【17】どこにもいない子、知らない子
高級宿を出たテオは毛玉を服の中に隠し、ローレンス家に向かった。
この毛玉はテオの呪いの一部でもあるので、テオから離さない方が良い、とエルバートは考えたらしい。
二〇時間後、この街に聖騎士団が到着する。大型の呪魔が出たことで、小型の呪魔が寄ってくる可能性が高いため、しばらくは警戒体制をとる必要があるからだ。
エルバートはその聖騎士団との引き継ぎを終えたら、中央部に戻る。新しく灰色騎士団の所属になるテオを連れて。
出発は二四時間後。それまでは自由にして構わない、とエルバートは言ってくれた。
本来はテオが逃げないよう宿に拘束するべきなので、これは相当に寛大なお目溢しだ。
テオは無意識に下を向いていた顔を上げ、見慣れた街を歩く。
見慣れた街、見慣れた人々──この風景にテオはいつまでも溶け込めない。見慣れた風景の一部になれない。
歩く呪いのテオは、人々の記憶に残らない異物だから。
(……そうだ)
ふと思いつき、テオは住居区に行く前に、服飾品を扱う店に足を運んだ。
幸い、小遣いはポケットの中にある。この額だと買えるのは、ハンカチ一枚が限界だ。
テオは青紫の花の刺繍を施したハンカチを選び、「これください」と店番の老婆に声をかける。
膝に猫を乗せていた老婆は、のんびりと眼鏡を持ち上げ、テオを見た。
「見ない顔だねぇ、旅行客かい」
「……いえ」
テオは、何度かこの老婆と会話をしたことがある。
膝の上の猫は夫が飼い始めたこと。夫に先立たれたこと。老婆は猫が嫌いだったけれど、いつしか猫と和解したこと──全部、老婆から聞いた話だ。
テオは小遣いをカウンターに載せた。
「少し、遠くに行くことになったから……母に、プレゼントを買おうと思ったんです」
「喜んでくれるといいねぇ」
「はい」
真新しいハンカチを綺麗な紙に包んでもらい、テオは再び住居区を目指す。
尾刺棘に刺されたオリビアだが、彼女は〈再生〉の加護持ちで回復が早く、既に傷は癒えているらしい。アレンも大きな怪我はないという。
ハンカチの包みを胸に抱き、テオは考える。
テオは歩く呪いで、これからは灰色騎士として呪魔と戦う──それを聞いたら、きっとオリビアもアレンも悲しむだろう。
だから、このハンカチを母に渡し、こう言うのだ。
『僕、聖騎士にはなれなかったけど、灰色騎士になれるんだ。僕は騎士になるんだ。呪魔をやっつけて、自分の身に降りかかった呪いも、打ち破ってみせる。だから心配しないで二人とも』
なるべく明るい顔で、誇らしげに振る舞おう。
そうして、いつかテオが自分に呪いを植え付けた呪魔を倒し、呪いから解放されたら、ローレンス姓を名乗ることを許してほしい。
(その時こそ、言うんだ……)
オリビアには「僕を貴女の息子にしてください」。
アレンには「本物の兄弟になろう」──と。
テオは不安を押し隠し、堂々とした態度で玄関の扉を開けた。
「ただいま」
手狭なローレンス家のテーブルの前では、オリビアがニンジンの皮を向いていた。昨日、呪魔に襲われたばかりだというのに、もう起きて仕事をしているのだ。
〈再生〉の加護で傷が癒えているとはいえ、今日ぐらいは休んでほしい。テオがそう声をかけるより早く、オリビアは目を丸くして言った。
「あら、どちらさまですか?」
まるで、時間が止まったみたいだった。
そうして時間が止まったまま、動かなければ良いと思ってしまうほどに、現実は残酷だった。
テオは凍りついた舌を動かし、声を絞り出す。
「僕……テオ、だよ」
テオのことを忘れかけている人でも、名前を言えば、「あぁ、そんな奴もいたっけ」という反応を見せる。
その程度の反応でも良いから──と祈るような気持ちのテオに、オリビアは少し困ったような顔で微笑みかけた。
「テオ君というのですね。アレンのお友達ですか?」
ハンカチの包みを持つ指先がサアッと冷える。全身の血が足下に落ちていき、目の前がチカチカする。
今、自分はどんな表情をしているだろう。
(笑え)
血を流す心を押し殺し、テオは己に命じた。
(ちゃんと、笑え)
口の端を持ち上げて、テオは上擦った声で言った。
「アレンと約束があったんですけど、なかなか来ないから、様子を見にきたんです」
「まぁ、そうだったのですね。アレンってば……あの子は今、外に出ていて」
「あのっ!」
テオは指先の震えを誤魔化し、買ったばかりのハンカチの包みを、オリビアに差し出した。
「これ、受け取ってください。オリビアさんは覚えていないかもしれませんが、僕は貴女にとても……とてもお世話になったんです」
──貴女は僕に名前をくれたんです。
──五年間、実の息子と同じように、愛情を込めて育ててくれたんです。
──手伝いをしたら褒めて、間違いをしたら叱って、風邪を引いたら看病をして、悲しかったら抱きしめてくれたんです。
オリビア母さん、と胸の内で呟き、テオは笑った。
多分、自分は今、泣きそうな顔をしている。あまり上手に笑えていない。
それでも笑わなくては。
「僕は貴女に……ずっと、ありがとうが言いたかったんだ」
オリビアはキョトンとしていた。当然だ。知らない子どもが入ってきて、突然こんなことをしたら、不審に思うに決まっている。
それでも彼女は柔らかく微笑む。泣きそうな子どもを安心させるように。
そうして、必死の表情のテオからハンカチを受け取ってくれた。
「ありがとう、テオ君」
その笑顔を、テオは目に焼き付ける。
──忘れるものか。絶対に。
視界がボヤける、駄目だ、泣くな。テオは片腕を持ち上げ、目元を覆った。
「こちらこそ、受け取ってくれてありがとうございます。突然お邪魔してしまい、申し訳ありませんでした」
テオはこれ以上顔を見られないよう勢いよく振り向き、家を飛び出した。
* * *
ローレンス家を飛び出した先で、見覚えのある黒髪の姉弟が目に入った。マリーナとピーノだ。
ローレンス家から飛び出したテオに、マリーナが控えめに声をかける。
「あの、ローレンスさんのお客様ですか? アレンとオリビアさんの様子はいかがでしたか?」
「オリビアさん、呪魔に襲われたんだろ? まだ寝込んでた? 見舞いしたら迷惑かな?」
優しい姉弟だ。二人とも、心からアレンとオリビアの身を案じてくれている。
マリーナはよく手作りのお菓子をくれた。彼女はアレンが好きなのに、ちゃんとテオの分も用意してくれるのだ。
ピーノは生意気だけど姉思いの良い子だ。マリーナが落ち込んでるとテオに相談しにくることもあった。
時々、テオの存在を見落とすけれど、それでも二人はちゃんとテオを認識していたし、友達だった。
──この二人の中に、もうテオはいないのだ。
テオは目元を手で隠し、感情を殺して答えた。
「オリビアさん、もう起きていましたよ。アレンは留守のようです」
それだけ告げて、逃げるように走る。走る。テオだけが覚えている、テオを忘れてしまった街を。
街を離れたテオは、炭鉱の近くにある事務所に立ち寄り、そこに置きっぱなしにしている私物を回収した。
炭鉱は昨日の呪魔騒動のせいで、発掘作業が止まっている。まずは、落盤の危険性を調査するところから始めないといけないからだ。
テオが荷物を抱えて事務所を出ると、ちょうど炭鉱の方から鉱夫頭のガットが戻ってきた。
ガットもまた、呪魔の呪いを受けて呪い憑き化していた筈だが、エルバートの〈再生〉の加護で治療してもらったのか、今はすっかり元気そうだ。
「ん? 坊主、誰のガキだ?」
ガットはテオのことを、鉱夫の子どもだと思ったのだろう。鉱夫の子が軽食を届けにきたり、着替えを回収しに来たりというのは、別に珍しくない。
テオは曖昧に笑った。
「……落盤は、大丈夫でしたか?」
「ん? あぁ、奥の方がちょいとヤバいから、採掘開始まで間が空きそうだな」
「……だったら、ちょうど明日、銀行の代表の方が訪問する日ですから、そこで相談をした方が良いと思います。機材申請の書類は緑のファイル。親方のちょっと良い服は、奥のタンスの下から二番目です」
ガットはポカンとした顔をしている。
気の利くチビだな、の言葉はもう出てこないのだ。
テオはガットに頭を下げた。
「今までお世話になりました……お酒の飲み過ぎは程々に、お体にお気をつけください」
それだけ言って、テオは逃げるようにその場を駆け出す。
すれ違う鉱夫は、誰もテオのことを気にしない。「よぉ」と声をかける者すらいないのだ。
一瞬チラッとテオを見ても、すぐに興味を失っていく。
「うー…………うぅぅぅ……!」
テオは歯を食いしばりながら走り、やがて、人のいないボタ山の辺りで足を止めた。
そこにしゃがみこんで、抱えた膝に顔を埋める。
「めうぅ……」
服がモゾモゾと動いて、腹側から白い毛玉がコロリと落ちた。しゃがんだ時に潰してしまっただろうか。
「ごめん、苦しかったか?」
テオはしゃがんだまま、両手を差し伸べてみた。
毛玉はピョコピョコ跳ねながら、テオの手のひらに飛び乗る。
テオは表情を緩めた。小さな生き物特有の体温と微かな鼓動は、孤独な心を少しだけ癒してくれる。
「君は、何なんだろうな」
「めぁー」
「僕はテオだよ。テオ」
手のひらの毛玉は一応手足があるようだった。ただ、悲しいほどに短い。ついでに尻尾と耳らしき物もあるが、これも小さすぎて、フワフワした毛並みに埋もれている。
毛玉は、テオの手のひらにフワフワの毛並みを擦り付ける。体が痒かっただけかもしれないが、甘えられているみたいでテオは嬉しくなった。
「めうー」
「慰めてくれてるのか?」
多分違うのだろうけれど、自分の好きなように解釈しておく。
毛玉に顔を近づけると、フワフワした毛が頬を撫でた。とても可愛い。
「……僕はテオだよ」
「めあぁー」
「テオって言うんだ」
動物はテオの名前を呼べない。だから、呼ばれなくても苦しくない。
言葉を理解しない生き物に、遣る瀬無い想いをぶつけているだけだと分かっている。それでもどうか、今だけは許してほしい。
「テオだよ……僕は、テオ……」
泣くな。お前は騎士になるんだろう。自分にそう言い聞かせ、歯を食いしばる。
(誰か、名前で呼んでよ)
「めぁあー」
突然、手のひらの毛玉がピョンと飛び上がり、テオのポケットに飛び込んだ。
毛玉はモゾモゾと体を動かして、ちょうど良いポジションを見つけると、そこに収まり丸くなる。
「わ……」
小さな生き物の温もりが服越しに伝わってくる。それが今は酷く手放しがたい。
テオは無理につまみ出さず、ポケットの上からそっと毛玉を撫でる。
その時、背後から足音が聞こえた。鉱夫だろうか。或いはボタ拾いの子どもか──そう考えながら振り向いたテオは息を呑んだ。
こちらに向かってくるのは、長身の少年……アレンだ。
テオの全身から血の気が引く。逃げなくては、と思った。
だって、テオはもう、親切で優しい人達の知らない人を見る目に耐えられない。
ポケットの毛玉が落ちないよう、軽く片手で押さえながら、テオは走り出し……。
「──テオっ!」




