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ことば

 青い天井が暗くなり、トゥーは原色に抱きつかれるようにして眠った。

 柔らかい地面の上は気持ち悪くて眠りづらく、どうにかして壁によりかかって眠ろうとしていたトゥーだったが、原色が強く抱きついていたからか、うまくいかなかった。

 じたばたとしているうちに、窓から見える天井が青色に戻っていた。

 青、赤、黒。

この順番に色が変わっていくらしい。

 逃げることを諦めたトゥーは原色に抱きかかえられたまま眠ることにした。

 眠れた時間はどれぐらいだろうか。

 トゥーを抱きかかえていた原色が起き上がった時、トゥーは柔らかい地面を転がるようにして、柔らかい地面から落っこちた。

 ごちん、という音がする。

 ぶつかって赤くなった額をさすりながらむくりと起き上がると、原色が小首を傾げて疲れたように笑った。


「なされるがままだね、トゥーは」

 言われている言葉の意味は理解できなかったが、落ちたことに対して呆れていることはなんとなく分かった。

 落ちることは呆れるようなことらしい。

 その後はご飯を食べた。

 檻の中で食べた水の中に固形物があるようなスープではなくて、なにかのかたまりであった。

 触ってみると少し柔らかい。馬を触ったときの感触に近いかもしれない。けれど、表面はざらざらとしているわけではなく、なぜか熱かった。

 檻の中ではスープばかり食べていたトゥーにとって、目の前にある『肉の塊』はなんだかよく分からないものの筆頭であった。

 原色たちの方を見てみる。

 原色たちはイスの上に座っていて、なにかを食べていた。地面に座っているトゥーからはそれがなんなのかは見えない。

 けれど、どうやら自分の目の前にあるものが食べ物であるらしい。ということは分かった。ぐぅ、と腹が鳴る。トゥーはそれを手で掴む。

 そのまま食らいついてみる。噛むということをしたのは久々で、中々千切れなかった。

 ぐい、ぐい。と噛みついたまま肉を引っ張って、どうにか千切る。

 口の中に入ったそれを、舌で転がしてそのままノドの方へと送る。呑みこむ。突っかかった。なんどかえずいてどうにか呑みこむ。

 ふう、と息を吐く。食べられるものらしい。

 食べられるものだと分かってから、トゥーの動きは食べることだけに一極化した。

 とにかく腹の中につめこむことだけに必死に――つまりがっついた。

 トゥーが三人の同じ人に「放置しておくと死にそうな見た目」と言われたことを着にした原色が用意した、トゥーの顔の半分ほどの大きめの肉の塊をどんどんノドに通していく。口の周りをベタベタに汚して、とにかく腹の中にいれていく。

 自分でも信じられないぐらい食べていた。

 今まで食べたことのないぐらいの速度で、量を、食べる。

 そんなことをすれば、自分の体がどういう反応をするのか。トゥーには分からなかった。

 ぐもも、と腹の奥が鳴った。

 腹の奥からなにかがせり上がってくる。

 気持ち悪い。トゥーの顔は一気に青くなって、頬が膨らんだ。


「トゥー?」

 その様子に違和感を覚えたのか、原色は食事をやめてトゥーの方を見下ろした。トゥーは吐いた。

 ゲーゲーと音を漏らしながら腹の中に溜めていたものをすべて吐きだした。吐瀉物はさきの肉だけで、ほとんどは胃液だった。


「わっ、パパ! トゥーが吐いた!!」

「スゥロたちを呼んできなさい」

「スゥロ! クゥル! ミゥト!」

 げーげーと吐く。口の中は酸っぱかった。視界は霧がかかったみたいにボヤけている。その中で原色が慌てているらしい。ということだけは分かった。霧がかかった視界の中でも、あの赤色のドレスは目立つからだ。


「いきなりたくさんの食物を胃の中にいれたから、体が驚いたのでしょう」

 やってきた三人の同じ人は、手分けしてその場の清掃を行いながらそう言った。

 トゥーの体調をみているのは、ゆっくりとした声の人だ。


「吐瀉物が胃液ばかりでしたし、この体型も加味して、恐らく満足な食事は与えられていなかったでしょうね」

 トゥーの細い腕を持ち上げながらゆっくりとした声の人は言う。

 腕は細いというよりは痩せ細っている。皮と骨しかない。と言ってもおかしくはなかった。


「そんなに弱ってたんだ……」

「“地下”の――商品価値がないと判断されたのですからおかしくはないですね。むしろよく今まで殺処分されてなかったのかが不思議ですよ」

「殺処分……?」

「あちらも商売です。売れないものは破棄するものですよ」

「スゥロ」

 大人がゆっくりとした声の人に、たしなめるように言った。

 ゆっくりとした声の人は、原色の目に涙がたまっていることに気づいて、口の前に手を添えて噤んだ。

 やばい、やってしまった。と言わんばかりである。


「まあ。とにかく、胃が萎縮してるのは確かなので、それが改善されるまでは栄養管理した流動食ですね。調理場に頼んできます」

 ゆっくりとした声の人は部屋を後にした。トゥーはけっ、けっ、とイの中を全て吐き出さんとしていて、原色はその背中をさすった。


 結局。トゥーの食事は柔らかく煮込まれた野菜と小さく刻まれた肉のスープになった。

 それでも、今まで食べてきたものの中でも一番おいしいものではあった。温かいスープが腹に入るたびに、トゥーの目尻はさがった。

 食事が終われば、トゥーにやることはなかった。

 元々ペットとして買われ、飼われているトゥーに仕事があるわけがなく、檻の中にいた頃と生活はあまり変わらなかった。

 原色に抱きつかれるようにして眠って。

 温かいスープを飲んで。

 原色がどこかに行っている昼間は原色の部屋で眠って、起きたら屋敷の中を適当に歩き回って。眠たくなったら眠って。

 そうしているうちに原色が帰ってきて、屋敷のどこかで眠っているトゥーを探して、部屋へと連れ帰る。

 そうしているうちに青い天井が黒くなり、また温かいスープを飲んで、原色に抱きつかれるようにして眠る。

 トゥーの生活は基本的にこれの繰り返しであった。

 時折、廊下で眠っているのに気づかれずに三人の同じ人に蹴られたり、眠っている間に三人の同じ人に回収されて部屋に戻っていたりといつもと違うことは多々起きていたけれども、基本的にここは変わらなかった。

 そんな、檻よりも大きい場所。ということと周りに人がいること。それ以外は檻の中にいるのと変わらない生活を、八回黒い天井を見るほど続けていた頃だった。

 九回目の青い天井がなりを潜めて、黒い天井が窓から見える。

 珍しく原色の部屋で眠っていたトゥーは、閉じていた両目を急に開くと、首を動かして戸の方を見た。

 無音。

 無音。

 戸が開く音。


「トゥー、いるー? あ、いた。珍しいこともあるもんだね」

 戸を開いて、一応確認する程度で頭だけをだして部屋を見回していた原色はトゥーの存在に気がつくと「おー」と感嘆の声をあげた。

 戸が開く前から戸の方を見ていたらしい。ということには、気づいていないようだった。

 原色はなにかを持っていた。四角い板のようなものだ。

 トゥーはそれを見ると、のそり、と壁から上半身を離してそちらの方を見た。

 原色はため息をつきながら口元を持ち上げる。


「トゥーにはいい加減、ベッドで寝るということを覚えてほしいかなあ。私と一緒に寝ている時以外はいつもそこで寝てるし」

 原色は持っていた四角い板をトゥーの前に置く。

 板にはなにかが書いてあった。黒い線が何本も書かれていて、交差している。


「今日はね、トゥーに文字を覚えてもらおうと思うんだ」

「…………」

「もーじー」

「もぅ……ぢ?」

「なんか発音違う気がするけどまあいいや。うん、そうだよ。文字」

 ちなみに『もぢ』を文字で書こうとしたらこれとこれを書くんだよ。とトゥーは板の上を指さした。

 板の上の線はよく見てみれば何十個にも分かれていた。

 幾つかの線が重なり合っているのをひと塊にして、それが何十個も書かれている。

 どうして原色はその中から二つを選んで指差したのだろうか。

 それも、右上とか左上とか、指さしやすいところではなかった。まるで『これでないといけない』と言っているようだった。


 原色は四角い板の黒い線の塊を指さす。

 どうやらその黒い線の塊は『もぢ』というらしいのだが、その『もぢ』というのが一体なんなのか、トゥーにはさっぱり分からなかった。首を傾げながら、原色が指差した『もぢ』に触れてみる。ざらざらしている。鼓動は感じない。生きてはいないようだ。


「そう、それが『と』だよ。分かってるじゃあないか、トゥー!」

 嬉しそうに原色は言うが、なにに対して喜んでいるのかよく分からなかった。『とぅ』というと喜んでくれるのは、分かるのだけれども。

 というか、原色はトゥーがなにかを喋ると喜んでくれる。

 それがトゥーには、少しばかり嬉しかった。

 もちろん、悲しまれたとしても、トゥーは喜んだだろう。

 彼は今の今まで、産まれてからずっと、十年ぐらい、誰とも話していないのだから。

 コミュニケーションというのが、楽しかった。やったことがなかったから、楽しかった。

 とはいえ、悲しまれたよりは喜ばれた方が楽しいので、わざと悲しませたりはしないのだけれども。


「でね、これが『ぅ』だよ。上の『三の母』と、下の『一の子』を組み合わせてつくるんだ。ただ、これだと『う』だから、この横に小さく『三の小』をつけるんだけど……分かるかな?」

「……?」

「えっとね、つまりこれだよ。これ」

 トゥーが首を傾げると、原色は焦ったように四角い板に書かれている『もぢ』の中から一つを選んで指さした。

 原色は強調するようにそれを何度も指さす。トゥーは不思議に思いながらも、素直に、原色が何度も指さしている『もぢ』をさわった。


「そう、それが『ぅ』だよ。トゥーは偉いねー!」

 原色は機嫌がよくなったのか、トゥーの頭を撫でた。髪の毛をさわさわ、と梳くように撫でられるのは気持ちよかった。トゥーの目は自然と細くなる。


「なにをしているんですか?」

 と、声。

 振り向いてみれば――声のした方を向いてみれば、そこにいたのは三人の同じ人だった。原色の部屋の戸を少しだけ開いて、そこから体を滑り込ませるように部屋に入ってきていた。

 冷たい声の人、ゆっくりとした声の人、静かな人。

 一体誰だろうか。


「あ、えっと……ス」

「ミゥトです」

「そう、ミゥト!」

「明らかにスゥロと言おうとしていましたよね?」

「え、あれ。そうかな。気のせいじゃあない?」

「別に構いはしませんが」

 明らかに、分かりやすいぐらいに動揺している原色に、三人の同じ人はため息をつく。

 どうも、二人以上いないと比較ができなくてどれがどれなのか分からない。


「私たちは三人で一つです。産まれたときから一つ。それに伴う不遇はありますが、気にしたことはありません」

「怒ってるよね?」

「怒ってませんよ」

「次からは気をつけます」

「はい」

 原色が頭をさげて、三人の同じ人は涼しい顔のまま小さく頷いた。

 それで、と三人の同じ人はトゥーと四角い板を交互に見ながら首を傾げた。体を動かすことはせずに、頭だけを動かしている。奇妙だ。トゥーはそう思った。


「一体なにをしているんですか?」

「トゥーに文字を教えてるんだよ」

「はあ……」

 三人の同じ人は、最後に疑問符がつきそうな感じに、曖昧に頷いた。

 なるほど。

 なるほど?

 そんな感じ。


「どうして文字を教えているんですか?」

「トゥーに常識を教えようと思って。この子、よくケガをするでしょう?」

「はあ……まあ、そうですけど」

 三人の同じ人の声色はまだ、合点がいっていない。というのが感じ取れた。繋がっていないというか。イコールがつかないというか。


「だから、文字を教えてるの」

「それは……文字を覚えるのは常識だから。ということですか?」

「うんうん」

 原色はかぶりを振る。目に痛い色の髪が、一本一本、ほぐれるように宙で乱れる。しかし、首を振るのをやめれば乱れた髪は元に戻った。


「常識を教えるのに、トゥーはまだ言葉を知らないからまず文字から教えようかなって」

「なら、言葉から教えたほうが早いのでは?」

「そう?」

「『言葉は知っているが文字は読めない』という人はいますが『文字は読めるけど言葉は知らない』という人はそうそういませんよ」

「うーん。まあ、そうだね。じゃあ、言葉から教えたほうがいいのかな」

「はい。お手伝いしましょうか? これでも一応、ティティ様の勉強を教えていたこともありますが」

「うーん。どうしようかな……ねえ、ミゥト。私に言葉を教えたとき、どういう感じに教えたか覚えている?」

「そうですね」

 と。

 三人の同じ人はおもむろに歩きはじめると、壁の前でしゃがみこんだままのトゥーの前にヒザを曲げるようにしてしゃがみこんだ。

 外の天井と同じ色をした髪を掻き分けて、長い耳をあらわにした。三人の同じ人は表情を一切動かすことなく、耳を指さす。


「み、み」

「み……?」

 トゥーはその指さされたものを見る。三人の同じ人が言った言葉を反芻しようとする。

 三人の同じ人はトゥーの手を優しく掴んだ。

 手を引っ張って、自分の耳に近づけた。

 柔らかかった。顔に近づくほど、その中に芯があるみたいに少しばかし固くなっていて、離れれば離れるほど、柔らかくなっていく。


「み、み」

 三人の同じ人は再び言う。

「み、み……」

 最後に三人の同じ人はトゥーの手を、彼自身の耳の方へと持っていった。

 自分の耳を触る。

 三人の同じ人の耳と違って長くはないが、やはり顔に近づくほど芯があって、離れるほど柔らかくなる。ぐにぐにと触る。


「みみ」

「みみ……」

 三人の同じ人の口元が少しだけ緩んだような気がした。

 しかし、それを確認するよりも先に、三人の同じ人は原色の方を向いて、確認することはできなかった。


「こんな感じでしたね。触らせて覚える。あとは色々話しているところを見せる。ですかね。自然と言葉を覚えていきましたよ。間違って覚えていたり、汚い言葉を覚えていたりしましたけど」

「汚い言葉?」

「それを私に言わせるつもりですか?」

「ごめんなさい」

「どうしますか? 私が言葉を教えてもいいですけど」

「あ、えっと」

 原色はちらりとトゥーの方を見やった。

 耳を触りながら「みみ」「みみ」と続けて言っていたトゥーはそれに気づくと、触るのをやめて、原色の顔を見上げる。


「ううん。私が教える。私が飼い主だもの」

「そうですか」

 三人の同じ人はそれ以上なにかを言おうとはしなかった。

 原色はトゥーの前にまでやってくると、その手を伸ばしてきた。


「それじゃあ部屋の外に行こうか。トゥー。色んなもの見てこよう?」

 トゥーは話している言葉の意味はさっぱり理解できなかったが、自分に話しかけていて、自分に手を伸ばしているのだと気づいた。

 ゆっくりと手を伸ばして、彼女の手を掴む。

「ちなみにこれは、『て』って言うんだよ」

「ちに……て……よ?」

「言葉を教えるときはその単語だけで言ったほうがいいですよ」

「そうなの?」

「混乱します」

「えっと、じゃあ……」

 原色は自分のとトゥーの手を指さしながら言う。


「『て』」

「て……」

「そう、『て』」

「て、て」

「やっぱり良い子だねー、トゥーは」

 わしゃわしゃと頭を撫でられた。とても良い気分だった。


「それじゃあ、トゥーに色々見せてくるね!」

「あ、ちょっと待ってもらっていいですか?」

 部屋から出ていこうとする原色に、三人の同じ人は声をかけて呼び止める。何度も呼び止められている原色はむー、と唇をつきだしながら首だけ振り返る。


「なに?」

「私がこの部屋に来た理由を忘れていました」

 三人の同じ人は手になにか持っていた。

 小さな袋だ。まっすぐ伸びていると思ったら、途中で曲がる。変な形の袋。


「歩き回るのは結構なんですが、しっかり靴下を履かせてください。汚れた足で歩かれては困りますし、ケガもしてしまうので」

「え、あれ。トゥー。せっかく履かせた靴下脱いじゃったの!? しかも片足だけ。うわっ、すごい汚れてる! 血も出てる! どこ歩いてたのトゥー!?」

 原色は片方しか靴下を履いていないトゥーに慌てたように尋ねたが、彼自身知らない場所なので、答えることはできなかった。

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