うま
「家に帰るからこれに乗って待ってようか」
「…………」
外の風景を口をあんぐりと開きながら眺めていた少年を引きずって、原色は乗り物の前にまで移動した。
大きな生き物だった。
少年は大きく見上げる。
丸い鼻から荒い息をだしている。
髪が頭の上だけでなく、太くて長い首の上にもまっすぐ生えている。
よくみてみると、短くて茶色い髪で、全身が包まれている。
少年は自分の腕をさする。
自分には生えていない。
やはり自分とは違う生物のようだ。
次に生き物の体をさすってみた。
ザラザラとした感触が手のひらに伝わった。
鼓動も感じた。
生きている。
触っていると、自分のよりも大きな鼻の穴から息を吐きながら『ブルルルル』といなないた。
四つん這いになっていた体を持ち上げて、両手をぐるぐる振り回した。
その手には指がなかった。
代わりに、厚くて硬そうな黒いモノがついていた。
あれはなんだろうか。
詳しく見てみたかったが、それよりもはやく、生き物はまた四つん這いになってしまった。
体は少年と違って肉がついている。
原色とも違う肉のつき方だ。
とても強そうだ。
少年は直感でそう感じた。
「それはね、馬っていうんだよ」
「れ、かね、ま……?」
「うーまー」
「うぅ……な」
「う、ま」
「うぅ、ま?」
「そうそう。馬」
原色は生き物を指さしながら言う。
どうやらそれがこの生き物の名前らしい。
「う、ま」
少年はそれの名前を口にしながら――馬のしっぽを握った。
ふさふさとした髪の中に、なにやら固いものがあった。
それが理解できた瞬間、少年は馬に思いっきり蹴られた。
蹴とばされた。
手についていた厚くて固そうな黒いモノは、やはり見た目通り固く、鈍器であった。
うま、危ない。
薄れゆく意識の中、少年はそれだけをしっかり頭に刻み込んだ。
***
「我望むは光の加護。
抉られた記憶を再見し、顕現させよ。
『リスワ・レスヲ』」
頭を、心地よい暖かさが包み込んだ。
じんわりと痛みがひっこんでいく。
さっき、階段でこけた時と同じだ。
少年の頭からだくだくと流れていた血が止まったことを確認した原色は、呆れたように少年を見据えた。
眉を逆八の字にして、少年の顔を睨んでいる。
どうやら怒っているらしい。
それだけはさすがの少年でも、理解できた。
「ははは。なるほど。そういうことがあったのか」
「まったく、いきなり馬のしっぽを掴むんだから、ビックリしちゃったよ」
原色がぷりぷりと怒り、大男はおかしそうに笑った。
その間で足を放り投げるようにして座っている少年は、ガタガタと揺れる部屋の動きに合わせて、体を揺らしていた。
馬に蹴られて少年が気絶した後、原色の父親が戻ってきて、気絶した少年を部屋の中に入れた。
部屋の中は長椅子が二つ向かい合うように並べられている。
壁に直接くっつけてあるような感じだ。
イスの座る場所は、クッションで覆われている。
入って左側の方の長椅子に少年は寝かせられた。
その頭に、原色は再び魔法をかけた。
回復の魔法。
流れる血が消え、痛みはなくなり、気絶していた少年はパチリ、と目を開いた。
うつろな目をきょろきょろと動かして、自分のいる場所を確認する。
背中に当たっている柔らかな地面の感触に、違和感を覚えた。
むくり、と上半身を持ち上げる。
「きみはもっと危機感というか警戒心を持った方がいいよ」
「…………」
どうやら怒っているらしい。
それだけは理解できた。
少年は柔らかな地面の感触にもぞもぞと体を動かして、イスから腰を離した。
それほど広くない部屋の中をふらふらと動いて、足元の地面は固いことを確認すると、そこに腰をおろした。
上半身を壁に預けて、両足を投げだすようにして座る。
これが一番落ち着く形だった。
「もう、せっかくイスがあるのに、どうして床に座っちゃうかな」
「これに慣れてるんじゃあないか?」
「イスに座らないことに?」
「床に座ることに」
大人と原色は、向かい合うようにしてイスに座った。
その間に挟まれるようにして、少年は床に座っている。
「さて、そろそろ移動しようか」
大人はイスに座ったまま、頭だけを動かして振り返った。
少年もその首の動きに合わせて斜め上をみた。
大人の頭の後ろには穴があった。
四角い穴だ。
しかし、不思議なことにそこから風が部屋の中に入ってくることがなかった。
そこから『うま』の首まで伸びた髪が見えた。
自分の頭を蹴飛ばしたあの黒くて固いものが脳裏を掠り、少年はぶるりと体を震わせた。
どうやら苦手意識を持ってしまったらしい。
「我望むは従順なる四足。
じゃじゃを導き、印へと進め。
『クーモ・クーマ』」
大人がなにかを呟いた。
すると、部屋がごとごとと揺れはじめた。
四角い穴のほうを見てみると、『うま』の頭が上下しているのがみえた。動いているのだろうか。
ドアにも同じように穴があいている。
そこから見える景色が動いていた。
少年自身は動いていないのに、である。
不思議に思った少年は腰を持ちあげた。しかし揺れている部屋の中は不安定で、うまく歩くことができない。
歩くことに多少は馴れたとはいえ、まだこんな不安定な場所で歩く練習はしていないから当然か。
足がもつれて、倒れた。
ドアのほうに体は倒れて、あいている穴にぶつかった。
ごつん、と額から痛い音がした。
「だ、大丈夫?」
「…………」
原色が心配そうな声色で尋ねたが、少年は返事を返したりしなかった。
――ぶつかった?
――穴なのに?
――あいているのに?
牢屋の壁にも穴はあいていた。
この穴に比べたらもっと小さかったけれど。
そこから四つん這いでちょこまかと動く灰色のずんぐりむっくりが行ったり来たりしていた。
けれど、この穴では行き来はできそうにない。
なんせ、ぶつかってしまうのだから。
少年は穴に顔を擦りつけた。
穴の間を抜けることはなかった。
そこには見えない壁があった。
いや、見えるには見えるが凝視してやっと分かるぐらいだ。
存在感がない。
透けているのだろうか。
どういう原理かはさっぱり分からなかったが、どうやらこの穴は穴ではなく壁で、後ろの景色が透けているらしい。
透けてみえる景色は、動いていた。
かなりの速さである。
もちろん、少年の足は動いていない。
歩くのもまだおぼつかない少年では、これほどの速さで歩くことは不可能だろう。
ゆっくりと下を覗いた。
部屋の両端に、円がついていることに気がついた。
円が回転している。
目にもとまらぬスピードだ。
その回転が地面を蹴って、部屋を動かしていた。
少年は透明な壁に頬をひっつけて、部屋が動いている向こうを覗いてみた。
ギリギリ、『うま』の体が見えた。
『うま』は体を揺らしながら走っている。
その体は少年の首についている『くびわ』と同じようなもので縛られていて――色は違う。『くびわ』は原色の服のような色だが、『うま』を縛っているものは、少年の髪色に似ている――それが、部屋と繋がっている。
つまり、『うま』が走り、部屋を引っ張っているということらしい。
少年は床に寝そべっている。
床に耳を寄せる。
突然の奇行に、大人と原色は驚いたような表情をみせて、寝そべっている少年の顔が向いている方で座っていた原色は、ひらひらしている服を両手でおさえていた。
その行動の意味は、無知で無垢な少年には理解できないことだった。
それに今の少年の興味はそっちに向いていない。
目を閉じて、耳を澄ませる。
がたん、がたん。
がたがたがた。
不規則な音が聞こえてきた。
鼓動……ではない。
どうやらこれは生きてはいないらしい。
ともすると、あの円は勝手に回っているのか。
少年に理解できたのは、それぐらいだった。
「なにしてるんだろう」
「これが生き物かどうか確認してるんじゃあないか?」
「これって、馬車を?」
「馬車を」
「まさかあ」
「まだ見たことがないものが多いからな、この子は。動いていたら生き物だと勘違いしてもおかしくないだろう」
「そんなもの?」
「そんなもの」
頭の上で、大人と原色が話している。
その言葉の意味はさっぱり分からない。
少年は伏せていた体をふらあ、と持ちあげる。
おぼつかない足取りで元の位置に戻った少年はまた、壁に背を預けて両足を投げだした。
いつもの体勢だ。やっぱりこれが一番落ち着く。
ゆっくりとまぶたを閉じる。
頭の重さに耐えられなくなって、首がくてんと傾げられた。
やることがなかったら寝る。
それは檻の中にいた時からの、少年の癖――または生態みたいなものだった。
がたがたと規則的に揺れる馬車の中は、少年をまどろみの中に引き込んでいくには充分な環境だった。
寝息をたてる。
少年が眠りについてから一時間ほど過ぎた。
馬車の揺れが不意にとまった。
少年はまぶたを薄く開く。
大人の後ろにある透明の壁の向こうに見える『うま』の頭が上下に動いていなかった。
どうやら止まっているらしい。
少年は体を風にあおられた野草のように小さく揺らしながら、原色と大人を見た。
二人はイスから腰をあげていた。
どうやらおりるつもりらしい。
「ほら、きみもおりるよ」
「…………」
手招きされた。
こっちにこい。ということだろうか。
それとも、あっちにいけ。ということだろうか。
原色の顔色を伺うように、少年は色のない瞳で彼女の顔を覗きこんだ。
笑っている。
敵意は感じられない。
ということは、多分、こっちにこい。ということなのだろう。
少年は投げだしていた足をひっこめて、立ち上がった。
原色の元へと、よろよろと歩く。
「おりよっか。足元に気をつけてね」
ガチャリ、と原色はドアを開いた。
少年はドアの向こうにある緑色の景色をみて、目を瞬かせてから歩いて――そして、落っこちた。
ドアと地面。その間には子供の腰ぐらいほどの高さがあることに、少年は気づいていなかったのだ。
どしん、と落っこちた少年は不意なことに対処をとることができずに――不意でもなくとも、対処がとれるかどうかは怪しいけど――踏みだした勢いそのままに、少し前のめりになって頭から地面に着地した。
地面に張りついたみたいに倒れている少年の周りに土煙が舞う。
そんな少年を馬車から見下ろしていた原色は額に手をあてて、頭を抱えた。
「足元気をつけてって、言ったのに……」
「あの子はヒトだぞ。言葉は通じないのを忘れたのか?」
原色の横を抜けて、大人は馬車から降りる。
少年と違って、しっかりと足から着地する。
原色はぷくーっと頬を膨らませた。
「けどその子、言葉を覚えれるぐらいには賢いんだよ」
「言葉を? まさか」
「ほんとだよ、ねえ?」
両手を地面について、上半身を持ち上げた少年に、原色は尋ねるように話しかけた。
振り返る。
少年の顔は砂まみれになっていて鼻は赤くなっている。
しかし少年の顔つきは、いつも通りぬぼーっとしている。
原色はそんな少年の顔をほとほと呆れたような顔で見てから、首を指さした。
原色の首は細く、長い。
折るのに、両手で掴む必要もなさそうなほどに。
「首についてるそれはなに?」
少年は原色の首を瞬きながら見てから、自分の首を触った。
少年の首も原色にひけをとらず、細い。
首元から触って、手をあげる。
『ちりん』と音がなった。
原色が着ている服と同じ色のモノに、手が触れる。
「…………」
「そう、それ。名前は?」
「……くぅ、くびわ」
「そうそう」
原色は嬉しそうに笑って、大人の方を向いた。
アゴが少しだけ上を向いていて、ちょっとだけ胸を張っていた。
対して大人はというと、少年が言葉を――エルフの言葉を話したことに驚いているようで、その、外の天井みたいな色の瞳を大きく見開いていた。
何度か瞬く。
「驚いたな、ヒトが言葉を話せるなんて、知らなかったよ」
「でしょでしょ、この子はすごく賢いんだよ」
「みたいだな、もしかしたらお前よりも」
「あー、そういうこと言う!!」
原色がぷりぷりと怒っているのをぼーっと見ていた少年は、くるりと首を回して、馬車とは反対側を見た。
そこは緑だらけだった。
少年が見たことのある緑といえば苔だけだったから、こんな大きく生い茂っている緑は初めてみるもので、圧倒された。
中でも少年を色々な意味で圧倒したのは、青い天井を支えている大きな柱だった。
緑の中から、群を抜いて突きだしているそれは、太く、太く、太い。
なんせ視界の左端から右端までを独占しているのだから。
少し離れた場所でこれなのだから、近くで見たら全貌を捉えることは不可能になってしまうだろう。
「『天樹』」
大きな大きな柱をぽかん、とした目で見ていると、馬車から降りた原色がそんなことを呟いた。
「あの樹の名前。私たちの祖先がここに住み着くようになる前から、ずっとずっと、もしかしたら世界が始まるよりも前からあると言われてるだけのただの老木だよ」
世界が始まる前にモノがあるなんて、おかしな話だけどね。と原色が笑うと、大人は。
「お前はもう少し信心深くなれないのか?」
「だって、あれがあるせいで街の反対側にいくのに大きく迂回しなきゃいけないんだよ。邪魔で邪魔で仕方ないんだもん」
「こら、天樹様を邪魔とか言うんじゃあない」
大人のその口調は、ふざけている原色をたしなめている。というよりは、叱っている口調だった。
それに気づいた原色はつまらなそうに口を尖らせて、頭を低くした。
少年の頭の中で、原色よりも大人の方が立場が上。という構図が浮かびあがった。
「いいじゃん、ホントなんだし。きみだってそう思うよねー?」
「そんなことを言うと、この子を店に返したっていいんだぞ?」
「ああー、そんなことを言うー」
ぽかーん、と天樹を眺めていた少年を、原色は持ちあげた。
少年の両脇に、原色の両腕を通す形だ。
少年と原色。背丈だけで言えば、原色の方がずっと高い。
ほっそりとした体躯であり、つまり結構軽い。
ひょいっと持ち上げられて、少年は手足をぷらーんと垂らす。
抵抗する気も、力を込める気もない。と言った感じだ。
原色はそんな少年を胸元に近づけるようにして抱きしめた。
ぎゅっと抱きしめられて、少年は少し息苦しそうに顔をしかめる。
しかめただけで、抵抗もなにもしないのは変わらないけど。
「この子だって、元に戻るのはイヤだって言ってるよ」
「俺が聞いた言葉は『くびわ』だけだが?」
「ねー、きみだって帰りたくないよねー」
「…………」
少年は首だけを動かして、頭上にある原色の顔を見上げた。
鼻の穴も見える角度である。
原色は少年にも理解できるように、口をゆっくりと大きく動かす。
「いー」
「……いぃ」
「やー」
「……やぁ」
「いーーやーー」
「……いぃ、やぁ」
「ほら、この子だってイヤだって言ってるよ!」
「多分、イヤの意味も理解できていないんじゃあないか、それは?」
ふむん、と鼻をならして、少年を抱きしめたまま胸を張る原色に、大人は呆れたように笑うのだった。
その渦中の少年はと言えば。
二人の話から、どこかに勝手に進んでいる馬車の方に興味がうつったのか、それをぼーっと目で追っていた。