まち
檻の中は静かすぎた。
どこからか漏れているピチョン、ピチョン、という水の音だけが聞こえていた。
動く部屋の中も静かだった。
聞こえるのは原色と大人の声だけで、ガタガタと揺れはしていたけれど、眠ることができる程度には静かだった。
柱と苔が視界を覆っているあの場所も、静かと言えば静かだった。
苔同士がこすりあう、さわさわという音と、時折どこかから聞こえる『キョエーキョエー』という音だけが聞こえていた。
「…………」
原色の元を離れて、てとてとと勝手に歩きだしてから数分。
さっきまでの、少し長い苔がちまちまと生えている、踏みしめる度に少し沈んだ柔らかな地面はなりを潜めて、代わりに四角いものが何個も並んでいる地面が姿を現した。
固い。
足の裏にあるひんやりとした感触は、檻の壁に似ていて、なんだか懐かしい感じがあった。
視線をあげる。
視界に、たくさんの建物が目に入った。
四角い形をしている。
どれもこれも、同じような形をしている。
さっきまでの柱と苔だらけの場所の、柱と同じ色をしている。
その合間を、たくさんの生き物が歩いていた。
歩いているのだから、生き物で間違いないだろう。
全員が全員、原色や大人みたいに目に痛い髪色をしている。
二本の足で固い地面を踏んで歩いて、二本の腕を振ったり手持ち無沙汰にたらしたりしている。
見た目はトゥーと似ている。
しかし、その耳はとんがっている。
トゥーの耳は、まんまるとしている。
つまり、彼らはトゥーというよりは、原色や大人に近いのだろう。
トゥーの仲間ではないのだろう。
「…………」
トゥーはキョロキョロと周りを見る。
いる。
たくさんいる。
これだけのたくさんの生き物を――人を見たのは初めてであった。
誰も彼も、トゥーの存在に気づいていないようだった。
いや、突っ立ったままキョロキョロと辺りを見ているトゥーを避けて通っているところを見ると、気づいてはいるのか。
気づいているうえで、無視している。
意識の外に置いている。
耳をすまさなくとも、色んなところから音が聞こえた。
それは固い地面を踏んでいる足音だったり、人たちの話し声だったり。
少なくともトゥーの今までの人生の中で一度として聞いたことがない音であり、喧騒であった。
喧しくて、騒がしい。
飛び交う言葉の意味も理解できていない――そもそも、その言葉に意味があることも理解できていないトゥーにとってそれは、何百もの犬に囲まれて鳴かれまくっているようなものである。
思わず丸っこい両耳を両手でふさいだ。
それで完全に音を消せるほど、彼の手は遮音性が高いわけではないけれど。
少しは静かになったことを確認して、トゥーはあたりを見渡す。さっきと比べて生き物の数は減っていた。
どうやらあれらには、一ヶ所に集まる習性があるらしい。
音がなくなって耳から手を離したトゥーは、なんとなく、街の中を散策してみることにした。
てとてとと素足で地面を踏みながら歩く。
街は意外と大きい。
端から端まで移動するまでに、青い天井についていた二つの赤いシミが大きく移動していて、青い天井が少し赤みかかっていた。
……。
シミが動く?
不思議なこともあるものだ。
トゥーは赤みがかった青い天井を見上げながら思う。
赤いシミは長い間見ていると、目が痛くなるから注意が必要だ。
周りにいる人の髪も痛いが、それ以上にこっちの方が痛い。
ともかくここは広い。
とても広い。
そう感じた理由は、トゥーの歩く速度が遅いからかもしれないし、体力がなくて何度も休んでいたからかもしれないし、その両方かもしれない。
それ以外にも理由があるとすれば、きっとあの大きなぶっとい柱のせいだろう。
街の真ん中にある、後ろの背景を覆い隠すように屹立している青い天井を支える柱。
あれのせいで、迂回する必要があって端までいくまで時間がかかったのも否めない。
街の外も、柱だらけだ。
青い天井を支えるあの柱よりは小さいし、太くもないけれどトゥーよりかは全然大きい。
何本も、何十本も、何百本も、奥の奥まで並んでいる。
それ全ての上のほう――トゥーが手を伸ばしても届かなくて、首を大きく上に傾けないと見えないぐらいの場所には、たくさんの苔が生い茂っている。
この苔、よくよく見てみると檻の中でみたそれと違って、大きくてひらべったい形をしている。
どこまであるのだろう。さっき、動く部屋と『うま』と別れたところまでは、どこまで歩けばいいのだろう。
さすがに行こうとは思わないけど。
歩くのはさすがに疲れた。
もう、ここで座っていたい気分であった。
座って、眠りにつきたい気分であった。
トゥーは辺りをキョロキョロと見渡す。
都合のいい場所はすぐに見つかった。
四角い建物の壁である。トゥーはゆっくりと歩いてそこに近づくと、腰を下ろした。
両足を放り投げる。
ひんやりとした冷たさが、おしりと足に伝わる。いつもの感覚である。
どんよりとした目を細める。
壁に背中を預けて眠りにつこうとして――細めていた目を開いた。
表情はさっぱり変わる様子はなかったけれど、なんだか不満そうな気分だということだけは分かった。
理由は背中だった。
いつもとなんだか違う感覚だったのだ。
無言のまま、背中を預けていた壁の方を向く。理由はすぐに分かった。
壁がいつもとちょっと違ったのだ。
それはどこかで、見たことある形をしている。どこで見たのだっけ。
トゥーは体をまったく動かさずに、首だけを傾げる。
首を傾げて、風景を横に見て、分かった。
街の周りを囲う柱にそっくりなのだ。
柱が横向きになって、並んでいる。それが壁になっている。
いつもの壁と違ってでこぼこしていて背中が痛い。
これでは背中が痛くて、眠ることすらできない。
トゥーの表情は一向に変わることはなかったけれど、不満から不平を述べようとしているような気分になっていることだけはよく分かった。
彼は言葉を知らないのだから、話せないのだから、述べようとしても述べれないのだけど。
せめて唇をとがらせるぐらいだ。
と、唯一のこだわりに対して不平不満をもらしていたその時だった。
ちりん。
と。
音がした。
ちりん。ちりん。ちりん。
どこかで聞いたことがあるような音が、何度も、規則的に繰り返す。
近くで鳴っているような気がする。
しかしキョロキョロと辺りを見渡してみても、そんな音がしそうなものは見当たらない。
だったら、どこにあるのだろう。
答えは、すぐ近くにあった。
自分の首だ。
首を締めている『くびわ』についている、原色の髪色にそっくりな丸いモノが、勝手に震えて音をだしているのだ。
ちりん。ちりん。ちりん。ちりん。
ちりんちりんちりんちりん。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
その音は少しずつ間隔が短くなったと思ったら、また長くなる。
なんだかよく分からない。
トゥーは『くびわ』に触れてみた。それでも音は止まらない。
もしかして、これは生き物だったのだろうか。
けれど、指の先からは鼓動を感じられない。
生き物は、どくんどくんと動いているはずなのだ。
それは、牢屋の中に忍びこんだあの、小さな灰色のずんぐりむっくりで学んだことだ。
動いているものには鼓動があって。
動いていないものには鼓動がない。
もしかして、鼓動のない生き物もいるのだろうか。
まさか、とは思ったものの今まで知らないものばかり見てきたトゥーは、そういうものもあるのかもしれない。と納得した。
さあ、この鼓動のない生き物はどうやったら静かになってくれるのだろう。
音自体は綺麗だけれども、首元でなにかが動いているというのはなんだかもどかしくて、煩わしい。
しかも音は結構大きいのだ。
それこそ、さっきまでたくさん人がいた場所でも耳に届くぐらい。
大きな音に慣れていないトゥーにとってそれは、気分が悪くなることうけあいである。
今だってなんだか、頭が痛い。
トゥーは両耳を手のひらでふさぎながら、ゆらあぁり、ゆらあぁり。と体を大きく揺らしながら数歩歩いた。
歩いたというよりは、よろめいた。という感じではあるけれど。
すると、変化が起きた。
音の間隔が変わったのである。
いや、もともと短くなったり長くなったりしていたのだけど、今は、明らかに、トゥーの動きにあわせて間隔が変化していた。
「…………」
トゥーは自分の首を見下ろしながら――首はどうやっても見えないけど――すーっと体を右にそらしてみた。
ちりんちりんちりんちりん。
間隔が短くなった。
左にそらしてみる。
ちりん。ちりん。ちりん。ちりん。
間隔が長くなった。
どうやら動くと変わるらしい。
間隔が長くなるのだから、喧しくない左に歩いてみることにしよう。
しかし左は、あの柱と苔の広がる場所だった。
しかたないから、右に向かうことにした。
間隔はやっぱり短くなって――たまに長くなったりした――トゥーは耳をおさえた。
体を左右にゆらゆら揺らしながら、トゥーは歩く。音の間隔は長くなったり短くなったりを繰り返していたが、段々と短くなっている時の方が多くなっていた。
それどころか、間隔が短くなりすぎているような気さえした。
ちりんちりんちりん。
ではなくて。
ちりちりちりちりちり。
忙しないしうるさくてたまらない。
いつのまにか、人がたくさんいる場所にやってきていた。
あの大きな柱まで歩いた記憶はないから、最初の場所とは違う場所のようだ。
違う場所ではあるが、喧騒は変わらない。
いろんな音が混じって、耳が痛くなりそうだった。
だから。
「あ、いた。トゥー!」
という声を、ついうっかり聞き逃してしまうところだった。
聞き覚えのある声だった。
表情筋をあまり動かさずに、しかしどこか不快そうな雰囲気をかもしだしていたトゥーは、はたとその足を止めて声のしたほうに振り向いた。
人がたくさん歩いていた。
その中には、見知った姿はなかった。
「…………」
どんよりとした目でそれを一瞥してからトゥーは、耳を痛くする音が止まっていることに気がついた。
まるで役目は果たしたとでも言わんばかりに。
トゥーは『くびわ』に触れる。ちりん、と音がした。
それだけだった。
肩を上下に動かす。それに合わせて『ちりん』『ちりん』と音はした。
しかし、それだけであった。
勝手に音がなるということはなかった。
一体、さっきまでのはなんだったのだろうか。
体全体を傾けるように首を傾げる。
まあ、ともかく。音が止まったのなら歩く必要はなくなった。
トゥーは周りをきょろきょろ見渡して、喧騒がなくて静かな場所を探すことにした。
さっき聞いた聞き覚えのある声については、もうすっかり忘れているようだった。
「…………?」
それに、理由はなかった。
なんとなく。そんな気がした。その程度である。
トゥーは振り返った。
丁度、トゥーの腕に手を伸ばしていた原色と目があった。
その目は、青い天井とそっくりだった。
いや、今の天井はこんな色はしていないのだけど。
そう、原色が着ている服と同じ色だ。
「わ、びっくりした」
原色は素直に驚いたことを口にした。
気づいていないと思っていた相手が急に振り返ってきたのだから当然だろう。
それが、無表情な仮面を被っているような少年ならばなおさらだ。
どんよりとした目は、青い瞳を覗きこんでいる。
その意味は、原色にはよく分からない。
「まったくもう、勝手にどこかにいっちゃダメでしょ」
むん、と原色は腰に手を当てながら言った。
背丈的な関係で、トゥーは原色の顔を上目遣いでみる。
怒っているようだった。
どうして怒っているのかはさっぱり分からない。
「と、う……」
「そうだね。きみの名前はトゥーだ。けど、今それは関係ないよ」
優しくなる言葉を言ってみたけれど、反応は変わらなかった。
あれ。おかしいな。
前はあんなにも喜んでいたのに。
言葉の意味を理解できていないトゥーは、今までと反応が違う原色が不思議でたまらなかった。
「こんな時間まで迷子になるなんて思ってなかったよ。もう。空が赤くなってるし」
原色は青い天井――青かった天井を見上げながら言う。
トゥーも同じように見上げたけれど、シミが目に痛くてすぐにうつむいた。
そんなトゥーをみて、原色はもう一度むん、と鼻を鳴らしてからトゥーの手をとった。
その手は柔らかくて、優しかった。
「はやく帰ろう。パパも心配してるし、トゥーに私の家を見せたいし」
それに。と原色はトゥーの足元をみた。
トゥーの足は、素足で歩きすぎていたからか、真っ黒になっていた。ちょっとだけ赤いものも混じっている。
「その足をはやく洗わないと」