【5】三秒で撤回
神に仕える三人の天使達はそれぞれに、〈破壊〉〈再生〉〈創造〉の力を持っているという。
天使達は人間を正しく導くべく、ごく稀に人の前に姿を現し、呪魔に立ち向かうための啓示や加護を与えるのだ。
呪魔に呪いを植え付けられた者が呪い憑きと呼ばれるのなら、天使の加護を得た者は加護持ち。
加護持ちはその加護種類によって、異なる力を得ると言う。
〈破壊〉の天使の加護なら、呪い憑きを破壊する力を。
〈再生〉の天使の加護なら、傷を癒やし、呪いを食い止める力を。
〈創造〉の天使の加護なら、武具を生み出し具現化する力を。
テオの周りの人を例に挙げると、アレンは〈破壊〉、オリビアは〈再生〉の天使の加護を持つ加護持ちである。
そして、聖騎士団の英雄エルバート・ランドルフは世界で唯一、三天使全ての加護を持つ、まさに神の寵児とも呼ばれる存在なのだ。
* * *
この辺りで一番立派な宿の、おそらく一番立派な部屋に連れてこられたテオは、フカフカのソファに落ち着かない気持ちで座っていた。
座る前にできる限りズボンの汚れをはたいたが、それでもソファを汚してしまったらと思うと気が気じゃない。
テオの前では、エルバートとベリルが綺麗な布やらタライに汲んだ水やらを用意している。テオは手伝いを申し出たが、良いから良いから、とやんわりかわされてしまった。
「おーい、少年。まずは傷を洗うからさ。手を見せてみろよ」
褐色の肌に砂色の髪の女、ベリルがテオの前にタライを置いて言う。
「あの、自分でやります……」
「いいから、いいから」
テオがおずおず両手を前に出すと、ベリルは丁寧に傷口の汚れを拭ってくれた。
気さくで親しみやすい雰囲気の女性だ。ただ、彼女は一体どのような立場の人間なのだろう? エルバートの同行者なら、聖騎士団か修道会の人間と考えるのが妥当だが、そのどちらにも見えない。
「少年、もしかして剣士か? それなら、手のひらの保護には気をつかわないと駄目だぞー」
「えっ」
驚くテオの手の皮が厚くなっている辺りを、ベリルは指でグニグニと押した。
「これ、ツルハシじゃなくて剣でできたタコだろ? おねーさんにはお見通しだ」
ベリルの言葉に、エルバートがパッと表情を明るくする。
「そうか。君も剣を使うのか。名前を教えてくれるかい?」
「テオ、です」
「テオ。良い名前だ」
憧れの英雄エルバートに名前を訊ねられ、褒められた。
それだけで、テオの頭は茹ってしまった。
(どうしよう、憧れの聖騎士が……英雄エルバートが目の前にいる……!)
聖騎士に会ったら聞いてみたいことが沢山あった筈なのに、ドキドキして何も質問が出てこない。
頭に浮かんだ言葉といえば、「わぁぁ、すごい、強そう、かっこいい!」……これである。
「さて、そろそろ良いかな。ベリル、場所を替わってくれ」
「はいよ」
ベリルが傷口を洗い清めたところで、エルバートが場所を代わった。
まだジワジワと傷から血が滲んでいる上向きの手のひら。それを下から支えるように手を添え、エルバートはソファに座るテオの前で膝を折り、目を閉じる。
「──テオ、君に祝福あれ」
エルバートがそう口にした瞬間、淡い光がテオの手を包み込んだ。
手のひらの痛みが和らいでいき、じんわりと温かくなる。
(これは……〈再生〉の天使の祝福だ)
〈再生〉の天使の加護を受けた者は、自身の傷の治りを早めることができるという。オリビアも少しだけ傷の治りが早いのだと言っていた。
ただ、その力を祝福として他者に分け与えることができる者は、ほんの一握りなのだ。誰にでもできることではない。
「君の痛みを担ってくださる、〈再生〉の天使様の慈悲に感謝を」
エルバートがそう囁く。テオの口は自然と動いた。
「はい、その慈悲に深く感謝いたします」
手のひらを癒す輝きは、なんと優しく、温かいのだろう。
ローレンス家に引き取られたばかりの頃、熱を出した夜にどうしようもなく寂しくなって、泣いたことがある。その時、オリビアはテオが寝つくまで手を握ってくれた。
……その手の温もりを思い出す。ついでに、「風邪を引いたのなら、たくさん食べないと」と、馬鹿みたいに大量の食事を用意したアレンのことも。
「終わったよ」
温もりの心地良さにぼぅっとしていたテオは、我に返った。
手のひらの痛みはもうない。乾いた血を指先でこそげ落とすと、傷痕は綺麗に消えていた。
「すごい……」
加護を分け与える奇跡の力に、テオは感嘆の吐息を零した。
憧れの英雄エルバートに会えただけでも感激なのに、祝福してもらえたなんて。
「あ、ありがとうございますっ、エルバート様っ!」
「どういたしまして。若き剣士の未来に幸多からんことを」
そんな言葉まで貰ってしまったら、貰いすぎだ。
テオは思わず胸を押さえた。胸いっぱいの喜びが溢れ出して、ボロボロ零れそうだったのだ。
「あのっ、エルバート様は、何故この街に来られたのですか?」
そう口にして、テオはハッとした。浮かれるあまり、頭に浮かんだ疑問をろくに吟味もせず口にしてしまった。
エルバートがこの街に来た理由が仕事なら、詳細を話せるはずがないし、私用だとしたら、そこに踏み込むのは失礼だ。
「す、すみません。無遠慮な詮索でした。失礼をお許しください」
猛省しているテオに、エルバートが苦笑混じりに言った。
「いや、そんなに気にしないでくれ。この街には、古い知人に会いに来たんだ」
「この街の人間なら、知らないかな? 元聖騎士のダンカン・ローレンスっていうんだけどさ」
ベリルが付け足した言葉に、テオは勢いよく顔を上げた。
知っているもなにも、ダンカン・ローレンスはアレンの父だ。
「ダンカン・ローレンスは、一年前に亡くなりました。風邪を拗らせて……」
テオの言葉に、エルバートとベリルは驚いたように目を見開いた。
ベリルが思わずといった様子で呟く。
「あの頑丈が取り柄のおっさんが、風邪で……」
「ベリル」
エルバートの咎めるような声に、ベリルは砂色の短い髪をガリガリとかく。
そうして、叱られた犬みたいな顔でテオを見た。
「……ごめんな、少年はダンカンのおっさんを知ってるんだったよな。『偉大な戦士の足跡に感謝を。その魂の眠りが安らかなものでありますように』」
ベリルは人差し指と中指を揃え、指先で羽十字を描く。
斜め上から左右に羽を描き、最後に上から下に縦線。天使の姿の象徴とも呼ばれる、羽十字教のシンボルを描く、死者への祈りの作法だ。
二人の神妙な態度に、亡きダンカンへの敬意と惜別を感じ、テオは恐る恐る訊ねた。
「……親しかったんですか?」
「あぁ」
寂しげに頷いたのはエルバートだ。
ダンカン・ローレンスが聖騎士団を退団したのは、七年ほど前のことである。となると、当時のエルバートはおそらく二〇歳前後。まだ、彼が英雄と呼ばれる前のことだ。
「ローレンス殿の引退の原因は、足の怪我だろう? あれは……私を庇った時のものだったんだ」
ダンカンの右足は義足だった。呪魔に呪いを植え付けられ、膝から下を切断せざるをえなくなったと聞いている。
(あの怪我は……エルバート様を庇った時のものだったのか)
ダンカンは、自分が若き日の英雄エルバートを庇ったことを一度だって口にしなかった。その理由が、テオにはなんとなく分かる。
英雄エルバートのために、一人の聖騎士が足を失った事実は英雄譚には不要だから。自分の怪我が原因でエルバートの評判を下げたくなかったからだ。
いつだってダンカンは、英雄エルバートの活躍を聞くたびに喜んでいた。『あいつはすごい奴だ。本物の英雄だ』と誇らしげだった。
(だから、僕は英雄エルバートが大好きになったんだ)
エルバートもまた、ダンカンに深く感謝しているのだろう。だからこそ、ダンカンの死を深く悲しんでいるようだった。
「ローレンス殿が退団する時、頼まれたんだ。『息子が大きくなって、聖騎士団に入団することになったら頼む』と」
エルバートは握った手を胸元に当て、噛み締めるように呟く。
「ローレンス殿の息子が、もし聖騎士になることを考えているのなら、私の従騎士にしたいと思い、この街に来たんだ」
ダンカン・ローレンスの息子──即ち、アレンのことだ。
(アレンが……エルバート様の従騎士に……)
その時のテオは、多分とても冷静ではなかった。
──街の人間に覚えてもらえない、己の影の薄さに対する悔しさ。
──憧れの英雄エルバートに出会い、祝福してもらった興奮。
──アレンが、英雄エルバートの従騎士に望まれたことに対する嫉妬。
幾つもの感情が混ざって、グチャグチャになって、気がついたら口が動いていた。
「僕が……」
理性が仕事をするには、少しばかり心が弱っていた……なんて、言い訳だ。
「僕が、ダンカン・ローレンスの息子です」
それはおそらく、テオが生まれて初めてついた嘘だった。
初めての嘘は舌に苦く、ただただ己を惨めにし、虚しさだけが胸を満たす。
血の気が足下まで落ちていく。視界が歪む。
「……嘘ですっ!」
人生初の嘘を僅か三秒で撤回し、テオは勢いよく頭を下げた。
「僕は嘘をつきましたっ、ごめんなさいっ!」
顔を上げた一瞬、呆気に取られているエルバートとベリルの顔が見えた。
あぁ、自分はなんて馬鹿なことをしてしまったのだろう。
英雄に出会えた幸運を、分け与えられた祝福と喜びを、自分の手で汚してしまった。
「──っ、失礼しましたっ!」
テオは脇目もふらず、部屋を飛び出す。
自己嫌悪と惨めさではらわたが煮え繰り返った。自分で自分を思いっきり殴りたい。
(……最低だ! 僕は、最低の愚か者だ!)




