溶ける
学園が魔獣事件の調査で休校になって三日。
アーヴェント家の屋敷は、いつもより静まり返っていた。
外では鳥のさえずりが響き、窓から差し込む朝の光が、食卓の白いクロスを優しく照らしている。
けれど、その穏やかな空気の中に——どこか妙な緊張があった。
リディアは紅茶を口にしながら、正面に座るリアンをちらりと見る。
いつもなら食卓では、他愛ない話題で笑いが絶えない。
だが今朝の彼は、まるで別人のように黙っていた。
……いや、黙っているというより、視線が強すぎるのだ。
「……リアン?」
「はい」
「そんなに見られると、落ち着かないのだけれど」
彼は一瞬だけ目を伏せ、すぐに真っ直ぐリディアを見た。静かに、けれど迷いのない声で言う。
「……姉さんが、綺麗だから」
あまりにも唐突で、リディアは紅茶を噴き出しそうになった。
「な、なに言ってるの……!」
「本当のことを言っただけです」
リアンは穏やかな表情で、まるで当たり前のことのように微笑む。
けれどその笑みには、以前まで感じなかった“何か”があった。柔らかいのに、底に熱を含んだような。
「……からかわないで」
「からかってなんかいませんよ。僕は、ずっと……」
言いかけて、リアンは小さく息を吐いた。
リディアの目を見たまま、ふっと立ち上がる。
「姉さん、ソースがついてます」
そう言って、リディアの頬にそっと手を伸ばした。
頬に伝わる温もり。
触れた瞬間、リディアの心臓が跳ねた。
「り、リアン……自分で拭けるわ」
「でも、僕がしたいんです」
彼は淡い笑みを浮かべながら、指先をゆっくりと離す。
その距離は、まるで恋人のように近く、リディアは息を詰めるしかなかった。
(な、何をしてるの……弟なのに……)
頬に残る熱を振り払うように、カップを手に取る。
しかし震える手がそれを落としそうになり、リアンがすぐに支えた。
「……やっぱり、姉さんは危なっかしい。僕がそばにいないと」
「……リアン」
リディアは何かを言い返そうとしたが、言葉にならなかった。
彼の手のぬくもりが離れたあとも、鼓動はおさまらない。
(この感情……どうして。弟として見ていたはずなのに……)
そんな思考を遮るように、扉がノックされた。
「リディア様。王宮よりお使いが参りました」
メイドの声が、静かな部屋に響く。
「王宮? 私を?」
リディアは立ち上がり、リアンと顔を見合わせた。
「はい。魔獣の件について、陛下より直接お話があるとのことです」
緊張が走る。
事件の渦中にいたのは自分たち——リディアとリアン。
学園を襲ったあの魔獣。
そして、リアンの覚醒。
それを止めたのはリディアの力。
王宮が動くのも当然だった。
「……リアンは屋敷で待っていなさい。私だけ行くわ」
そう言うと、リアンは即座に首を横に振った。
「嫌です。僕も行きます」
「でも——」
「姉さんはいつも、自分一人で背負おうとする。……僕はもう、弟だからって何もできない立場じゃない」
リディアは息をのむ。
彼の瞳には、昨日までとは違う決意が宿っていた。
かつて少年だった眼差しが、今はひとりの“男”のそれに変わっている。
「……分かったわ。でも、王宮では余計なことを言わないで」
「約束はできません」
リアンは軽く笑いながらも、その目は真剣だった。
リディアは小さくため息をつく。
「ほんとに、あなたって……」
呆れ混じりの声でつぶやきながらも、どこか心が温かくなるのを感じていた。
——静かな朝は終わった。
これから向かうのは、王の待つ王宮。
そこには、彼らの知らぬ真実と、新たな波乱が待ち受けている。
だがその隣には、リアンがいる。
それだけが、今のリディアにとって唯一の救いだった。




