俺と彼女の温度差
「ごめん、古橋くん。今日は委員会あるから、別々で食べようか」
週に一度しかない、お弁当の日。
始めはちょっとした冗談のつもりだったのに、ものの見事に胃袋を掴まれていた。気付けば週一回のお弁当は俺の楽しみに。今日だって朝から一体何が食べられるだろうと楽しみで早起きをしたし、変に腹いっぱいになって食べられないと勿体ないからと朝食を減らした。
それなのに、俺とは違い、相沢は実にアッサリとした様子で弁当を差し出した。
「え?」
受け取った手のひらに収まる、ひんやりとしたランチバックの底。
それが自分と相沢にある熱量の違いを語るようで、どうにも腑に落ちないまま、その場に立ちつくす。
「一緒に、食べんのか」
「だってほら、私委員会あるし……」
確かに、相沢は図書員会に入っている。そのことは先週の水曜日にも聞いたし、昼休みには順番で当番をしているということも聞いていた。でも、先週は「水曜日には当番が被らないようにするね」と言っていたではないか。
自分の心情に合わせて、窓の外で風に揺れる新緑がサワサワと音を立てている。
その音に紛れて、ふっと一枚の木の葉が舞い上がった。窓の隙間から吹き込んだ風に乗って、ひらりと俺の額に落ちる。
反射的に手を上げようとしたそのとき、目の前に伸びてきた指先があった。
背の高い俺に向けて背伸びをして、木の葉をそっと摘み取ってゆく。
「……古橋くん?」
問いかける声は、いつもと変わらない調子。
俺の胸に渦巻いていた違和感にも、期待にも気づいていないような声色だ。
――この水曜日は、ただ弁当を貰う日じゃない。一緒に食って、「うまいな」って笑って、くだらない話をしながら食べる。それまでが“セット”だった。
だけど、それはきっと俺だけが思っていたことだったのか。
「千紗~!早くしないと遅れるよー!」
遠くから、篠田ユズが彼女を呼んでいる。
そういえば、相沢と同じ図書委員だったか。
「ごめーん!今いく!……古橋くんごめんね。私、いかなきゃ」
「……おん、じゃあ今日は勉強会だけじゃな」
「うん、感想はその時に聞かせて」
理由はなんであれ、相手は委員会の仕事があるのだ。
それを引き留めるだけの理由はなく、聞き分けの良いお利口な顔をして彼女を見送る。――しかし相沢なしの水曜日は久し振りだ。
「……別に、いつも通り学食で食べればいいだけの話……な筈なんじゃけどなぁ」
どうして、こうも虚しいもんか。
目的のものを手に入れた筈なのにどうにも心は弾まない。あれだけ待ち望んでいた水曜日なのに、喜びがあまりにも薄いのだ。
空腹のせいなのか、それとも別のことが関係しているのか。かといって腹を擦っても状況が変わることはない。此方を見ずに走っていった後ろ背を眺める姿はあまりにも寂しかったのか、いつまでたっても立ちつくす自分を見て、友人たちが声を掛けてきた。
「あれ、龍之介じゃない。今日は一人なの?」
初めに言ったのは、小田切早耶だった。
相沢よりも少し色味が強くて、スカート丈が短いギャルっぽい女。彼女はどうしてか此方に気付くや否や、なれなれしく腕を絡めて身を寄せる。俺の身長が高いせいかどうしても上目遣いになる彼女は猫のように頭を摺り寄せるが、こうも距離が近いと動きづらくて仕方が無い。
「相沢が委員会らしくてのう……おい、小田切。俺にひっつくな」
いつものようにやんわりと押し返しながら言うと、彼女は同情するわけでもなく、どこか機嫌よく言った。
「へー……じゃあ一緒に食べようよ」
「小田切と?」
「何よ、ぼっち飯よりいいでしょ。せ~っかく早耶が誘ってあげてんのに」
小田切の提案はありがたい限りだが、なんとなく、気が進まない。
だって、これでは相沢がいないことを理由に、他の女で場所を埋めるようではないか。
たしかにその誘いはぼっちであることを気遣ってのことだろうが、少しの躊躇が出てしまうことこそが答えだろう。頭を振り適当に断ると、外堀を埋めるように声が続いた。
「りゅーう、俺も居るから一緒に食おうぜ」
この声は真田だ。……珍しい。いつもは学食で食べているのに教室内に残っているとはどういう風の吹き回しだ。
「なんじゃ、お前も残っとったんか」
そう尋ねる声は、少し素っ気なかったように思う。しかし、真田は人懐っこくニカリと笑うと、顎を擦りながら言った。
「いやぁ、龍がすっかり弁当にお熱になってたからさ。俺たちも週一か、週二ぐらいで学食以外もいいかもってなってさ。見ろよ、俺の母ちゃんが作ったこの弁当!きのうはすき焼きでさぁ、その残りを入れてもらったんだけど、ご飯のところまで汁がいっちゃってビシャビシャで……」
此方にお手製のすき焼き弁当を傾ける様子は微笑ましい限りだが、なんだか上手く言いくるめられている気がする。まぁ、それでも一人になっているところを声をかけてもらっているのだ。此処まで誘ってもらっておいて、無下にするのも感じが悪いだろう。
「……おん、今日は相席させてもらうかのう」
そう言って腰を下ろした俺に、真田が軽く笑って机を寄せた。早耶はというと、もう当然のように隣にいて、カバンから弁当を取り出している。
今日の教室は日差しが強く、窓際のカーテンが風に揺れていた。いつもより少しだけ静かで、妙にその空気が肌に馴染まない。
自分もランチバックを置いて、弁当を取り出す。おかずが入った黒い弁当箱と、それと少し背の高い弁当箱。背の高い弁当箱は、多分竹を編んだ素朴なものだった。……前の弁当箱はでかい二段の弁当箱だったのに、今日は単体の弁当箱が二つ。そういえば初めて貰ったときの弁当箱は青色で、その次の弁当箱は丸い形をしていたっけ。
「なぁ、相沢。なんで毎回弁当箱が違うんじゃ?」
「その日入れるものによって変えてるの」
「同じものじゃいかんのか」
「駄目ってことはないけど、深いお弁当の方がおにぎりとか丼ものは入れやすいし……あ、それに、毎回お弁当箱が変わるとワクワクしない?」
その時は一体いくつの弁当箱を持っているのだろうという事ばかりに意識が向いていたが、今はあの時いっていた意味がよくわかる。
胸を擽るような、ワクワクとした気持ち。さっきまではあんなに気持ちが冷めていたのに、弁当箱を前にしてまた気持ちが再燃を初めて、弁当箱二つを並べて開くと、一番に真田が言った。
「うっわ、相沢ちゃんの弁当……すげぇ豪華なのな」
真田が目を丸くして、唐揚げと色鮮やかな煮物を指した。
「おお、俺だけの特別じゃからな。……いいじゃろ」
照れ隠しに肩をすくめる。蓋を開けただけでほんのりといい匂いが立ち昇る。から揚げに、人参とツナをあえたようなものに、以前お願いしていたあおさの卵焼き。
それから花の形に象った人参が飾り付けられた煮物と、ピーマンを塩こんぶであえたもの。端の方にはみずみずしい生のトマトがあり、竹編みの弁当にはずっしりとしたおにぎりが二つも入っていた。
「カー……ッ、モテ男極まりねえなぁ!」
「いやぁ、これは俺がモテ男とかそういうんじゃないぞ」
だって声を掛けてきたのは自分がモテているからではない。
自分が人よりもよく食べるからだ。
言いながら、携帯を向けて数枚撮ってみる。そういえば、蓋を開く前に獲るべきだっただろうか。……普段居ない奴の前でするのはどうにも気恥ずかしく、数枚だけに留めると相沢のLINEにいただきますのスタンプと、それから撮影した画像だけを送っておいた。
――が、目の前の真田は納得いっていないような顔をしていた。
「そうかぁ? 週一で弁当持たせてもらって、しかもこのクオリティで?」
言い返せない。
確かに、ちょっと特別扱いされとるのかもしれん。
口が緩むのを誤魔化すように「いただきます」と言っておにぎりを一つ頬張ると、横から早耶が箸を突き出してきた。
「龍之介、それ頂戴。そのから揚げ」
「はぁ?お前の弁当にも入っとるじゃろ。これはやらん」
「え、なんでよ、いいじゃない一つくらい」
そのまま手早く一切れの唐揚げを攫われる。あまりの速さに注意をするのも間に合わずにジトリと睨むと、彼女はパッと表情を明るくして言った。
「ん、美味しい………なにこれ、ほんとに美味しいじゃない」
頬を押さえて笑う早耶。
その顔が、思ってたよりも、ちゃんと嬉しそうで、一瞬言葉に詰まる。
「……じゃから、やりたくなかったんじゃ」
「いいじゃん、それだけあるんだから」
「そういう問題じゃないと分からんのか?」
誉められるのは嬉しいが、相沢の飯が減るのは困る。
何より、相沢の許可なく又貸しのようにやるのは申し訳がない。少し声のトーンを落として言うと、
「はいはい、じゃあ私の卵焼きあげるから」
とかなんとかいいながら、自分の弁当箱から卵焼きを一つ摘まんで口へと押し付ける。これもまた、あまりの速度で要らないと言うことも出来なかった。
「……ん、む」
口に入れると、意外にも優しい味が広がる。ほんのり甘くて、どこか懐かしい味。
「ど?早耶のも美味しいでしょ?」
そうやって笑う彼女はどこか得意げで、おそらく相沢に対抗しているのだという事は、その発言だけで分かる。
「……まぁ、美味しいが……」
曖昧に返すと、小田切は嬉しそうに声を弾ませた。
「やった~!今度から、私がお弁当を作っちゃおうかなぁ」
「は?」
「だって、私の作ったものも美味しかったんでしょ? ならいいじゃない」
笑いながらそう言った小田切の瞳が、どこか意地っ張りに見える。
──私は駄目なのに、相沢さんはいいんだ?
そんな風に言いたげな視線は真っ直ぐにこっちを見る。
「いや……でも、まあ……俺は今のままでええというか……」
うまく返せずに言葉が濁ったところで、真田が間に入った。
「はいはい、ラブコメしてないで食えって。あ、龍、おれそっちの卵焼きがいい」
「やらんと言うとるじゃろ!」
それから、「――ごめん、今日の勉強会はなしで」そう一言だけLINEが届いたのは、昼休みの後だった。
なんだか普段よりも素っ気ないような文面。何か急ぎの用事でもできたのか、それとも、具合が悪いのか。教室では席が遠いこともあり彼女と話す機会は無く、そのまま放課後になって声を掛けようと立ち上がると、相沢は此方も見ずに走り出す。
あまりの勢いに、「相沢ちゃんどうしたんだ?」と話題にも上がったが、他のみんなも状況が分からないらしい。視線はたしかに彼女に向いていたのに、三十秒ほど経てば自然とまた違う話題へと入ってしまった。
(……相沢、なんか変じゃったな……)
結局、相沢とは話せず。連絡も帰ってこず。真田と小田切と別れて頼まれていた買い出しを思い出して近くのスーパーに立ち寄った。
特売でニーキュッパになった米と、それからトイレットペーパーを買って店を出る。片方は米で、片方はトイレットペーパー。なんとも均等が取れておらず、やじろべえのように米側に傾いてしまう。それをなんとか均等になるよう持って外へ出ると雨が降っていた。
ざあざあどうどうと、まるで、昼の明るさまで洗い流すような土砂降り。目の前は真っ白になるほどの白糸が遮って地面を叩いており、その中を走っていく学生たちの姿にご愁傷様だと言いながら手にした傘から袋を抜くと、近くで「ええ、傘なんてないのに」という声が袖を引いた。
「相沢?」
「あ……。……古橋くん、ぐ、偶然……」
隣に、相沢が立っていた。彼女も同じように買い物帰りらしい。買い物袋を抱えたまま、彼女は少し困ったように笑った。
「奇遇じゃのう。どうした、今日は買い物で勉強できんかったんか」
「あ……そ、そう……かな?」
曖昧に返す彼女に、何か誤魔化されているとすぐに気づく。
もっと疎ければ、何も考えずにそのまま話を続けることが出来ただろうに。
「……なあ、相沢。俺、何かしたんか」
「え?」
「何か、嫌なことでもしてしもうたのかと思って」
沈黙。その沈黙は辺りの静寂に溶け込むようで、遠くからなり始めた雷の喉成りが音量を上げたと思った次の瞬間――ドンッと地響きのような雷鳴が空を叩き、相沢が小さく肩をすくめた。
「きゃ……っ」
「……っと、この状況で話す事ではないのう。のう、相沢。傘がないのならうちにこんか」
「え?」
「生憎いまは傘が一本しかないが、家にならいくつかあるし……何よりここにおるよりもずっとええじゃろ」
「でも……」
気まずそうに視線を落とす相沢。それを見て、「ああ、俺のじいちゃん、ばあちゃんもおるから、別に取って食ったりはせんぞ」と言ったのは、精いっぱいの茶目っ気のつもりだったと思う。
「っそんなこと思ってない!」
そういって顔を上げる相沢。昼休みぶりにきちんと目があった気がする。
ふっと息を漏らして笑うと、彼女は少しだけ気恥ずかしそうな顔をして尋ねた。
「……いいの?私が行っても」
「俺が誘ったんじゃぞ。いいに決まっとる。それに、うちはこのスーパーの裏手なんじゃ。少しのあいだ相合傘になってしまうが……我慢してくれるか?」
「我慢なんてそんな」
言いながらトイレットペーパーを持つ方で、鞄に入れっぱなしだった折り畳み傘を取り出してポンと開く。……いつもは微妙に重いんだよなと思っていたが、体のサイズに合わせた傘にして良かった。これならば、相沢を濡らさずにつれていく事が出来そうだ。
「相沢、もうちょっと俺の方に寄れんか」
「う、うん」
一緒になって、ざあざあどうどうと地面を叩く雨の中を歩く。
大雨のせいで、彼女の声は聞こえない。それでも口をはくはくと動かして笑う彼女に頷くと、ひんやりとした肩を見せぬよう彼女を内側へと寄せて、共に歩いた。
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