デコポンからの贈り物 動物たちと暮らして考えたこと
この主張は、実にインチキである。何の調査も裏付けもないただの感想文だ。こんなものが世間に出回ること自体個人的にはどうかと思う。賢さとは対極にいる者がかざす意見とはなんと身勝手で一方的なものなのか。しかし同時に日々動物と接し思う中で、率直に発言できる現代の環境とそれに便乗してなにも考えず発言する自分の行動にも感謝したいのである。結果的に哲学的になったのだが、元来哲学書とは、難解で複雑な言い回しが多く、ぶ厚く、長く、おおよそ読もうなんて気分にはならない。もちろん私にはそんな芸当は到底不可能で、そこの理解は十分すぎるほどある。今回はエッセイという事で、思いのままつらつらと書いてみたに過ぎず、ある意味自分に言い聞かすために書いたのかもしれない。
自分の思考程不安定で、当てにならないものは無い。朝令暮改もいいとこだ。
でも、世間の評価が自己評価になりがちな昨今、あえて自分は間違えていないと勝手な主張をすることで世間の迎合から脱却し、ある意味豊かな人生を手にするかもしれません。
私は、デコポンという名前のポニーを迎えてから、大きく人生観が変わったのです。
その結果、動物たちと暮らす生き方が私の生き方だと自分で決めました。そのこと自体は楽しくも、嬉しくもありません。ただひたすらに幸福なのです。
だから皆さんも日常を振り返り、文章にすることで、豊かな人生を送れるかもしれませんよ。まぁこれも私の適当な感想ですがね。
あなたもいつの日か、あなたにとっての「デコポン」に出会えますよう。
デコポンからの贈り物
「言葉は通じないけど、たくさん話して、たくさん笑っている時間——それが、動物との最高の関係だと思う。」
日本で小さな移動動物園を始めて、2拠点生活しているベトナムでもたくさんの動物たちと暮らしている私の結論。
2018年、私は本業の傍ら移動動物園をやろうと思ったわけです。社員がなぜだか自分で飼っているペットを会社に持ちもむのが多発しており、それならいっそのことみんなに見てもらうかって軽い決断でした。初めて迎えたのがホームセンターで6,800円で買ってきた「ミニウサギ」。うさ太郎と名付けた。それを機に次々と小動物をお迎えした。なにか目立つ動物も欲しいなぁ。ネットで調べたらポニー(小型の馬)は2m×2mの場所で問題ないと書いてあった。馬?と思ったが、早く動物を揃えたい一心ですぐに購入。ポニーの名前は「デコポン」。足が悪くて乗馬は出来ないが、表情がなんとも愛嬌たっぷりの男の子です。まぁ今思えば、このデコポンとの出会いが、すべてを考えるきっかけだったのかもしれない。
移動動物園で儲けることが最大の目的だ。そんなスタートでしたね。少しづつだがイベントの仕事も増えていってこのままいけるかと思いきや・・そんな甘いものでは、甘い世界ではなかったのですよ!
結局私は「知ってるつもり」だけでした。エサと水があれば大丈夫。本に書いてある通りにすれば間違いない!そう思ってました。
でも、実際は病気になるわ、病院やエサ、ワクチン代に備品代、バイト代など、とにかくお金がかかる現実。そんな毎日と向き合いながら日々過ごしているうちに自然と動物について色々学び、考えるようになりました。
そんな時間がたっぷりとできたのは、コロナ禍でしたね。なんせイベントが全てキャンセルになっちゃったんだから。
「動育」の誕生。はまさにそのコロナ禍。イベントでの動物の扱われ方などを思い返してみると、まぁ実に迷惑とストレスを掛けたなと。申し訳なかったなと。その原因の一つとして、遊びに来られる人が動物の扱い方を知らないということも大きな原因の一つではないかと考えました。事実、掴んだり、追いかけたり、大声出したりね。親も子供だけ遊ばせてスマホに夢中。今思うと目を覆いたくなるような場面もたくさんありました。もはやウチの動物たちにはあまり触れてほしくないとさえ思ったわけですよ。ふれあい動物園なのに。ならば、いっそのこと子供を変えてしまおうと。子供たちの動物に対する気持ちが変われば、将来的に動物たちとの良い共生が出来るのではないかと、殺処分や虐待が無くなるのではないかと。それがのちに誕生する「動育」です。
そんな思想を掲げた私はさらに動物に対しての考察を続けていきました。我々がやるべきこととして、まずは人馴れをさせて、人への警戒心をなるべく軽減するよう努めました。まぁ「遊ばせ時間」の創造ですね。あとは、「退屈」は一種の虐待行為だと定義づけました。そこでまとめたのが「園長思考」です。
以下園長思考
「動物のストレスと欲求について」
<飼育下では達成できない動物の欲求。>
異性との繁殖交流、仲間との交流、自由な行動、自然に接する事、日の光を自由に浴びる事、自由に飲食できない事、人の管理下のため。
<飼育下だからこその良い点。>
飲食の安定的確保、天敵からの攻撃皆無、寿命の長寿化。
(野生下ではほぼこの2点が全てのストレスとなっている)
野生動物はこの2点の必要性を確保し、繁殖する為だけに生涯を費やす。
飼育動物の現在の立場
飼育下の動物は野生動物のような生死に直面する最大のストレスはないが、最大の目的である繁殖も出来ないので、本来の生活とはかけ離れた存在となっている。
つまり、存在そのものの価値すら失っているといえる。(愛玩専門の動物でしかなくなっている)
しかし、世代交代を人間界で経験したその子たちは、もはや、自然界では生きていけず、新しい愛玩としての役割をもって生物的生活に順応しているといえる。
故に、愛玩として生きる彼らを完全に支配している我々人間は責任を持って接しなければならない。
自然界に生きる動物と、人間の管理下に生きる愛玩動物との生態は全く異なる。
では、愛玩動物にはストレスは、存在するのか?もしあるとすればそれは何か?それはどういった対処をすればよいのか?
結論として、飼育下の動物のストレスは自然界のそれとはまったく異なる物として確かに数多く存在する。 その最大のものが「退屈」なことであると定義することが出来るのではないか。
退屈せずに、優しくされて、美味しいものが食べられ、安心して寝られれば、人間と暮らすのも悪くないと思うのではないか?私たちはこれを一番大事なことと結論付けることとする。「退屈させない」
まずは、その動物が、野生化ではどんな一日を過ごしているのを知る。愛玩動物は野生は知らないが、遺伝子レベルの習性として残っているため。
物理的な状況ではなく、「気持ち」を充実させてあげること。人間も隔離中でも充実していれば過ごせる。退屈させない(もちろん広いに越したことはないので、可能な限り広いスペースにして)
「退屈」以外にももちろん様々なストレスが存在する。しかしこれらは、彼らが置かれたる環境によって大きく異なる。このことから、「飼育」の場合の最大ストレスは「退屈」であることは揺るがない。
そういやときどきデコポンは、柵のそばでしばらく無言で立ち尽くしていた。彼にとって、退屈だったのか、安心だったのか…。私は今でもあの背中を、時々思い出すなぁ。
その他のストレス。
展示関係のストレス:触られる、大声出される、追いかけられる、掴まれる、たたかれる。など
販売関係のストレス:強制繁殖、親と離される、閉じ込められる。など
娯楽関係のストレス:たたかれる、闘わされる、最後は殺される。など
食肉関係のストレス:動けない、強制繁殖、死ぬ直前。など
上記の例はほんの1部である。
人間側の解釈の改善の必要性
姿:種族存続の為にそれぞれが頑張って進化し環境適応した結果の姿である。かわいいや気持ち悪いという認識は改めるべき。なぜそのような姿になったのかを考えるべき。
知能:動物は本来、食物を摂取出来て、子孫を残せばその役割は100%果たすことが出来る。それ以上の知能は必要ないのである。故に賢さを喜ぶのは人間のエゴと認識すべき。(ただし、人間側の動物はある程度頑張って言う事を聞き、人間を喜ばせなくてはいけない事になっているのも事実)
習性:ウンチは汚い。動物は汚い。動物は臭い。これらは人間側の一方的な意見やイメージであり、動物たちにとっては最も大切なコミュニケーションツールである。
珍獣:希少種の飼育は人間の優越感や、承認欲でしかない。確かな飼育方法や病気についての情報がない動物は自然界で生きるのが最適であると考える。
以上が、「園長思考」です。なんとなく愛護的な思考であるように感じますね。
さらにそんな思いで各所に送った手紙が出てきましたので紹介します。
<人類の進化から誕生した動育>
本来、動物は「食べること」以外は他種の動物には関心が無く、それぞれの生涯を全うし、次世代へとそのバトンを繋いできました。現代もそれは変わらず野生では脈々とバトンが受け継がれています。しかし、人間はどうかというと、動物を大いに利用しています。いったいなぜ人間だけがそのようになったのか?反対に「動物が好きではない。嫌い」という人間はむしろ正常で本来の本能が残っている結果ではないかとすら思ってしまいます。
12,000年前にさかのぼると、この時期に、狩猟型の生活から、人類は定住型の「農業」により安定した食料調達を実現できました。その後、約10000万年前にヤギ、ブタ、ヒツジが家畜として馴化。この時点から、他種を利用する人類の歴史が始まったと考えられます。
その後はさらに加速し、動物たちは次々と食用、漢方薬、実験、毛皮、娯楽、使役、愛玩となっていきました。まさに動物にとっての最大の脅威は「人間」となったわけです。
しかし人間の活動はそれだけにとどまらず、科学の進歩に伴い、お金を稼ぐことに伴い、動物たちの住処まで奪い、遂には彼らの生存の権利まで脅かすこととなりました。
恐竜が大地を闊歩していた時代、1000年に1種の絶滅種が発生していたと言われていますが、近年は1年になんと40,000種が絶滅しているそうです。
このような事実を知った時、どう感じるか?何をすべきか?は人それぞれです。
1つ幸運なことは「人間」の中にもその事実と向き合い、動物や植物、海や山など地域規模から地球規模の保護活動をする人たちも数多くいるということです。
我々も動物を通じての事業を行う上で何を伝えるべきなのか?姿や形ばかりにとらわれて「かわいい」の一言で終わらせるのか。はたまた極力その生態や行動を考え、それに近い飼育を心がけ、せめて今現実に生きている彼らに対して真摯に尊厳を認め、共に幸福を追求していくのか。言わずもがな、答えは明白です。
「動育」、「動育教室」はそんな私たちの思いを具現化させたものなのです。
動物は、今も命を賭して我々に様々な恩恵を与えてくれています。貰いっぱなしで良いのでしょうか?せめてほんの少しの関心を持っても良いのではないでしょうか?
犬は我々を非常に愛してくれる最高の相棒です。それを簡単に捨ててしまう。そんなことがあって良いのでしょうか?
動育を学んだ子供たちが大人になった時、きっとその答えを出してくれるはずです。
「動育とは未来の大人と動物たちとの約束」
話は壮大になってきましたよ。しかも熱いです。
さてさて、我々にとって動物とはいったいどういう立場にいるのでしょうか?
私が思うに、よくペットショップやサーカス、個人の飼育方法なんかがネットで誹謗中傷されるじゃないですか。狭い檻に閉じ込めたり、殺処分かわいそうとか。そういう事言う人いるじゃないですか。でも動物って誰でも店からお金出して買うでしょ?買うってことは「物」なんだよね。法律ではね。人間が売買されないのは「物」ではないと人間が決めているからだからね。(でも昔は人間も売買されていたよ)これは全く動物に対する人間の傲慢とエゴのはけ口だよね。「物」と思ってる、または思ってなくてもそのルールに加担している人間どうしが、お互い真顔で誹謗中傷しあっても50歩100歩の気もするんだよね。
お金出して買ったトマトを、アカの他人が「なんで早く食べない?腐りますよ!」とか「そんな保存してるのありえない」とか言っているのと同じなんですよ。
「物」と決めているのは人間側だけですからね。もう一つ言うと、動物は家族だ、相棒だというのもね最近よく聞く。けどそれも、人間の都合で一緒にいたいときに置いておくだけなんだよ。家族と言いながら外に出るとすぐ忘れ、預けて旅行に行っちゃう。不要なときは相手にしないで、求めるときは一緒にいたい。 人間の感覚ってそんなものよ。だから簡単に捨てるし、あげちゃうし。だから私の結論としては「動物の存在とは人間の傲慢とエゴのはけ口である」に行きついた。実際私もそういう場面あるし。実に寂しいね。もちろんそうではない人も存在します。
結局、動物との最高の状態は「いつも一緒にいて、言葉は通じないけどたくさん話して、たくさん笑っている」状態だな。犬猫なら10年、15年、小動物ならそれ以下の動物の生涯。人間にとってはその年月は人生の一部に過ぎない。その間くらいその状態をつくれる人間こそが動物と暮らす資格があるように思います。(かくいう私もまだまだですけどね)
それに最近は動物の寿命が延びましたね。特に犬、猫。食べ物や生活環境の変化が大きく起因していると思う。それも傲慢とエゴと考えている。寿命が長くなって喜んでるのは人間位なんだよ。今のまま寿命が延びたって犬猫にとっちゃ膨大な「暇な時間」が増えるだけなんだよ。今なんか家にいたってスマホばっかして遊んであげないでしょどうせ。でも死んでほしくないから長生きさせるの。そして経済活動的にもその方がみんなが儲かるわけよ。だから「いのち」って言葉で人の心揺さぶってお金出すように誘導しているとしか思えんのです。その最たるものがミックス犬。いろんな品種を掛け合わせて作っちゃう。びっくりしたね。神になったかと思ったよ。でもかわいい!私もお迎えしたくなりますもの。傲慢とエゴと経済が合体すると人間の理性は崩壊する。こんなことがわかったよ。
寿命が延びた犬や猫たちにとって、その時間が「幸せな余生」になっているかといえば、胸を張ってそう言えない状況もある。
人間の「そばにいてほしい」という願望が、命の時間を“自分のため”に引き延ばしていないか。
そしてその構図に、ビジネスが静かに入り込み、“善意”の顔をした経済圧力が加わっていないか。
それをよく考えないといけないね。
疑問もいくつかある。
ほとんどの動物園なんかあれだけ動物がいて、スタッフがいて入園料って数百円もしくは無料とかなんだよね。安い=価値が低い。無料=価値が無い。むりやり連れてこられ、人前に晒された挙句、価値が低いとか無いとか・・哀れこの上ないですね。まぁ動物園の人も、予算分配で成り立っているだけだからね、色々やりたいだろうにね。でもせめて入園料くらい上げてもいいような気はしますけどね。動物の尊厳の為にも。
子供が動物欲しがるから動物を買い与える。これもよくわからん。これ出来るのでしょうか。出来る条件として親も動物が好きとか関心が高い場合に限られるような気がします。親が詳しくないのに、興味もないのに子供にお世話をゆだねる。私が飼われる立場なら遠慮したいですね。
あとSNSとかで動物たちのひどい有様を動画や写真で必死に訴えてますよね。あれほとんどの人は見ないと思いますよ。興味がないし、見ると気分が悪くなるから。事実だけを真剣に訴えてもドン引きされてしまうのに気が付かないのかな。「北風と太陽」。強引に分からせようとしても、相手も益々頑なになるだけなのに。いっそのことマグロみたいに解体ショーやったりして、生きた動物が部位に変わる様を見られれば少しは変わるんじゃないの?魚の解体は家でもやるし見慣れているので何ともないし、むしろ人気ですよね。牛とかもそのうち見慣れるんじゃないですかね。私はイヤですけどね。
他にベトナムでスタッフが飲んでるから行きましょうと連れていかれた先は、犬肉レストランでした。スタッフは私が犬食べないの知っているので、フライドチキンを買ってきてくれました。そこでふと思ったんです。「犬肉食べなくて鳥や豚は食べる」なんでだろ?考えてみるに、例えば、知性のある動物を食らうのは野蛮だ!であれば、犬だけではなく馬や牛、豚、クジラなんかも食べないことになる。でも私の隣ではおいしそうに焼いた犬の足にしゃぶりついている。となると習慣、単なる習慣なのだ。答えはすごく簡単で、当たり前の事でありました。世界では様々な動物が食されている。ベトナムでは犬、猫、ネズミ、ヤマアラシなど。南米はカビパラ、あとどっかではサルとかも。日本人は馬やクジラ食べるし、中国、韓国でも犬を食べる。理由は簡単、「おいしいから」。
古代哲学者ソクラテスは「人は生きるために食うべきで、食うために生きてはならない」と言ったそうです。
おいおい何を言ってますか!食品廃棄増えようが、メタンガス増えようが、温暖化が進もうが、添加物バンバンだ!いいんです!問題ないのです。だって「おいしいもの食べたいから」人間てすごい。食べることに強欲すぎる。家畜ですら適度に牧草食べたら戻ってくるのに、人間はいつまでもしがみついている。まぁ滑稽ですな。
なぜおいしいもの食べたいのでしょう?ノド通れば同じ、おなかいっぱいになれば同じ、排泄しちゃえば同じ。なのにね。
気づいたんですよ、人類は。「火」というものに。焼くことによって旨み成分が出るわ、噛み切りやすくなるわ、保存出来るわ。革命的な変化が起きたんです。それ以降人類は「美味いもの」を求めるようになった。調理する時間もたんまりあったわけですよ。定住してるから。もう移動したり獲物探したりしなくてもよくなったのです。家畜がいるから。その頃から人類は他種とのかかわりを深めていったのですね。
話を戻すと、結局、私が犬肉を食べないのは単に「習慣」が無いからです。よくかわいそうとか聞きますが、牛はかわいそうではないのでしょうか?
よく動物の肉を食べるのやめようとかありますね。あれは人に強制しないで「自分は食べないよ」だけでいいのです。人工肉も高いから浸透しませんね。言われた方も「植物はいいのか!植物も生きてるんだぞ!」みたいなことはやめましょう。どうせ永遠に折り合いのつかないことだから。
更に時代は加速して「映え」なくてはならない。もはや食べなくても、冷めてもいいんです。食べ物が美味しそうに見えさえすれば。飲食店も芸術的センスが必要となってきました。
要するに結局は「お金」なのです。SNSもお金になります。珍しい動物なんかが登場すれば再生回数が上がりますし承認欲求も満たせます。だから珍獣の密輸も無くならないです。なぜならこちらもお金になるから。ペットショップもなくならないです。なぜなら生態販売は儲かるから。少し前は、数万円で犬が売られてましたが、それは良くない、適正ではないとかで値段高くしたら逆に売れたとか。高額な犬を連れている散歩はまさに富の証ですね。流行の犬のブリーダーも増えますね。だって買う人いますからね。人気が落ちたら次の人気種を繁殖させればいいのです。ペット産業ウハウハですね。ペット保険なんかもそうですね。SNSでかわいいペット見れば飼いたくなる人大勢いますね。そんでなんかイメージと違うから捨てますね。結果、殺処分増えますね。食肉動物に至ってはもともと殺処分ですしね。そのために生ませます。保護犬保護猫なんかも無料じゃなきゃいらないとかね。無料ならほしい人、高額な金額でお迎えする人。動物にとっての未来はどちらが幸せなのでしょうね。
動物は「物」である!こんなことやってたらそれ以外言えないですよね。まさに傲慢とエゴと経済が密接に深く深く絡まっており、人間の理性は崩壊しまくっているわけです。
我々はそのことをまず理解しなくてはいけない。どんな崇高な事言ったって、そういった社会の波に呑まれていることを我々は認識しなくてはならない。だって経済活動の継続でしか生きられない私たちはあらゆるものを利用してしまうのです。そんな現状を理解したうえで、答えを出すとしたら、動物たちと共に語りあい、笑いあうことに努める。これしかない気がします。
ポニーが2m四方の場所で暮らせるわけもなく、ご飯も食べ水も飲み、遊んだり、時には病気になったりするわけです。私は、マンションを売って、広い敷地のある家を買いました。ポツンと一軒家的な感じで、周りは田んぼで実に快適です。私は獣医でも動物学校出たわけでなく、研究者でもありません。でも彼らと共に過ごすのことが私の生き方だと決めたのです。
<幸せとは何か。>
動物たちはお金なんぞビタ一文持ってませんが、不幸そうには思えません。故にお金ではないんです。良い天気の日にウサギと遊んだり、犬と散歩したり、馬におやつ上げたり、はたまた雲を眺めたり、花を観察したり、カエルの鳴き声や鳥のさえずりを聞く。こんなことが楽しいわけです。それが豊かな人生だと思います。
しかし人間世界で生きている以上やはりお金は絶対必要です。だから絶対必要の分だけ確保すればよいのです。それ以外は、だらだらとのんびりとくだらない時間を動物と共有すればよいのです。
晴れた日に、デコポンとぼーっと空を眺める。ただそれだけで、私はたしかに幸せを感じる。
きっとあの時間こそが、彼から私への“贈り物”だったのだと思う。
動物たちが社会の片隅で消費され、誤解され、ときに忘れられてしまうような現代。
だからこそ、私たちの「伝える力」が大切なのだと思う。
「かわいい」だけで終わらせず、
本物の命の手ざわりや、心のやり取りを――
子どもたちにこそ、そっと伝えていきたい。
そして私は、こうも思うようになった。
「子どもを動物に触れさせたいのなら、見させたいのなら、親(大人)もまた、動物について“本物を知る”必要がある。」
ネットで調べた断片的な知識ではなく、
実際に見て、感じて、一緒に笑ったその経験こそが、
動物たちにとっても、親子にとっても、やさしい時間になるから。
子どもに残せる“いのちとの関係性”は、教科書ではなく
「一緒に過ごした記憶」でしか、つながらないのだから。
デコポンからの贈り物
<かわいいとはいったい!?>
動物のふれあいイベントをやっていると、絶対に聞こえる「かわいい」の黄色い声。動物たちは分かっているのかいないのか?声のトーンや大きさだけでビビっちゃうウサギやモルモット。デコポンや犬なんかが聞くと嬉しそうな反応をする。どうやら人間の表情や、雰囲気を察して反応するのが馬や犬。声の大きさで判断しちゃうのが小動物のようです。
対して人間も、思うような反応があると嬉しいし、無いとガッカリする。でもガッカリしなくてもよい。そもそもちょこっと会ったくらいで思い通りにならないのは普通の事だからね。なんで思い通りになると思ったか?相変わらずここでも傲慢である。
しかし運のよいことに、思い通りの反応がもらえた時、嬉しいのはもちろん、「かわいいやつ」とも思う。
反対に、爬虫類は完全に2分している「大好き」か「大嫌い」か。昆虫もそうだね。いやむしろ人気無い方が多いですね。
この違いはいったいなんでしょうね?
人間は、2頭身で丸くて・・など一定の条件が整うと「かわいい」と感じるようです。あと小さいとかフワフワした毛とかもありますね。
それだけを見てみると、何となく大きく分類できそうです。
でも実際はどうでしょう?分類できるかもしれないけど、なんか釈然としない。そんな気分じゃないですか?
デコポンは全然丸くないけど、小さくないけどかわいいと思う。
かわいい・・・「可愛い」は幼いもの、小さいもの、愛嬌のある外観をもつ様子に対する情愛や愛着などを表現する意味合いが強い。そのため、恋人などを「かわゆく」思う場合は別として成人に使う場合は失礼とされていた。「可愛い」の感情が内部から沸き出る主たるものが、生物の幼体に対する肯定的な感情の動きである。柔らかみを感じさせ、他者に対し攻撃・威圧的な印象を持たせない、丸みを帯びた曲線的な体の輪郭、大きな目とふっくらとした頬、見たものの保護感情をくすぐる小さな体躯と、発達の未熟さからくる不器用でたどたどしい身振りは可愛さの要素として不可欠なものである。さらにそこにはそれだけに留まらない生命力の発露を十分に感じさせる感情の躍動感も同時に必須となる。(ウィキペディア)
一応、定義としてはこんな感じ。なんとなくわかる。
しかし、「かわいい」があれば「かわいくない」も存在する。先の爬虫類や昆虫とかがそうなのだろうか。
でも、爬虫類や昆虫にも「かわいい」という人はいる。
このあたりを考えていきたい。
「かわいくない」。そんな烙印を押された動物はどうだろうか?その先の生涯は人間との関わりは実に困難だ。あるものは姿が見つかっただけで殺され、あるものはペットショップで売れ残り、またあるものは保護犬猫の譲渡会ではお呼びも掛からず。「かわいくない」の烙印は動物たちにとってまさに死と隣り合わせの悪魔の言葉なのだと思う。
一方、なにかと特典の多い「かわいい」も危険はある。もしもお迎えした人が実は動物なんかまったく興味が無く、ただ「かわいい」という一目ぼれの一瞬の感情だけだとしたら。
動物における「かわいい」ってのは一緒に過ごした時間を表した言葉なんだよ。
生まれたばかりや、買ってきたばかりの時なんて、まだ単なる「それっぽい未知の生命体」に過ぎない。これから共に過ごす時間によって少しずつ愛情が育って「かわいい」になっていくんだよ。はたから見て、どうみても不細工な犬でも飼い主からしてみれば1番かわいいの。最近は「ブサカワ」とか言うらしいけどね。
動物の場合は、容姿だけに使われるようなチンケな表現ではなくて、飼い主と過ごした時間やその環境によって現れる表情などを総称して使うべき。
私は、動物が好きかと聞かれればどうかな?もしかしたら胸を張って「もちろん」とは言えないかもしれない。なぜならば一緒に過ごしたことない動物たちを見ても胸躍らないから。これを「育愛」とか「絆感」とか言うらしい。つまり私の場合、一緒に過ごした時間が長いほど愛情が芽生えてくるタイプのようだ。皆さんはどうでしょう?どんなタイプでしょうか?
また、容姿のみかわいいと思い、その魅力に引かれたとする。もしもその子が噛んだり、あばれたり、全く手に負えない子の場合どうですか?かわいいと思う感情を継続できますか?
昔、アニメの影響で、アライグマの飼育がブームになったそうです。見た目が可愛いので飼いたいという世間の声に業者が反応し、輸入したのね。その後どうなったか、見た目と反してその性格は実に狂暴で手に負えたもんじゃない。中には終生飼育した人もいるけど、捨てられたアライグマもたくさんいるんだよね。今では特定外来生物だって。根絶しようという事になってます。アライグマからしたら「おいおいどーゆーこと?」でしょうね。
見た目だけに反応する「かわいい」なんて実に薄っぺらなんです。パンダ見た、コアラ見た、ゾウ見た、キリン見た、かわいかった。1回か2回たまに動物園行って見るだけでいいのです。それだけのこと。
人間は、常にどこかへ遊び行きたいとか、刺激が欲しいとか思ってます。「かわいい」とはもしかしたらそのような行動を促すような、強烈に背中を押すようなトリガー的な言葉なのかもしれないですね。「かわいいから見に行きたい」とか「かわいいから何としても会いたい」とかね。先ほどの「ブサカワ」のように、現代では様々なものに「かわいい」が言われているみたいですね。「キモかわいい」とか、物や雰囲気なんかにも使われるそう。
「かわいい」が、本当に行動を促すような言葉なら、これはすごい事ですよ!なんせそれにつられて人が動くのですから。1つの「かわいい」を出来る限り派生させればそれだけ多方面で経済が動くことになります。社会はそれを知っているからバンバンかわいいを打ち出すのです。もはや経済利用された言葉なのです。
動物の場合は、その考えから離れて、時間軸も組み込んだ言葉として「かわいい」と言ってあげたい。
そうでしょ、デコポン。
<癒されたい?癒したい?>
現代社会は実に慌ただしく、複雑でストレスに満ち溢れた日常だ。そんな中、少しでも心の平穏を保つべく、動物に会いに行く人も多い。これはその通りで、たくさん癒されて、また明日から頑張ってくださいと思う。でもよく考えてみると、そのように思い込んでるだけの人たちも大勢いそう。普通に話せる友人や家族がいて、3食を座って好きなもの食べられて、寝る前にYouTube見たり、たまに飲みに行ったり。いわゆる仕事以外の時間は結構自由っぽい。
おまけに、週1回か2回は休みもあるし。
反対に、動物の面から見てみると、飼い主が仕事行く朝はあまり関われない。関わろうとすると怒られちゃう。そしてそのまま仕事行っちゃう。部屋の中で自由ならまだいいが、ゲージで過ごす子も多いだろう。彼らは暑くても寒くても、お腹すいても何もできない。何も言えない。でも健気にいつまでも待っているわけですよ。ようやく帰ってきて少し遊んでもらってその日は終わる。SNSに夢中で遊んでもらえない日もある。でも待つ。だって待つしかないじゃん。他に友達いないんだから。そんな日が一生続くのです。
いったい癒されたいのはどっちなのでしょう。
兎にも角にも癒して当然の「物」として生活空間に入り込んだ愛玩動物たちはその役割をきちんと認識し、役目を果たさなくてはならない。その考え方は人間社会に深く根付き、疑いなく当たり前に思い、そのように扱われてきた。でも、反対に動物にも命あり、尊厳を尊重しなくてはならないという考え方もあります。どっちに重きを置くかはその人次第。
とにかく日々耐える生涯を送るのは実は動物たちの方であることはなんとなく理解できた。以前のコロナ禍で、たった2週間の隔離生活にも不満爆発させる人間と比べてなんと意地らしい事よ。
癒してあげよう。動物たちを癒してあげよう。毎日優しく語りかけ、そっと触れて、安心させてあげよう。人間にはあえて管理下においた動物たちをそのようにする義務がある。責任がある。別に飼わなくてもよいのにあえて飼っているのだから。
デコポンは初め、フェラーリのロゴよろしく跳ねるし、噛むし、乗っかるし、暴れるし、到底癒される存在ではありませんでした!馬は大人しいというイメージが一瞬で崩れ去りましたよ。そんなことだからイベントも行けません。いつもウチでうろうろしているだけです。でもだんだんと変わっていきました。日々スタッフや私が声をかけ、触れ、共に過ごすうちに、その性格は落ち着いてきました。その時デコポンは癒されていたのだと思います。安心して過ごせる環境や孤独感の払拭によって精神が安定。いわゆる「癒された」のです。
でもその気分って一瞬で消えませんか?車で行って、目的地で癒されて、帰りにはその気分が半分になり、家ついて写真見てまた気分が上がるけれども、風呂入ると完全に明日の仕事が気になりその気分は完全にゼロになる。「癒し」って一瞬なんです。ほんの一瞬だけなのです。その一瞬を求めて人は行動し、それを繰り返すのですね。もっと言えば、その一瞬を欲しいがために動物の一生をお金で買うわけです。そして我々もそれに便乗して癒しを売っているわけです。
つまり癒しとは、一瞬の心の安らぎに過ぎないという事です。本当ならばそんな一瞬のためだけの物ではなく、継続的に楽しめるもの、夢中になれるものなんかがあればずっと心の安らぎが続くのですがね。もしくは定期的に癒しの時があってもいいですね。デコポンが毎日癒されて変わったように。習慣になれば素晴らしい効果があるのかもしれない。
人間社会に存在する動物たちはいろいろいます。愛玩、食肉、娯楽、実験、教育、盲導犬聴導犬、災害救助犬などの使役。こんなにもらってます。まさに命を賭して尽くしてくれている。そんな彼らに対して、我々はもっとくれと言う。癒せと言う。ちょっと求めすぎなんじゃないの?いくらなんでも傲慢だよ。
いやいや人間だってあげてるよ。たくさん。健康なご飯に、きれいな洋服、病気だって治せるし、おうちも衛生的だ。そのおかげで寿命だって延びてる。
しかしそれって全て人間が勝手に望んでしてることなんよ。「動物観」にならって。それに、それは義務と責任の範囲を超えてない当たり前のことなの。
そのことを是非理解したいよね。もちろん私も含めて。
ここらで一つ癒す側になってみよう。その行為自体にもまた癒されちゃうかもしれないよ。
実際にそうかもしれない。だってデコポンと話してると心が安らぐから。
<命の大切さとは?>
動育のテーマの一つである命の大切さ。世界中どこでも誰でも言っている「命は大切で尊いもの」だと。それは人間に限ったものではない。動物もそう。だからテーマにしているわけです。
その尊い命を失うとどうなるのか?当然死にます。という理屈から考えてみると、命ある方は善で死ぬ方が悪であるイメージともいえます。皆、死ぬのが、死なれるのが嫌なのです。なぜ嫌なのか?そこが分からないのに死が悪だなんて言いきれないのです。死は私たちにとってとてつもなく深く恐ろしいものなのです。なんせ得体のしれないものですからね、無理もない。そしてそれは、「いつやってくるか分からない」「どんな状況で死ぬのか分からない」「死んだあとどうなるのか分からない」だいたいこんな感じでしょう。そんな状況を、自分はもちろん動物にさえ与えたくないのです。
ペットロスって言葉があります。飼っていた動物が死んで、それにひどく落ち込み、立ち治れない状態を指します。
それくらいインパクトのある出来事なんですね。「死」って。
なのですが、かかわりの薄い死に関してはそれほどインパクトはない。これもこれでありますよね。「ふーん、死んじゃったんだぁ、ご愁傷さまです。」みたいな。
私が勝手に思うところの「死」ってこんな状態です。寝ているときの状態。とか、この世に生まれる前の状態。どちらの状態も少なくとも悪とは思いませんよね。むしろ何とも思わないのではないでしょうか。
「死」の役割として、永遠の別れもありますよ。もう一生直に会うことが出来ない。それが悲しいとか。でもそれは、この世でもたくさんありますよ。子供のころ引っ越しちゃった友達とか、旅先で出会った人とか。皆一つや二つあるんじゃないかな。
「死」を認めたくない考え方もありますね。天国とか極楽浄土に行けるとか、生まれ変わるとか、更に、生まれ変わったらまた人間がいいとか欲まで出しちゃって。人間しかやったことないのにどうして人間が一番いいといえるのか?ここでも傲慢さが出てますね。
動物に至っても「虹の橋で幸せに暮らしている」とか。思いたい、信じたいわけですね。
「死」はなぜ嫌なのか?勝手に後悔だけが鉛のようにのしかかり苦しいからです。「ああすればよかった」「こうすればよかった」「謝ればよかった」「したかった」「してあげられなかった」こんな感じ。死ぬ前は死にゆく自分に対して、死なれた時は死んだ相手に対して。だからそれが無いように日々活動すればよいのよ。
いつでも今日が最後のように、明日も会えることは単なるラッキーなんだと。
人間も動物も単なる生き物だ。なんか死なないと思っての活動が多すぎる。それは大きな大きな間違いなんだよ。癌の特効薬が開発されても、超健康的な生活を送っていても人間も動物も絶対に死にます。
それを理解納得するべし。
で、なぜそれでも「命は大切だ」と言うのか。それは生きているうちにやれることはやっておかなければならないという教えだからだよ。「命ある今現在、後悔を残さないよう、自分に対して、他者(もちろん動物も)に対して活動する時間」だという事。いつ死ぬか分からないのだからやっとけよって話。
動物は「死」の認識はある者がいるとしても、その概念が人間と同じかは分からない。直接聞いたことないから。だから無いと仮定してみると、ひたすら生きていることになる。生きるだけ生きたら死ぬのだ。長生きするためにどうとか、死にたくないとかそんなこと全然関係ない。生き抜いたら死ぬ。それだけ。なんか武士道精神のようであまりの潔さに感服いたします。
つまり、「命は大切だ」とは、死なないために生きていることを大切にって意味ではないってこと。死んでいくために今の時間を有効活用せよってこと。
動物に対して、「大切な命」ってまだ回答できてないね。
よく、動物を触って「温かい」「心臓の鼓動を感じる」などが感想としてあります。それは生きているという確認というか、分かってはいるけど再認識というかそんな感じです。
人間同士で手を握っても同じ確認ができますね。動物も生きてるってことの敢えての確認なのでしょうか?確かに小学校1,2年生くらいまでならそれで十分かと思います。まさに「動育」の守備範囲です。
けれども、動物にとってそんなことは全く関心もない事だと思いますよ。あくまでその言葉って「動物観」からみた人間の感覚だからね。だから人間の側からの考察としてみていかないといけない。
生きている者すべてにおいて命はたった一つ。たった一つだから大切にしないといけない。いわゆる細胞が活動しているこの瞬間を大切にせよってこと。それは動物も同じですからぬくもりや鼓動を感じてその状態を認識しましょうねって感じじゃないかな。
でもそれはあくまでもほとんどが愛玩動物に向けられた言葉ですけどね。
なぁデコポン、俺たちは生きるために生きて、死ぬまで生きるだけだよな!今何をしているのか?それさえよければ満足なのさ。
<賢いとは?!>
「ウチのワンちゃん賢いの」「YouTubeのあのハリネズミ賢いね」・・人間はなぜか「賢い」に異常な反応を示す。あたかもライバルが現れたかのように。そもそも賢いという考え方は、動物に当てはめて適切なのだろうか?
結論、人間の賢いを動物に当てはめるほど意味のないことは無い。
賢いことを知性とするならば、まずはそれ以外の部分をざっくり比較してみる。
運動能力は?人間は劣ります。飛べるか?人間は飛べません。戦闘能力は?丸腰なら人間は弱いです。
まぁ優っているのは認知機能くらいなんです。でもその認知機能(知性につながる)がとてつもなく秀でているため、勘違いしちゃってるのです。そんなことも勘違いしちゃうくらいですから、人間なんてのも特に賢いわけではないのです。
人間はコミュニケーション能力も脆弱だと思います。同一民族でも複雑な言語に頼らないと意思疎通が難しいし、国が違えば言語も変化し交流できなくなる。対して人間以外の動物にはその壁は存在しないように思う。(科学的根拠なし、私の意見)
動物が賢いとされる場合、研究以外の一般の場合、単なる自慢の種に過ぎない。飼っているペットがこんなことできるの!と世間にいいたい、見てもらいたいだけ。そんな動画や話を聞いた他のペットの飼い主たちは、うちの子も!さらにうちの子の方がすごい!などと始まる。まさにライバルの出現なのである。「賢い」で出現するライバルとは、人間同士なのである。バカバカしくもあり、ほほえましくもある。つまりは実に暇なのだ。
研究において動物の賢さを解明することはなぜなのか。それはその賢さを活かして、人類に貢献できるようにするためです。つまり科学が介入してきます。人間は貪欲です。他種の知性まで欲しがり奪い去るのです。
「知性の高い人間」は欲しがり病です。持っていないもの、他人が持っている者を欲しがります。まぁその欲が留まることを知らないからこそ、現代文明の発展はなされたと言えるでしょう。国が欲しけりゃ戦争し、金が欲しけりゃ悪事を働き、行列を成して物を買う。
もう欲しくて、欲しくてロクでもないこともたくさんです。
こう考えてみると、本当に高度な知性は必要なのかとさえ思うわけです。知性が高い我々は幸せなのでしょうか?
デコポンは馬である。馬も知性が高いとされる。でもデコポンといるときはそんなこと考えたことなどない。そこに知性など微塵も必要ないのです。
動物たちは、日々食べ、繁殖し、種を次世代に繋げていく。それで十分生涯を全うしているように思えます。それができるだけの知性しか必要ないのです。
知性の高い人間たちの中で全うした生涯を送った!と言える人はたくさんいるのでしょうか? そう考えてみると、高度な知性と幸福な生涯との関係性は無く、もはやあまり必要ないのかもしれませんね。
地上はもちろん、深海の微生物や宇宙まで人類は知性を武器にその謎に挑み、解明しようとしています。地球史上から見ればポッ出の人類なんて輩が一体どこまでわかるのでしょうか?と思っていることでしょう。
そもそもそれ自体が不必要な気もします。ブルシットジョブ的な・・
知らないことを知る楽しさや、素晴らしさもあります。そんなことは当然知っています。
が、謎をあえて残す寛容さもあっても良いのでは?とも思います。我々は知性があるから、なんでも科学の力で解明できる!それは傲慢なだけ。謎を残す寛容さとはつまり謙虚さで、傲慢に対する盾となるのです。
賢さを自慢し優先し、賢くなるために日々奮闘する人間にとって「賢さ」とは最も重要かつ重大なものなのです。ですのでそれが他種の動物であろうと、植物であろうと、その片鱗を垣間見た瞬間に反応してしまうのです。
私は知性のかけらもないような性格、生活を重視した生涯を望んでます。
でも結局、知性のかけらもないような性格、生活も、そもそもそれがどのようなものなのか僅かな知性を振り絞って考えてしまいます。まさに本末転倒。私も賢さ信仰の呪縛にがんじがらめなわけです。
とどのつまり、行き過ぎた知性なんて邪魔なだけ。多くは必要ないのです。
お互い僅かな知性をもって動物たちと不確定なコミュニケーションをとるだけでいいのです。その方が相手の事を考えたり、思ったり出来ます。喜んでくれると嬉しいし、喜ばないと「なんでかな?」と考える。そんな不確実な、不確実だからこそ素晴らしいコミュニケーションが完成するのです。
私は、デコポンたちとそんな生活がしたいです。
デコポンはどうだい?そう思うだろ?
デコポンからの贈り物
最終章
<動物を飼うという事>
いままで色々書いてきましたが、結局私は、一介の動物飼いに過ぎず、動物園をやっている以上、最終的にこのことは記しておかなければならない。
動物を飼うという事・・・それは十字架を背負うことである。責任や後悔、我慢や忍耐、経済的にも感情的にも様々なものを背負い込む行為だと思う。
そのかわり、幸福感、心の豊かさ、慈愛心、絆感、思い出などを受け取れるかもしれない。
ただ十字架を背負っただけで何も貰えないかもしれない。
死の別れに絶望するかもしれない。
でも隣には確かに自分を信じきっている相棒がいる。
私の人生の中に確かに存在し、共に過ごした相棒がいる。
そう思える人生も悪くないと、デコポンを眺める私には思えるのです。