。
原色の後ろを指さす。
それが原色には自分の顔を指さしているように見えたようで。
原色が自分の顔を指さした。
「ティティ」
「て、て……?」
「ティーティー」
「てい……てい」
口の周りをおさえながら、トゥーはどうにか教えられた言葉を反復しようとする。
ぐにぐにと動かしながら言い続ける。自分でも言っている言葉が違うということは分かっているようだった。
どうやら、小さな『あいうえお』の発音が苦手なようだった。
原色は優しく口元を緩めると、トゥーの手を取って自分の頬を触れさせた。
「ティティ」
「てい。てい……て、ぃ。てぃ、てぃ?」
「そうだよ。ティティ。それが私の名前。そう言えば教えていなかったね」
原色――ティティは笑った。
その後ろで。
静かにティティの部屋のドアが開いた。
ドアの向こうにあるのは廊下――暗がり。
その暗がりから音もなく、誰かが姿を現した。
子供だ。
トゥーよりは大きかった。
ティティよりも大きいぐらいか?
黒色の髪を目にかからない程度でざっくらばんに切っている。
男だ。
耳は、とんがっていない。
その目はティティをじっと見据えていて。
その手には、長い刃物が握られていた。