Last File 一号室、一番ベッドの少年と空
退院。
僕はこの言葉を信じつつどこかでそれを疑っていた。
『難病で入院する』という非現実的な事が日常となった、あの頃はこれまでの『当たり前の日々』が非日常となってしまっていた。
だが、そんな中でも僕は『絶対に生きて家に帰る』と強く信じた。そうでもしないと気が狂ってしまいそうだった。
これは、そんな狂った歯車が元に戻り始めた時の話である。
†
2012年 6月4日 朝7時頃
朝の目覚めは何時もの様にヘビーで、気だるかった。貧血でクラクラもしたし、箸やペンを握ったら親指の付け根が攣った。
アイソレーターから解放された僕に堀川先生は、検査のたびに『本当に良い兆候だ。退院も近いです』と言っていたけれど、自分自身それが本当か疑わしかった。
だって自覚症状が改善されてないんだもん。
そんなのは最低の最低が少し底上げされた程度の話で、実際はまだ『完治』まではほど遠かった。
「はぁ……」
この時期は本当にため息ばかりついていたのを覚えている。『良くなっている』と言われているが、自分自身にその実感が無い……そんなギャップが大きな理由だった。
実感無き『良い兆候』と共に、ベッドの上で僕の時間は過ぎていった。
意外にもこの時は我ながら結構不安になった。
『また悪化したらどうなるんだろう?ATGは一度しか効かない治療方法だから、次は移植になるのかな?』
そんな一抹の不安が脳裏に過ったりもしたが、一番の不安は退院した先の事だった。
「受験……どうしよう?」
退院したら、予備校に通い一日10時間近い勉強漬けの毎日が待っている……ぶっちゃけ、病気よりこっちの方が怖い。いや、割と本当に。
そんな不安やら何やらを抱えて、ベッドでゴロゴロしていた時に来訪者が来た。
来たのは、この日の日中看護担当の井上さんだった――いつもよりテンションが高そうな。
この日の井上さんは、体中から幸せそうなオーラがにじみ出ていた。
「おはよう、マーベリックくん。体温、計りに来たよ」
「ども、何か良い事でもあったんですか?」
「うん、当ててみて」
顔をニマニマさせながら井上さんは問う。
「えっと……宝くじでも当たったんですか?」
「あれは外れた」
……買ったのかよ。
「彼氏でも出来たんですか?」
「……いません」
「Oh……じゃあ何です?」
「ふふ……それはね――――まだ教えられません」
「……はい?」
微妙な間。この間に僕は、井上さんがいつもみたいに他愛の無い事をもったいぶって言うのかと思った。井上さんの性格的にそうに違いない……そう思っていた。
だが……この井上さんが言う『良い事』が後に僕に衝撃を与えるとは、当時の僕は知るよしも無かった。
†
輸血の際に使った、抗アレルギー剤のせいで僕は昼近くまで二度寝してしまった。
思い返してみれば、入院生活は睡眠に不自由のない最初で最後の時間だった。食っちゃ寝でも誰にも怒られない至高の日々……怠け者のマーベリックにとっては意外とね……
そんな事はさて置き、二度寝した僕を起したのはノックの音……多分、採決の結果を持った先生だろう。眠気を、目をこじ開けて殺した僕は上体を無理やり起こした。
「おはようございます、マーベリックくん。調子はどうですか?」
「上々です。それは検査の結果ですか?」
「そうですね」
「結果は?」
このやり取りはほぼテンプレとなっていた。
「上々です。血算(白血球・赤血球・血小板)の数も順調に増えてますしね……あ、それとそうだ、マーベリックくん」
「はい」
堀川先生は何かをふと思い出したようだ……新しい検査の知らせか何かかな?
「現在、マーベリックくんの血算は順調に伸びています。その結果、そろそろ退院しても大丈夫かなと……」
「はぁ……退院ですか……って退院!?」
寝ぼけていたせいか、先生が何を言ったのかを理解するのに一瞬ながら時間がかかった。いや、というより突然すぎた事に脳が対応できなかったのだろう。我ながら素っ頓狂な声を上げてしまった。
「このペースだったら今週末にはいけそうです」
「今週末ですか」
「そうですね。早ければ3日後でも」
「はぁ……解りました、両親に伝えておきます」
マジかよ……いきなりすぎないか?いや、『いきなり』にはもう慣れた……いきなり変な病気になって、いきなり入院したんだ。そんじょそこらの『いきなり』にはもう驚かないぞ。
「本当に良かった。一時はどうなるかと思いましたが、これも全てはマーベリックくんが頑張ったからです」
「いえいえ、先生の治療のお蔭ですよ。自分はただベッドに横になってただけですから」
「ありがとうございます。では、私はここで」
「はい」
先生は検査結果を置いて、職務に戻ってしまった。そして入れ違うように昼食を持った井上さんが来てくれた。
「お昼持ってきたよ~」
「井上さん……まさか、良い事ってアレだったんですか?」
「んん~?何のことかな?」
一番ベッドに来た姿を現した井上さんは露骨にとぼけた。
「自分の退院の件だったんですか?」
「うん。そうだよ」
井上さんの答えに僕は疑問符を浮かばせた。
『どうして他人の事なのに、あんな風に嬉しそうにできるのだろうか?』
だが……
「いやぁ……本当に良かった。患者さんが無事に退院出来る事は私にとっても嬉しい事なんだよね」
井上さんは、昼食の乗ったトレーを置きながらそう呟いた。
この言葉を聞いたら涙がこぼれそうになって来た。理由は今でも解らない……でも、何故だか泣けてきた。
「じゃあ、仕事に戻るね」
色々な感情がごった煮になって、僕は思わず頭を下げた。
「ありがとう……ございます」
そう言って、井上さんに涙を見せないように僕は毛布に潜った。
そして毛布の中で泣いた。泣いて、泣きまくった。
2カ月……2カ月という期間をここで過ごした。その二カ月という期間はこの病院を僕の家にしてしまった。志茂さんをはじめとする同室の人達やさきちゃん、そして井上さんをはじめとする看護師さんや先生がいる……
毛布の中で、この一号室の一番ベッドで起こった事を反芻した。
何度も死にかけて、何度も孤独に打ちひしがれ、忘れたくなる思い出もあった。でもそんな事よりも僕の脳裏に蘇ったのはみんなの笑顔だった。
僕を励まそうとしてくれた家族や友人の笑顔。自分と同じような境遇でも笑い続けた、病棟の患者さんの笑顔……そんな暖かい記憶が蘇ったのだ。
そう……思い出を作り過ぎたのだ。ここから離れるには重すぎる程の。
「……ここから離れたくない」
『生きて帰る』
そう思って毎日を生きてきたが、いざ離れるとなるとその思いも揺らいだ。
たしかにここは何かと不便だ。食事の味は薄いし、2日に一回しか入れない。でも、みんながいる。
『生きて帰る』と『離れたくない』という相克する感情と共に僕はベッドの中でただ泣き続けた。
†
6月8日 午前11時頃
ジッパーの音が一号室の一番ベッドの空気を震わした。生活感のあった一番ベッドは、完全にその住人が来た時と同じようになってしまった。
6月8日……僕の退院の日だ。
鞄に生活用具一式を敷き詰めた僕は部屋を一瞥した。
「これで最後か……」
僕はしばらくベッドを見つめた。僕の世界の全てでもあった一番ベッド……それに別れを告げる時が来たのだ。
狭い世界から広い世界に解放される。そう思う事も出来るが、やはり寂しいものがあった。
でも……
「もう来ねぇよーだ」
もう来ない。退院までの数日間で僕は決心した。もうここにお世話にならにはならないと。またここに来るようなことがあったら、家族も心配するし、友達とかにも心配がかかる。良い思い出も作れたけど、ここはいて良いような場所じゃない。そう思った。
そして踵を返し、カーテンを開けて一歩踏み出した。
あとはナースステーションで薬を受け取って、家路につくだけ。
白一色に円柱状の迷子設計された病棟の廊下を歩く。もう何度も歩いているせいか、目を瞑っても歩ける気がする。
「あの、マーベリックですけど、薬を受け取りに来ました」
「はーい」
薬袋を持って井上さんが来てくれた。
「はい。一週間分ね」
「ありがとうございます」
「もう退院か……この病棟の重鎮が一人また去るのか」
「してくれた方が嬉しいって言いませんでしたか?」
「そうだけどさぁ……やっぱ寂しいじゃん」
「ですね、じゃ」
「あ、玄関まで送ってくよ」
そう言って踵を返そうとしたが井上さんは制止した。
「良いですよ……お仕事もあると思いますし」
「気にしないで、退院する時に見送るのは決まりなの」
決まりと言って井上さんはナースステーションから出てきて、僕と一緒にエレベーターに乗り、一階――メインエントランスへ向かう。
「ねぇマーベリックくん」
ふと出入り口の自動ドアにさしかかる通路で井上さんはふと僕に声をかけた。
「何です?」
「どうだった、入院生活?」
「え……どうだったって?」
この問いは今でも忘れられない……普通なら「退院出来て良かった」とか祝いの言葉を述べる場面だ。でも、井上さんはあえて僕に問うた。
答えは色々とあり過ぎて、まとめられない。
でも、悪い物じゃなかった。
だから……
「辛い事もあったけど、悪くは無かったです。井上さんたちのおかげで、楽しい時間も送れましたし」
「そう――なら良かった。看護師冥利に尽きるよ。過ごすなら楽しい時間の方が良いもんね」
「おかげさまで」
「それじゃあ……私はここで、お大事にね」
「はい……本当にお世話になりました」
井上さんは微笑んでいた。僕も笑っていた。僕と井上さんほど湿っぽい別れが似合わない人種などいない。
僕は深々と一礼。そして、井上さんは僕に敬礼しながらこう返した。
「風の導きがあらん事を。しょねそらの続き待ってるからね!!」
「あ、ありがとうございます」
貧血で土気色だった顔が真っ赤になりそうなくらい恥ずかしかった……。でも、一応敬礼を返した。
そして、僕は井上さんに見送られながら自動ドアを通り抜けた。
マスク越しに吸い込む外の空気と青い空が体中に染み渡るのを感じた。病院前の万朶の桜は散り、青い葉が生い茂っていた。
今でもあの光景は忘れられない。ちょっと曇りかかっていた青空が本当に広く見えた。
時々脱走して見た空よりも格段と広く見えた。
何故だろう?今なら解る……自由になれからだ。後ろめたさも無く外を出歩けるようになったからだ。
そして、僕は家路につく。
「おかえりなさい」
家の玄関で家族のこの一言を聞いて、僕の2カ月近くに及ぶ入院生活は終了した。




