プロローグ
前回投稿しました、吸血鬼(仮)に続き2作品目です。こちらも、単行本1冊分を目途に書き進めていきたいと思います。最後までお付き合い頂ければ幸いです。
「私の心を半分あげる。だから豊ちゃんの心の半分を貰うね」
そう言って彼女は僕の胸に飛び込んで来た。
あまりにも長く一緒にいた僕達は、子供の戯れような誓いを立てた。
「お、おう」
彼女が変化を求めて振り絞ったその言葉に、僕は満足に答えられたのだろうか。
「豊ちゃんのバーカ」
その言葉とは裏腹に、幸せに満ち足りた笑顔で僕を見上げていたのを覚えている。
飛び込んで掴まれたのは僕の心臓──包むように掴んだその場所は、唯の服だったけど、確かに僕達は心を分け合った。
心の半分が静止した。
……僕と彼女はいつもこうだった。
彼女の言葉は僕に近すぎて、そして優しかった。
朝を迎えて動き出せば、玄関先で食卓で──場所や形は変わるけど、彼女と顔を合わせることで一日が始まる気がしていた。
「おはよう、豊ちゃん」
「ああ、おはよう」
どれ程繰り返したか分からない──そんな言葉であれば、僕の心と体は同期してくれる。
そして今日も新しい日々が始まるのだ。
停止ではなく、静止だった。
彼女と歩く通学路は賑やかだった。
「安維ちゃん、おはよー」
「うん、オハヨー」
「天見さん、おはよう」
「オハヨー」
彼女を見付けた事が一つの幸運であるように、弾んだ声が通学路に反響する。
「──。館くんもおはよ」
「あ、ああ。おはよう」
一年という月日を彼女と歩き続けた今、その祝福は僕にも分け与えられている。
「豊ちゃん、何ニヤニヤしてるの?」
「え、いや」
先の恥ずかしい思索を悟られ、言葉が詰まる。
「まーさーかー、浮気っ」
「安維の声が綺麗だなって」
どうやら僕の思い過ごしだったらしい。僕に詰め寄って来た彼女はどこか期待に満ちたような笑顔で、その言葉とは対照的だった。
こんなやり取りだって何度も繰り返した。
「う、うん。……ありがとう」
「どういたしまして」
この悪ふざけと分かった問答の解答を委細までを承知して尚、互いに呑み込める僕達の関係は稀有であると理解はしていた。それ故に──互いに浮かぶ感情に、差異がある筈もなかった。
「……ん。んー、うーん? 声? 声かー、うん、喉は大切にしよう」
静止であっても止まるということには変わらない。
「安維っ、今日のお昼ごはんは?」
「今日は弁当だよ」
「でわでわ、今日の愛妻弁当チェックといきますか」
僕達は『我が校の歩く出雲大社』と呼ばれていた。
「もー、普通だよ普通」
「いやいやご謙遜を」
学内では周知の事実であり、平たく言えば恋愛成就の象徴のようになっていた。
「うむ、いつも通り愛情という隠し味が目に見えるような弁当だー」
「うん、意味分かんない」
「だってこう話題性がないというか面白味がないというか。もっとこう分かり易い弁当を作ってきてくれたらなーって」
その成り立ちは至って単純、地元の高校に進学した僕達には当然同級生がいる。その同級生達が過去を流布し、僕達の変わらぬ関係を目にした新たな同級生達がそうやって信仰した。
少なくとも、一年の一学期中にはその信仰を得るまでに至っていたと思う。
「──それはみんなの目があるからで、なかったらもっと……」
彼女は、分かりやすく顔を赤くしていた。
「んっ! 何々っ? 私たちの目がなかったらどんな風になるの?」
一因の一つには彼女のこういった言動があったのかもしれない。
「し、知らないっ」
「そこまで言ってそれはないよー。ねぇ、館くんも知りたいよね?」
「一時はおかずの微妙な配置や、具材の分かりにくい所にハートマークを入れるのがお気に入りだったな」
「ち、ちょっと豊ちゃん! 豊ちゃんはどっちの味方なの!?」
彼女がスセリビメで僕が大国主というのなら、彼女には分相応かもしれないけど、僕にその荷は重すぎる。もしその偉大な神と同じく出来ることがあるとすれば、出雲大社の彼のように、彼女の傍にいることだけだとぼんやりと思っていた。
いずれ来るその静止に僕は必死に抗おうとした。
「最近どうも彼と距離があるように思いまして、円満の秘訣というかその……」
「んー、それはなかなかに難しいねー。私も苦労してるもん」
本来帰宅部の僕達が放課後の教室に残っていたのは、例の『我が校の歩く出雲大社』のお参り願いがあったからだ。
「そうなんですか!? 歩く出雲大社とまで言われているお二人がですか?」
「いや、その出雲大社云々はいつの間にか広まっちゃって私達も驚いてるから。彼なんて積極性に全、然っ、欠けるんだから──恋愛成就も何もないの」
「じゃあどうしてそんな風で居られるんですか?」
相談に来た下級生が、後ろ側の席にいる僕と彼女を不思議そうな眼で見つめる。
そんなの僕にだって分からない。僕達は子供の頃から一緒にいただけで、一般の高校生が行うような告白や約束を行っていない。
「……私達がお互いを必要としてるから、かな。子供の頃からの本当の幼馴染で大切な人だから──ずっと一緒にいたから。だからねっ、来てくれる子にはいつも言ってるんだけど、私達の恋はなかなかみんなの参考にならないんだ。だから聞くよー、聞いちゃうよー、始まりから今までの全部──それで私達があなたを応援する。それが『我が校の歩く出雲大社』の参拝なのです」
高らかに宣言する彼女はいつも通りにかっこよく、僕には少し照れくさい。
「その前に僕から一つだけ、男の僕がいて話しにくいことがあるなら僕は席を外すけど?」
ここで僕はようやく一言を発する──これもいつも通り。彼女の宣言までが、鳥居をくぐり手水を終えたようなもので、ここから神々への二礼四拍手一拝が始まる。
「いえ大丈夫です、少しでもお二人と同じ時間を共有したいと思います──お二人はやはり皆の憧れです」
「えへへー、なんか照れちゃうね」
「そうだな」
僕達は今以上の変化を求めてこなかった──気持ちだけは変わらずに。
僕の心の半分は、いつかは起こるその静止に恐怖した。
「あの子とその彼、上手くいくかな?」
「それだけは分からないな。でもいい子だったじゃないか、あの子が選んだ相手なら上手くいくと信じたい」
僕と彼女の部屋は窓隣りで、こうして毎夜のように語り合った。
「そうだね。いい子だった、私達が憧れだって」
「『我が校の歩く出雲大社』ってのはそろそろ恥ずかしいんだけどな」
少し大袈裟に過ぎる。精々が校内一の幼馴染カップルっていうのが相応だと思う──……それでも十二分に恥ずかしいが。
「ねぇ、豊ちゃんは他の女の子をいいなと思ったことないの?」
「ないんじゃないか。お……、お互いを必要としている、だろ?」
「ふふっ、そうだね。えーとね、私達がスセリビメと大国主なら、私は嫉妬に燃えるような日が来るのかなって」
「正直者は損をするな」
いつかの思索は僕だけのものではなかったらしく、その控えめな告白は彼女の頬を染めていた。
「え、え? どういう事?」
「いや、僕も同じような思索をしたけど安維に伝えなかったなと」
「だったら豊ちゃんも今から正直者だ」
「た、大したものじゃないから」
その言い方は狡いと思う。
「ちゃんと言ってくれないとやだよ──はいっ、今」
「……大国主は僕には荷が重いなって」
「でぇ?」
「僕に出来そうなのは出雲大社にいる彼のように、彼女の傍にいることかなと……」
僕達がスセリビメと大国主なら、僕達の関係も今のままではいられない。
「えっへへー」
「あのさ、ぼ、僕達……」
「大丈夫っ、私達はきっと大丈夫。もしそれでも不安ならね、誕生日。次の私の誕生日までに考えてくるから、そのつもりでいてね」
「お、おう」
変化が生まれ始めた日、僕達は一つの約束を交わした。
変化は決して幸福なものだけではなかった、むしろその幸福な日々を際立たせる不幸があった。
僕と彼女の一日は、全く異なるモノになった。
彼女の言葉は僕に届くことはなく──そして心潤していた全てが、機械の音に満たされた。
いつかの日々より早く目覚めて僕はあの場所に向かう。僕の家の玄関先で、食卓で、時には部屋で出会う彼女はもういない。僕は一日を始めるために足を進める。
「おはよう、安維」
返事はまだない。
一年程繰り返したが未だに慣れることはない──彼女の声が聞こえない一日なんて。
それでも今日という新しい日々が始まった。
僕の心の半分が息をしないことが多くなった。
彼女と歩く通学路は賑やかだった。
今は通学路も時間帯も違う。
一つの幸福が消えた通学路には、あの日々の幻影だけが映る。
「館くん、おはよう」
「ああ。おはよう」
正門に近づけば、いつかの日の名残が僕に降りかかる。
「館っ、おはよーさん」
「ああ」
親しげに肩に置かれた手はきっと彼女が僕に残してくれたもの。
「今日の英語の小テストどうよ?」
「ある程度予測は付くだろ」
僕は未だに彼女の優しさで満たされている。
「生憎、オマエほど授業に真面目に取り組んでもないし元々の出来も違う」
「まぁ、後でな」
「流石、館っ。でよ、話は変わるんだが──」
僕達がここですごした二年間は確かに繋がっている。
だからこそ、そこに彼女がいないことがただ寂しかった。
それは一時の死であり、僕の心の半分は生と死を繰り返す。
結局、校内一の幼馴染カップルへと変わることなく『我が校の歩く出雲大社』は無期限の閉鎖となった。
「館、飯だ」
「ああ」
わざわざ僕の席までやってきて昼飯を一緒にとる同級生──彼女がいなくなって出来た友人と呼べるかもしれない奴。
彼女がこの場所からいなくなって気付いた事がある。
「……オマエ、学校が悲しいか?」
「君も人の心境を読んだように話すことがあるな」
僕は彼女がいなければあまりにも空っぽだった。
「そういう顔をしてんだ、普段は見せないようにしてんだろうけど」
「そうか。……ただ自分には何もないなと」
「──照れくさいんだけどよ、今更だから言ってやる。オレはオマエたちに憧れてたんだ。オレは幼馴染と上手くいかなくなったからさ」
「どうやって乗り越えたんだ?」
「残念だがオマエの参考にはならないな。オレたちのはそんじょそこらの好意と変わらなかった、でもオマエたちは違うだろ?」
「そうか……、そうだな」
失礼かもしれないけど、きっとそうだ。僕の生活の全ては彼女を中心に廻っていた。
いつか彼女が言った、積極性というものがない僕は彼女に甘えていた。家族同士の関係も、学校生活も──その全ての日常は彼女が形成したもので、僕が成したものなど欠片も見当たらない。
彼女が目を覚ましたらお礼を言おう。そして少しずつでいい、変わっていこう。
「あぁ、そうだ」
「ありがとう。君はいい奴な」
だから、早く…………。
一時でも死というものがあるのならば死という現象──自己融解と腐敗は始まる。
『我が校の歩く出雲大社』の閉鎖により本来の帰宅部に戻った僕は、終業の合図とともに学外へと──あの場所へと向かう。
「館、また明日」
「ああ」
彼女が待つあの場所へ。
「こんにちは、おばさん」
「いらっしゃい、豊くん」
白を基調とした建物の中で安維の母親と挨拶を交わす。
「今日もありがとうね」
「いえ、好きでやってますから」
僕と彼女の夜の語らいは無くなり、その代わりに面会時間という制約の中で僕は彼女の隣にいる。
「……豊くん」
「もしかして迷惑になってますか?」
いつもと少し違う雰囲気のおばさんに、不安を感じながらも、素直に答える以外の術が見付からない。
「ううん、そんな事はないの。ただね、豊くんのお母さんとも話したの。豊くんは本当に頑張ってる──毎朝と夕方のお見舞いを続けながらしっかりと学校に通って、聞けば勉強も頑張ってるみたいね」
「はい」
そう、僕は彼女との日々を守るためにそれらだけは怠らなかった。
「豊くんが口下手なのは知ってるの。だから聞かせて欲しいの、豊くんの気持ち
「ぼ、僕は……怖いんです──彼女のいない日々が、あまりに一緒にいすぎたから。……分かってるんです、このまま目を覚まさない可能性があることも、目を覚ますのがいつになるかも分からないことも。だから彼女に笑われないように──心の半分が笑っていられるように、彼女のいない日々を笑って過ごしてます」
まるで彼女のような問いかけに僕が拒めるはずもなく、自身の母親にすら口にしなかった言葉が流れ出る。
「あの子と、何か約束をしたの?」
「えぇ、誕生日にお互いの心の半分を交換しました。子供のお遊戯のような約束です、それと──」
「っうぅ、……」
「あ、あと」
おばさんは声を押し殺すように泣いていて、僕の言葉は既に届きそうにない。
「ご、ごめんなさい。私は大人なのに、豊、くん、みたいに笑っていられないみたい」
「母さんやおばさんが心配してるのは僕の将来の事だと思うんです。正直に言えばまだ分かりません。テレビなら僕が医者を目指すのかもしれません。でも今は、自分の未来を狭めることになっても彼女と過ごす日々と時間を減らしたくありません。これが今の僕の正直な気持ちです」
「……ごめんなさい、おばさん、ぅぅ、今日は無理みたい。でも豊くん、の、気持ち、伝わった」
「有難うございます」
「──豊くんは私の立派な息子だ。今日は、このまま帰るから、あ、後はお願いね。豊くんのお母さんにも伝えておくから」
「はい……」
そういっておばさんはこの部屋を出て行った。
心の半分で嘘を付いたままの僕を残して──
自己融解と腐敗が心地いい。
今日も一歩、また一歩と正門を目指す。
つい、先程だ。今日だって、僕の心の半分は呼吸をした筈だ。息を取り戻した筈だ──僕が、……僕が本当に怖いのは、僕に残った心の半分の……その醜悪さに他ならない。
安維の心の部分が腐っていく。
本来は摩耗していると表現すべき事柄なのに、その腐敗が心地いい、好ましい、恋しい、愛しい、慕しい、偲ばし──
「っはぁ」
あの日から一年と半、もういくらも持たないかもしれない──……こんな時は必死であの日を思い出す。
あの約束の日を。
「私の心を半分あげる。だから豊ちゃんの心の半分を貰うね」
その場所は、誕生日という特別な日を過ごすには不釣り合いかもしれなかった。
少し背伸びしたレストランでもなく、十全の準備のあったデートの帰り道でもない。
「お、おう」
授業が終わった僕達は、校舎で一番空に近い場所に来ていた。
春先の屋上は祝福するように僕達を迎え、その特別な日を彩るために輝いているようにさえ思えた。
「豊ちゃんのバーカ」
僕は彼女に答えたい一心で言葉を紡ごうとしたのに、
「ぼ、僕は──」
彼女の指先が僕の唇を塞いでしまう。
「今日はね、ううん。今日もね、豊ちゃんからたくさんのものを貰ったの、それも今日は特別にいーっぱい」
彼女は両手を広げ、その幸福を示す。
「だから次は私の番。だからね、豊ちゃんの誕生日に私のとっておきの将来の夢を教えてあげる」
僕はまだ何も彼女に伝えていなかった。
「なんだよそれ」
それでも、その時の僕は笑っていたと思う。
なんなんだよ、それ……。
教えてくれよ、安維。
足りないんだ、抜けている、欠けている、乏しいんだ…………今日が二回目の誕生日なんだ。
心の半分が静止した。
ここは……。
確か学校の正門までは着いた筈。
「──うん、これは立派な正門だ」
ありきたりだが目を擦ってもう一度現実と相対す。
「うちの学校はいつからクリスチャンな女学校然とした佇まいになったんだ」
今までにこんな事はなかった。
まずい、今何時だ。遅刻してしまう。
時間の確認さえ惜しんで振りかえり足を進めようとしたが、その目に映る光景に自然と足が止まる。
「なん……だ」
校舎を囲む塀沿い五メートルから先に、道なんてなかった。
雲の海で雲海とはよく言ったもので、その文字面通りの光景に息を呑んだ。
「そんな所で何してるんですー、危ないですよー」
その声に振り向けば、近所では見かけないボレロ型の制服を着た少女が口に手を当てて僕を呼んでいた。
(僕に言ってるんだよな。でも、そもそもここは何処だ……)
彼女は既に校舎内にいて、制服を着ていることからここの生徒であると予想できる──……だが、僕はこんな学校は知らない。
そもそもこれは……何だ、夢?
「っえ」
首を傾げた少女は何を思ったか僕の方へ走り寄ってくる。だからと言って、それが確認出来たとしても僕に逃げ道はない。
「だから、危ないですって」
必然と彼女に捕まり、僕の片手は彼女の両手に掴まれた。
腰まで届くその銀髪と白い制服を纏った彼女に、手折ることを許さない──清貧の居に咲く、優雅な花の詩を想起させた。
「いや僕、道に迷ったみたいで」
そして、そう認めた筈なのに──……その振る舞いには何故か親しみを感じられていた。
「ん、んー……。あなたもしかして新しい転入生さん?」
「転入生?」
僕を観察するように辿らせた目が、僕の首元で目を止まった時、彼女はそう結論付けた。
「違ってたら申し訳ないんですが、よかったらそのネックレス見せてもらってもいいですか?」
ネックレス? 僕にはそんなものを身に付ける習慣はない。
「いや、だから僕は──」
証明のために触れた首元から伝わったのは、金物の手触り。
「なんだ、これ」
「わー、綺麗なダブルリングですねー」
彼女が言うように、僕は二つの指輪がついたネックレスをしていた。
同じ大きさのそれは絡まるように交差し、よく見れば二重構造の透明な結晶と言えばいいのだろうか、あまり見たことがないタイプの指輪だった。
「これに心当たりがあるのですか?」
「えぇ、ここに来られる方は、形は違いますけど皆同じような石を持たれていますよ」
石? この指輪のことだろうか。確かに単に指輪というより、指輪の形をした石と言った方が正解に近いとは思う。
「僕は、別に……」
待て──今の言葉は僕もここに来るべくして来たという風に解釈出来るのではないか。
「迷子っ、なんですよね? だったら私が案内しますよ」
「ち、ちょっと、待って──」
掴まれた手はいつの間にか繋がっていて、僕は彼女に手を引かれていく。
「ようこそいらっしゃいました、七罪ノ学園へ」
数多度の脈動を繰り返した心が再び動き出した気がした。




