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味のしない日

 いつのまにか曇天が広がって薄暗い空のなか。あれだけ楽しみにしていたのに、古橋くんと一緒にお弁当を食べても、心にある不安が晴れることはなかった。

 校舎のてっぺんにある屋上は、昼休みになっても殆ど人がいない。

 ところどころペンキが剥がれた鉄柵と、一部が地割れしたようにヒビが走る固いコンクリート。何も敷かずに座ると、お尻が少しだけひんやりとする。膝の上に乗せたランチバックも保冷効果でひんやりとしていて、取り出したお弁当の色鮮やかさと、彼の笑顔だけが、何か救いのように思えた。


(……あれ?)


 おかしいな。甘い味付けにした鳥の照り焼きも、人参しりしりも。口に運んだ全ての味がぼやけているように感じる。

 ――どうしてこんなに味がぼやけているんだろう。味見をしたときは、確かに美味しいと思ったのにな。


「んんっ!この照り焼きうまいのう!それにこっちの人参のやつは……うん、うん、初めて食べたが食べやすくてうまい!」


 しかし、古橋くんはいつもと変わらない様子でお弁当を食べていた。

 まずは一番に鳥の照り焼きを一切れ食べて、それをおかずにおにぎりを頬張って。ぐあっと開く大きな口からは浅黒い肌によく映える白い犬歯が目立ち、――彼はきょうも良い食べっぷりだ。

 あれが美味しい、これが美味しいと弾む声に続く良い笑みを見ていると、決して嘘には聞こえない。嘘だとも思っていない。

 でも、私が食べるものすべては味がぼやけていて、古橋君の声も今だけは分厚いガラス越しに聞いているように、少し遠くに感じた。


「……」


 いつしか、此方の返答もから返事になっていたらしい。

 遠くなっていく音に視線が落ちて、手が止まる。


(なんだか食欲がわかないな……)


 まだ食べ始めで、絶対にお腹いっぱいになる量ではないのに、喉の奥が詰まって胸の中が膨らんだような息苦しさがある。


「……そうなんだ」

「うん、いいね」

「あはは、ほんとに?」


 口に出しているはずの返事は、どれも自分でも聞き取れないほど小さかった。

 あれだけ見たいと思っていた彼の笑顔がまぶしくて、直視できなくて。味のぼやけたお弁当ばかりを見つめてしまう。見ているうちに色鮮やかだったものも彩度が落ちてきて――目の前の光景がぼやけはじめたその時、不意に目の前でパタパタ手が動いた。

 気づけば、古橋くんがわたしの目の前で軽く手を振っていたのだ。


「おーい、相沢―?」

「……え?」


 ポカンと顔をあげた私に、彼は少しだけ眉を寄せて言った。


「どうしたんじゃ。さっきから返事がふわふわしとるぞ」

「え、あ、ごめん……ちょっと、ぼーっとしちゃってた」

「……ならええが、……何かあったんか?」


 少しばかり伸びてしまった前髪を指で掬われて、真っ直ぐに向けられた眼差しが私を見る。

 心配を滲ませた言葉。その問いかけは、あたたかくて、まっすぐで。嬉しくて、でもちょっとだけ、見られたくなかった気持ちもあって。あたたかさと照れくささと、少しだけの申し訳なさが胸の中で混ざり合う。


「……ううん、本当になんでもないの。ただ、ぼーっとしてただけっていうか」


 ……流石にこれは苦しいかな。

 小さく笑ってごまかしたつもりだったけれど、彼の視線はまだ心配そうに此方を見つめている。


「それは構わんが……どうしたんじゃ。さっきは元気にシュートもパスもしとったろ」

「ぅ、え、見てたの?」

「おお」


 意外な言葉にふっと息が抜けて、返した言葉は少し上ずっていた。

 古橋くんもその言葉に少し驚いた顔をしていたが、すぐにニッと白い歯を見せて笑い、


「見とったぞ、オウンゴールしかけて慌てて加藤にパスしとったじゃろ」


 と、少し弄るように言った。


(……別にうまくもないのに、ちゃんと見てくれてたんだ)


 自分で言うのもなんだけど、私はバスケがうまくない。

 というか運動に関しては全てにおいて苦手だ。縄跳びだっていまだに二重とびが出来ないし、バレーをやっても手に当てる事が精いっぱいだし。だからそんな私がバスケをするところを見たって、運動のできる彼からしたらつまらないものだと思う。……でも、それでも頑張っていたことを見てくれていたんだ。

 彼がどういう気持ちで見ていたかは分からない。もしかしたら、たまたま目に入っただけかもしれない。いいや、きっとそうに決まっている。でも、彼が見てくれていたというその事実が、少しだけ胸を温かくして、目頭がツンと熱くなった。


(私の頑張りを見てくれる人も、ちゃんといるんだ)


 そう思うのに、心の奥に沈んだはずのモヤモヤが、また顔を出してきてお腹の奥底で渦巻く。なんだか心が二つあるようなその感覚は重く沈み込み、咄嗟に彼の袖を掴んだのは、――無意識に助けを求めていたんだと思う。


「……っあのね、……あの」


 でも、どうすればいいんだろう。

 どういえばいいんだろう。

 小田切さんが私に酷い事を言ったんだって?

 そもそも彼に言うことで告げ口にならないかとか、でも彼には私の気持ちを知ってもらいたいとか、いろんな気持ちと不安が押し寄せる。ぐちゃぐちゃになった気持ちは糸みたいに絡まって、意識すればするほどお腹の中でかき混ぜられるようで、胸のあたりまで何かが込み上げてくる気がした。


 一瞬だけ、喉の奥がぎゅっと締まって、思わず口元に手が伸びた。

 手が口元に触れた瞬間、「カタン」と小さな音がして、膝の上にあった弁当がゆっくりと滑り落ちる。

 古橋くんは背中に手を当てながら声を上げた。


「っ相沢!」


 ――あ、なんか、駄目かも。

 目の前が黄色くなって、グニャリと歪む。自分の身体を支えなければいけないのに、目の前が歪んでどこが地面で、今ある手がどこにあるのかが分からない。それでもどうにか迷惑をかけたくないという一心で「なー、んちゃ、って」と言ったのは、あまりにもへたくそな嘘だったのかもしれない。

 古橋くんの表情が固まったあと、眉間に皺が寄って、悲しげな表情が私を見た。


「……馬鹿、なにがなんちゃってじゃ……」


 絞り出すような、力ない声。

 背中に当てられた手が、熱い。


「……もう一度聞くぞ。……何かあったんか」


 声色は優しい。

 途中にある沈黙だって、言葉を選んでいる風だった。その気遣い溢れるそれを真正面から受けてしまったら、もう堪えることが出来なかった。


「少しだけ……少しだけね、……嫌なことと言うか、もやっとしたことがあって」


 遠くで響く笑い声の中、私の声は、びっくりするほど小さくて弱かった。


「もやっとしたこと?」


 沈黙。

 私はその場で深呼吸をして、奥底にある感情を絞り出すように言った。


「小田切さんと、坂本さんと前田さんに、更衣室で声をかけられたの」

「小田切が?」

「うん……それで、……その、……“自由でいいよね”とか、“だから龍之介に尽くせちゃうんだろうな”とか……。ただの噂とか、……そんな感じ」


 何故だか分からないけれど、言葉を絞り出す間は、息継ぎを忘れていた。

 だから最後の方はきっと声がかすれていたと思う。言い終えたあとはようやく詰まっていたものが抜けたような感覚とともに脱力して、ハアッと息が零れ落ちる。

 でも、視界にある古橋くんの姿が揺れたような気がして、顔を上げると彼はこちらがハッとするほど目を見開くようにして、心をザワザワと揺らしていた。


「……なんじゃそれ……」


 まるで喉の奥から、無理やり吐き出すような低い声だった。

 目の前の古橋くんが、怒りと戸惑いを胸に抱えたまま、ぐっと拳を握りしめているのがわかる。

 触れたら手を振り払われそうな、そんな肌を焼くような緊張感。それは助けを求めていた筈の私の心を大きく波立てて、怖いという感情が叫んでいた。


「っ……でも……っ、ことを荒立てたいわけじゃなくて!」

「そうかもしれんが、お前の事情を知らずに踏みにじったんじゃぞ!そんなの許せるはずが――」

「──ッ古橋くん、……っ龍之介くん!!」


 声を大きくして言った瞬間、空気がぴたりと止まった。

 心の奥から飛び出したその言葉は、私自身も驚くほど強くて、そして震えていた。

 普段なら絶対に呼べない“下の名前”――だけど、今はそれしかなかった。だって、このままだと、彼は小田切さんに言いにいってしまう。それが正しいことだとしても、私は、今だけは――それを止めたかった。

 沈黙の末に、彼の目がわずかに揺らいだ。噛みしめた唇が和らいで、怒りの熱が音もなく冷えていく。そうして、さっきまで燃え上がっていた彼の気配が、すこしずつ、静かな呼吸へと変わっていった。


「お願い、古橋くんは……言わないで……」

「なんで……どうしてじゃ、これじゃあお前が言われっぱなしじゃろ……」

「いいの、だって私は悪いことなんかしてない。……それに、それを古橋君が言ったら、私はまたいいよねって言われちゃう」


 声が震えた。涙が喉の奥までこみ上げてきて、どうにもならなかった。

 目頭が熱い。息がうまく吸えない。胸の奥が、きゅっと締めつけられて――ぐらりと、体が傾く。それを古橋くんは慌てた様子で支えるも、私を見つめた古橋くんは、言葉もなく、そっと私の額に触れた。


「……相沢……熱、あるんじゃないか?」


 低くて柔らかい、でも焦った声。驚きと戸惑いが混ざったその声音は手を当てた額を指しており、額には彼のじんわりとした体温が映る。それがなんだか緊張を和らげるようで、心の奥で張りつめていた糸までぷつんと切れて、心が、ほどけた。

 そして、意識も、一緒に――。




 ──あのあと、相沢は高熱で早退することになった。

 体温は三十八度五分。保健室の先生は「ここまで高いのに、よく気づかなかったねぇ」と驚いていたけれど、相沢はただ、ぼんやりとした目で天井を見ていた。


「……だって、今日……水曜日だったし……」


 蚊の鳴くような声でつぶやいたその一言が、なぜか胸に刺さる。

 濡れた前髪が頬に張りついていて、タオルを敷いた枕には小さな汗の跡がある。……彼女は熱に気付かなかったと先生に説明していたが、本当にそうなのだろうか。どこかでウイルスを貰ってきたのか、それとも精神的なものなのか。

 真っ赤な顔でクッタリとしている彼女を見ていると、可哀そうという感情よりも腹の奥底に沈む感情が蝕んで、ふと、目があった相沢が小さく笑った。


「……ごめんね、古橋くん……迷惑かけちゃった」

「……そんなことおもっとらん」


 それだけ言って、傍に座る。

 本当に、迷惑なんて思っていない。むしろ、倒れるくらいならもっと頼ってほしかった。しかし、その思いなんて全く届いていないようで、彼女はこの件を罪と思っているのだろう。彼女はただ申し訳なさそうにするだけで、沈黙のなか遠くで聞こえる時計の秒針の音がやけに大きく響いていた。

「……相沢」


 呼びかけると、ぼろりと涙がこぼれた。


「ごめ……ごめんねぇ……わ、私……迷惑かけたいわけじゃないのに……っ」

「古橋、くんに、迷惑かけたくなか、った……っ」


 振り絞るような声。

 泣き声はくぐもっていて、声にならない部分は、全て涙で伝わってきた。

 いつもの彼女だったら、こんなふうに泣かないと、思う。いや、正直なところ彼女が泣いているところを見るのは初めてだ。……それぐらい、彼女との縁は浅い。でも、それでも熱で顔を真っ赤にしたまま涙を零す彼女を見ていると、堪えていたものを全て熱が緩めてしまったんじゃないかと、そう思った。


「……俺は、迷惑になんか思っとらん」

「っ、……う、うそだあ……っ」

「嘘じゃない、絶対に」


 そっと、彼女の手に自分の手を重ねた。

 指先が冷たくて、でも震えていて。細い指が、かすかに握り返してくる。


「のう相沢。放課後、お見舞いにいってええか」

「……う、ん」


 彼女の目が、ほんの少し潤んだまま、こちらを向いた。


「きて、くれるの?」

「おお。それで……行きたいって言う奴がおったら、連れて行ってもええか?」

「……いるかな、そんな子」

「……はは、おったら連れてく。おらんかったら……俺が、独占するだけじゃ」

「……ふふ……」


 微かに笑った相沢の表情は、泣き顔のままだったけど、どこか安心したように見えた。

 そのまま保健室のベッドで、ゆっくりと目を閉じた彼女を見届けてから、俺は立ち上がった。


「……じゃあ、またあとで」


 ほんの少しの静寂のあと、小さくうなずいた相沢の声が背中越しに聞こえた。

 しかし、下校時刻を知らせるチャイムが鳴っても、心は落ち着かなかった。

 廊下の向こうに見える影を確かめて、一直線にその背中に声をかけた。


「小田切」


 足を止めた小田切が、振り返る。いつもと変わらず、向日葵が咲いたようなパッと華やぐ笑み。けれど、俺の顔や空気を読んで決して明るい話題ではないと悟ったのだろう。彼女は共にいる友人たちに「先に帰ってていーよ」と先に帰るよう促すと、打って変わって刺のある視線を向けた。


「どしたん、そんな真面目な顔して」


 なんでもないような顔色。

 なぜ彼女は人を傷つけておいて、素知らぬ顔が出来るのだろう。

 その思いは予想以上に冷たい音となって、零れ落ちた。


「お前、最低じゃな」


 その言葉に、空気が一変する。

 小田切の目が大きく見開かれ、一瞬言葉を失ったあと、鋭く睨みつけてくる。


「……は?なにそれ。喧嘩売ってんの?」

「喧嘩を売っとるんはお前の方じゃろ。──相沢に、よくもまぁあんなことが言えたのう」

「……なに、何の話してんの」

「とぼけんでええ、自分が一番分かっとる筈じゃろ」


 視線がぶつかる。

 昇降口のガラス越しに、夕陽が差し込んで、二人の影を床に映し出す。小田切は息を呑んで、しばし沈黙したあと、ふてぶてしく笑った。


「あー……そっか、相沢さんチクったんだ?でもまぁ、言い方は悪かったかもだけど、事実でしょ?」


 その言葉に、自分の中で何かがカチリと音を立てて割れた。


「小田切、お前、俺と出かけたい言うとったな」

「え?なに、急に話飛びすぎじゃない?」

「だったら今日、俺についてきてくれ。相沢の家に、お見舞いに行く」


 言いながら一人さきに歩き、下駄箱で自分の靴を地面に落とす。

 その衝撃はしんと静まり返った廊下に強く響き、僅かに舞った砂埃が薄く広がっていく。

 小田切はまだ後ろで足を止めていたようで足音はしない。けれど、俺は一度だけ息を吸って、それから低く、確かな声で言った。


「相沢のこと、知らんじゃろ」

「は?」

「家庭のこととか、生活のこととか。頑張っとる理由も、どんな思いでおるかも。……何ひとつ、分かってないのにお前はああいうことを言った。そうじゃな」

「なにそれ。私がそんなの、知るわけ──」

「──だから見せるんじゃ。今日の放課後、少しだけ時間くれ。付き合ってほしいとこがある」


 小田切の口元が強張って、歪む。


「……意味わかんない。なんで私が……」

「別に強制はせん。でもお前が“言ったこと”に、少しでも責任を感じとるなら。……少しでも“間違ってたかも”って思う気持ちがあるなら、来てほしいんじゃ」

「……」


 沈黙。

 目の奥に揺れるものは怒りなのか、戸惑いなのか、罪悪感なのか――。

 それを正確に読み解ける術はなかったが、

 

「そんなの、知らないし……」


とぽつりと言ったあと、


「……いいわよ行けばいいんでしょ」


 すぐにそう言って、手に持っていたプリントをくしゃりと折り曲げた。


「そのかわり、変なとこだったら帰るからね」


 ふと見ると、彼女の手が、ほんの少しだけ震えていた。

 罪悪感を押し込めるように折り曲げたプリントの角が、無理に力をかけすぎたせいで深く折れている。その小さな震えが、彼女の「気持ちは割り切れていない」ことを黙って物語っており、並んだ俺たちの影はいつもより少しだけ重たく、長く伸びていた。


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