【1】姉だなんて認めない
「……テオさんの〈指定忘却〉で、ロゼさんから、僕の兄シャルルの記憶を消してほしいんです」
そう言って、ノアは唇を引き結び俯いた。テオの反応を見たくないと言わんばかりの態度には、後ろめたさが透けて見える。
天気の良い春の日の昼下がり、テオ達のいる厨房には夕食の仕込み用の食材や鍋が並んでいる。中には下拵え途中らしき野菜が、ザルの上に残っていた。きっと、ノアはここで夕食の仕込みをしている最中だったのだ。それを中断してテオをこの厨房に連れ込んだ。いつも真面目でしっかり者のノアが。
「ノア君、それは、どうして……」
「ロゼさんが戦うところ、もう見ましたよね?」
「……あぁ」
その怪力で戦斧を振るい、けたたましく笑いながら暴れるロゼの姿は、そうそう忘れられるものではない。
正気を失くして淀んだ目は、その場にいない誰かを見ていた。
『だって、頭がブッ壊れてないと……シャルルの声が、聞こえない……』
歩く呪いの力を振るうことで生じる精神汚染。その幻覚で、亡き恋人の幻覚を見るためだけに、ロゼは率先して戦場に飛び込み、そしてボロボロになってしまったという。
「僕の兄シャルルは灰色騎士で……二年前、死にました。呪いが進行して……呪魔化したんです」
テオはかける言葉を失った。歩く呪いは呪いの進行が奇跡的に止まった存在だ。だが、その奇跡がいつまで続くかは分からない。進行が再開して呪印が全身に広がったら、そのまま呪魔化してしまう。
頭では理解したつもりだったが、現実として突きつけられると足が竦む。
「ロゼさんは、死んだ兄の幻覚を見るためだけに暴走してる。このままだと良くないのは、分かるでしょう?」
「それは、そうかもだけど……」
「だから、兄のことを忘れさせてほしいんです」
ノアの声は切実で、彼なりの必死さを感じた。
テオだって、ロゼの今の状況が良いとは思わない。だが、仲間に〈指定忘却〉を使うことには抵抗がある。
大事な人を強制的に忘れさせることは、思い出の略奪だ。
「ノア君。僕は忘れられることの辛さを知っている。だから……無闇にこの力を使いたくない」
どうか考え直してはくれまいか、と祈りを込めてノアを見る。
ノアは眉間と唇の下に皺を寄せ、込み上げてくる激情を抑えるような険しい顔をしていた。
「兄はもう死んだんです。死者は忘れられることを悲しんだりしません」
「ノア君は、悲しくないのか!? お兄さんのこと、忘れられてしまうんだぞ!」
「それで、ロゼさんが死んだら元も子もないじゃないですか。生きている人間のことを優先するのは当然でしょう?」
ノアの言うことは、いかにも正論のように聞こえる。ただ、彼が焦っているように感じるのは気のせいだろうか?
その時、テオは気づいてしまった。
ノアの亡き兄シャルルとロゼは恋人同士だったということは、つまり……。
「そうか、ノア君。君は……」
テオの呟きに、ノアが頬を引きつらせる。
やはりか、とテオは全てを悟った顔で言った。
「シャルルさんの弟として、義理の姉になるはずだったロゼさんを気遣って……」
「……は?」
「君がお姉さん思いの弟なのは分かったよ。でも、まずはロゼさんが、お兄さんの死と向き合わないといけないと思うんだ」
シャルルとロゼが結婚したら、ノアにとってロゼは義理の姉だ。ノアは義弟として、ロゼの身を案じているのだろう。テオも弟だから、気持ちは分かる。
それでもやはり、一方的に記憶を消すことには反対だ。ロゼが幻覚に逃げているなら、目を覚まさせないといけない。
それができるのはきっと、弟であるノアだけなのだ。
「だから、弟の君がロゼさんを励まして……」
「僕は、あの人が姉だなんて認めない!」
テオの言葉を遮るように、ノアが叫ぶ。
その時、外に繋がる勝手口の方で微かに音がした。少しだけ開いた扉の隙間からは、ピンクがかった髪がのぞいている。
「ロゼさん……」
テオが呟くのと、ノアが廊下の方に飛び出すのはほぼ同時だった。
ノアのバタバタという足音が厨房から遠ざかっていく。
テオは遠慮がちに扉を開けて、ロゼに訊ねた。
「……どこまで聞こえてました?」
「姉だなんて認めない、って……ノアが叫んでたとこ」
つまり最後の部分だけだ。ロゼの記憶を云々のあたりは聞かれていないらしい。それを良しとするか否か、テオは悩んだ。
義弟が兄のことを忘れさせようと画策していたと知ったら、ロゼとノアの仲がますます拗れる気がする。
ロゼは力無くフラフラと歩いて、厨房にある丸椅子にペタンと座った。
呪魔相手に戦っている時は猛獣じみてすらいたのに、今は萎れた植物みたいだ。
ピンクがかった綺麗な色なのに、艶がなくパサパサした髪。痩せた体。枯れかけのピンクの花を思わせる。
「ノアは、アタシみたいのが姉なんて、嫌だよな……そうだよな」
テオはかける言葉に悩んだ。そんなことないですよ、と言うには、ノアの叫びがあまりに悲痛だったからだ。
姉だなんて認めない、と叫ぶノアの顔を思い出し、テオは黙り込む。
ロゼはボサボサの髪の隙間からテオを見て、ポツリ、ポツリと呟いた。
「アタシらは、元々中央東地方の田舎で暮らしてたんだ」
「アタシら、というと……ロゼさんと、シャルルさんと、ノア君ですか?」
「……それと、ゴミクソも」
個性的な名前の人だなぁ、と思いながらテオは「はぁ」と相槌を打つ。
「シャルルはみんなから慕われてた。ノアもあいつも、みんなシャルルが大好きだった……アタシも」
酒焼けした声だけど、最後の呟きには少女めいた甘やかさがあった。きっとこれが、恋をしている人の声なのだ。
「中央東地方じゃ、歩く呪いのことは痣持ちって呼ぶんだ。痣持ちはいずれバケモノになるって、気味悪がられてて……アタシは、ガキの頃から痣持ちで……みんなから嫌われてた」
歩く呪いは己の中にある呪いを力に変える。その一環が呪装顕現による武具の顕現だ。
だが、ロゼとハルクは身体能力の強化に全てが割り振られているらしい。特にロゼの力は強力で、甲殻持ちの呪魔を両断することができる。
ただ強力すぎる分、ロゼはその力を上手く制御できていないようだった。制御が完璧なハルクと違って、ロゼは普段から物をよく壊す。
「アタシ、バカだから字も読めないし、すぐ物を壊すし……でも、シャルルだけは……こんなアタシに優しくしてくれたんだ」
呟く声に涙が滲む。
テオは嗚咽が落ち着くのを待って、静かに訊ねた。
「シャルルさんって、どんな人だったんですか?」
テオの言葉に、ロゼは少しぼぅっとした目をする。どうやら記憶を反芻しているらしい。
「優しくて……頭が良くて……うん、やっぱり、優しかった」
呟く声は幼い子どもみたいで、だけどその人が大好きなのだという気持ちが伝わってくる。
「シャルルは領主の息子で、それなのに、ちっとも偉ぶらなくて、いつもみんなのことを考えてくれて……痣持ちのアタシ達に居場所を作ってくれたんだ」




