始まりの日、『七月二十二日:午前』
教室内はいつもと雰囲気が違っていた。
不穏な空気はない。
あるのはどこか浮かれた雰囲気。
それは誰しもが待ち望んでいた一ヶ月。
残りわずかな時間にまだかまだかと担任を待つクラスメイト達の姿を傍観しながら、火村蛍も担任を待つ一人だった。
「というわけで、行かね?」
ボケッとしていたため、蛍は全く話を聞いていなかった。
「ん、何?」
「おいっ」
ささやかなツッコミにようやく蛍は意識を話しかけてきた人物へと向ける。
「だから、湖行かないかって話をだな。してたんだな、これが」
「なんだよその話し方」
「あれ、昨日ドラマ見てないの?」
どうやら、昨晩放送されていたおにぎりを美味しくいただく特別ドラマの主人公の真似だったらしい。蛍はそのドラマを見てはいなかったが、度重なる宣伝やら、コマーシャルで情報は得ていた。だからって真似をする必要あったのかは、今さらなので何も言わず、話しかけてきた人物とは別に、その提案を尋ねられていた別二人の表情を窺う。
一人は蛍ともう一人の顔色を窺い、もう一人は嫌そうな表情で聞いていた。
「乗り気じゃないようだけど?」
どう考えても賛成の声は挙がっていない。
「乗り気っていうかさ、」
怪訝の色を見せていた櫻井香が窓の方視線を向け、作った表情の理由を話し始める。
「ないだろ、この暑さで山昇とか。中々イカレた意見じゃね? 蛍は行く気? 何、正気なの? 暑さでヤラれたのか?」
「いや、まだ何も言ってないけど」
「ちょっとまて、俺だけ、俺だけなの? この明日から始まる日に備えて一日プラスで遊びまくっちゃおう的な考えを持っているのは? はぁ、逆に正気かよ」
「うぜぇな、そのテンションとりあえず抑えろ」
「AH~ハンッ、抑えられんな、抑えられねぇぜ! 明日を思うと俺は――」
「達也は?」
「いやぁ、正直用事あるから、どうしようかと思って。皆行くならそっち断ろうと思ったけど、どうしようっかな」
「ほっほー、シカトかよっ! COOLですやんっ!」
「マジでうぜえからやめろって」
提案者を差し置いて、話が進まないことにイラつきを覚えた蛍が、少しトーンを落として本気のお願いをすると、テンションは急激にしぼみ始めた。元々楽しく過ごしたいと思っての遊びに行く提案で、喧嘩から始めたいとは誰も思っていない。
「すまん、でだ、マジで行かない?」
本来の形を取り戻した遊びの計画だったのだが、
「いや、俺はマジでパス! 気温上がる前とかなら行くけど、やっぱこれからはキツイわ」
「全員参加じゃないなら、俺もパスさせてもらおうかな。元々の予定もあるし」
「でたっ、結局俺と蛍だけかい」
「俺の意思は訊かないわけね。でもしょうがないだろ、実際あそこまで行くのは気分が乗らないと俺もヤダし」
「さすがに俺も強制では誘わないけどさ、まぁしゃーないか」
事実、湖に行くためには面倒とは一言で言い表せられない距離と、勾配を登って行かなければならない。確かに、浮かれた気分が始まるその前日に行けば、十中八九そのポイントに人は集まらない。よってほぼ貸切のような状況で遊べるだろう。
それでも、遊びの予定に無理やり取り込んだところで、楽しくなるか分からなくなる。それならば個人の意思で参加してもらった方がいいのは当然。なので、引き際はしっかりと見極める。しかし、二人というのは寂しいと思う。
そうなると次の行動は明白。
「ねぇ、杉原ちょっといい?」
良いタイミング遊びの提案者が教室に入ってきたばかりの三浦京子によって呼ばれた。
「お、ナイスタイミング! 後で湖行くんだけどお前らもいかない?」
足りない人数集めに、杉原こと杉原太陽は、呼ばれたこともあって、その女子の方へといなくなる。
状況の変化にいち早く反応したのは櫻井だった。
「なぁ、女子行くなら意見変えても良いと思うか?」
呆れた表情を作る二人の意見は一言。
「好きにしろ」
「勝手にしてくれ」
櫻井が二人にもしもの場合に備えてフォローを求めていたが、少し離れた場所では男でも嫌がるような場所に女子が乗り気になるはずもなく別に提案がなされていた。
「それよりも街の方へ行くんだけど、太陽達も行かない?」
「街? 何しに行くんだよ」
「えー、適当にぶらついたりかな。山昇よりはマシだと思うけど」
正直太陽は乗り気にはなれない。特別街が嫌だとは思ってはいないが、それでも一度自分から言い出した意見は、そこで遊びたいからこそ三人を誘ったのだ。
だからといって、無下にも断ったりもできないでいた。それは女子と一緒に行動できるという部分が八割を占める。ところが安請け合いもできない理由がある。それは京子に話せることでもないので曖昧に太陽は確認を踏まえて尋ねる。
「ちなみに達っていうのは?」
少し小声になった意味に京子は、ちらっと蛍の方を見ると、廊下の方へ静かに体を移動する。教室の扉から極端に離れず、誰にも怪しまれないほどの絶妙な距離。他の誰もがその不審な動きに気付いた様子はない。唯一蛍を除いて――。
「分かってるでしょ。こっちは私と、秀美に香奈枝に――」
「鈴木桃花」
「そう、だからそっちは、火村。あとは、まぁ、誰でも」
「誰でもって……、しかし蛍かぁー、また厄介な事に俺を巻き込むよね」
「厄介って、まさか火村ってホモなの?」
思わぬ誤解に太陽はワザとらしく吹き出してしまう。
「違うわっ、蛍の性格の話でって、まぁそれはいいとしても。たぶん無理だと思うけどなぁ」
「どうして?」
「まず、俺に恋のキューピット的なポジションは似合わない」
「似合う似合わないの話しじゃないんだけど」
「それは冗談。実際ね、そんな状況を故意的に作り出したら、たぶん蛍は気付くと思うんだよなぁ、あいつ勘鋭いから」
京子はその意図していることに意味が分からず首をかしげた。
「別に気付いてもらってもいいんだけど、むしろ気付いてもらった方がいいんだけど、その方がくっ付く可能性あるわけだし」
「問題はそこだよね」
どこよ、の問いに太陽は続ける。
「なんていうか、その恋愛に事関して、あいつ草食系というか、自然の流れに任せる節があるというか、他人に興味が薄いというか、人見知りというか、誰かに仕組まれたことを嫌がるというか」
「なに、火村って警戒心強い感じなの」
近からず遠からずの京子の意見に渋い声を太陽は上げると、意を決する。
「女子が苦手」
一瞬ため息が漏れる。
「いや、呆れてるけど、これマジで内緒ね! バレたらマジで蛍と絶縁しかねない!」
「でも杉原と火村っていわゆる幼馴染だよね」
「だからこそでしょ。仮にあいつに恋人ができたら、まずその話は俺にはしないと思う。というか家族全員に」
「じゃあ、どうすれば一番いいわけ?」
「全く分からない。蛍以外だったら少しは協力できるけど、あの強固な壁は俺では無理だな。一応誘われたって話は皆にはするけど期待はしないで。というか諦めて」
「ちょっとは頑張ってよっ!」
「なら、逆に質問、なぜそこまで桃花の為に?」
太陽は乾いた笑みを浮かべながら尋ねた。
「…………」
京子の言葉が詰まる。
京子と桃花は太陽と蛍と違って幼馴染というわけではない。それでも相手の事を想ってそれだけの事をしようと考えるのは、おそらく親友だからといったところだろう。その上で、相手の事を知っている。
おそらく、太陽が抱えている問題と同じような問題を京子も抱えていた。だからこそ、京子は遠回りの手段をとったのだ。
丁度その頃、廊下の向こう側から担任が歩いてくるのが見えた。
「お互い大変だな」
最後に一言だけ添えて太陽は教室の中に入ると、続いて京子も入ってきた。
離れ際、
「手伝ってよね」
『だからそれは無理』を表情に現すとこんな感じだろう、と太陽を見たクラスメイトが最後に教室に入った担任に伝えた。
「せんせーい、太陽の顔がおかしいでーす」
「なら安心だ」
「こら、どういう意味だ!」
教室内が笑いに包まれた。
「それじゃあ、始めるぞ。明日から夏休みだ」
太陽が着席すると早々、
「悪巧みか?」
ほらやっぱりな、と思う太陽は疑われないように正直かつ、面倒にならないよう呼ばれた理由を説明した。
そして前期の授業を締めくくるHRが開始される。