越えてはいけない
夕食の席にも現れなかったリアンが心配で、
私は夜の廊下を歩き、彼の部屋の扉を叩いた。
「リアン、入ってもいい?」
少し間があってから、小さな声が返る。
「……どうぞ」
部屋に入ると、リアンはベッドに腰をかけ、
膝に肘を置いたままうつむいていた。
月明かりが差し込む部屋は静かで、
その静けさが、彼の不安を際立たせていた。
「リアン。今日のこと……良かったら話して?」
私がそっと問うと、しばらくの沈黙の後、リアンはゆっくり顔を上げた。
「……姉さん。あの時……僕、自分が怖かったんです」
「怖かった?」
リアンは胸に手を置きながら、低い声で続けた。
「魔獣が出た瞬間……胸の奥が勝手に熱くなって……
制御できない何かが暴れようとしたんです」
その言葉に、私は息をのみ込む。
「それと……ソフィア嬢の祝福に触れた時も同じです。
僕の力が……あの光を嫌うみたいに、乱れました」
「リアン……」
「でも、姉さんが抱きしめてくれたら……嘘みたいに静かになった。あれは、たぶん……姉さんだからなんです」
胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
私は震える声で、ゆっくりと話す。
「リアンの力は……感情と深く結びついてるんだと思う。祝福みたいな“強い力”にも影響されやすいんじゃないかしら」
自分が“原作を知っている”ことは言えない。
だからあくまで分析として言葉を選ぶ。
「でもね、私の声で落ち着くなら……
私はリアンのそばにいるわ。
あなたが不安なら、支えるわ」
リアンは何かを堪えるように目を伏せた。
そして小さな声で呟く。
「……姉さんは……本当に、優しすぎます」
私はそっとリアンの手に触れた。
「だって……リアンが大切なんだもの。本気で心配したのよ。あんな怪我……もうしてほしくない」
その瞬間――
リアンは突然、私の手首を掴んだ。
「え……リアン?」
引き寄せられた瞬間、体勢が崩れ、
背中がふわっとベッドに沈む。
「きゃっ……!?」
倒された、というより――
抱きとめられたまま横たえられた、そんな感じだった。
力づくではない。
けれど逃れられない真剣な気迫があった。
指は絡み取られ、
顔はすぐ目の前。
吐息がかかるほどの距離。
「どうすればいいのか……わからなくなるんです……」
かすれた声が震える。
リアンの瞳は強く揺れている。
今まで一度も見たことのない必死さだった。
切なげで、苦しげで、
それでいてどうしようもなく私を求めている目。
胸がズキンと痛む。
「り、リアン……?」
「姉さんは、僕の姉だ…
大切で……愛しくて……
守りたい……
でも、もうそれだけでは抑えられそうにない…」
喉の奥で息を震わせ、
リアンの顔がゆっくりと近づく。
唇が触れそうになった――その瞬間。
リアンはビクリと肩を震わせ、
自分を叱るように目を閉じた。
そして、サッと距離を取る。
ベッドの端に座り込み、
両手で顔を覆い、低く呟いた。
「……駄目だ。
こんなの……姉さんを困らせるだけだ……」
肩が大きく上下し、
呼吸が乱れているのが見てわかる。
「ごめんなさい……姉さん……」
震える手で私の指をそっと放し、
視線を落とした。
──────────────────
私は胸に手を当てた。
(……どうして……こんなに苦しいの……?
リアンは弟。弟のはずなのに……
さっきの表情……あれは……弟じゃ、なかった)
頭では分かっている。
家族で、守るべき弟で——
それ以上の感情を抱いてはいけない。
それなのに胸の奥は熱いままで、
息さえ整えられなかった。
そんな私の混乱を知らないまま、
リアンは沈んだ声で言った。
「……嫌われたくないんです。
姉さんが前にすると……駄目なんです、僕……
抑えられなくなる」
その一言で、心臓が跳ねた。
弟としての甘えではない。
求めてはいけない熱があった。
どうしてこんな表情をするの……
見つめられるだけで頭が真っ白になる。
私は震える指で、そっとリアンの手に触れた。
「……リアン。嫌いになんて、ならないわ」
言葉にした途端、
胸の奥がじわっとあたたかくなる。
弟として大切。
そう言い聞かせてきた。
でも今は——
その理由では足りないくらい、心が揺れていた。
「あなたが不安なら……何度だって言うわ。
私は……あなたが大切よ」
リアンは息を呑み、
伏せていた瞳をゆっくり上げ、
私をまっすぐ見つめた。
その視線に触れた瞬間、背筋が震えた。
「……姉さん……」
言葉にならない微笑み。
姉に向けるべきものじゃない、
切なくて、触れれば溶けてしまいそうな。
その表情に、胸がどくんと鳴った。
(こんなの……だめよ………)
手を離さなきゃいけないのに、
指先はリアンの温もりを求めていた。
弟のはずなのに。
ほんとはいけないのに。
それなのに——
胸は、恋にも似た痛みでいっぱいだった。




