水曜日じゃない日の君
「きょうの日直は、悪いけどプリントとか職員室まで持っていってー」
四限目終わりに先生から頼まれたのは、ノートとプリント冊子の配達だった。今日の日直は私と川上くん。量こそ多いが二人で手分けすれば難なく終えられる程度で、多分、先生もそれを見越しての指示だったと思う。
しかし、残念ながら日直の川上くんはインフルエンザで欠席。日直は私しかおらず、一人でやることを考えると、一往復での配達は難しそうだ。
頼みの綱であるユズを頼ろうにも、何かを察したように「あ、図書委員会が」とかなんとかいって教室を出てしまうし、他の友人たちも以下同文。……なんて薄情な友人たちなんだ。ここで薄情者!と言っても良かったが、こうしている間も時間は過ぎてゆく。
時刻は昼休みに入って六分ほどが経った頃合い。教室内は食堂に向かった生徒が抜けたことで疎らになっており、さわやかな風が白いカーテンを揺らしていた。
「ウダウダ言っていたって、ノートたちに足が生えるわけはないんだし……やるしかないかぁ」
意気込みついでに袖を捲り、試しにプリントの束を持ち上げる。
ああ、どうして今日に限って提出物が多いかな。普段は勉強アプリでの提出が多くて、ノートを見ることなんてそうはないじゃない。
クラス全員分用意されたプリント冊子。塵も積もれば山となるとはまさにこの通りで、一部では軽いプリント冊子も、持ち上げるとズッシリとした重さがあった。
(う……重い……)
とてもじゃないけれど、これにノートの山を積むことは出来ない。とりあえずこのプリントの山を崩さないようにだけ注意をして、背筋を伸ばして体制を整える。ざあっと涼やかな風が一番上のプリント冊子をパラパラと気持ちよく捲ると、瞬きの間に背後からヌウッと手が伸びて、プリントを持ち上げた。
「相沢、俺も手伝う」
振りむけば、古橋くんが立っていた。
名前を呼ばれただけなのに、心が少しだけ軽くなるような。私の隣で軽々とプリント冊子を持ち上げる古橋くんは、ちらりと机に残ったノートの山を見る。「持てそうか」と尋ねる声には気遣いがあり、頷いてノートを持ち上げたが……さっきよりも随分と軽い。手伝ってもらうならこっちの方がいいんじゃ……と見上げると私の目には、きっと心配が混じっていた。
「古橋くん……いいの?今日って学食だよね」
なんせ、学食は激戦区だ。冷水器に近い場所はいつも人気だし、端にあるスペースなんて広いスペースもそのまま居座ってダラダラ喋られるとよく取り合いになっている。――何より学食の人気メニューは早くいかないと売り切れになってしまうことも多く、彼ほど食べる人なら絶対に早く行った方がいいに決まっている。
しかし、古橋くんは私を見て、それから教室内に残っている真田くんに向けて言った。
「真田ぁ!悪いが、俺の席もとっといてくれんか」
「はいよー、飯はー?先買っとこうか?」
「いや、それは悪いから席だけ頼む!」
それに続いて、真田くんの隣にいる小田切さんが言う。
「龍之介ってば誰にでも優しいよねー」
「おお、そうじゃ。俺はいつだって優しいんじゃ」
多分、小田切さんの言葉は私に向けた牽制という奴だ。古橋くんはそれを適当に躱して笑い飛ばしていたが、小田切さんの睨みが私に刺さる。
……すごい、少女漫画に描いてあることって、意外とリアルだったんだ……。
小田切さんは、とても目がクリクリとしている。だからそんな目で此方を睨まれると中々の迫力があるもので、それから視線を逸らすうちに彼らは歩いていき、残された古橋くんについて歩きだしたのは、すこし後のことだったと思う。
教室のドアをくぐって、プリントとノートを手にしたまま並んで歩き出す。
窓から差し込む昼の光が、廊下の白い床をほんのり照らしていて、足音が少しだけ響く。
「……相沢の方、重くないか」
「うん、大丈夫だよ。……ありがと、古橋くん」
返した声はいつも通りなのに、内心では全然“いつも通り”じゃなかった。
だって、古橋くんと“水曜日以外にも並んで歩いてる”。
しかも、廊下の真ん中。プリントとノートを抱えて。
「……なんか、不思議だね」
「うん?何がじゃ」
「古橋くんと、こうやって並んで歩いてるの」
「昨日も一緒に並んで歩いたじゃろ」
笑い混じりな言葉に、あのとき感じた肩への感触を思い出す。
言葉に詰まっていると、古橋くんもそれを思い出したように黙り込んでしまい沈黙が続く。その間、遠くで聞こえる生徒たちの声は談笑ばかりで――ふと、その声に混じって視線が此方に向いていることに気が付いた。
「ねえ、あれって……」
ひそひそと、ひそひそと。視線に混じる興味の声。すれ違っていく生徒たちの視線が、やけに気になる。
断片的に聞こえてきた声や視線が指したのは、私と古橋くんで視線の殆どは女生徒からのものだ。
「……古橋くんって、やっぱり人気者なんだね」
誤魔化すように呟くと、隣の彼が首を傾げた。
「ん?なんじゃ急に」
「ふふ、こっちの話」
頭が良くって、運動神経も抜群で、優しくて。みんなが気になってしまう気持ちはよく分かる。それに、身長だって頭一つ分高いのに、歩くスピードが合っていることが、少し不思議だった。
間もなく職員室前まで来ると、ドアが少し開いていた。隙間から漏れる静かな話し声と紙をめくる音。ガラス越しに中を覗くと、数人の先生たちが机に向かっていて、なんだか落ち着いた空気が漂っている。
「ノックした方がいいかな」
「まあ、一応礼儀としてのう」
そう言って、軽くドアを叩くと、すぐに「どうぞ~」という返事が返ってきた。
引き戸を開けて中に入ると、ひんやりとした空気が肌を撫でる。教室よりも少し冷房が効いている気がして、ちょっとだけ背筋が伸びた。
「失礼しまーす。社会のプリントと、ノート……お届けにあがりましたー」
冗談まじりで言うと、近くにいた先生が笑いながら振り返る。
世界史担当の、立花先生だ。ノートとプリント冊子を受け取り、自分の机にある小さな犬猫フィギュアを退けてからそこに置くと、「あれ?」となにかに気付いた顔を古橋くんに向けた。
「ああ、相沢さんありがとうね。……って、今日の日直って古橋くんだったっけ?」
その問いに、すかさず私が言う。
「川上君なんですけど、今日インフルで」
「ああー……そうだったわね。うわ、ごめんなさいね相沢さん。古橋くんも手伝ってくれたの?」
「うん?あー……まぁ……重そうじゃったから」
龍之介くんが少しばかり視線を外す。気恥ずかしそうに後ろ頭を掻く様子はなんだか新鮮で、先生の目がジイッと私たちを見た。
「……なるほどねぇ」
……なるほど?
その含みのある笑みに、ちょっとだけ戸惑ってると──隣にいた担任の高橋先生が古橋くんをちらりと見た。
「古橋ぃ、お前、進路希望表もう出したか?」
その指摘に、ギクリと肩を揺らす古橋くん
「げっ……高橋……先生……」
そう呟く彼の声も、ものすごく嫌そうだ。
「“げっ”とはなんだ、“げっ”とは」
「いや……あの、ちょっと検討中で……」
面倒くさそうにしながらも、ちゃんと答えてる龍之介くんのやり取りが、なんだか微笑ましい。
(……でも、このあいだは大学行くって前に言ってたのに……)
何か事情でもあるのだろうか。
そんなことを考えていたら、次の矛先がこっちに向いた。
「それと、相沢」
「えっ、あっ、はいっ!」
「お前、最近頑張ってるらしいな。点数も上がってるって、他の先生が言ってたぞ」
「ほっ……本当ですか?!」
「ああ。ちゃんと勉強しているって伝わってるよ。ねぇ、立花先生!」
「世界史の小テストも上がっていたわよ。勉強頑張ってるのね」
確かに、世界史の小テストも数学に続けて驚くほどスラスラと書けた。これまでは無理に答えを引っ張り出して答えていたものも、全て答えがすぐ近くにあったし、難しいと思っていた数学の問題も難なく解けた。これも全ては水曜日のお弁当の日に、古橋くんと一緒に勉強会をしているからだ。
「この時代は食糧危機に瀕していたが、フリードリヒ二世が民衆にじゃがいもを広めて食糧事情を良化させたんじゃ」
「じゃがいも……あ、だからドイツってじゃがいもが有名なんだ」
「ああ、そういうことじゃな。あの時の食糧事情を良化させたものが今も深く根付いとるというわけじゃ」
彼の教え方は本当に丁寧で、私向けに教えてくれる。世界史なんて私が食や料理に興味があるからと興味分野を絡めて話してくれるし、そのおかげで勉強も進むし。
フリードリヒ二世の話を聞いた後は、どうしてもじゃがいもが食べたくなって、家でじゃがバターを作ったっけ。
だから、つまりはそう、全ては古橋くんのお陰なのだ。
思わず視線が彼に向く。
「古橋くん、勉強の成果出てるって」
そう言うと、古橋くんはふっと笑みをこぼした。
「そうみたいじゃの」
しかしながら、私たちは水曜日以外あまり隣り合って話したりはしていない仲だ。だからこうして共に顔を合わせて話す様子が新鮮というか不思議に思えたらしい。
「なんだ、古橋が教えてるのか?」
「へぇ、意外ね」
尋ねる先生たちの声色は、面白がっているように聞こえた。
「いやー意外だなぁ、てっきり古橋と相沢って接点ないのかと思ってたけど……」
「そんなことないですよ」
先生の言葉に、思わず声が出た。
実際、私たちは──水曜日には隣に座って、ちゃんと話して、ちゃんと関わってる。
だから、つい、口が勝手に動いてしまった。
「実は私たち──水曜日の弁当同盟でして」
「……は?」
「古橋くんにお弁当を作る代わりに勉強を教えてもらうという、まことにWin-Winな契約関係なのです」
「いや、なんだその説明。……なんだ相沢、お前そんな面白いこと言う奴だったのか?」
先生が笑いながら頭をかくと、隣で古橋くんがぽつりと呟いた。
「……まあ、あながちまちがっとらんけどな」
その言い方がなんだかちょっと照れたように素っ気ない。それに、いつもより少しだけ目元が和らいでいて、それがなんだか嬉しくて、つられて私もふふっと笑いがこぼれてしまう。
静かな職員室の中に、小さな笑い声がひとつ、ふたつと重なる。
私の声と、古橋くんの声。きっと、先生たちにも届いていたはずだ。
──“水曜日の弁当同盟”。
その言葉が、ほんの冗談のようで、でもどこか、ちゃんと私たちの関係を表しているようで。
何も知らないふりをしてくれている先生たちの前で、少しだけ胸を張るような気持ちで、私はノートの山を整え直した。
ふたりで持ってきた提出物。
だけど今、私の手の中にあるのは、もっと別の“何か”のような気がしていた。
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