喰らう図書
ちょうどこの季節だった。木々は青々とした葉を枝いっぱいに茂らせ、足元の草花はそよそよと風に揺れているような頃だ。生き物たちがその逞しい生命力を口々に訴えかけているような、美しい季節だ。
巾森ヶ丘中央図書館に向かいながら、ユウイチはその日を追懐していた。小学校四年生の頃、同級生の友達が行方不明になった。名前は落澄アユミ。ユウイチの幼なじみだった彼女は真面目で勤勉な性格だった。2人はよく一緒に近くの図書館に出かけていった。それが、この巾森ヶ丘中央図書館である。
街の中心部から少し離れた静かな場所に建っているこの図書館は、広い緑地公園に囲まれている。車や電車の騒音に邪魔される事もなく、中庭に出れば様々な野鳥のさえずりが聞こえる。まさに最高の読書環境だと思う。
週末になると、ユウイチとアユミはここで上限ギリギリ8冊の図書を借り、翌週末にはそれらを返してまた新たに図書を借りた。だから、2人は児童書コーナーの本をある時までに全て読み切ってしまっていた。
来週からは大人の本も読んでみようか。最後の児童書を借りて帰った日、アユミはそう言って楽しそうに笑っていた。大人の本というのは、単に児童書コーナー以外の図書を指している。つまり、膨大な文庫本やハードカバーの分厚い小説の事だ。同級生の間ではそんな渋い本を読んでいる者はいないし、そういう本を読むという行為自体が大人っぽいもののように感じていた。2人とも新しい領域へと踏み出すという期待に胸をときめかせていた。しかし、アユミはその翌日に姿を消した。
いま現在、アユミがいたという事実を知っている人はいない。みんな、彼女が存在した事自体を忘れているのだ。名簿からは名前が消え、彼女のロッカーの中身も空っぽになっていた。彼女の両親でさえ、以前から娘はいなかったかのように生活している。
ユウイチだけ。ユウイチだけがアユミの事を記憶していて、それを引きずっているのだ。彼女は本当に実在したのか?終わりのない問いかけを自らに対して投げかけ続けながら、ユウイチは彼女の笑顔を思い出す。
「こんにちは」
図書館の正面玄関を抜けると、黄色いエプロンをつけた司書さんが挨拶した。ユウイチは愛想よく唇の端を上げて軽く会釈した。ここの図書館は職員の雰囲気もいい。趣向を凝らした掲示物や館内の清潔さからも伝わってくる。
棚を幾つか通り過ぎ、蔵書検索用パソコンを横切ると、ユウイチは現代小説コーナーの前に着いた。あの日、アユミと見上げた棚だ。小難しいタイトルの図書がぎっしりと並んでいる。でもあの頃はもっと大きく見えたっけ。作者名がアイウエオ順に並べられている棚はタ行までもう全部読んでしまったので、ユウイチはナ行のコーナーを探した。
鳴滝左茂二郎という作者の本が目に留まった。茶色い表紙のかなり古そうな本で、タイトルがよく見えない。なんとか目を凝らすと“読書家諸君への挑戦”と読めた。
普通はどの図書にもかかっているはずの透明なブックカバーがかかっていない・・・。
ユウイチはその摩訶不思議なタイトルと姿に惹かれ、その本に手をかけた。その瞬間、ユウイチの顔面に強い風が吹きつけた。びっくりして手を離そうとすると、物凄い力で引っ張られ、そのまま本棚に引きずり込まれてしまった。
目を開けると、ユウイチは薄暗い地下室のような場所にいた。ツヤツヤした床にはたくさんの本がぶちまけられている。天井に灯りはなく、吸い込まれそうな闇が大口を開けているようだった。部屋には幾本もの太い柱が綺麗に 整列していて、その真ん中あたりには洒落たアルコールランプがぶら下がっている。そのゆらゆらとした優しい光が照らす先には、大勢の人影が見えた。
「またやってきたか。今度は学生か?」
人影のうちの誰かが言った。
「そうみたいだな。読書家である事を望むよ」
「たとえそうだとしても、あいつ相手に力になるとは限らないわ」
「それもそうだが・・。まあ彼の実力がどれほどのものか、とりあえず楽しみだよ」
「私、あの人にいろいろ聞いてみるわ!」
聞き覚えのある甲高い声がした。人影の集団から、小さな影が近づいてきた。ランプに照らされ、その顔が闇に浮かび上がった。
「ア、アユミ!」
思わずユウイチは叫んでいた。アユミは驚いて一瞬立ち止まった。
「え!?」
ユウイチはアユミに駆け寄った。水色のTシャツに紺色のスカート・・・あの頃、アユミがよく着ていた服だ。
「僕だよ。恒冨ユウイチだよ!」
胸がいっぱいだった。背丈も髪型もまるっきりアユミだ。やっぱりアユミは実在したのだ。
「ユウちゃん・・あなたが?そんなはずない。ユウちゃんはあたしと同い年だわ」
昔のままのあどけなさが口調から伝わった。懐かしさを感じていると、アユミのすぐ背後にはもうさっきの人影がぞろっと並んでいた。
「アユミちゃん、この人と知り合いなのかい?」
一番手前の男が言った。アユミは首を傾げた。すると、男はユウイチに向き直った。
「ようこそ。・・とは言っても、ここは楽しい場所なんかじゃない」
「それはどういう意味ですか?」
ユウイチは尋ねた。
「牢獄よ。異世界といった方が近いのかもしれないけどね。あたしたちはもうずっと前からここにいるの」
ポニーテールの若い女性が一歩前に出た。
「私は大原だ。ここに来る前は教師でね。ところで君、巾森ヶ丘中央図書館にいたんじゃないか?」
手前の男あらため、大原が言った。
ユウイチは頷いた。
「そこで君、妙な本に触らなかったか?」
ユウイチの脳裏にはすぐにあの本が浮かんだ。
「読書家諸君への挑戦・・ですか?」
大原は頷きながら唸った。周りを取り囲む人々もざわめきだした。
「理由はわからんが、ここに来た連中はみんなあの本に触れている。しかも、その時、本に吸い込まれるような奇妙な体験をしている」
「あっ!僕もしました。何か物凄い力で引っ張られたような・・あれはいったい何だったのでしょうか」
「それが分かったら苦労しないわ」
ポニーテールの女が言った。
「私たちは協力してここを抜け出したいの。一刻もはやく!」
「抜け出すって・・出られないんですか?ここはそもそも何なんですか?」
ユウイチは大原をちらりと見た。
「それは我々にもわからない。ただ、出口が無い事は確かだ。この空間の四方の闇には見えない壁があって、いくら歩いても全然前に進めないんだ」
「そんな馬鹿な・・」
「本当よ」
アユミが言った。大原の影からちょびっと顔を出している。その幼げな眼を見ているうち、ユウイチは彼女の言うことを信じようと思えてきた。
ユウイチは彼女と再び会えた事が素直に嬉しかった。だからこそ、彼女をもとの世界に連れ戻したい、そう思った。
「ここから出る方法は本当に無いんですか?」
「いや、一つだけある」
大原が唸るように言った。
「ついて来なさい」
ユウイチは言われるままに大原について歩いた。やがて、柱の列が終わり、目の前に巨大な祠が現れた。
「ユグラの神の祠だ」
「・・ゆぐら?」
「ああ。詳しくは我々も知らないが、たしか書物の神だと聞いた事がある。奴は数時間おきにこの祠から出てくる。そして、我々一人一人に対してある問題を出すんだ」
「問題・・・って何ですか?」
「書物に関する問題だ。著者名、登場人物名、台詞、地名・・に関する様々な難問を出してくる。我々はそれに答えなければならない」
「答えたらどうなるんですか?」
「この世界から出してやる、と言っていた」
馬鹿馬鹿しくてユウイチは笑いかけたが、大原たちは真剣な顔をしていた。
「まあ、実際に見るまでは信じられないだろう。そろそろ次の時間だ。君も挑戦してみなさい」
そして、大原たちは散っていった。あとには、ユウイチとアユミだけが取り残された。
アユミがユウイチに近寄ってきた。まだ少しビクビクしながらユウイチの顔を伺っている。ユウイチは微笑んだ。
「さっきは驚かしてごめんね」
すると、アユミは静かに首を振った。
「あなた、ユウちゃんなんでしょ?」
「うん」
「不思議ね。私の中ではユウちゃんはもっと背が低いイメージなのに。向こうの世界ではもうそんなに時間が経ってるのね」
アユミはユウイチの身体を上から下まで珍しそうに眺め回した。
「お母さん、心配してるかな・・」
ユウイチは絶句した。みんながアユミの存在を忘れているだなんて、口が裂けても言えない。でも、アユミを連れ帰ったとして、その後はどうなるのだろう。何事も無かったかのように日常が再開されるのか?
「どうしたの?」
ユウイチの暗い表情に気づいたのかアユミが尋ねた。
「いや、なんでもないよ。ちょっと考え事してただけ」
「もしかして、ユグラの神のこと?」
「あ、いや・・」
「ユグラの神の問題には答えられないよ」
「え?」
急にアユミの口調が変わったので、ユウイチはびっくりした。
「ユグラの神は書物の神よ。ありとあらゆる本の内容を記憶してて、その中から問題を出してくるの。例えば、“「銀色の風ロンバルド」の主人公、ロンバルドが持っている剣の色は何色?”という感じ。難しいでしょう?」
ユウイチは少し考えた末、なんとか答えを見つけ出した。「銀色の風ロンバルド」はユウイチが小学生の頃に大ヒットした冒険ファンタジー小説だ。全7巻の構成で展開される緻密なストーリーとロンバルドのやや内気な性格が多くの子供たちの共感を呼んだ。
「確かに難しい問題だね。でも、答えは緑色だ」
アユミは酷く驚いた。
「わかるの!?すごい!ユウちゃん、本大好きだもんね!」
ユウイチは苦笑した。
自分が本当に好きなのは、本ではなくて君だという言葉がつい出掛かったが、ユウイチはそれを封じ込めた。いまこの状況で言ったところで何にもならない。きっと怖がられるだけだ。
ユウイチが本を読み始めたのは、元はといえばアユミがきっかけだった。小学校の休み時間に友達と遊ばずにひとりで黙々と読書をする少女がいた。アユミだった。勇気を出して初めて話しかけた時、学級文庫の本を全読破した事を楽しそうに話してくれたアユミの無邪気な笑顔が印象的だったのを覚えている。彼女ともっと話したくて、彼女の話を共有したくて、ユウイチは本を読み始めた。当時は絵本しか読んだことが無かったので、ページの一面にびっしりと文字が印刷されている本を読むのは重労働だった。でも、それに耐えてなんとか読了した時のあの衝撃と快感は今でも忘れられない。すぐにアユミの家に電話してお互いに感想を言い合ったのを覚えている。本を読む事は楽しいという事をユウイチに教えてくれたのは、紛れもなくアユミなのだ。
「うん。今では子供の本だけじゃなくて大人の本も読んでるよ。数え切れないくらいたくさん・・・」
だが、多くの本を読むほどアユミへの想いはいっそう強く激しいものに変わっていった。面白い本を読む度に、気になるフレーズと出会う度に、それをアユミに教えてやりたいと考えてしまう。もしかしたら、自分は本を読むことでアユミという女の子の存在をずっと忘れずに済んだのかもしれない。
「ユウちゃんなら、もしかしたら勝てるかもしれないね」
「えっ?」
「ユグラの神の問題に全部1人で答えられちゃうかも」
アユミはあの頃と変わらぬ屈託のない笑顔を見せた。
その時、背後で石材の擦れるような奇妙な音がした。直感的に、ユウイチはユグラの祠を見やった。
祠を構成する石段がひとりでにガラガラと崩れ落ちている。何が起こったのか理解できないでいると、大原たちが戻ってきた。
「いよいよユグラの神のお出ましだ」
大原が言った。他の人たちを見ると、誰もが険しい表情を浮かべている。
祠が崩れる音が止んだ。再び祠の方を見ると、崩れた瓦礫の煙がもくもくと立ちこめていた。そして、その先に得体の知れない巨大な影が浮遊しているのが確認できた。それはトビウオのようであり、また蝶のようにも見えた。 ユウイチは身体を強ばらせた。
すると、煙が一瞬のうちにさっとかき消えた。そして、ついに神がその姿を現した。
それはおよそ人間の親指のような奇妙な形をしていた。ぶくぶくと太く長い体には無数の血管のようなものが絡みついていて不気味だ。金色に輝く鹿の角が生えた頭部には真っ赤な能面がついており、こちらを嘲笑するかのような不敵な笑みを浮かべている。
「おい、早く始めろ!」
大原が叫んだ。すると、能面の口元がにーっと歪み、ユグラの神は幼児のような甲高い声でけらけらと笑った。
<カランドラの本当の名前を答えよ>
第一問だ!周りの大人たちは誰もが黙っている。そもそも何の本の事を言っているかも判然としないじゃないか!こんなにマニアックで不親切な問題、誰にだって解けやしない。おそらく自分以外には誰にも。
カランドラは「向かい風の使者」に登場する流浪の民の長の名前である。たしか、物語の後半で彼が幼少期を産業都市ボノウェルにて過ごした事が明らかになる。そして、おそらく彼はこんな名前だった。
「エメラ・マスカーリ!」
ユウイチは答えを叫ぶなり、ユグラの神の赤い能面を睨みつけた。
ユグラの神は不気味な笑みを失わない。その代わりに、無数に絡まっている触手のひとつが何かを落とした。それはキラキラと輝きながら、乾いた音と共にユウイチの足下に落ちた。拾ってみると、それは金色の鍵だった。
「これは・・大原さん!」
大原は狐につままれたような顔をしていた。その時、思いついたようにアユミが言った。
「もしかして、これ出口の鍵じゃない!?」
「えっ!」
ユウイチは驚いた。すぐに大原が鍵を持って走り去る。少しして、
「これは驚いた!空間の隅の壁に鍵をかざすとドアが現れるぞ!ここから出られるみたいだ!」
「本当に!?すごいじゃない、ユウちゃん!」
アユミは興奮してぴょんぴょん飛び跳ねた。他の人々からも歓声が上がる。
「やるじゃんか、少年!」
「よくあんな問題分かったな!」
ユウイチは照れくさかった。生まれてこのかた、読書という趣味に助けられた事は一度も無かったのだ。
これなら、アユミと一緒に帰る事が出来るかもしれない。ユウイチは胸が熱くなるのを感じた。
「誰が行くの?」
ポニーテールの女性が言った言葉に、一同は静まり返った。
「私は残ろうと思う。多少なりとも文学の知識は持ち合わせているから、最後まで何らかの形で戦力になれるかもしれない」
大原はそう言ったが、ユウイチはそれが自分に対して暗に圧力をかけている言葉であると気づいていた。だからこそ、同意するしか無かった。
すると、さっきの女性が提案した。
「アユミちゃんは?」
「あたし?」
「そうよ。アユミちゃんはこの中で一番年が低いし。なにより、未成年のあなたを早くご両親のもとに帰してあげたいっていうのがみんなの意見だと思うわ」
本音を言えば、ユウイチもアユミを一番先に帰したかった。第一問は難なく正解出来たが、この後の問題も正解出来るという保証はない。
「彼女の言うとおりだ。ひとまず我々は残ろうじゃないか」
大原が言った。
人々からは口々に女性に賛同する声があがった。その時、
「あたし、行かない!」
アユミはだだをこねるようにそう言い張った。口を真一文字にキュッと結び、つぶらな瞳はつり上がっている。ユウイチは思い出した。こんな時のアユミは大抵人の言うことを聞かない。
「どうして?1人で行くのが怖いの?」
ポニーテールの女性が尋ねたが、アユミは首を振った。
「みんな、絵本とか子供向けの本の問題に答えられる?」
「それは・・」
女性の顔が暗くなった。
「あたしにしか答えられない問題だってあるわ!あたしだって力になりたい。子どもだからって馬鹿にしないでよ!」
ユウイチは思わず笑みがこぼれた。負けん気の強いアユミらしい意見だ。ユウイチは彼女を支持する事にした。
「彼女の言うとおりかもしれませんよ。いくら僕でも子どもの頃に読んだ本までは覚えていませんし。僕は最後まで残りますし、彼女にもある程度まで残ってもらった方が賢明ではないでしょうか」
それに、アユミの読書量をなめてもらっては困る。小学校時代、学校で催されたアニマシオンではいつも大活躍だった。児童書に関する知識で彼女の右に出る者はいないだろうという確信がユウイチにはあった。
「うん、そうするわ。あたしは残る」
アユミはユウイチに向かってニッコリ笑った。
何があってもアユミは必ず自分が元の世界に帰す。ユウイチは心に誓った。
結局、最初にドアを開けるのはポニーテールの女性となった。彼女はみんなに感謝を言い、大原から鍵を受け取った。
「みなさんもどうか早く戻れますように」
最後に深々と頭を下げると、女性は闇に消えていった。
「さあ、問題を続けろ!」
大原が声を張り上げた。
ユグラの神はクスクスと気味の悪い笑い声を発し、
<悪魔の詩レディウムの新しい伝承者は?>
「う・・!?」
大原はまたもや険しい表情になった。
「大丈夫です。僕に任せて下さい」
これは歴史超大作、「帝國の鐘楼」に関する問題だ。
ユウイチは高らかに答えを宣言した。
どれくらいの時間が経過しただろうか。祠の前に残っている人間もあと3人となっていた。
「答えは12番街だ!」
ユウイチは言った。
すると、頭上から金色の鍵が落ちてきた。それを拾い上げ、アユミに差し出す。
「えっ?」
アユミは戸惑った。
「次は君の番だよ」
「でも・・大原さんもまだいるわ」
すると、大原はアユミに向かって優しく微笑んだ。
「いいや、君が先に行きなさい。私は最後に行く」
これにはユウイチが驚いた。
「何故です?僕が最後まで残りますよ!」
すると、大原は重々しく言った。
「しかし・・私は一人の大人として君たちを守る義務がある」
「何を言ってるんですか!僕は大丈夫ですよ。そりゃあ、絶対って保証はありませんが・・。少なくとも、可能性の高さで言えば・・」
言いかけて、ユウイチは言葉を切った。しかし、大原には彼が何を言おうとしたのか分かっていたようだ。大原は頭を掻いた。
「情けない話だ・・・。自分では読書家のつもりだったがユグラの神にはまったく歯が立たなかった」
「いえ・・その」
ユウイチが弁解しようとすると、大原は穏やかに笑った。
「いいんだ。私が戦力にならん事は自分でもよくわかっている。君たちの前で少しでも見栄を張っていたかったのかもしれんな。さて、とりあえず今は目の前の件から解決しよう。アユミちゃん、先に行きなさい」
しかし、アユミはなかなか聞き入れなかった。最後までユグラの神の問題に答えられなかったのが不満なのだろうか。
しかし、今はそんな事で躊躇している場合ではない。鍵は勝ち取ってあるのだから、帰れる時にすぐ帰ってしまった方が良い。
ユウイチは彼女を説得した。最初は不満そうだった彼女も、順序だてて真剣に説明するとなんとか理解してくれた。
「ユウちゃん、絶対に帰って来てね・・・」
不安そうな気持ちを含んでいるアユミの口調に対して、ユウイチは努めて笑顔で返した。
「そんなに心配しなくていいよ、絶対に大丈夫さ」
「でも、絵本の問題が出るかもしれないじゃない!そしたら、いくらユウちゃんでも答えられないかも・・」
「何でそんなに弱気になるのさ。君は僕が今の今までユグラの神の問題に答えている所を隣で見ていたんじゃないのかい?あんな問題、僕には何てことないんだよ。必ず後から追いかける。きっと一緒に帰ろう」
最後に優しく念をおすと、アユミは頷いた。そして、アユミは闇に向かって歩き出した。何度も何度もこちらを振り返りながら。
「さあ、次は大原さん、あなたが帰る番ですよ」
アユミの姿が見えなくなった所でユウイチは言った。
「それは心強いな。君のような青年に出会えた事を嬉しく思うよ」
そして、ユウイチはまたもユグラの神の難問に正解を出した。
大原は若干目を潤ませながら礼を言った。ユウイチは彼と固く握手を交わし、必ず自分も戻ると約束した。
大原は見送った後、ユウイチは深く息を吸い込んだ。
これで最後だ。悲願だったアユミはもう既に取り戻した。これ以上の喜びがどこにあるだろう。残るは、自分だけだ。みんなに誓った通り、必ず元の世界に帰るんだ。ユウイチは心を奮い立たせた。
「ユグラの神、これで全て終わりにしてやる!僕に最後の問題を出せ!!」
ユグラの神は口元を歪ませた。だが、ユウイチはもう僅かな恐怖心さえ抱かなかった。彼の脳裏には勝利のビジョンしか浮かんでいなかった。
<もしもし広場で最後に縄跳びを跳んだのは誰?>
一瞬、頭が真っ白になった。答え?いや、それ以前に問題の意味が分からない。何の本の事を言っているのかさっぱり理解出来なかった。
まずい・・。ユウイチは狼狽した。頭にどんどん血が上ってくる。額の辺りが熱を帯びてぼんやりとしてくる。
分からない!全然分からない!
ユグラの神が遥か高みからこちらを見下ろしているように感じた。
考えろ!考えろ!どこかにヒントは隠されているはずだ。自分はこれまでに数え切れないほどたくさんの本を読み、なおかつその内容も細かく記憶してきた!こんな所で敗北するはずが無い!
しかし、焦れば焦るほどユウイチの頭は麻痺してきた。
こめかみを冷や汗がつーっと流れる。ユウイチは頭をめちゃくちゃにかきむしった。
結局、ユウイチはその問題に答える事が出来なかった。
ユウイチはがっくりと膝を折って崩れ落ちた。誤算だった。まさかアユミの言った事が現実になるなんて・・。ユグラの神は自分の僅かな知識の穴を狙ってきた。考えたって仕方ない。後悔したってもう取り返しはつかないのだ。ユウイチは諦めて今後の策を練ろうとした。
たしか大原たちは、ユグラの神は数時間ごとに出現するとか言っていた。だとすれば、ユウイチにもまだ希望はある。時間はかかるかもしれないが、粘ればいつかは正解を出せるだろう。
「まだ大丈夫、きっと大丈夫・・・!」
ユウイチは自分に言い聞かせた。今は一旦落ち着こう。まだ悲観する必要は無い。
しかし、それは大きな間違いだった。
<ピッチとパッチの宝物は?>
<最後にりっちゃんが握り締めていた物は?>
<えんぴつ姫の好物は?>
<苺のショートケーキの上で遊んだのは誰?>
<いたずらっ子の妖怪の住処は?>
<赤い巻き毛の船長の友達は誰?>
ユウイチは絶望せざるを得なかった。もしかしたら、ユグラの神は自分の弱点に気づいているのではないか?恐ろしい仮説が浮かび上がり、ユウイチは戦慄した。
まさか・・そんな事、あり得ない!ユグラの神が自分の弱点を狙って来ているとしたら、勝ち目なんて無い!しかし、次の問題もそのまた次の問題も同様にユウイチは答えられなかった。
「こんなの、嘘だ・・・・!」
ユウイチにはもはやほんの一握りの希望すら無かった。頭上のユグラの神を見上げる気力すら起きない。これじゃあ前と少しも変わらないじゃないか。
神が自分をせせら笑う声が聞こえる。アユミの笑顔が急に遠のいていく気がした・・・。
その時だった!
「終わりよ、ユグラの神!」
背後で声がした。
ほとんど無意識に身体が動いた。振り返ると、闇の中にさっき帰ったはずの少女が仁王立ちしていた。腰に手を当てて、真っすぐにユグラの神を見据えている。
「アユミ!ど、どうしてここに・・!?」
アユミはユウイチの方を一瞬見て微笑んだ。そして、勝ち誇ったような表情で叫んだ。
「伝書鳩のプリーゼムット!」
その瞬間、ユグラの神の笑いが止まった。見上げると、能面からは笑みが消えている。凍りついたような表情だ。蛇のような胴体が苦しそうにビクンビクンとのた打ち回った。
そして、能面の端にヒビが入ったかと思うと、それは瞬く間に全体へと広がっていった。
「ど、どうなってるんだ・・・!」
ついにユグラの神の能面が剥がれ落ちた。露出した顔面には苦悶する干からびた胎児のような顔があった。それはどろりとした涎を垂らしながら、弱々しく口をパクパクと動かして何かを言っているようだった。
「読書ニ・・・果テハ・・ナシ・・・・」
その声は掠れていて殆ど聞き取れなかったが、ユウイチにはだいたいそんな意味に聞こえた。
「ユウちゃん!」
アユミが駆け寄ってきたので、ユウイチは我に返った。
「どうして・・?先に帰ったんじゃなかったのかい?」
ユウイチが尋ねると、アユミはにっこり笑って静かに首を振った。
「どうしてもユウちゃんが心配だったの。だから、少ししてから引き返したの。そしたらやっぱり・・・」
自然とユウイチの両目には涙が溢れていた。
感情を抑えきれず、ユウイチはアユミを抱きしめた。何年もの間心の奥に押し込めてきたアユミへの想いが一気に溢れ出した。
「ユウちゃん・・」
ユウイチは自分でも驚くほど泣いた。今、自分の腕にアユミを抱く事が出来るという喜びを噛みしめた。
ずっとずっと、アユミとまた会って話がしたいと思っていた。2人きりで。
「アユミ、僕は君の事が好きだ」
叶うはずが無いと思っていた。あの時、素直に想いを伝えられなかった事を何度となく悔やんだ。その辛さのあまり、いっそのこと忘れてしまえればと思った事もあった。でも・・・。
「君がいなくなってから、ずっと君の事ばかり考えてた」
どうしたって忘れられなかった。忘れられるはずが無かった。
「あたしも・・ユウちゃんが助けに来てくれたらなっていつも思ってた。他の誰かじゃなくて、ユウちゃんに来て欲しかったの」
アユミの細くて幼い腕がユウイチの背中を優しく抱いた。衣服を隔ててお互いの鼓動も体温も伝わる。今、アユミはちゃんと目の前にいる。
「帰ろうか、一緒に」
「うん」
ユウイチは巾森ヶ丘図書館に向かって歩いていた。あの世界から抜け出してから一週間が経っていた。ユウイチはもうすっかり元の生活に戻っていた。
だが、アユミとはあれ以来会っていない。
ユグラの神の祠からもとの世界に戻って来た時、隣にアユミはいなかった。ドアをくぐる時もずっと手をつないでいたはずだったが、図書館中を探しても彼女の姿はどこにも無かった。
あの不思議な出来事は全て夢だったのだろうか、とも思った。本当はアユミはもうこの世にいなくて、自分は夢でも見ていたのではないか、と。そもそもユグラの神なんてものが実在した証拠なんて何処にも無いのだ。あるのはユウイチの頼りない記憶だけ。
ユウイチは手を広げてみた。まだアユミの手の感触が残っている。あれは夢なんかじゃない。全部覚えている。でも、どうして・・?
そうこうしている内に、図書館の正面玄関に着いた。休日の午後であるせいか、館内はたくさんの人々で賑わっている。勉強中の学生や親子連れも多い。いつものように入り口で司書さんに挨拶すると、ユウイチは例の棚を探した。
ナ行の棚にはあの本が以前と全く同じ場所に並んでいた。相変わらずその古ぼけた背表紙は他の本と全く印象が違う。知らない人が気になってつい手を触れたくなるのも無理はない。そうしたら自分のような被害者がまた生まれるかもしれない。
この本の中にユウイチも居たのだ。彼だけでなく、もっとたくさんの人々が閉じ込められていた。そんな馬鹿なことが、と思う。でも、今でもユグラの神の事を思い返すだけで震えが止まらない。
この本は一体何なんだろう。いつどんな人物によって書かれて、誰が何のためにここへ置いたんだろう。
・・・アユミはどこに行ったんだろう。彼女は戻って来れたのだろうか。これじゃあ何もかも分からず終いだ。
「・・・・」
ユウイチは何かに惹かれるようにあの本に手を伸ばした。何の根拠も無いが、この本に触れれば全てハッキリするのではないかと思った。
その時、
「ダメだよ、ユウちゃん」
横から誰かに腕を掴まれた。
びっくりして腕を引っ込めると、すぐ傍らに誰かが立っていた。
まるで周囲の時間が凍りついたかのような不可解な感覚を覚えた。心臓がどくんと鼓動する。
ユウイチは振り向いた。それから、ゆっくりと彼の顔がほころんだ。