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雨宿りと温もりと

 古橋くんが言ったように、彼のおうちはスーパーの裏手にあった。

 比較的新しい一軒家が立ち並ぶ住宅街。それに溶け込んだ日本家屋には、小さな庭がついていた。綺麗に整えられた木々に、白い石畳と、その隣に敷かれたつるりとした白い石。石畳を通って歩いていると、そのうちの一つに“りゅう”と書かれていた。

 年月を感じさせる掠れ具合と、幼い文字。

 これってもしかして――。


「これ、古橋くんがかいたの?」

「うわ……まだ残っとったんか、これ」

「えー……可愛い、そっかぁりゅうって書いたんだぁ……」


 あの文字を見ていると、小さな古橋くんが見えた気がする。しかし、古橋くんはそれがどうにも恥ずかしいようで、少しだけ気恥ずかしそうな顔が「これはええから、さっさと行くぞ」と言うと、背中を押すように肩を抱かれて玄関前へと歩く。

 その時、今まで以上に体が密集して一瞬息を飲んでしまったが……ちらりと見上げたときに見える褐色の肌がいつもよりも赤い。多分、その理由は私とはまた違う理由なんだろうけど。

 玄関前で傘を閉じた古橋くんは、横開きの玄関扉をカラカラと開いた。


「ただいまー」


 学校に居る時とはまた違う、少しくだけた言い方。

 その声に、柔らかい笑みを携えたおばあさんが出迎えてくれた。


「あらあら龍ちゃんおかえりなさい……まぁ、まぁまぁまぁ今日はお友達も一緒なのね」

「おん、雨が酷いから雨宿りしてもらおうと思ってのう」

「酷い雨だものねぇ。……あっ、立ち話というのもなんだから上がって頂戴」


 ちょっとバスタオルを取ってくるわね、というおばあさん。

 奥へと引っ込んだタイミングで、


「龍ちゃん、って呼ばれてるんだ?」


 と尋ねると、彼はまた気恥ずかしそうな顔で頭を掻いた。


「家じゃどこもそんなもんじゃろ」

「あはっ、確かにそうかも。私もおじいちゃんとかおばあちゃんにはちーちゃんって言われてるもん。親戚のお兄ちゃんなんか、昔はチーって言ってたんだよ」

「チー……は、猫じゃな」

「ふふん、可愛いでしょ」


 ……不思議だな。さっきまではあんなに気まずいと思っていたのに、いつもの水曜日になっている。

 その時、ようやく彼の顔をしっかりと見れた気がする。古橋くんも、フッと息を漏らすようにくしゃりと笑って、それで――ぐっしょりと濡れた肩を擦る。濡れた部分は色濃くなって、袖口には雫が垂れるが咄嗟に触れた肌は体温を感じないほどにヒンヤリと冷えていた。

 ああ、私は馬鹿だ。彼の気遣いも気付けないなんて。


「ちょ……っ古橋くんすごい濡れてるじゃないっ!」

「うん?あぁ、そうじゃのう。いやぁ、傘が下手でのう……」

「傘が下手ってなに?!」


 嘘が下手にも程がある。私を濡らさないよう傘を傾けてくれていたんだ。ポケットにいれていたハンドタオルを宛ててみるも、どう考えてもハンドタオルでは役に立たない濡れ具合だ。

 幸い、後からおばあさんがバスタオルを持ってきてくれたので良かったが……心配する私をよそに「俺は着替えてくる」と言う彼は飄々としていた。


「私のせいで濡れたのに……」


 古橋くんが風邪を引いちゃったらどうしよう。

 そう思う反面、先ほど肩を抱かれたときの大きな手の感触が、今になってじんわりと響く。

 ……私が濡れないように、してくれたんだ。

 そんなふうに思ったら、胸の奥がほんの少し、熱を帯びた。古橋くんはさっさと階段の方へ消えていったけれど、私はバスタオルを握りしめたまま、まだそこに残る“ぬくもり”を引きずっていた。


「ねぇ、良かったら上がってちょうだい」


 その時、立ちつくす私をみて古橋くんのおばあちゃんが案内してくれたのは、畳の上に座布団が三つ並ぶ、落ち着いた居間だった。畳の上にある昭和レトロっぽい、頑丈な造りをした座卓とその後ろにある低い棚。艶のあるべっこう色の棚の上にはレースの敷物が敷かれており、その上に写真立てだったり、どこかのお土産品っぽい置物がある。

 沖縄のシーサーに、北海道っぽい木彫りの熊。……あまり統一性はないのに、なんだか妙に落ち着く。

 縁側の窓には雨が細く筋を引いていて、いまだ雨は止んでいないようだったけど、それもまた妙に心を静かにさせる。


「はい、お座布団。あったかいお茶もあるから、ちょっと待っててね」

「ありがとうございます!あの、すぐ帰ると思うのでお構いなく!」

「はーい」


 おばあちゃんが出してくれた座布団は、ほか座布団にくらべて厚みのあるものだった。客用のものをわざわざ出してきてくれたんだ。ふかふかとした座布団に座り、てきぱきと台所に向かうおばあさんの背中を見る。

 ……私、こんなふうに誰かの家にあがるの、久しぶりかも。お父さんたちが死んじゃってから、だいぶ余裕が出来てきたと思っていたけど、案外自分が生活するだけで手いっぱいだったのかもしれないな。

 その時、ようやくなにか緊張の糸が切れたようにフッと息が零れ落ちて、どこを見るわけでもなくぼんやりしていると、戻ってきたおばあさんが、そっとお茶と一緒に小皿を置いた。


「え?」


小皿には、くったりとした輪切りのきゅうりが置かれている。


「ごめんなさいねぇ、甘いものは切らしてて。漬物くらいしかないんだけど」

「わたし漬物大好きです!」


 思わず即答してしまった私に、おばあさんがぱちくりと目を瞬かせる。それから目を線にして笑いながら、手をヒラヒラと縦に振った。


「あら~!それはよかった。ぬか漬けのきゅうり、ちょうどいい漬かり具合なのよ」

 自家製のぬか漬けを食べるなんていつ振りだろう。一度親戚の家にあったぬか漬けを食べさせてもらって「うちもやろうよ」っていったけど、お母さんが「ぬかの匂いがちょっと……」と微妙な顔でNGを出してきたんだっけ。

 小皿の端に置かれた爪楊枝を手にして、くったりしたキュウリを刺して持ち上げる。

 一口、ぱりっとかじると――


「……おいし……」


 思わず、言葉が漏れた。

 ぬかの香りがやさしくて、野菜の味がきちんとして。しょっぱすぎないその塩加減に、じんわりと頬がゆるんでしまう。


「あの……これって、私でも作れますか?家にいっぱい野菜があるんですけど少し保存に困ってて」

「まぁ、いいわねぇ。だったら、うちのぬか床をちょっと分けるわ」

「えっ、いいんですか!?」

「ええ、ええ。ばあちゃんがじっくり育てたぬか床よ。手間はかかるけど、その分きっと楽しいからやってみてちょうだい」


 おばあちゃん……!

 成程、古橋くんの面倒見の良いところとか、優しいところはきっとこういうところからきているのかも。私はそうやって感動をしていたのに、階段の途中から飛んできた古橋くんの声に、おばあさんと私は思わず顔を見合わせて笑ってしまった。


「っばあちゃん!」

「なぁに慌てとるの、龍ちゃん」

「いや、ぬか床なんか持たせるんは大ごとじゃろうが」

「大ごとじゃないわよ。昔は立派なお嫁入り道具だったんだから」

「昔じゃろそれは、今時女子にぬか床って……!」


 ばたばたと階段を下りてきた古橋くんは、いつもの制服じゃなくて、Tシャツとジャージ姿だった。濡れた髪をタオルでわしゃわしゃ拭きながら、私と目が合うと、なぜか少し照れたように眉を下げる。


「……ああ、えっと……変なとこ見せてすまんの」

「ううん。なんか、ちょっとレアだったかも」

「レアて……モンスターかなんかか、わしは」

「あはは」


 言いながらどかっと座った古橋くんが、無作為にキュウリの糠漬けを摘まんで口へと運ぶ。ポリポリと歯で噛みしめる音は妙に心地よく響いて、「龍ちゃんのも出そうかしらね」とおばあちゃんが席を外すと、私は古橋君を見て、それから呟いた。


「古橋くん」

「うん?」

「今日は、ごめんね。せっかくお弁当の日だったのに、勉強会、なしにしちゃって」

「なんじゃ、気にしとったんか。別にええ、買い物とかあったんじゃろ」

「ううん、そういうわけじゃないの。……今日、勉強会をやめたのは、用事があったわけじゃなくて……古橋くんが他の女の子にお弁当のオカズを渡して、……あーんされて、お弁当を作ってもらうって話をしてたから……それで、その」


 自分の口から出た言葉が、しんとした部屋に落ちる。

 それは情けないくらい幼くて、声も震えていたと思う。

でも、誤魔化せない気持ちだった。


「……あー……そういうことか」


 静かな沈黙の末に、古橋くんが相槌を打つ。

 いまは一体どんな表情をしているのだろう。呆れなのか、理解も出来ない顔なのか。目を合わせる勇気もなくて、私は視線を漬物の小皿に落とした。


「付き合ってもないのに、変だよね。……ごめん」


 ぽつりとこぼれた言葉は、やっぱり震えていた。

 こんな気持ち、見せるつもりじゃなかった。見せたくないから、きょうは彼を避けていたのに、どうして私は言ってしまったんだろう。

 古橋くんの了承のもと始まった、水曜日のお弁当の日。それは、私の中でとても大きな存在になっていた。水曜日をまだかまだかと指折り数える間も好きそうなレシピを探していたし、味だけではなく見た目も気遣いたいとお弁当の本まで図書館で借りるようになった。

 お弁当が出来上がるたびに心が跳ねて、それを移した画像を見返すたびに幸福いっぱいになる。だからあの時。古橋くんが他の女の子からアーンをされているところを目撃したそのとき、もしかしたらお弁当を特別に思っているのは私だけで、古橋くんは違うんじゃないかとか――ううん、古橋くんが他の子にお弁当というキーワードを使って絡んでいるところが嫌だったんだ。


 口にした途端、その思いが強くなって胸の奥がじわりと熱くなる。

 言わなきゃよかったかもしれない。

 でも、言わなかったらずっと、このままだった気もする。

 好きとか、嫉妬とか、そういう言葉を使わないまま、それでも確かに心が揺れていた。

 相沢千紗という人間の、一番見せたくなかった部分が、いま目の前の人にだけこぼれ落ちてしまった。

唇をかみしめて、じっと俯く。

 ……嫌われてしまったらどうしよう。

 そんな不安が、喉の奥で小さく鳴った。


「……いや」


 少し間をおいて、彼の声が返ってきた。


「わしのほうこそ、すまんかった」


 その声音は、いつものように軽くて、でもどこか静かで、温かかった。

 まるで、あのぬか漬けのように――少し酸っぱくて、でも心にじんわり染みるような。

 胸に張りつめていた何かが、ふっと緩むのを感じて、

言ってよかったんだ。

 とぽろりとこぼれそうになる何かを、慌てて飲み込んだ。


「……私、もうお弁当作らない方がいい?」


 勇気を出してそう尋ねると、彼はほんの一拍の後に、さらりと笑って言った。


「うん?いやいや、きちんと断ったぞ、わしは相沢の弁当だけでええと」

「え?」


 顔を上げると、古橋くんが目を細めてこちらを見ていた。

 その視線が真っ直ぐで、冗談みたいに軽いのに、冗談じゃないと分かる。


「なんじゃ、意外か?そう何人からも胃袋は掴まれんて」

「……うん」

「小田切の弁当が駄目とかそういうんじゃない。でも、俺は相沢の弁当がええ」

「本当?」

「ああ……また、俺に弁当を作ってくれるか?」


 それは、たった一言なのに――

 まるで「また水曜日を一緒に過ごしてくれるか」って、そう聞かれてるみたいだった。

 私はこくんと小さく頷いて、目を細める。


「ふふ、勿論」


 言ったあと、少しだけ頬が熱くなって。

 それをごまかすように、私はまたきゅうりの糠漬けをひとつ口に運んだ。

 ……やっぱり、おいしい。

 こんなにやさしい味がするのは、きっと、今この瞬間がやさしいからなんだろう。


 ああ、きっと、私はまたあの水曜日が楽しみになる。

 これからも、ずっと。


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