魂の器 第一部兄弟
■雅人、帰国する
「相変わらず此処は混んでんな。」
空港の到着ロビーは最近の日本旅行ブームのせいか、人種の坩堝と化し、彼等が発する多くの言語が混ざり合い騒めいている。
手書きの案内板を持つ者。
有名人の到着を待っているのだろうか、カメラを担ぐ者やマイクを握る者。
興味本位でそこに居る者等。
”どいつもこいつも、必死な目付きしやがって。”
雅人はレザーのキャップを目深に被り直し、ロビーに向けた視線のその先に、雅人に向けてしきりに手を振る女性の姿が目に留まった。
「マーちゃん、お帰りぃ~。」
ロビーに女性の声が響く。
雅人のことをマーちゃんと呼ぶのは、母親と姉の花だけだ。
見れば、二人の女性は飛んだり跳ねたりしながら手を振っているではないか。
”あ~・・・マジかよ。”
「ったく・・・恥ずかしいってば・・・もう。」
雅人は紅潮した顔を俯かせ、彼女達に小さく手を振り返す。
大きなスーツケースを引き摺り母と姉の前に立った雅人は、ちょっとだけ不本意さを滲ませつつ、
「ただいま。」と、小声で帰国の挨拶をした。
約3年振りにフランスから帰国した弟を待ちわびていた姉の花が雅人に飛びついた。
「もう戻らないかと思ってた。
でも帰ってきてくれて嬉しい、ありがと。」
花は柔らかな笑顔を浮かべて雅人の頬にキスをした。
続いて母の玉枝が待ってましたと雅人を抱きしめ、
「背伸びた?!
フランスに行く前はあたしより背が低かったのにw」
笑顔の母の目には涙が滲んでいた。
「175センチになったよ。
まだまだ成長中w」
雅人が母を抱き返すと、懐かしい匂いが鼻腔を掠めた。
”あぁ・・・母さんの匂いだ。
大島椿・・・変わらないな。”
雅人が母の抱擁を堪能している間、玉枝は雅人の頭を撫で続けている。
「大きくなったのね・・・嬉しいわ。
疲れたでしょ、兎に角、家に戻りましょうか。」
抱擁を解いた母の声は弾んでいた。
玉枝にとって末っ子の雅人は可愛いくて仕方無い、大切な息子なのだ。
雅人は4人兄弟姉妹の末っ子として生まれた。
生れた時、両親は四十を越えていた事で、周囲から恥かきっ子などと揶揄されたと聞く。
そんな雅人も17歳になった。
両親もそれに伴い歳を取った。
母は・・・そろそろ60歳に手が届く。
母親の愛を一身に受け育った雅人には、兄が二人と姉が一人いる。
まだ10代の雅人以外は皆成人していて、当然ながら仕事に就いていた。
母親にしてみたら手の掛かる子供が雅人だけとなれば、甘々に猫可愛がりしするのも仕方ないと言えた。
雅人達三人が腕を組み空港を出ると、漆黒のリムジンの脇に立つ秀介の姿があった。
秀介は、雅人の実家で庭師をしている。
60はとうに過ぎているはずだが、筋肉質で大柄な体つきは年齢を感じさせなかった。
敢えて年相応な所と言うなら、刈り込まれた銀色の頭髪と、目尻の皴・・・くらいか。
「お久しぶりです。
雅人坊ちゃんは、このまま日本に?」
荷物をリムジンのトランクに詰めながら、秀介が訊いてきた。
「只今、秀さん。
一応日本にいるつもり。
ウチで一人くらい国内の大学に進んでも良いかなってw」
「坊ちゃんなら欧米の大学でもいいでしょうに。
もしかして、ホームシックですか?w」
秀介は笑うと目が糸のように細くなる。
ゆるくカーブする目尻の皺や糸のように細い目を見た人は、秀介を温厚な好々爺だと思うだろうう。
本来の秀介と言う男が温厚の対極に棲んでいることなど、雅人を含む伊藤一族以外は誰も知らない。
現在、平井秀介は妻と共に庭師として伊藤家に住み込みで働いているが、過去平井一族は、明治維新を迎えるまで「庭番」「隠密」と呼ばれ、為政者の番犬として暗殺・謀略を生業としていた。
では何故、伊藤と平井が現在の形を成し得たのか。
それは、それぞれの一族が置かれた立場と歴史的背景による。
雅人の実家である伊藤家は、平安の世から天皇に仕える貴族や権力を持つ武士の刀圭家(とうけいか・・・調剤・医師)として、続く戦乱の時代も変わらず京都に於いて貴族達の医療に携わっていた。
後に京都を離れ関東に居を移した伊藤一族は、徳川治世下に於いて江戸に屋敷を持つ諸大名や江戸城で働く上位役人等の「御殿医(医師)」として、多くの歴史的重要人物や時代の変革に関わったとされる。
医師として医療に携わった伊藤一族の歴史は、有に千年は超えていると言ってもいいだろう。
歴代の為政者は、トップシークレットを扱う伊藤一族による情報漏洩を警戒したのも当然であり、平安の世では陰陽師率いる間者の監視を受けていたとされる。
幾つかの時代を経て後、初代江戸城主であった家康により、御殿医伊藤頼信を当主とする伊藤家は、縁故全てに庭番と称する監視を付けられたのも当然と言えた。
その庭番は明治になっても伊藤家から切り離されることはなかった。
時は流れ大東亜戦争終結後、GHQによって初めて庭番は伊藤家から分離されることとなる。
伊藤一族の監視の任に就いていた庭番も数百年に渡り世襲であった。
現当主伊藤葉一の父である伊藤正親によって、平井一門は庭番改め呼称を庭師とし、伊藤一族との共存共栄の道を選んだと言われている。
終戦以後、平井一門は伊藤一族の監視役から転じ、伊藤総合病院のリスクマネジメントと伊藤一族の警護を主な業務として活動を始めた。
彼らは各種武道・古武術を極めており、伊藤家の家族のガードとして必要不可欠な存在となっっていった。
そして平井一門の現頭領こそ、温和な好々爺にしか見えない秀介、その人であった。
平井一門を敬愛する雅人は、秀介の質問に照れながら応えた。
「ふふふ、ホームシックねぇ・・・確かにw。
食事が恋しくなったとかかなぁw
母さん、今夜のメニューは?」
雅人は母の肩を抱き寄せた。
「うふふ、うどんスキよ。」
「マジ!
もうね、母さん最高!!」
満面の笑顔の雅人達がリムジンの後部座席に雪崩れ込むと、秀介がゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
世田谷の経堂にある雅人の実家に向けて、車は静かに発進した。
季節は3月初旬。
桜が咲き誇るにはまだ早く、天気は冬と春の間を往ったり来たりと落ち着かない。
雅人が帰国した日の東京は、曇天の空と冬に逆戻りしたように底冷えする生憎の天気だった。
リムジンが屋敷に近づくと、鉄鋲の打たれた重々しい大門がゆっくりと開き、リムジンの長い車体を招き入れた。
リムジンは門をくぐり雑木林の中を暫く進むと、純日本風の屋敷の玄関前で停車した。
「荷物は坊ちゃんのお部屋に運んでおきますね。」
秀介が後部ドアを開けると告げた。
母に手を引かれ、開け放たれた玄関扉をくぐった雅人はゆっくりと息を吸った。
3年振りの我が家だ。
肺が一杯になるまで吸った空気は、懐かしい匂いがした。
い草と和紙と墨、そして微かに芳るビャクダンの香り。
”懐かしい・・・。”
屋敷の奥の仏間には、伊藤家と平井家の代々の御霊が祭られている。
そこでは毎日香が焚かれ、両家の御霊に日々感謝の祈りを捧げていた。
「・・・帰ってきたって感じる。」
雅人の呟きに、
「はいはい、ほら、さっさと上がってww。
汗を流して着替えたらリビングにいらっしゃい。
花ちゃんがシフォンケーキを焼いたのよ。
紅茶を淹れるからお茶にしましょ。」
母の玉枝が雅人の尻をポンと叩いた。
雅人は二階に駆け上がり、3年振りに自室のドアを開けた。
窓が大きく開け放たれている。
窓を開けたのは母だろうか。
空気の入れ替えがされている部屋は、冷たく澄んだ空気で満ちていた。
雅人の部屋は屋敷の二階南西に位置していて、天井まで届く腰高の窓が南側に二つ、西側に一つある。
雅人は南側の窓の縁から身を乗り出すと、外の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「・・・うまい。」
心の声が口から零れた。
屋敷の南面は、都心としては珍しく1000坪を超える雑木林になっている。
お陰で、東京とは思えない清々しい空気がそこにあった。
ふと、ドアをノックする音に振り向くと、秀介が雅人の荷物を運び込むところだった。
「ありがとう、すっごい助かる。」
「いえいえw、でも3年もパリにいた割に荷物が少ないですね。
殆ど書籍みたいだし。」
「まぁね。」
「衣類は?」と秀介に尋ねられ、雅人はほんの少し困った顔をした。
「置いてきちゃった」
「寄宿舎に?」
「・・・・ま、そんな感じ。」
雅人はそれ以上語らず、秀介に背を向け庭に視線を向けた。
背後では秀介が書籍を書棚に並べる気配を感じながら窓の下に目をやると、そこには花が終わり葉を繁らせた梅の木が立ち並んでいた。
後半月早く帰国していたら・・・あの濃厚な梅の花の香りを堪能できただろうか。
”仕方ないよね”
雅人は心の中で呟いた。
それに夏になれば、たわわに実った大きな梅の実を、母の玉枝が秀介の妻と共に梅酒にしたり梅干しにしたりするだろう。
そんな懐かしい情景が脳裏に浮かんだ。
今年はその作業を再び見ることが出来るはず。
雅人の口元に笑みが浮かんだ。
「坊ちゃん、片付けが終わりました。」
秀介の声に雅人は振り向きもせず肩を竦めてみせた。
ニヤけた顔を見られたく無かった。
秀介が立ち去った気配を感じ、雅人はベッドに歩み寄るとダイブした。
「はぁ、疲れたぁ。」
見上げた天井は日本家屋とは思えないくらいに高い。
部屋の中央に下がるシャンデリアが外光を反射し、キラキラと輝いている。
漆喰の白壁に映るプリズムが揺れているのは、僅かに吹き込む冷たい春先の風の仕業だ。
”美しいな。”
暫くその光景を眺めていた雅人だったが、ふと、ベッドから身を起こし自室を見渡した。
”見慣れた部屋・・・。”
西側の大きな窓に面して、マホガニーのデスクと椅子が置かれ、東面はバスルームに続くドアと壁一面に作り付けられた書棚。
部屋の中央には見慣れたカウチと一人掛けのソファ。
そして小さなローテーブル。
北側の壁には・・・・チェストが三つ。
”あれ? こんなに大きなチェストだった?”
雅人はベッドから降りるとチェストを開けてみた。
そこには雅人のサイズにピッタリな大量の衣装が収まっていた。
下段の引き出しを開けると下着や靴下が入っていて、しかも全て新品だった。
二つ目のチェストの中は、雅人の足のサイズに合わせた各種の靴が並び、三つ目のチェストの小引き出しの中には、フォーマルな衣装と共にアクセサリーが行儀よく並んでいた。
腕時計、ブレスレット、チョーカー、指輪(何個あるんだろう?)そして、ピアス。
「誰が揃えたのか、後で母さんに聞こう。」
雅人は小さく溜息を吐くと、バスルームへ続くドアを開け全裸になった。
シャワーのコックを捻り、少し熱めの湯を頭から浴びた。
時差でぼんやりしていた頭がすっきりと冴え渡っていく。
雅人は脱衣所に置かれていたバスローブを羽織り、髪をタオルで無造作に擦りながら階下へ降りていった。
リビングを抜けダイニングを覗くと、母の玉枝と姉の花が談笑しながら紅茶を淹れていた。
「お、来た、来たw」
花が雅人を見て微笑む。
リビングに戻りソファに腰掛けた雅人の前に、クリームとミントの葉がトッピングされたシフォンケーキと紅茶が置かれた。
紅茶はオレンジペコだ。
オレンジペコは柔らかな風味とえぐみの無い素直な味の紅茶だ。
「覚えていてくれたんだ・・・。」
鼻腔をくすぐる紅茶の湯気を楽しむ雅人に、
「マーちゃんの事ならあたし達プロだからw」
母と姉が顔を見合わせて笑う。
「プロってw」
照れた雅人はシフォンケーキに生クリームをたっぷり載せて口に運んだ。
「・・・美味しい。」
頬を押さえて呟く。
「好きなだけ食べて。
沢山あるからね。」
花は雅人の口端についたクリームを指で掬うと、その指をペロリと舐めた。
「で、マーちゃんは今夜誰と寝る? あたしで良かったら付き合うわよ。」
花が雅人の顔を覗き込んだ。
その花の顔の前で手を振り、
「あらハナちゃん、マーちゃんは、今夜は母親であるあたしと一緒よ。
ハナちゃんは明日の夜にして。」
母の玉枝は譲る気は無いようだ。
「えーっ!
ここはマーちゃんに決めてもらおうよ。
ね、どっちにする?
母さん?それとも、お姉ちゃん?」
雅人は紅茶を啜りながら二人を見比べた。
「んー、じゃ、今夜は母さんで。」
「えーーーーーーっ!!」
と、花は不服そうに抗議の声をあげたが、方や母は嬉しそうだ。
「ところでマーちゃん、パリの学校では誰と寝てたの?
男子校でしょ?
姉さんとしては気になるんだけど。」
雅人にとって、正直うやむやにしたい話題だった。
しかし、花の視線からは逃れられない。
母の玉枝もその辺が気になるのか、雅人の返事を待っている。
雅人の口から小さな溜息が漏れた。
「分かった・・・言うよ。
えっとね、学校で客員教授をしていたユーグ先生の私邸でお世話になってた。
毎晩、教授と一緒だった。
これでいい?」
と、応えた。
「ユーグ先生って、あのパリ大の名誉教授の!?」
花が驚いたように声をあげた。
「そう、そのフランツ・ユーグ教授。」
「わお!あの人あたしの論文に関心を寄せてくれたのよ。
ねえマーちゃん、ユーグ教授との関りを詳しく。」
「ハナちゃん、その人有名なの?」
玉枝の問いに花は鼻息荒く説明を始めた。
「ユーグ教授はね、心理学の世界的権威なの。
”脳と人間の心は必ずしも一致しない”って、提唱した人でね、あたしの論文にお墨付きをくれたのもユーグ教授よ。
あたしにとっては恩人以上の方なの。
そんな雲の上の人と雅人が関わってたなんて、あたしとしては理由を知りたい。
さあ、マーちゃん、白状おし!」
花はテーブルに身を乗り出し、人差し指を雅人の鼻先に突き付けた。
「話すと長いんだけど。」
「いいから、お話!」
「えっと・・・着替えてきていい?
僕、バスローブしか着てないし・・・風邪引いちゃいそう。」
雅人は両腕を搔き抱いて見せた。
「服ならクローゼットに入れてあるわよ。
あたしとハナちゃんと強ちゃんで見繕ったから、好きなのを着てね。」
尋ねるまでもなく、クローゼットの謎は解けた。
「明日にでも説明するよ。
でも、姉さんがユーグ教授と関りがあったなんて・・・世界って狭いねw」
雅人は自嘲気味に笑うと席を立った。
「あ、今夜は母さんの部屋に行くね。
その前に仮眠する。」
そう告げると、
「じゃ、あたしが仮眠に付き合って添え寝する」
花が雅人の後ろをついて来た。
「寝相悪くても怒らないでねw」
雅人の思わせぶりに、
「平気」
花はニコリと微笑み、雅人と共に弟の部屋のドアをくぐった。
雅人には精神的な疾患があった。
カウンセリングは受けているが、未だ完治には至っていない。
病名は”分離不安症”。
この病気は、愛着のある人や環境から離れることが出来なくなると言われている。
万が一、不安の中に置かれた場合、強い不安感を伴う視野狭窄、呼吸困難に襲われる。
仕事や勉強、日常生活に支障をきたすことも少なくない。
雅人の病気の原因は、表向きには実父の過干渉と言われている。
そのせいか、雅人は実父の葉一を遠避けており、心身の距離は既に11年もの時が経った今でも縮まってはいない。
現時点で雅人だけが知らない事情があった。
遡ること11年前、雅人の小学校入学式前夜、いつも一緒に寝ていた父の葉一によって性的虐待を受けたのである。
泣き叫ぶ雅人の声を耳にした次男の強が父親の寝室に飛び込んだ時、葉一は六歳の雅人の尻に自身の一物を押し付け腰を振っていた。
雅人は泣き叫び、その下半身は血まみれだった。
強は当時高校三年進級前の17歳。
子供とは言い難い年齢になっていた。
強は、現場の状況から何が起きているのかを瞬時に理解した。
強は父を雅人から引き剥がすと、その場で父親を何度も殴打し制裁を加えた。
しかし強は平静だった。
後に駆け付けた母と長男の尊に、病院の手配を依頼している。
幼かった雅人はその後、半年間心神喪失状態が続いた。
その間強は大学受験前の大切な時期を全て、雅人の看護と介護に充てたのだった。
意識を取り戻した雅人が発した最初の言葉は、
「ちい兄ちゃま、痛い・・・痛い・・・。」
雅人は強の胸に縋って泣き叫んだのだとか。
強は起きているときは勿論、トイレも風呂も寝る時も片時も離れずに雅人と共に過ごした。
お陰で雅人の夜泣きや叫んだり暴れたりという異常行動は、7歳になる頃には落ち着いた。
小学校にも一年遅れで、月に2~3回通うようにもなった。
強以外のベッド(父親は除く)でも眠るようになった。
高校3年を留年した強は、高校卒業認定試験を経て、翌年の9月に英国のオックスフォード大の医学部への進学を決めている。
強が英国に旅立つ少し前に、アメリカの高校に留学していた妹の花が一時帰国したのを機に、花に雅人を託し強は英国に出立した。
アメリカの高校を中退し、日本の高校へ編入していた花だったが、アメリカのスタンフォード大への進学が決まっと事で、強に続き泣く泣く母の玉枝に雅人を託して実家を離れていった。
伊藤家の事情とは言え、雅人を擁護する家族が変わるたび、雅人の精神はダメージを受け続けた。
そして、17歳の今になっても一人では眠ることが出来ない”分離不安症”を抱える事となったのである。
一方、実父の葉一は当時の記憶を全て失っていた。
勿論、次男の強によって自身が瀕死にされたことも覚えていない。
葉一は外科的治療を受けつつ、精神病棟で昏睡すること1か月余り。
目覚めたとき妻や家族から自身の所業を聞かされ半狂乱になった。
入院中、様々な検査が葉一に施された。
しかし、どうやってもあの晩の記憶は葉一に戻る事は無かった。
葉一は何度も雅人に詫びた。
今も詫び続けている。
しかし、雅人が負った心の傷は、深層心理の奥底に沈み込み未だ癒えてはいない。
葉一は一応経堂の自宅に毎日帰宅してはいるが、雅人と食卓を囲むことも会話をすることも無かった。
雅人が拒否している・・・だけでは無く、家族、特に次男の強が頑なに葉一の存在を雅人から遠避けようとしていたからに他ならない。
現在、葉一は伊藤藏合病院の統括病院長として仕事をしている。
だが、実質的な病院の運営は事務長の任にある妻の玉枝を中心として、長男の尊が統括副病院長として葉一を支えていた。
次男の強は世田谷の伊藤総合病院本院の外科部長として、他にも外部機関と提携し、新薬の研究開発にも携わっている。
長女の花は、強と同じ病院で心療内科部長として働いている。
花の診療は完全予約制であり、現時点で予約は半年先まで埋まっているらしい。
そんな花が休みを取り、今日は雅人と一日一緒にいる。
ベッドの中で寝息を立てる弟の顔を見つめ、
「綺麗な顔・・・・母さんに似てる。
父さんに似なくて本当に良かった。」
雅人の柔らかな砂色の巻き毛を撫でながら、花はクスリと笑った。
雅人が分離不安だからと言って近親相関のような間違いは起きていない。
単に雅人は一人でいることが出来ない、それだけの話なのだから。
家族の誰かが傍で見守り、時に肌の温もりを感じる事で、雅人は終始落ち着いていられる。
花はそう思っていた。
心療内科医として、花は自分の診断に自信があった。
花は雅人が昼寝から目覚めるまで、その傍らでそっと目を閉じ添え寝を続けた。
二時間ほどしてドアがノックされた。
雅人はまだ眠っている。
花は返事をしようか迷っているとドアが開いた。
「よう。」
顔を出したのは次兄の強だった。
「眠ってる?」
その問いかけに花は小さく頷いた。
「替わる?」
と聞かれ、花は頭を横に振った。
「そっか、じゃ、また後でな。」
強はそっとドアを閉めて部屋を後にした。
花は雅人を自分の子供のような気持ちで見守り続けてきた。
歳も10歳離れていたし、雅人が幼い時はその可愛らしさを有頂天になって友人に自慢したものだ。
あの事件前まで、雅人の髪の毛は漆黒の柔らかな巻き毛だった。
大きな瞳は茶色くキラキラと輝いていた。
少なくとも花の記憶の中の雅人は・・・。
事件以降、輸血とメンタルの治療に使用した薬物の副作用により、雅人の髪の色はどんどん薄くなっていった。
あの黒々とした巻き毛は、一年後には砂色の巻き毛になった。
眉毛も、長くカールしたまつ毛も、砂色になった。
茶色の大きな瞳は、黄と橙が混ざり合ったトパーズ色の瞳に変わっていた。
肌の色素も薄くなり、透けるような白さになった。
生命力溢れた幼い時と比べると、現在の姿からは儚さしか感じられない。
脆く美しく・・・
そんな弟だからこそ、花は必要以上に保護欲を掻き立てられるのだ。
一方次兄の強は、雅人を救った実質的なヒーローだった。
当時の記憶を持たないはずの雅人が、何故か強に対して絶対の信頼を置いている。
単に”お兄ちゃんが大好き”だけとは思えない・・・、花は不安を拭えなかった。
強の雅人を見る視線や掛ける言葉の一つ一つに、不穏なものを感じたのは一度や二度では無かったからだ。
何がどうという確証はない。
もやもやする何か、としか言えない。
可能なら雅人を次兄から引き離したい。
しかし、雅人は花以上に次兄の強を求めてしまう。
花にはどうしようも無かった。
「せめて今だけは、お姉ちゃんと寝んねしてようね。」
幼子に語り掛けるように囁くと、花は雅人の隣で再び目を閉じた。
温かく笑顔が溢れる夕食のテーブルを家族で囲む。
しかし、そこに父の姿はない。
「珍しい!おぉ兄ちゃんが一緒だなんて。
何年振りかなぁ。」
雅人は長男の尊の膝の上に乗りご機嫌だ。
尊も柔らかに微笑みながら、雅人の細い腰を抱き、膝から落ちない様に支えている。
尊も強も大柄な男で、特に長男の尊は190㎝を越える長身だ。
雅人だけが華奢で、背も上二人の兄より20センチほど低い。
長兄の尊がすき焼きの糸こんにゃくを卵のたれに浸し、雅人の口に運ぶ。
「旨いか?」
尊に訊かれ雅人は口をもきゅもきゅさせながらコクリと頷いた。
32歳の長男が、17歳の弟に対して取る行動では無いかも知れない。
でも、伊藤家ではこれが普通だった。
雅人は特別な子なのだ。
両親が40歳を超えて誕生させた命を、家族皆で守って来た。
この席には居ない父親も、思いは一緒だと思う。
否・・・思いたい。
腹が満たされた雅人は、いつの間にか尊の胸に顔を埋めて舟を漕ぎだした。
「疲れているんだろう。
今夜雅人と寝るのは誰になったの?」
尊の問いに母の玉枝が手を挙げた。
「でもどうしよう・・・あたし、もう少し仕事が残ってて。」
玉枝が困惑の表情を浮かべた。
「じゃ、あたし・・・」
「いや、俺が一緒に寝るよ。
こいつが目が覚めたら風呂にも入れてやりたいし。
母さんは明日の晩でいいんじゃない?」
花の言葉を遮って強が席を立った。
「強ちゃん、そうね、お願いできる?」
「ああ、問題ない。」
強は尊に寄りかかっていた雅人を抱き上げた。
「重くないか?」
「全然。
こいつは羽のようだよ兄さん。」
「そっか・・・落とすなよw」
「ああ。」
強は雅人を軽々と抱き、ダイニングを後にした。
「どうした?
花は何か不満か?」
尊が揶揄うように花の脇腹を肘で突く。
「不満・・・じゃないし。
あたし、マーちゃんのお昼寝に一緒だったし。」
「ほう、うらやましいなw
可愛かったか?」
「・・・うん。
すごく可愛かった。
マーちゃんを今以上に幸せにしてあげたいって思ったよ。」
「そっか。」
「うん・・・」
尊は花の頭をポンポンと軽く叩くと、花の顔がクシャっと崩れ、目尻から涙が流れ落ちた。
尊も花も、強も、そして母の玉枝も、雅人の心の奥に澱む闇を知らない訳では無い。
家族の前では甘えん坊の末っ子が、心の奥底に抱える闇。
「パリでもやらかしていたらしいな。」
尊が低く呻く。
「秀介さんの一門が雅人のフォローをしていたって・・・。」
「ユーグ教授の理解があってこそだろうけど・・・あいつ、こっちでまたやらかすのかなぁ。」
「ねぇ、母さんはパリの事詳しく知らないんだけど、あんた達は何処から聞いたの?」
「強から・・・。
ほら、あいつ神宮司と繋がってるから。
色々情報が入るらしくてね。」
尊が強の部屋がある方向を見上げて小さく溜息をついた。
「花の研究だっけか?
魂は肉体を選ぶっての。」
「うん」
「花の言う通り、雅人はまさにそれかもな。
いつの間にか雅人の中に何らかの魂が宿ったんじゃないかって。」
「尊ちゃん、怖いこと言わないでよ。
母さんは天使を生んだの。
マーちゃんは天使。
あたしはそう信じてる。」
「ごめんね、母さん。
そうだよね、マーちゃんは穢れの無い子よ。
あたしも信じてる。
心配しないで。
マーちゃんの今後は、あたしが守っていくから。」
花は青ざめた顔の母の手を優しく握った。
「花だけじゃない。
俺も強も・・・雅人を護るから。
そう言えば、強が新薬の素材を集めに中央アメリカに行くって言っていたけど。」
「何それ初耳。」
花が驚いたように尊の顔を見た。
「まさか・・・マーちゃんを連れてったりしないよね、ね?」
「同行者がいるって話は聞いてないけど、来週から三週間の長期休暇申請が出ていたからなぁ。
結構大掛かりな調査だとは思うよ。」
「それって、あの研究所関連?」
「研究所?」
「神宮司バイオテクノロジーの研究員だからね、あいつはさ。
恐らく関連はあると思うよ。
資金もそっちからだろうし。」
「ったく、強兄さんてば、マジ自由人。」
「だなw」
「万が一雅人がついていくって言ったら・・・。」
花は不安そうな顔を尊に向けた。
「正直、諸手を挙げて推奨はするつもりは無いけどさ、雅人にとっては良いかも知れない。
あいつの破壊的な嗜好を満足させる為にも・・・俺、間違ってるかな。」
「・・・それって・・・問題の先送りじゃないの?
日本で・・・ここ東京で問題を起こされては困るけど、外国なら仕方ないって・・・そういうふうに聞こえちゃう。」
「ま、そうかもな。
あいつのIQ知ってるか?
200を超えているんだ。
正直言って俺なんか足元にも及ばない。
あいつをコントロールできるのは強くらいだ。
知識は雅人と引けをとらないし、体力は強が勝っている。
それに・・・強は雅人を理解している。
事の良し悪し関係無くね。
そんな強に雅人が同行を願い出たとして・・・・行かせるしかないって事だよ。」
重い空気がダイニングを覆った。
そして家族は思う。
11年前、父親の暴挙さえ無かったら、と。
強のベッドに横たえられた雅人は、無邪気な寝顔を晒し寝息を立てていた。
「俺とメキシコに行こう。」
強は雅人の耳元で囁いてみた。
「・・・ん、・・・ん。」
雅人は強の胸に頭を載せ、細く白い腕を兄の首に回した。
無意識なのだ。
わかっている。
強は雅人の滑らかな肌に指を滑らせた。
雅人の眉間が寄る。
強はベッドに寝かせた雅人のシャツとズボンを脱がせ、ビキニのパンツ一枚の雅人の素肌に指の腹を滑らせると、眠っているはずの雅人の口から甘い息が漏れた。
強が指の動きを止めた。
「・・・」
「止めないで・・・。」
雅人が薄っすらと目を開け囁く。
「起こしたか・・・すまない。」
「うふふ・・・寝てなんか無かったし。」
「たぬき?! こいつめっ!」
強は雅人に覆いかぶさると唇を重ねた。
雅人の舌が口の中に差し込まれ、強の口と心を蹂躙していく。
お互いの舌を絡めあうと、湿った音が立った。
強は雅人から唇を離すと耳たぶを、そして首筋に舌を這わせた。
雅人の熱を帯びた手が、強のボクサーパンツの中に滑り込み、猛った強の分身を握りしめた。
「風呂行くぞ。」
強はそう言い、下着の中にあった雅人の手を掴んで体を引き起こす。
何やら不満そうな雅人の手を引いてバスルームへ移動した。
雅人の下着を下ろすと、若い分身は臍を突くように猛っていた。
シャワーを浴びバブルバスの中に二人で入る。
入浴剤も芳香剤も使っていないはずのバスルームが、微かに甘いバラの香りで満たされた。
香りの元は雅人だ。
この事を知っているのは、家族の中でも強だけだ。
雅人は性的興奮を覚えると、体のとある箇所から分泌液を滲ませる。
その分泌液こそ、フローラルな香りの元であった。
「ユーグとはどんな関係だったんだ?」
強は雅人に訊いた。
「・・・言いたくない・・・。」
「駄目だ。話すんだ。
毎日同じベッドで寝たんだろ?」
「・・・」
「お前の体を与えたのか?
ユーグは喜んでお前に触れたのか?」
「・・・」
「ほら、言ってみろ。
話によったら・・・お仕置きしてやる。」
「・・・痛く・・・するの?」
「ああ・・・お仕置きだからな。」
「僕が・・・止めてって泣いても・・・・止めない?」
「当然だ。」
雅人は暫く沈黙した後呟くように語りだした。
「・・・ユーグは・・・ゲイだった。
恋人がいて・・・でも・・・。」
「でも?」
「何年も前に亡くなっていて・・・ユーグの心と体はその恋人の物だったから・・・。」
「から?」
「僕はユーグの体に触れることはしなかった・・・ホントに。」
「お前は兎も角、ユーグはお前に触れたんだろ?」
「・・・・。」
強の指が雅人の香りの根源に容赦なく触れた。
「あ・・・あ。」
「質問の答えがまだだぞ。」
「ユーグは・・・ユーグは毎晩、僕のをしゃぶった。
僕が若いから・・・溜めたら駄目って。
毎晩・・・書斎やベッド・・・バスルームで・・・ああ・・。」
「気持ちよかったか?」
「・・・わかんない・・・。
わかんないよ。
ただ・・・毎日、放出してただけ。
・・・そんな感じ。」
「今夜はどうして欲しい?」
「ちぃ兄・・・知ってるくせに。
・・・言わせたいの?」
「言ってごらん。
どこをどうして欲しいのか。」
雅人は熱を帯びた瞳で強を見詰た。
そして強の耳元で息を吐くように何かを囁いた。
強が驚いたように雅人を見たのも一瞬だった。
湯船から雅人を抱き上げると、バスルームのタイルの上でお互いの体を重ねたのだった。
強はベッドで、今度こそ本当に寝息を立てている雅人を眺めながら煙草に火を点けた。
大きく吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
白い煙が空中に渦を巻きなから、部屋に充満した花の香りを駆逐していく。
「メキシコに行く支度でも手伝うか。」
煙草の火を灰皿で潰し、強は部屋の照明のトーンを落とす。
背を向けて寝ている雅人の体を抱き寄せ、そして強は目を閉じた。
■メキシコへ
翌朝、雅人は兄の強と共にメキシコに行くと家族に告げた。
母の玉枝も姉の花も、長男の尊も、やっぱりと思った。
しかし予期していた事とは言え、母の玉枝は一言言わずにはおれなかった。
「帰ってきたばっかりなのに、どうして海外に行ってしまうの?
ここで受験の準備もしなくちゃでしょ。
マーちゃんは飛び級してるし、一応こっちの高校に在学しないと帝都大なんて行けっこないじゃない。
日本はそういうとこ遅れてるのが悪いんだけど。
悪いって分かってるけど・・・母さんはもう少しマーちゃんに落ち着いていて貰いたいわ。
ねぇ、考え直さない?」
「・・・・。」
「…・マーちゃん?」
「もう・・・決めたから。」
「マ・・・。」
「ほら、三週間だし。
すぐに帰ってくるし。
それに、ちぃ兄と一緒だし。」
”だから不安なんだよ”と、花は心の中で突っ込みを入れた。
「また旅行の支度もしなくちゃ・・・。」
母の焦燥を知ってか知らずか、
「ちぃ兄と準備するから大丈夫だよ。
ほらぁ、そんな顔しないのw
心配性なんだからw」
雅人の能天気な振る舞いに、母を始めとする皆が溜息を吐いた。
すなわち、不承不承ながら渡航の許可が下りた事になる。
そこからは慌ただしかった。
メキシコが未開の地という訳ではないが、新薬の素材を採取するにはかなり危険な地域に足を踏み入れることも必要になる。
強の指示で、雅人は幾種類かのワクチンを打った。
「注射嫌いなんだけど。」
「そう言うなってw」
雅人の二の腕や尻に、強は注射針を刺しながら笑った。
「二、三日様子見て、熱が出なかったらオッケーだ。
荷物も詰め終わってるし、数日は母さんに甘えてろw」
「子供扱いするなよ。」
「子供だろ?w」
「ちぃ兄のバーカ、バーカ。」
「よしよしw
俺はこれから研究所に行って明後日戻ってくる。
いい子にしてろよw」
強が神宮司の研究所に出向いている間、雅人は母の玉枝と一緒に過ごした。
眠る時も食事も母と二人一緒だった。
二人で百貨店に行き買い物も楽しんだ。
玉枝は終始ご機嫌で、末っ子の雅人に腕を絡ませ街を歩いた。
明日はメキシコに発つ、その前の晩。
玉枝はベッドの中で雅人の髪を撫でながら話をした。
「マーちゃん、くれぐれも無茶は駄目。
強ちゃんはイケイケな人だから、マーちゃんに酷いことをさせたり言ったりするかも知れない。
母さんはそれが心配。
マーちゃん、嫌なことはハッキリ嫌って言うのよ。
出来るわね。」
「心配し過ぎ。
大丈夫だよ、ちゃんと三週間後に戻ってくるから。
あ、高校の編入手続きだけしてもらっていい?
五月に前期の統一模試があるから。
一応こっちでも実績作らないとだしw」
「それは任せて。
都立になるか私立になるかは、母さんに一任してくれる?
マーちゃん・・・信じてるから。
怪我とかしないで帰国するって約束して。」
「うん・・・。」
雅人は母の胸に顔を埋めて小さな声で返事をした。
優しい母の匂いと柔らかな肌の温もりに、雅人はまつ毛を震わせ目を閉じた。
翌朝秀介の運転で、雅人は兄の強と共に成田に向かった。
成田からメキシコシティ行きの直行便に搭乗する。
家族の見送りは自宅の大門前で終わらせた。
母も姉の花も、どことなく寂しそうな悲しそうな顔をしていた。
そして、大門が閉じる寸前、雅人は門扉の影に父葉一の姿を見た気がした。
ほんの一瞬・・・気のせいかもしれない。
いつか父と心を通わせる日が来るのだろうか。
雅人は胸を抉るような思いに頭を振った。
「どうした?」
強に訊かれ、
「ん・・・何でもない」
強に向き直った時にはもう、いつもの雅人に戻っていた。
「ホント、何でもない。」
雅人は繰り返した。
強が雅人の細い腰に腕を回すと、雅人は柔らかく微笑み、兄の肩に頭を載せて目を閉じた。
秀介が運転するリムジンは、早朝の都心を抜け、成田に向けて走り続けた。
メキシコシティへ向かう直行便のファーストクラスのシートに身を沈めた雅人と強の前に、機内食が運ばれた。
「ちぃ兄に、お肉あげる。」
雅人は和牛のステーキを兄のトレイに載せた。
「少しは食べろよ。」
「お肉は・・・お腹痛くなるし、この温野菜があるから平気。」
色の悪いブロッコリーをフォークで突く雅人を眺めながら、強はステーキを頬張った。
いつもより長く時間を掛けて咀嚼し、強は雅人を引き寄せ唇を重ねた。
そして咀嚼したステーキ肉を雅人の口の中に流し込んでいく。
雅人の喉が上下に動いた。
飲み込んでいる・・・。
「・・・ありがと。」
頬を染めた雅人が小声で礼を言った。
「肉も大切だ。」
「・・・うん。」
強は再び肉を頬張った。
雅人は肉を分解する酵素を持たない。
無理をして食べると、激しい腹痛と下痢に襲われてしまう。
忌まわしい体質・・・。
雅人が肉を口にするには、家族の協力が不可欠だった。
家族の誰かが咀嚼し肉の繊維を細かくすると同時に、唾液に含まれるの肉を分解する酵素ごと雅人に食べさせる。
あの事件・・・11年前はそんな必要は無かった。
好き嫌いの無い健康な子供だった。
しかし、あの日以降、雅人の何もかもが変わってしまった。
家族もその対応に順応していくしか無かった。
十分咀嚼したところで雅人を見ると、小さく口を開けて待っていた。
餌を待つ雛のように・・・。
強は雅人に咀嚼した肉を口移しした。
「・・・美味しい・・・へへっ。」
「メキシコの食事は雅人には厳しいかもな。
ま、俺が何とかするさw」
強は雅人の頭をポンポンと触り、食事を続けるように促した。
13時間弱のフライトの後、二人はメキシコシティに到着した。
空港の空気は乾燥し、光化学スモッグの影響だろうか、露出した肌がチリチリと痛む。
強は雅人にマスクを渡した。
「着けとけ。」
ベージュカラーのマスクを着け、眼には小さめのゴーグルも装着した。
日本では余り騒がれなくなったスモッグも、ここメキシコシティでは濃度がかなり高い。
四方を3千メートル級の山々に囲まれ澱んだ空気の逃げ場が無い事も原因の一つだろう。
更に空気が薄い。
メキシコシティの標高2200メートル以上ある。
ヘモグロビンの数値の低い雅人には厳しい環境と言えた。
対策として、雅人は酸素の詰まったスプレー缶を持たされていた。
強が空港でレンタカーを借り、整備の行き届かない道路を、ひたすら街の中心部に向かって車を走らせていく。
車中で、3つ星のホテルを予約しているのだと聞かされた。
「かと言って、日本同等とは思えないがw」と強は笑った。
だが、予想外に近代的なホテルに感心し車を降りると、おもちゃの兵隊みたいな服装をしたドアマンとベルボーイ我先にと車に駆け寄って来た。
彼等は車の屋根やトランクに括り付けていた二人分の大型スースケースを、あっという間に降ろしてホテルの中に運んでいく。
雅人は彼らの手際の良さにちょっと感心した。
回転式のドアを抜けると、広々としたロビーは総大理石の床と壁、そして金色に彩色されたシャンデリアが天井からいくつも下がっていた。
ロビーの中央には一段高いステージがあり、長さ3メートルはあろうグランドピアノが鎮座していたが、強はそんな煌びやかな装飾など一瞥もせず、足早にフロントへ向かった。
雅人もその後を追う。
強は流暢なスペイン語で何やら話している。
雅人もヒヤリングなら、そこそこスペイン語を理解出来た。
どうやら空調とセキュリティの問題があるとかで、当初予約した部屋が使用出来なくなった、とかなんとか・・・。
で、ホテルのVIPスイートに変更になった・・・らしい。
雅人達の荷物を運ぶボーイは五人になっていた。
VIPスイートは使用するエレベーターも一般客とは別だった。
ボーイの案内で部屋に向かう。
まるでどこぞの王侯貴族のような待遇を受けながら、雅人達は恭しく部屋へと案内された。
余りの待遇に流石の雅人も恐縮した程だ。
ゴーグルとマスクをしていなかったら、照れて赤らんだ顔を晒していただろう。
二枚の大扉が開かれると、そこには中東の王族のような部屋が広がっていた。
白と黒、マーブルの大理石の床。
白一色の壁。
勿論、大理石だ。
テラスへと続く、曇り一つないガラスドア。
真っ赤な革張りのソファとカウチ。
大理石を切り出した大きなローテーブル。
テーブルの上には香りを抑えた花々が、品の良い花瓶に収まって置かれていた。
ふと強に眼をやると、ボーイ達にチップを渡しているところだった。
日本でもホテルや旅館では馴染みの光景だ。
ボーイ達は口々に強に礼を言い、部屋を退出していった。
「もう外していいぞ。」
強に言われ雅人はゴーグルとマスクを外した。
「ぷっ・・・目の周りにゴーグルの跡がついてる。」
「仕方ないだろ、笑うな。」
「w・・・風呂に入って少しマッサージすれば消えるだろ。」
強はローテーブルに置かれていたコントローラーを操作し、風呂の準備を始めた。
「一緒に入るだろ?」
「・・・うん。」
「何だよ、歯切れが悪いな。」
強は雅人に近寄ると、雅人を背後から抱きしめた。
そして顎に手を添えて雅人に上を向かせキスをした。
長いキスだった。
ドアがノックされ、ボーイが紅茶と軽食を運運んで来た。
その間も強は雅人から唇を離さない。
背後でドアが静かに閉じる音がした。
ここで強がやっと唇を離した。
「もう、ちぃ兄ってば、絶対さっきのボーイに誤解されたし。」
「誤解?」
「・・・。」
強は、耳まで赤く染め頬を膨らました雅人の顔を指で突き、
「可愛い奴w。
さ、風呂に入って軽く食べて少し眠るぞ。
時差の調整をしないとな。」
強は雅人の手を引くと、バスルームへ続くドアを開いた。
猫足の付いた大きなバスタブに雅人と強は向き合うように身を沈めた。
「ちぃ兄。」
「ん?」
「このメキシコで何をする気?」
「言ったろ。
素材の収集だよ。」
「ブレないね。」
「事実だからな。」
「ふーん、で、何処まで行くの?」
「セロエルポトシという山の山頂に行く。」
「・・・聞いたことない名前だ。」
「ま、ちょっと訳アリの場所だしなw。」
「車で行けるの?」
「ああ、目的地の至近までアスファルトの道がある。
富士山位の標高かな。
装備は万端だから、心配するな。」
「随分自信があるんだね。
そこに素材があるなら、わざわざ自分から行かなくてもいいんじゃない?」
「・・・」
雅人の質問は強の泣き処を直撃したらしい。
「のぼせそう・・・僕、上がる。」
返事に窮した強を残し、雅人はバスタブから出ると、壁にかかっていたバスローブを羽織りドアノブに手を掛けた。
背後で水音がし振り返ると、強もバスタブから出たようだ。
そして・・・雅人は驚いた。
強の股間で猛々しく勃っているモノ。
「ちょっ、ちぃ兄・・・。」
困惑する雅人の肩を引き寄せ、強は弟の耳元で囁いた。
「なぜ、他人に任せられなかったか。
その理由を教えてやる。」
強は雅人を抱き上げると足でドアを押し開け、そのままベッドルームへ向かうや否や雅人の体をベッドに放った。
スプリングが雅人の体をベッドの上で弾ませた。
「やだ!何する気!・・・・や・・・やっ!
ちぃ兄、どうしちゃったの?
や・・・やだ・・・・んん・・・。」
雅人は強に覆い被され舌を強く吸われた。
両手首は一纏めにされ、頭の上で強の大きな手で掴まれた。
足をバタつかせるも、大柄な兄の体に抗えなかった。
雅人の腹に何かが当たってる。
それは大きく、硬く、熱かった。
強は空いていた片方の手で雅人のバスローブの腰紐を外すと、少し赤味を帯びた滑らかな肌と桜色の乳首が現れになった。
雅人の意に反して、乳首は硬く尖って強を誘っている。
強が舌がその先端にほんの少し触れた。
そう、それだけの事だったのに・・・
「ぁぁぁ・・・。」
雅人の口から吐息が漏れた。
それが合図だった。
強の舌が雅人の耳を、脇の窪みを、肘を、乳首を・・・蹂躙していく。
雅人は何度も上り詰めた。
声を挙げ、強の背に爪を立て、身を捩りのけ反って兄の掌の中に若い精を何度も放った。
いつしかベッドルームは濃厚な花の香りに包まれていた。
強はバッグから採取用の小さなガラス瓶を取り出し、その口を雅人の尻の蕾に押し当てた。
みるみる透明な液体がガラス瓶を満たしていく。
強は小瓶を取り換えては、その透明な液体を採取し続けた。
全部で10本は採っただろうか。
それでも、雅人の蕾はフローラルな香りを伴った液体を滲ませ、形のいい小さな尻を濡らしていく。
強は雅人の蕾に口をつけると
ズズズズズズズズズズ
・・・と、音を立てて吸った。
雅人が身を捩る。
その体を押さえつけ、強はそれを吸い続けた。
「甘い。
凄く甘くて旨い。
お前にパートナーが出来るまでは、この蜜は俺の物だ。
容易く他人に与えるなよ。」
強は涙目の雅人の瞼にキスをすると、やっと解放したのだった。
今までだって、兄の強とふざけ合ってキスしたり性器に触り合ったりした。
でも今回のように泣くほど愛撫をされ、何度も逝かされたのは初めてだった。
雅人は枕に顔を埋めて泣いた。
家族の誰もが知っている11年前の事件の記憶は雅人には無い。
ただ、父への嫌悪が拗れ、性に関して強烈なフォビアとなっていた。
父に向けられた負の感情は、反対方向に向けて強に対し兄弟以上の関りを求めていたのかも知れない。
強は常に安心できる安全な場所を与えてくれる。
だから強が望むなら無条件で応じてきた。
・・・それなのに、今回は無理強いされたのだ。
「酷いよ・・・ちぃ兄のこと嫌い。」
雅人は泣きながら訴えた。
雅人の反応に対し、強はノーリアクションだった。
「・・・嫌い。」
再度、訴えた雅人に、
「必要な事だ。」と、一言。
そして、
「セロエルポトシへの道を開くには必要なんだ。」
と、強は続けた。
「意味・・・わかんない。」
雅人は抗議した。
だが、強は黙したまま、全裸の雅人にTシャツを着せると手を引いてリビングへ移動した。
ボーイが運んできた紅茶はすっかり冷めていた。
強は備え付けのバカラのグラスに氷を落とし紅茶を注いだ。
そして雅人の前に、置いた。
・・・カラン・・・
溶けた氷がグラスに沈み、澄んだ音を奏でた。
アフタヌーンティのタワーにはサンドイッチやクッキー、小さなケーキなどが載っている。
雅人はクッキーを手に取り口に入れた。
ザリッとした舌触りは、クッキーに塗されたザラメだろうか・・・雅人は冷えた紅茶で、それを胃に流込んだ。
改めて、強を見詰め尋ねた。
「詳しく聞かせて。」
アイスティを一気に飲み干した強は、大きく息を吐きグラスをテーブルに置いた。
■動機
強がこの地を訪れる発端となったのは、11年前のセロエルポトシ山頂で起きた航空機墜落事故にあるという。
強は話を続けた。
セロエルポトシには、1960年頃からアメリカによって山頂にマイクロ波中継局が建設された。
建設の経緯については東西冷戦の為としか公表されていない。
その中継基地に、10年前からりエンジニアの他に地質学者、物理学者、神学者などが交代で勤務するようになったと聞いた。
”神学者・・・?”
尋常ではない”何か”をキャッチしたのは、強だったから・・・としか言えない。
そこで強は、11年前山頂で起こった航空機事故に着目した。
何が起きたのか。
航空機はプライベートジェットだった。
搭乗していたのは航空会社のクルーの他に、
「西園寺夫妻と雅人の同級の蒼汰が搭乗していた。
航空機の墜落時、クルーと西園寺夫妻は即死だった。
しかし、唯一、蒼汰は生き残った。」
当時蒼汰は6歳。
メキシコの病院が手当にあたったが、脳や内臓へのダメージが大きく、長くはもたないと当時の医師達は匙を投げた。
死んでいく命なら、せめて日本に戻してやりたい。
「それで急遽、両親の遺体と共に蒼汰は帰国した。
その瀕死の蒼汰を、ほゞ一昼夜かけて手術をして治療をしたのが、俺達の親父だった。」
数日後、疲労困憊の父親は自宅に戻り、いつもどおり雅人を抱いて床に入った。
その晩、父親が狂った。
”雅人には記憶が無いのは自己防衛だろうな。
良いことだ。
しかし現実は残酷だ・・・親父は雅人を半殺しにしやがった。”
「俺は一生あいつを許さない。
そう決めた日だ。」
この部分に関して、強は話をしなかった。
今は未だ・・・雅人が知る必要は無い。
強は心の中で決めていた。
この時、強の眼に黒い炎が揺らいでいた事に、雅人は気付いていない。
それでいい・・・。
暫く説明を止めていた強に、
「ちょっと、蒼汰って、ウチの向かいの西園寺蒼汰のこと?」
雅人が素っ頓狂な声を挙げた。
「ああ。」
「僕、全然知らなかった。
って言うか、付き合いも無かったけど。
そっかぁ、蒼汰にはご両親が・・・いないのか。
蒼汰は小学校の頃に何度か見掛ただけだし。
線の細いふわっとした子だった記憶しかない。」
本来なら幼馴染になっていたかも知れない・・・。
伊藤家と西園寺家は片側2車線の道路を挟んで向かい合っていた。
伊藤が経堂1丁目、西園寺が2丁目だ。
伊藤の家が代々医師であったように、西園寺は薬師をしていた。
両家は深い結びつきの中で、この400年を過ごした言わば、お互いを必要とし合う関係だった。
しかし、蒼汰が九死に一生を得ていた頃、雅人もまた、特殊な事情の中にいたとは何の因果だろうか。
11年前、西園寺製薬の社長夫妻が事故死したことで、西園寺自体は事業を縁戚に譲り、蒼汰は古くから屋敷に勤めている家令らと暮らしていると聞いている。
ところで・・・それがどう言う関連性を持つというのか。
雅人は話しの続きを、紅茶を啜りながら待つ事にした。
「山というのは・・・。」
強が続ける。
「古来より神の住まう神聖な場所とされる事が多い。
それは日本だけでなくメキシコも同じだ。
古代多神教の国家が栄えていた中米は、16世紀、スペインの侵攻によって植民地化された。
この話は学校で習っただろう。」
「うん、18世紀にメキシコで独立革命が起こるまでは、かなり酷い収奪が行われたらしいね。」
「そうだ、スペインの侵攻でアステカが滅亡した後、インディオの数は100万人まで減少したと言われている。
これは元の人口の25分の1まで激減した事を意味している。
同時に多神教のアステカ文明は否定された。
なぜなら、スペインからカトリックが持ち込まれたからだ。
インディオの激減の原因は、この宗教的な要因が大きいとされているな。」
「日本でも似たようなことがあったよね。
長崎とか、キリシタン狩りだっけ?」
「ああ、為政者とはいつの時代も理不尽なのさ。
ま、俺は賛成も否定もしないがね。
そうやって、この小さな惑星の支配地図が度々書き換わっているのも事実だしな。
それを俯瞰すると、かなり面白いと思わんか?」
「・・・別に・・。」
「まあいい。
そこでだ、山の話に戻る。」
強は続けた。
「八百万の神宜しく山々を崇めていた文化が、ある日を境に一神教へ取って代わった。
セロエルポトシも例に洩れず、信仰の山はいつしかレジャーで楽しむ場所になった。
カトリックがメキシコの地を、神の名の元に蹂躙している頃から、セロエルポトシではいくつかの異変が報告されるようになった。
かと言ってセロエルポトシはほんの三千メートル級の山だ。
メキシコには五千メートルを超える山があるにも拘らず、セロエルポトシみたいな中程度の山に異変が起きるとしたら、何か理由があるはずだ、と俺は思った。」
「異変て?」
「昔は落雷が多かったらしい。
スペイン人はそれを”天槍”と呼び、恐れたとか。
神からの罰だと思ったのだろうねw
1960年代にアメリカがマイクロ波の中継局を建設した時も、昔の言い伝えを考慮したのか、落雷が多発する地点よりかなり東側に基地を建設している。
この話を聞いた時には笑ったよ。
ビバ・アメリカは何してんのってなw。
まぁ、俺の笑いのツボは良いとして、11年前に起きた航空機墜落事故は、まさに伝説の場所で起きた。
時期は三月、丁度今と時期が重なる。
あの事故の後から世界の地質学や物理学の権威が、あそこで何やら調査をしているらしい。
実験も何度かやっている。」
「実験?
山の上で?」
「そうだ、特に人工的にプラズマを発生させる実験と、俺は聞いている。
で、俺は考えた。
奴らは決定的な要素を理解していないのでは?ってね。」
「・・・・?」
「わからんか?
カトリック、天槍、神の罰、インディオの大量死、大罪の具現。」
「大罪って?」
「スペイン人はインディオの混血化を進めた。
そして減り過ぎたインディオの減少を埋めるべく、アフリカから多くの・・・。」
「奴隷・・・酷いな。」
「スペイン人は自己以外を人と認めずに多くの大罪を犯している。
それと、これは最近知った話なんだが。」
そう言って、強は声を潜めた。
「11年前瀕死の蒼汰を治療した親父は、蒼汰の体を覆う膜のような物に悩まされたとカルテに記述していた。
その粘性の皮膜物質は水でもお湯でもアルコールでも剝がれなかった。
唯一、塩水で流せたとある。
更に、蒼汰は脳の損傷と内臓の機能停止などが起きていたにも関わらず、親父が治療した二日後には、手術痕一つ残さずに回復していた・・・。」
「不思議・・・だね。」
「だろ?
俺はその秘密がセロエルポトシにあると確信している。
考えてみろ、西園寺夫妻は何故小学校入学直前の蒼汰を連れて、メキシコに向かった?」
「落雷の発生する条件を当てはめてみる?」
「いいぜ。
まず宗教は多神教改めカトリックの一本化。
次に、天槍と神の罰は、恐らく膨大なエネルギーの発生させるプラズマのことだろうな。
三つ目の大量の人間の魂だが、これは墜落した航空機に乗っていたクルーと西園寺夫妻の命が失われたこと。
残りは大罪。」
ここで雅人は小さく挙手をした。
「どうぞw」
強に促され、雅人は禁忌を口にした。
「蒼汰は生贄にされた、違う?」
「まあそうなんだが、神に生贄を捧げるのは罪ではないよ。
どちらかと言えば、神は血を欲しがる。」
「・・・わかんないよ。」
雅人は両手を挙げた。
「雅人、これを見てくれ。」
強はバッグから一枚のファイルを取り出し、それを雅人に渡した。
「・・・診断書?」
「そう、11年前の蒼汰の診断書だ。
親父が記入している。
ほらここ。」
強が指さしたのは、病院に搬入時の蒼汰の所見部分だった。
「肛門裂傷・・・・もしかして、これって・・・酷い。」
雅人は口を手で覆った。
「蒼汰は事故に遭う前にレイプされていた。
6歳の少年を・・・惨い話だ。」
「これが大罪・・・なんだね。」
「で、この度の我々の行動計画となるわけだが・・・・。」
「僕・・・僕達がセロエルポトシに行くことで、誰かが命を落とし、誰かが大罪を犯すってこと?」
雅人は恐る恐る強を見た。
「まあ、だからって山頂で殺人なんてナンセンスなことは考えてないけどな。
ただ、セロエルポトシで何が起こり、何が手に入るのか。
その片鱗でも知りたいっていうのが本音かな。
それに、場合によったら俺もしくはお前、はたまた二人とも死ぬかも知れない。
答はセロエルポトシのみ知る。」
「僕の役割は?」
「お前か?
お前には11年前の蒼汰に準じて貰うつもりだ。
俺が山頂で禁忌を犯す、お前を相手に、だ。」
「!!」
「レイプはしないよw
弟相手にそんなことしたら母親に殺されちまうw」
「どうする・・・つもり?」
「気になる?」
「怖いよ。」
「実の兄弟でするんだよ。
実はさっきベッドでやったのも布石みたいなもんさ。
お前は気づかないか?
この部屋、いやこのホテルを覆う靄のような気配を感じないか?」
雅人は豪華なリビングに目を凝らしてみた。
「何も感じないけど・・・怖いこと言うなよ。」
「このメキシコに巣食う得体の知れない存在は、俺たちに目を付けた気がする。
俺は花ほどではないが、人外の存在を感じる事がある。
雅人が俺の手の中に放つたびに、気配が濃くなった気がした。
その気配は俺にもお前にも、既に纏わりついている。
大罪は認知されつつある、と、思う。」
強の話に、雅人はうすら寒さを感じ、両手で腕を搔き抱いた。
「・・・行動計画教えて。」
「ああいいぜ。
明日山岳ガイドを雇う。
ホセ・ロドリゲスって奴だ。
明日会って話をして、明後日セロエルポトシに向けて出発する。
明後日の内に麓の町まで行き、翌日は山頂の観測所で一泊する。
翌早朝、日が昇る前に墜落現場までホセの案内で向かう事になる。
そこに何があって、何が起きるか。
今から楽しみで仕方ないぜ。」
「ちぃ兄、そうなると予定より帰国は早くなる?」
雅人の問いに、
「何も無ければ・・・な。」
と、強は応えた。
雅人は後に、この強の言葉の意味を知ることとなる。
しかし、今はまだ雅人は強の真意を理解するには及ばなかった。
夜はホテルのレストランでパスタとサラダを食べた旅行疲れを感じていた雅人は、ホテルの部屋に戻るなりベッドに倒れ込んでいた。
「・・・ちぃ兄。」
雅人は強に手を伸ばす。
強はやれやれと呟きながら、雅人のシャツとズボンを脱がし、自身も下着一枚になって、雅人の隣に身を横たえた。
雅人は兄の胸に抱かれて、そのまま目を閉じた。
翌朝、雅人はボーイがドアをノックする音で目を覚ました。
強が下着姿のままボーイに対応している。
どうやら朝食を運んで来たらしい。
隣室にガラガラとワゴンが運ばれる音がした。
雅人はゆるゆると身を起こし、大きく伸びをしていると、
「コーヒーでいいか?」
兄に問われ、
「・・・ん。」
と応えつつ、リビングに入った。
リビングにはまだボーイがいた。
彼はパンツ一枚の雅人を見て目を丸くして叫んだ。
「ニーニョ!(男の子)」と。
「シw」
強が面白そうに笑いながら、ボーイに多めにチップを渡した。
「グラシアス、グラシアス。」
ボーイは何度も繰り返し、足早に立ち去って行った。
「ニーニャ(女の子)だと思っていたんだろうなw
慌てて出ていったぜw」
「全然面白くないんだけど。」
「そう怒るなって。
飯食って出かけるぞ。」
「ん。」
食後、雅人はネイビーカラーのハーフパンツにチェ・ゲバラのプリントされたTシャツ、そしてストローハットに丸いレンズのサングラスという伊達達でホテルのロビーに降りて行った。
「何故にゲバラ?w」
強が雅人の胸を突く。
「かっこいいじゃん。」
「そうか?w」
強の苦笑に雅人は少しムッとした。
雅人は不機嫌な顔のまま、白いローファーに付いた砂埃を手で払った。
メキシコシティは相変わらず空気は乾燥していたし、何より埃っぽい。
「呼吸は行けそうか?」
「・・・多分。
今はどうってことない。」
「そか、でも一応これ持っておけ。」
スプレータイプの酸素を手渡され、雅人はそれをリュックに入れた。
そんな二人の元に既に馴染みとなったボーイが駆け寄ってきた。
「車を正面に回しておきました。」
と言って、ボーイは車のキーを強に渡した。
「グラシアス。」
強から車のキーと交換に、チップを受け取ったボーイは、意味ありげに雅人にウインクをして見せた。
多分、「ハバ ナイス ディ」の意味なのだろうが・・・。
困惑した表情の雅人の肩を、これ見よがしに強が抱き寄せた。
「さて、行くか。」
振り返ると、ボーイが照れたような笑い顔をこちらに向けている。
「絶対、誤解された・・・。」
「したい奴にはさせておけw」
二人してホテルを出ると、空気の冷たさもさる事ながら、チリチリと肌を刺す太陽光に、これこそがメキシコと思った雅人だった。
車で40分程走ると、前方にカラフルな集落が見えてきた。
密集した無数のモルタル造りの家々は、雅人に以前耳にしたジョークを思い出させた。
それは、”アメリカ人は暇さえあればバーベキューか芝刈りをするが、メキシコ人は家のペンキ塗りをする。”というものだった。
雅人に笑みが浮かんだ。
確かに家々の外壁は真新しく、空気には微かにペンキの匂いが混ざっている。
土くれだった狭い道の両側は、まるでドット絵のように見えた。
水色、青、ピンク、黄色、白、etc、etc。
だが、ヨーロッパや日本で見かける”黒”は見当たらない。
濃いグレーはあっても、漆黒は無い。
ブリキの家屋も明るい色で塗られていた。
甚だしい色の氾濫はメキシコ人のポジティブさの表れなのかも知れない。
「ある意味、アートだね。」
雅人の呟きに、
「達観した人の思考というのは・・・。」
強は続く言葉を考えた後、
「パンドラの箱はメキシコに何を残したのか、分かるか?」
と、強は雅人に問うた。
「風景から判断するなら・・・希望かな。」
「ああ確かに・・・俺もそう思うよ。」
二人してクスリと笑った。
このメキシコという国は問題を抱えている。
麻薬を中核としたもう一つの経済圏が、この国を動かしているという事実。
暴力と政治腐敗と抗争と、日々血の匂いが絶えない一面を持つ。
だが、人々の心の奥底にあるのは希望なのだと。
いや・・・だからこそ、希望でなくてはならない。
絶望より、希望の方がいい。
それだけの事。
雅人は車窓を流れる風景を、ただ眺め続けた。
車は、とある家の前で停車した。
モルタルの白い壁と赤い屋根瓦。
内開きの小窓には花が植えられていた。
しかし、ドアには禍々しい鉄鋲が打たれ、窓には鉄格子が嵌められている。
これがメキシコの現実・・・。
ドアの前に人の好さそうな中年の男が、腕に4,5歳の男の子を抱いて雅人達を待っていた。。
「やぁ、ホセ。
逢えて嬉しいよ。」
強の差し出した手をホセは握り返した。
「さ、入って、入って。
妻が旨いコーヒーを淹れてるから。」
ホセと呼ばれた男は、皺深い顔を強と雅人に向けた。
抱かれている男の子は、ホセの首に腕を巻き付け雅人たち二人を睨みつけている。
”警戒されているのか?”
と雅人は思ったが、ホセに急かされ家の中へと足を踏み入れた。
決して広いとは言えないリビングには、芳醇なコーヒーの香リが漂い、若く美しいラテン系の女が雅人達に優しく笑いかけた。
早速ホセが家族を紹介した。
「彼女は妻のマリアで、この子は息子のロディ。」
「初めましてマリア、俺は強。
こっちは弟の雅人だ。
よろしく。」
強はマリアにチークキスをした。
雅人もそれに倣う。
椅子を勧められ腰掛けた。
雅人の足元でロディが相変わらず睨みつけている。
「や・・・やぁロディ。」
雅人はぎこちなく笑いかけ手をひらひらさせた。
「・・・ニーニョ?」
とロディに訊かれ、
「シ.」
と、雅人は応えた。
突然ロディは小さな拳で雅人の足を叩くなり、走って何処かへ行ってしまった。
「・・・っ!」
雅人は驚いたが、痛くはなかった。
所詮子供の力だ。
「こらっ!ロディ!
お客さんに何してんだ!」
ホセが手を振り上げ、大声でロディの後ろ姿に怒鳴りつける。
「どこの国の子供も、やんちゃなのは同じですねw」
強が穏やかに微笑み、コーヒーを一口飲んだ。
「ん~・・・んまい。」
強の一言にホセもマリアも困ったような顔をしたが、その後は落ち着いた雰囲気の中で打ち合わせは進んでいった。
細かな内容は強に任せ、雅人は部屋の隅でレゴブロック相手に奮闘中のロディにそっと近づいた。
「・・・。」
雅人が床に座り、何も言わずロディの作業を見守っていると、
「ニーニョ・・・。」
ロディが赤いレゴブロックを雅人に差し出した。
どうやら自分が作っているブロックの塊にそれを連結させろと言いたいらしい。
雅人は赤いブロックを塊の下の部分にくっつけた。
「キャハッ!」
ロディは奇妙な笑い声を挙げ、雅人のくっつけたブロックを下から見上げた。
その後は雅人のくっつけたブロックにロディがブロックを足していくという、作業が続いていった。
いつの間にか、塊に過ぎなかったブロックは、丸い胴と細長い手足を持つロボットになっていた。
ロディはそれを掴むと、母親に見せに行った。
子供らしい拙い話言葉で、いかに芸術的な創作物であるかを説明している。
目をキラキラさせたロディは得意気に見えた。
タイミングを合わせたように、強とホセの打ち合わせも終わった。
立ち上がった強の後を追うように、雅人もホセの家を後にした。
車に乗りホセの家を見ると、窓の鉄格子の隙間から小さな手を振るロディの姿があった。
「アディオス!」
雅人は車の窓を開け、大きな声で叫んだ。
何処か寂しそうなロディの胸には、二人で作ったあの奇妙なロボットが抱かれていた。
市街地を暫く走っると、赤を基調とした派手な屋台が目についた。
「タコスでも食うか?」
「ん、・・・あぁ。」
強が屋台の前で車を止めた。
雅人は窓を閉め、車からは降りなかった。
シートを倒し、ストローハットを顔の上に被せて目を閉じる。
しかし、ものの五分程で窓を叩かれ身を起こすはめになった。
強が新聞紙に包まれたタコスを、窓の隙間から雅人に渡すと、濃いバーベキューソースの匂いが車内に立ち籠めた。
包みを開くと、野菜とポテトサラダ、そしてソースにまみれたチキンの胸肉が挟んであった。
鶏肉を避けてタコスにかぶりつく雅人に、
「肉、残すなよ。」
運転席の強が雅人の紙包みから鳥の胸肉を指でつまむと、自分の口に放り込む。
雅人はタコスを食べきり新聞紙を丸め、それを兄にぶつけた。
「え?w 今更反抗期?」
強が楽しそうに笑う。
「違うし。」
「兄ちゃんが他所の男と話していたのが気に入らなかったか?w」
「・・・違うし・・・。」
「変わらねぇなw」
強はタコスの残りを口に放り込むと、車を発進させた。
二人はそのままホテルに戻った。
ドアが閉まったと同時に、強は雅人を荒々しく抱きしめ唇を重ねた。
雅人も兄の背に腕を回し、大きく口を開ける。
舌が絡み合いお互いの唾液が音を立てて混ざり合い淫猥な音を奏でた。
荒々しく雅人の衣類を剥ぎ取り、じっとりと汗ばんだ雅人の体に強が舌を這わせていく・・・。
のけ反った胸の硬く尖った乳首を強く吸われ、雅人は声を挙げ、足を兄の腰に絡めた。
熱く強張った兄の分身を引き出すと、雅人は舌で嬲った。
更に硬くなる。
「咥えろ。」
命令だった。
雅人は分身の先端を口に含んだ。
強は雅人の頭を掴むと、ゆっくり腰を動かす。
分身が雅人の口の中に出入りするのを上から眺めている・・・。
雅人は涙に滲んだで強を見上げた。
呼吸が止められ、雅人の形の良い眉が苦痛に歪む。
しかし、強は容赦なく腰を入れた。
根元まで・・・雅人の喉が、カエルの腹の様に膨れた。
強の尻を掴んでいた雅人の指が、爪を立てた。
強しは腰を引いた。
ずるずると姿を現したそれは、雅人の唾液で濡れていた。
少しの呼吸をさせ、再び強は腰を振った。
浅く、深く、早く、遅く。
強の分身が喉を擦る感覚は快感となり、雅人はベッドのシーツの上に精を放っていた。
強もまた・・・。
行為が終わると、雅人は再び枕に顔を埋め泣いた。
「こんなんは僕じゃない!」
そう言って雅人は泣いた。
強はベッドから半身を起こし、煙草の煙を揺らめかせている。
雅人から立ち昇る柔らかな花の甘い香りが、煙草の煙と匂いに置き換わっていく様は、このホテルに来て二度目だ。
昨日に続き今日の行為で、強と雅人の周りに立ち込める薄灰色の靄は、その濃さを増していた。
雅人が強の欲望に応じてしまうのも、その靄の影響なのかも知れない。
だが、強は雅人の処女を奪うつもりは無かった。
それだけは自身に架した絶対のルールだからだ。
実際のところ、雅人の蕾は6歳の時に実父によって汚されている。
あれから11年経った今でも、雅人の心の闇は晴れてはいない。
もしかすると、年々闇はより深く濃くなっているのかも知れない。
雅人は当時の記憶を持ってはいないが、実父の事を嫌悪・・・いや・・・忌避している。
だからこそ、強は雅人に今以上の事をするつもりになれなかった。
”やってしまったら親父と同じ闇に落ちる。”
それだけは、避けなくてはならない。
自分の隣でさめざめと泣く雅人を眺めながら、強は二本目の煙草に火を点けた。
「なぁ。」
「・・・。」
「今夜はホテルのクラブで遊ぼうぜ。」
「・・・一人で行けば。」
「別にいいけど・・・俺、戻らないかもよw」
「やだ。」
「一緒に行くか?」
「・・・脅し?」
「まぁなw・・・どうする?」
「・・・い・・・・行くかも。」
雅人は枕から半面だけ兄の方に向け、曖昧な応えを返した。
「ルームサービスでも頼むかな。腹減ったし。
お前何喰う?」
「野菜と果物のミックススムージー。」
「それだけ?
後で造血剤飲ますからな。」
「やだ。」
「じゃ、他には?」
「・・・野菜サンド、パンは耳付きで。」
「www、お前パンの耳スキなw。」
「一番美味しいし、普通じゃんか。」
「あぁハイハイw。了解した。」
強はベッドサイドに置かれた内線でルームサービスを注文した。
「食事が来る前にシャワー浴びるか。」
強に腕を引かれ、雅人はバスルームに向かった。
冷えた体に熱いシャワーが心地良い。
細胞が生気を取り戻していく。
雅人は強にここでもキスをされた。
壁に背中を押し付けられ、逃げ場のない雅人と強の頭上からは、熱いシャワーが降り注いだ。
バスローブを羽織り髪の毛を強にゴシゴシと拭かれていると、部屋の入り口をノックされた。
強は腰にバスタオルを巻いた姿でドアを開けた。
強の体はギリシャ彫刻の様に美しい。
全身を覆う鍛えられた筋肉。
ルームサービスを運んできたボーイが顔を赤らめたのが見えた。
それは仕方の無い事だと雅人も分かっている。
しかし、このメキシコに来てからというもの、兄に対する周囲の反応にモヤモヤは募るばかりだ。
雅人の行動は雅人自身でさえ予想外だった。
ボーイにチップを渡そうとしている強の元に駆け寄り、雅人は強の体を背中から抱きしめた。
手の一方は強の胸に、もう一方は股間に。
ボーイはハッとした顔をすると、チップを受け取り逃げるように部屋から出て行った。
雅人の行動に驚いたのは強も同様だった。
「嬉しいね。
でも、2ラウンドは食事の後にしないか?w
俺はどうにも腹が減って仕方がないw」
強は股間に置かれた雅人の手を上から押さえ上下に動かした。
強の股間が大きく膨れていく。
「・・・ちぃ兄・・・ごめんなさい・・・ご飯にするから。」
「弱ったなぁ、こんなになっちゃってるよ。」
「ご、ごめんなさい。」
顔を赤らめ恐縮している雅人を抱き上げ、強はリビングのソファに腰かけた。
雅人を膝に乗せ、その手にスムージーを持たせた。
「ま、食事が先だw」
雅人はストローを口に咥えた。
夜になり、雅人は強のコーディネートで身支度を整えた。
厚手のシルク地のシャツブラウスに黒のスリムパンツ。
靴は黒のローファー。
首にダイヤのあしらわれた黒のチョーカー、手首には3連のプラチナのブレスレットをはめ、腰にプラチナ製の細いチェーンを巻いた。
強は白のワイシャツ、紺地にグレーのストライプの入ったベストとスラックス。
腕に嵌めた時計はロレックス。
靴はグレーのローファー選んだ。
雅人は腕を強の腰に回し、強は雅人の肩を抱き寄せ、時々その額にキスをしながらクラブへ向かった。
クラブはホテルの最上階にあった。
二人はウエイターに窓際の席に案内され腰を落ち着けた。
相変わらず強は雅人を膝の上に跨らせていたし、雅人はと言うと、強の首に腕を回し肩に頭を載せている。
「何を飲む?」
「オレンジジュース。」
「マジか。」
「だって・・・未成年だし。」
「・・・w だなw」
強はウイスキーのロックを、雅人にオレンジジュースを注文した。
雅人は兄に寄り添いながら、窓の外に視線を泳がせた。
近代的なビルは東京ほど多くは無い。
数キロ先は暗く、貧富の差が極端である事が分かる。
いやそうでは無い。
東京が異常なのだ。
延々と続く光の海。
東京という地は、世界的に見ても異常過ぎるのだ。
小さく溜息を吐いた雅人の背に、知らない女が声を掛けた。
見知らぬ女のターゲットが強であることは一目瞭然だった。
「お兄さん、お子様の相手は疲れるでしょ。
あたしに一杯奢ってよ。」
雅人は不機嫌さを顔に滲ませ、身を捩って女を視た。
女は俗に言う”高級売春婦”と言う奴なのだろう。
雅人は女と目を合わせると、鼻で笑ってみせた。
女の形相は見る見る醜悪に歪み、顔色を赤黒く変化させた。
そんな女を横目に、雅人が極め付けの言葉を吐く。
「このブスと遊ぶの?」
勿論、スペイン語で強に尋ねた。
雅人に挑発された女の唇がわなわなと震えている。
「お前と飲みに来たんだぞ。
それに、お前よりいい女なら兎も角・・・w・・・。
ありえねぇよw」
強は膝の上の雅人の尻を掴み抱き寄せると、雅人と舌を絡めて、濃厚なキスをして女に見せ付けた。
「ゲイの腐れ珍カス野郎!
地獄に落ちろ!」
女は叫び、ナイトクラブを出て行った。
その姿を見送り、雅人はクスクスと笑った。
「最低な女w」
「まぁそう言うな。
あいつらも仕事なのさw」
「ちぃ兄はあんなのと遊ぶの?」
「たまには、なw」
「ちぃ兄最低!」
「怒るなよw。
今回のメキシコの全旅程は、雅人しか見てないから安心しろ。」
「知らない!」
「ほら、キス続けようぜ。」
「ウイスキーの味がする。」
「酔ったら介抱してやるよw」
「ちぃ兄のエッチ。」
「なぜそうなる?w」
強はウイスキーを口に含み、雅人と舌を絡めた。
雅人の口の中が、灼けるように熱を帯びていく。
「・・んん・・・。
強の背中を抱く雅人の指に力が入る。
「部屋に戻る?」
「・・・ん。」
強は雅人の手を引き部屋に引き上げた。
雅人は思わず飲み込んでしまったウイスキーに酔っていた。
潤んだ瞳は、強を誘うように見詰めている。
その時雅人は初めて気付いた。
VIPスイートルーム内に立ち込めた、濃厚な微粒子のうねりを。
色で例えるなら濃いグレー。
それが兄と自分の周囲を絡めとるようにうねり、纏わりついている。
強が雅人をベッドに横たえ、シルクのシャツの上から乳首に触れた。
痺れるような感覚が全身に走る。
「あ・・・ぁ・・・。」
雅人の口から甘い喘ぎ声が漏れた。
シャツの下で乳首が硬く尖る。
それを摘ままれた。
潰すように、強く、強く、そして捻られ引っ張られた。
「だめぇ、だめぇ・・・。」
強が手を離した。
「いやぁ・・・やめちゃ、だめぇ。」
雅人は自分の発する言葉の矛盾に気づかない。
強が雅人のズボンを下着ごと剥ぎ取った。
若く猛った雅人の分身を掴み、上下に擦った。
もう片方の手は、雅人の小さな乳首を指で潰している。
雅人は恥ずかしいほど早く果てた。
「痛いのが好きなのか?」
強の囁く声を聴き、
「・・・ちぃ兄だから・・・。」と呟いた。
「もっと痛くして欲しい?」
「・・・ちぃ兄なら。」
強は雅人の衣服を脱がし全裸にした。
自らも全裸になり、雅人を抱き上げバスルームに向かった。
トイレの蓋を抱かせるように座らせ、
「エネマしてやる。」
強は旅行鞄から100ミリのエネマを取り出した。
長いチューブの付いたその先端を雅人の蕾に深く差し込み、ゆっくりエネマの溶液を注入していった。
全部入る前に雅人の顔が歪み始め、
「・・・う・・・痛い・・・痛い・・・ちい兄・・・出ちゃう出ちゃう!」
「我慢しろ。
まだ全部入ってない。
5分我慢しろ。」
溶液を全て注入し終わった強は、雅人の蕾にティッシュをあてて指で塞いだ。
空いた手で雅人の下腹部を揉む。
雅人は脂汗を流し、身を捩って痛みを訴えた。
しかし、強は蕾を塞いだままだ。
雅人の体が急激に体温を下げ、ガクガクと震えだす。
5分経った。
蕾から指を離し、トイレに普通に腰かけさせた。
間一髪だった。
雅人の蕾から聞くに堪えない音と共に、大量の老廃物が便器に排出されていった。
雅人は泣いていた。
顔を両手で覆い、耳まで赤くして嗚咽を漏らし羞恥に堪え続けた。
便意は波状攻撃となって雅人を襲った。
痛みと羞恥と絶望を感じているのに、雅人の分身は猛ったままだ。
今まで無いくらい荒々しくそそり立つなんて、初めての事だった。
痛みが去った後はシャワーのぬるま湯が蕾から注がれた。
何度も、何度も。
お湯の色が綺麗になるまで繰り返された。
「旅行中は腸の働きが鈍くなるもんだ。
それが普通。」
「・・・すごく痛かったのに・・・痛かったのに・・・。」
湯船の中で、雅人は強にすがって泣いた。
強の指が、腫れの引いた雅人の蕾の淵をなぞっると、蕾から粘度のある蜜が滲んだ。
その指がするりと蕾の中に滑り込んだ。
「あ・・・ちぃ兄・・・。」
囁くような小さな声で雅人が呟く。
強は長い中指をゆっくり蕾に沈めた。
そして、とあるポイントで内壁を指の腹で突くと同時に雅人の体に電流が走った。
「あ・・・あ・・・あん・・・あん。」
エネマの最中から猛っていた雅人の分身から大量の精が噴出し、湯船を白濁させた。
雅人は激しい動悸に息が苦しくなった。
「よかったか?」
強に訊かれ、雅人は小さく頷いた。
「ちぃ兄。」
「ん?」
「さっきの何?」
「あぁ・・・前立腺を刺激した。」
「・・・聞いた・・・ことあるかも。」
「そか。」
「うん。
ちぃ兄は医者だから?」
「ま。それもあるかなw。」
「僕も医学部に進む予定。」
「知ってる。」
「・・・変なの。
ちぃ兄は慣れてるっぽい。」
「場数かなw」
「・・・恋人?」
「とも違うかな。」
「誰?」
「気になるのか?」
「・・・何となく・・・だけど。」
強は雅人の目を見詰めた。
「いずれそいつに会うかもなw
メキシコから帰国して、高校大学と進んで、その先にそいつがいる。
時期が来たら紹介してやる。」
「今は教えないってやつ?」
「まぁ・・・そうだな。
今は明日以降の事態への対処が優先だからな。
俺の色恋は本筋からそれちまうw
そうは言ってもこの先も、俺の優先順位は雅人、お前が一番だ。
お前の為なら何だってする。
何でも出来る。
今回の全ての事は俺の最初で最後の我儘だと理解して欲しい。
いずれ、お前の為になると信じている俺を・・・信じて欲しい。」
強の瞳の奥に見え隠れする決意に、雅人はこれ以上尋ねることを止めた。
「ちぃ兄、大好き。」
「嬉しいよ。
俺もこの世の誰よりもお前が大好きだ。」
バスタブからあがり、初めての経験に戸惑う雅人の体を、強はタオルで拭いた。
そして、雅人と共に全裸のままベッドに入る。
部屋の電気を消し、
「明日は現地に向かう。
何が起きるか・・・何があっても俺はお前を護る。
約束だ。」
強は雅人の額に口づけた。
雅人は強の胸に頭を載せ、腕は強の腹を抱いた。
いよいよ明日は、セロエルポトシの麓まで行く。
今夜はこのまま眠りにつくことにしよう。
強は静かな寝息を立て始めた雅人の髪を撫でながら、
「おやすみ」
と囁いて目を閉じた。
翌朝はよく晴れていた。
いつもより空気が澄んでいる気がした。
「おはよ、ちぃ兄。」
雅人がベッドに身を起こし伸びをした。
「・・・はよ・・。
良い天気みたいだな。
お前の体調はどうだ?」
「概ね好調・・・かな?」
「そかw
腹減っただろ?
飯が済んだらロビーでホセと合流するぞ。
ほら、ムーヴ、ムーヴw」
強に尻をパチンと叩かれ、雅人はベッドから飛び降りた。
アンダーシャツの上にネルのダウンボタンのシャツを着た。
シャツは赤系統のタータンチェック、ズボンはストレートのブルージーンズだ。
靴はトレッキングシューズにした。
頭にバンダナを巻き、丸いブルーカラーのサングラスを架けた。
背中には軽めのデイパックを背負い、腕には気圧表示機能の付いた腕時計を嵌めた。
ロビーに行くと、ホセは既に来ていた。
二人を待ち詫びたようにホセが駆け寄って来た。
「世話になるよ。
よろしくな。」
「旅の安全を願うばかりですよw」
ホセは温厚な笑顔で二人を出迎えた。
強は頑丈なケースに入った機材と、重量のある荷物をホセに渡した。
ホセは敢えて何も聞かずに、その荷物を用意したランドクルーザーに載せていく。
手慣れた手つきで荷を車に括り付けたホセに、
「雅人さんの荷物はどうします?」
と訊かれ、
雅人は首を横に振った。
雅人のデイパックの中には、携帯用酸素が何本か入っている。
ある意味、雅人の必需品だった。
「オッケー、何時でも出発できますよ。」
ホセが強に告げた。
「そうだな、行こうか。」
「では、モンテレーを目指します。
7,8時間もあれば到着するでしょう。
途中カルテルや軍の検閲があるかも知れませんが・・・、ま、何とかしますよw
そうそう、空腹を感じたら足元の布袋を開けてください。
妻の手作りのスコーンとポットにコーヒーが入ってます。
マリアのスコーンは絶品でしてねw
我が家の名物です。
あ、俺の分はこっちにあるので、袋の中はお二人で召し上がってください。
何度かトイレ休憩を挟みますが、お二人の祖国とは違って・・・その・・・w
停まった場所でしていただく感じですから、頑張ってw」
雅人はその話に顔を赤らめた。
そんな雅人の初々しい反応に、ホセは苦笑しながらアクセルをゆっくりと踏み込んていった。
道中、ホセが息子のロディの事を語った。
「雅人さんの事を”ニーニョ”って言うんですよ。」とか。
「あの時一緒に作ったへんてこな物を大事にしている。」とか。
「ニーニョに会えるのは何時かとか。
早く会いたいって言うんですよw。」と、楽しそうに話し、ホセは破顔した。
車窓を流れるメキシコの自然を眺めながら、雅人の脳裏にはロディの可愛らしい笑顔と、母にも似た柔らかく甘い匂いを思い浮かべていた。
「僕もロディに会いたいです。
山から下りたら会いに行きますよ。」
雅人は心から応えた。
ホセが満足そうに顔を綻ばせる一方で、強は無言だった。
強の沈黙が意味するものとは?
ただ、終始不機嫌そうな・・・悩みの深そうな強の表情が雅人は気になった。
13時間後。
セロエルポトシの麓モンテレーに着いた時、時刻は夜の9時を回っていた。
この地は北部をアメリカのテキサス州に接している。
そのせいか軍や警察の検問がいくつもあっただけで無く、カルテルの検問まであるのだから、たまったものでは無かった。
ホセは停車させられる度、いくばくかのワイロを手渡す様子を、雅人は目撃している。
車内を覗き込む兵士や警官、カルテルの連中は、雅人や強に例外なく好奇の目を向けた。
しかし意外にも、日本のパスポートは幾度となく奇跡を起こした。
実はメキシコと日本の友好は400年以上の歴史がある。
学校でそれなりの歴史を勉強したメキシコ人は、日本に対して悪感情を持っていないことが多い。
何故なら、日本がアジア以外で初めて平等条約を締結したのがメキシコであり、メキシコのみが永田町に大使館を構えている事からも、両国の友好関係を伺い知ることが出来る。
今回の旅行で雅人が知った事。
それは、メキシコ国民の日本への感情は温かかったと言う事だ。
そして日本の赤いパスポートが十分に友好を発揮した事実に、
「流石ですよw。」
と言って、ホセは笑った。
「これが欧米のパスポートなら最悪レイプされてますよ。
ましてや・・・雅人さんは極上だからw。」
ホセは何気に恐ろしいことを言う男だった。
時間はかかったが、無事にモンテレーのホテルに到着したことを素直に喜んだ。
車から荷物を下ろし、
「明日はセロエルポトシの観測所まで行けばいいんで、出発は午後1時にしよう。
今夜はゆっくり休んでくれ。」
強はホセを労い、比較的いい部屋をホセの為に用意した。
自分の荷物を肩に背負ったホセは、あてがわれた部屋へ消えて行った。
強は雅人の為にホテルの特別室を予約していた。
しかし最上階の部屋は、特段華美な印象は感じなかった。
ベッドルームは2室。
それぞれにバスルームが併設され、リビングは20人以上が集える程、無駄に広かった。
「利用人数は二人なのにねw。」
雅人が呟く。
「ベッドルームも2つあるけど、お前、どっち使う?」
強の言葉に、雅人の体が強張る。
「ど、うして・・・意地悪言うの?」
「ん?怒った?w」
「・・・ちぃ兄は意地悪だ。」
雅人は涙目になった。
分離不安症の雅人は一人で眠ることが出来ない。
それを承知の上で、強は雅人を試すように揶揄う。
「ごめんて・・・そんなに怒るなよ。
今夜も明日も、この先ずっと一緒だよ。」
強は雅人を抱きしめた。
「・・・謝るくらいなら・・・意地悪しないで。」
「だな・・・悪かった。」
強の腕の中で、雅人は震えた。
二人でシャワーを浴び、レストランでホセと共に食事をした。
ホセはセロエルポトシへ客を案内するのは、今回で2回目だと言った。
「案外行かないんですね。
人気無いとか?」
雅人の質問に、
「元々、あそこはアメリカ軍が施設を建設したことで、立ち入りが制限されていますから。
軍事施設だって言う理由でね。」
「最初に行ったのはいつ頃の事ですか?」
「あれは丁度11年前でした。
山頂で飛行機の墜落事故があって・・・当時は荷運びのポーターをやっていたので、現場検証の機材とか担いでね。」
雅人は、ここで初めて強がホセを同行させた理由を理解した。
「事故?」
「ええ、悲惨な事故でした。
生存者は小さな男の子一人だけで、同乗していたご両親は亡くなったとか。
俺が現地に行った時はもう、遺体も航空機の残骸も何も無くて、本当に機材を運んだだけなんですよ。」
「そうですか・・・。」
「すみません、食事中にする話じゃないですよねぇw
気分を害されたら謝ります。」
ホセは申し訳なさそうに頭を掻いた。
「いえ、大変なお仕事でしたね。
辛い思い出を聞いてしまったみたいで、僕こそごめんなさい。」
雅人は謝った。
「やだなw
俺は仕事しただけですよ。
それより、その話にはもっと不思議なことがあるんです。」
ホセは僅かに声をひそめた。
「ほう、聞きたいな。」
珍しく、強が話の続きを促した。
「実はその航空機は落雷で墜落したんじゃ無いかって噂が立ちまして。」
「落雷?
珍しい現象では無いはずですが・・・航空機を落とすほどの落雷ねぇ。」
「そう思いますよね。
でもね、俺は見たんです。
いや、俺だけじゃ無い。
あの日、セロエルポトシを臨む場所にいた人間は、皆、あの凄まじい音と山頂を覆った眩いオレンジ色の光を目撃しています。
実際何枚も写真を撮られていたし、翌日の地方紙の一面を飾ったくらいですから。」
「ほう・・・面白いね。」
「でもね、強さん。
沢山の学者さんが”落雷説”を事故原因だと言っていましたけど、俺の考えは少し違いまして。」
「と、言うと?」
「落雷では無く・・・何て言うのかな・・・光が山肌から空に向かって放たれた・・・みたいな。
目撃者の一人として、俺にはそう見えたんです。
雷は上からではなく、下から・・、ビームみたいに。
何て言うんでしたか・・・。」
「レーザービーム?」
「それです、それ!
俺は観測所が事故を起こして飛行機を撃ち落としたんじゃないかって、今も疑ってます。
大きな声では言えませんけどねw」
「そうですね、迂闊に吹聴しない方がいいでしょう。
ホセ、貴重な話をありがとう。」
強は礼を言った。
ホセとレストランで別れ、雅人と強は部屋に戻った。
大型のテレビのスイッチを入れ、有料チャンネルをサーフィンしている内に、長時間移動の疲れが出た雅人は、カウチに座ったまま眠っていた。
暫くして目を開けると、雅人は全裸でベッドの中にいた。
隣では半身を起こした強がタブレットで何かを調べている。
「・・・はよ・・。」
「ん?
アハハ、まだ朝じゃねぇよ。」
「ちぃ兄。」
「何だ?」
「何で僕・・・・裸なの?」
「普通だろ?」
「ちい兄が脱がしたの?」
「俺以外がそんなことしたら問題だろw」
「そう・・・だけど・・・。」
「疲れただろ、ゆっくり眠れ。」
強に言われ、雅人は兄の腹で指を遊ばせた。
引き締まった強の腹筋は、医師のそれでは無かった。
地黒の肌は強の体を覆う筋肉を美しく際立たせ、
無駄な体毛も体臭も無いギリシャ彫刻のような身体は見る者を魅了する。
ただ、恥毛はたっぷりと、そしてそれは硬い毛だった。
一方雅人は兄同様ムダ毛も体臭もないが、恥毛はほやほやっとあるだけだった。
今時は男子もムダ毛処理のついでに、恥毛も脱毛処理するらしいが、雅人は薄い体毛に強いコンプレックスを感じていた。
人として未完成な、そんな気がしたからだ。
雅人は強の恥毛に指を這わせた。
暖かくて安心できる触り心地だ。
「おいおい、あんまり刺激してくれるなよw」
「ちぃ兄のはふさふさで羨ましいよ。」
「ははは・・・雅人のも可愛くて俺は好きだぞ。」
「可愛いとか言うな。」
雅人は指を強の分身に這わせた。
強の分身は大きくて太い。
雅人も体の割に大きいが、強の分身は格が違う。
次第に硬度を増していく強の分身・・・。
雅人はベッドのシーツに潜ると、強の分身の先端を口に含んだ。
舌で円を描くように嬲っていく。
強が呻くような吐息を吐くのが聞こえた。
分身は更に長さを伸ばし硬度と太さを増した。
雅人はシーツの下で、それらを全て口に含んだ。
頭を上下させる。
何度も、何度も。
ジュボ・・ジュボ・・・ジュボ・・・。
卑猥な湿った音が繰り返された。
雅人の口端が切れそうになるくらい強の分身が太さを増した瞬間、舌の上に強の精が放たれた。
雅人は唇と舌で分身を絞るように吸い、強の精の全てを飲み込んでいった。
強は放った後も大して力を無くすことなく、大きさも硬さもそのままだった。
再び雅人が咥えようとした時、
「いらずら小僧め。」
と言って、強は潜っていた雅人の頭を小突いた。
「美味しかった。」
顔を上気させた雅人が、シーツから顔を覗かせた。
「おいで。」
強に導かれ、雅人は強の腹の上に跨ると、強の汗ばんだ手が雅人の肌に触れた。
白磁のように滑らかな雅人の体は、濃い花の匂いを纏っていた。
翌日、朝食をホセと一緒に取り、ゆっくりと出発の準備をした。
約束の時間丁度にホテルを出ると、ランドクルーザーの前でホセが人懐こい笑顔で待っていた。
「今日もいい天気です。
問題なければ4,5時間ってとこでしょう。
道も舗装されているので快適ですよw」
ホセは車のエンジンをかけ、アクセルを踏み込んだ。
ホセが言った通り、道中は快適だった。
サスペンションの良い車両は揺れもせず、着実に目的地へ近づいていく。
標高が三千メートルに到達する少し前に、雅人が軽い貧血になった。
アクシデントは持参していた酸素のスプレー缶で乗り切った。
午後5時前に、一行を乗せた車は観測所のゲートに到着した。
米軍の兵士が2名、クルーザーにゆっくりと近寄って来た。
彼等はアサルトライフルを抱え、指をトリガーにかけていた。
こちらに不審な素振りがあったら、容赦するつもりは無いという事か。
後部ドアを開け、強が両手を上に挙げた姿勢で兵士に対峙した。
「ここは立ち入り禁止だ。
観光なら他所に行け。」
兵士の一人が強の腹に指を当てて押した。
「俺たちはここに入る許可を貰ってる。
俺の胸ポケットに許可証があるから、確認してくれ。」
兵士が強のシャツのポケットに手を入れると同時に、もう一人の兵士が強の額にライフルのポイントを合わせた。
ポケットからカードの様なものを取り出し、兵士はそれを眺めた。
徐に、肩に付いた無線機を使い、何処かに確認の連絡を入れた。
時間にして10分程待っただろうか。
”いい加減にしろよ・・・。”
兵士等に緊張を強いられていた雅人は、彼等に殺意を覚えた。
湧き上がる感情を押し殺すにしても、限界は近い・・・。
刹那、兵士が銃口を下に向けた。
「ドクター、イトウ、ようこそ観測所へ。
で、あちらの二人は?」
兵士の見事な掌返しに、さっきまでの緊張は無かった事にされた。
白い歯を見せて笑顔を浮かべた兵士達のライフルは、背中に回っている。
もう敵意は無いと言うことか。
強が兵士に説明をしている声が聞こえた。
「運転しているのは山岳ガイドのホセ・ロドリゲス。
後部座席にいるのは、俺の弟のマサトだ。
二名の同行も承認されているはずだが。」
「ええ、写真付きで承認されていますが。
本人を確認するので、車から降りて貰ってください。」
兵士の指示に従い、雅人とホセは車から降りた。
サングラスを外した雅人を見て、兵士の一人が口笛を吹いた。
「弟?
妹の間違いしゃないか?w」
雅人の周りをゆっくり一周する兵士の口元は、好色な笑いが浮かんでいた。
「おい、危ない物を持っていないか・・・検査しないとな。」
「持ってないよ。」
雅人は嫌悪の表情で抗議した。
「ん?
反抗する気か?
俺らが不審者って判断したら、お前ら全員ここでハチの巣に出来るんだぜw
ほら、向こうを向けよ、ボーイw」
兵士に肩を押され、雅人は兵士に背中を向けた。
「いい子だw
車に手をついて・・・・へへへ・・・足を開け、ボーイw」
雅人は指示に従った。
兵士は銃床で雅人の内腿を何度も撫でながら、
「もっとだ、もっと開けよ、ボーイw」と言った。
腿の内側の筋が限界まで伸ばされた。
雅人の顔が苦痛に歪む。
兵士は薄ら笑いを浮かべながら、素手で雅人の下腹部と小さくて丸い尻ばかりを丹念に撫でまわした。
雅人の顔は羞恥と屈辱に朱に染まった。
だが、今は堪えるしかない。
雅人は下唇を噛んだ。
雅人の尻を堪能し気を良くした兵士は、
「オッケー、問題なしだ。」
と、もう一人の兵士に告げた後、雅人の耳元で
「俺は午後6時になったら仕事が終わる。
その後可愛がってやるよ。」
と言って、雅人の耳たぶをペロリと舐めたのだった。
開放された三人は足早にランドクルーザーに乗り込んだ。
検問所のゲートが開くと、山頂の観測所を目指した。
「もう、最低。」
雅人が叫ぶ。
「兵士何てあんなもんですよw。
どの国も同じです。」
と言い、ホセが笑う。
雅人はムッとしてバックミラーに映るホセを睨み返すと、軽口を叩いたはずのホセの目は笑っていなかった。
隣に座る強に至っては、厳しい顔で車の前方を睨んでいる。
その兄が小さく呟いた。
「いずれ雅人も正式な訓練をうけるといい。」
「訓練て・・・。
さっきだって、ちい兄に銃口が向けられてなかったら、あんなやつ・・・。」
「ああ・・・よく我慢した。
判ってる。
我慢させてすまなかった。
ありがとな。」
強は雅人を抱き寄せると、額に口づけた。
数分して、ランドクルーザーは観測所の正面入り口で停車した。
自動ドアを抜け建物の中へ入ると、そこは無機質なコンクリートの壁とリノリウムの床が奥へ奥へと続く、いかにも研究施設といった場所だった。
入り口に設置されているインターフォンの通話ボタンを押し、
「伊藤です。」
強が名乗る。
暫くして白衣を翻した男が一人、こちらに向かって駆け寄ってきた。
「待ってたよ、ツヨシィw」
男は強に抱き着くなり、頬にキスを繰り返した。
呆れて目をそらしたホセとは対照的に、雅人は嫌悪を隠さず男を睨んだ。
「こら、メイヤー離れろ。」
「やだ、冷たい!久しぶりなのに。
5年ぶりくらい?
元気だった?
寂しくなかった?」
「ったく!話は後だ。
離れろって、弟も見てんだ、いい加減にしろ!」
メイヤーと呼ばれた男は強の首に腕を回したまま、初めて気づいたとでも言うように雅人を凝視した。
「ふぅん、ご自慢の弟さん?
まぁまぁねw。
さ、ついてきて。
部屋に案内してあげる。」
先導するメイヤーは、強の腕に絡みついて離れない。
雅人とホセはその後に続いた。
「強の部屋はここよ。
ガイドの人はその右隣ね。
で、弟君は・・・w」
メイヤーは強の部屋から5つのドアを越えた先のドアを指し示した。
突然、強は絡みついていたマイヤーの腕を振り払うと、
「こいつは俺と一緒の部屋だ。
これは決まっている。
変更はない。」
メイヤーに告げた。
この時の強の口調は荒く冷気を含んでいた事をメイヤーは敏感に感じ取ったのだろう。
一瞬、敵意剥き出しの視線を雅人に向けたメイヤーが小声で呟いた。
「強は昔からそう。
あたしの言う事なんてこれっぽっちも聞かない。
もう、好きになさい。
ここの居住エリアはほぼ空き室だから、好きな部屋を選ぶといいわ。
どの部屋もツインだし、バストイレ完備よ。
荷物置いたらさっきの入り口のインターフォンで呼び出して。
施設を案内がてら仲間を紹介するわ。」
そう言い残し、メイヤーは去って行った。
「変わった方ですねw」
ホセが笑う。
「どういう関係なの?
何かもの凄く不愉快だったんだけど。」
雅人の眉間を寄せ、去って行くメイヤーの背を睨んだ。。
「大学の友人だよw
オックスフォードで俺とあいつは同期だったってだけさ。
そもそも奴が変なのは昔からだw
さてと、荷物を置いてシャワーを浴びようじゃないか。
ホセ、入り口でまた会おう。
そうだな、一時間後で。」
「わかりました。
では、また後で。」
雅人達は、隣り合うドアを開けてそれぞれの部屋に別れた。
部屋はさほど広くは無く、ベッドルームとバスルームの二部屋のみ。
シングルのベッドが二つと、一人掛けのソファが二脚とローテーブル、そして大型テレビが壁に掛かっていた。
強と二人になって少しは落ち着いた雅人だったが、
憮然としたままベッドに腰を下ろした。
ちょっとは機嫌を取って貰いたいと思う雅人を無視するように、強は服を脱ぎ出したではないか。
裸になった強が、早々にバスルームに向かう背中を見送り、
”なんか、もやもやする”
雅人はベッドに横たわり枕を抱いた。
バスルームのドアが開く音がして、
「おーい、何してんだ?
早くおいで。」
強が雅人を呼ぶ声が続いた。
雅人は返事をしなかった。
暫くして腰にタオルを巻いた強がベッドの縁に腰を下ろし、雅人の髪を撫でた。
「どうした?」
雅人を撫でる手つきは優しい。
「拗ねているのか?w」
「知らない。
何でもない。」
「分かり易いなw
メイヤーは昔からあんな奴だ。
ゲイだしw」
「ちぃ兄の恋人?」
「はぁ?
んな訳あるかよ。
笑わせんなw
あいつは大学の同期だよ。
それだけだ。」
「だったら・・・どうしてあいつは僕をあざ笑ったの?
すっげーむかついたんだけど。」
「性格が悪いんだよw
腕のいい医者じゃなかったら相手しねぇしw
それに・・・あいつはお前に嫉妬したんだと俺は思うけどねw」
「嫉妬?
意味分かんない。」
強は拗ねて背を向ける雅人の腰に手を置いた。
「昔、あいつは何度も俺を口説いてきたけどw
俺は一度としてそれに応えなかった。
で、今回俺の弟とはいえ絶世の美人を連れてきたから、ああいう態度をとったんだろうさw」
「絶世の美人・・・て。
ちぃ兄・・・可笑しなこと言うなよ。」
強は雅人の腰に置いた手を腹に、そして胸に移動させていく。
「可笑しくないよ。
お前は俺の宝物だし、知る限りお前より美しい人間を俺は知らない。
その上、性格が可愛い。
可愛いは正義って誰かが言ってたが、それってw
この世に少ない真理の一つだと思うぜ。」
喋りながら、強の指が雅人のシャツのボタンを器用に外していく。
「ちぃ兄は変だ。」
「誉め言葉だろ?」
「・・・違うし・・・。」
「さあ、起きてシャワーに行こう。」
強は雅人の腕を引いて起き上がらせた。
その体を正面から抱き寄せ唇を重ねる。
戸惑いながらも、雅人は小さく口を開け強の舌を受け入れるのだった。
身ぎれいな衣服に着替え、兄弟が待ち合わせ場所に向かうと、苛立った顔をしたメイヤーと苦笑いを浮かべたホセの姿がそこにあった。
「遅い!」
メイヤーが腕組みをして叫ぶ。
「そうか?
時間通りだろw」
強は笑い、その腕は雅人の腰を当たり前のように抱いていた。
メイヤーは敵意を隠そうともせず雅人を凝視してきたが、雅人は”ふんっ”と鼻を鳴らしてその敵意に応えた。
メイヤーが雅人から視線を外した。
「丁度夕食の時間だから、食堂に行くわよ。
他のメンバーにも会えるだろうし。」
メイヤーは早口で捲し立てるや、わざとらしく足音を立て食堂に向かう姿に、
「ちぃ兄、もしかして僕は奴を怒らせた?」
「気にすんなw」
苦笑する強の横顔を眺めながら、雅人は兄の腰に手を回した。
メイヤーについて行くと、前方から小気味よいジャズが流れて来た。
食欲をそそる良い匂いもする。
メイヤーは食堂に入ると、白衣の集団に近づいていった。
「皆ぁ、紹介するわよ。
彼はドクター伊藤とその弟。
で、あっちは山岳ガイドのミスタ・・・えっと。」
「ロドリゲスです。」
ホセは笑い皺を目尻に刻み自己紹介した。
続く様に、白衣の集団から声が掛かった。
「お噂はかねがね。」とか、
「メイヤー先生の元恋人って本当?」とか、
「弟君、可愛いね」とか・・・。
ホセには、
「久しぶりだね。随分昔だけど覚えているかい?」
「顔を見たら、あの時の事を思い出したよ。
その節は世話になったね。」などと声を掛けられていた。
メイヤー以外の人間は普通の人の様だ。
・・・メイヤー以外は。
「まぁ、座って。
好き嫌いとかアレルギーとかあるかな?」
雅人は、首を横に振った。
「なら良かったw
ここのビーフシチューとフォカッチャは絶品なんだよ。
今用意させるから、座って待ってて。」
研究員の一人が厨房に走った。
兄弟とホセは学者たちの好意に甘えることにした。
方やメイヤーは、ちゃっかり強の隣の席を確保していた。
余程雅人の事が気に入らないのか、雅人に悪意満載の視線を飛ばしては、鼻を鳴らしたり舌打ちしたりと忙しそうだ。
”オックスフォードの医学部って・・・嘘だろw”
雅人はメイヤーに知性の欠片も感じ無かった。
雅人も強もメイヤーを気にすることも無く、用意された夕食を楽しんだ。
「わぁ、フォカッチャって癖のあるパンだと思ってたけど、これは・・・ホント美味しい。」
雅人が千切ったフォカッチャを口に詰め込み頬を膨らませていると、研究員から”あざとい”“可愛すぎる”と揶揄われた雅人が顔を赤らめたりと、和気合い合いとした雰囲気の中、メイヤーだけが不機嫌な顔をしていた。
この夜提供されたビーフシチューの肉は、口の中でホロホロに崩れるくらいに柔らかく、兄の強の目尻も下がり気味だ。
ホセなど、お替りしていた。
しかし、雅人がビーフシチューに手を付ける事は無かった。
後に来るであろう腹痛を思うと、気が引けたからだ。
強はそれを見越して、少し前から肉を咀嚼している。
十分咀嚼したところで、雅人の頬を突いた。
雅人が”何?”と強の方を向くと、強の唇が重なった。
雅人は驚く事無く、雛の様に強からの肉を受け取った。
周囲の研究員たちは、その光景にさぞや困惑したことだろう。
”兄弟で何をやっている?”と。
雅人の白い喉がゆっくりと上下に動く様を、研究員達は怖い物でも見るように凝視した。
”飲み込んでいるのか・・・なんて・・・エロティックな光景・・・。”
研究員の数人が息を飲んだ時、メイヤーが悲鳴を上げた。
雅人は強からゆっくりと唇を離し、メイヤーに視線を向けると、
「ちぃ兄、ありがと。」と言って微笑んだ。
「旨かったか?」
「ん。」
雅人が頬を薄桃色に染め頷く。
堪え署の無い研究員の一人が疑問を口にした。
「それって・・・近親相関なんじゃ・・・?」と。
これに対して雅人も強は返事をしなかった。
下らない質問に応える義理は無いからだ。
だが、納得のいかなかったのは、やはりこの人。
メイヤーが大声を出した。
「何、平気な顔をしてるわけ?
可笑しいじゃない!
兄弟でしょ!」
「そうだけどw」
強はメイヤーの言葉を一蹴した。
「はぁ!!
強ってば、説明なさいよ!
あんたの弟思いは異常よ!」
メイヤーがまくし立てた。
そんなメイヤーを横目に、強は大きな溜息を吐いてみせた。
そして、
「雅人には動物性たんぱく質を分解する酵素が無くてね。
だから、今みたいにしてやらないと、たんぱく質の摂取が出来ないのさ。
俺はこいつが赤ん坊の頃から面倒見ている。
メイヤー、お前の価値観で俺たちを勝手に判断するな。
以上だ。」
強にきつく言い返され、メイヤーは怒りで体を震わせた。
「あ・・・そうだったんだね。
・・・変なことを言って悪かったね。」
研究員が詫びた。
「いえいえ、こちらも周囲の事を考えずに失礼した。
アレルギーでもないし、弟も肉類は好きですが、ひと手間掛かるので・・・理解を得てからするべきだった。
申し訳ない。」
強は研究員達に謝罪した。
「そういう事なら、我々も協力出来ると思うんだが・・・やっぱり、他人じゃ嫌・・だよねw」
研究員の申し出に、
「僕は構いません。」と、雅人が応じた。
「え!、じゃ、今からでも?」
その申し出に、雅人はニッコリと微笑むと、研究員の膝の上に移動した。
「ちょっ・・・え?え!
・・・おう・・・いいね。」
雅人を膝に載せ喜びに震える研究員は、ビーフシチューの皿から大きめの肉を口に入れ咀嚼を始めた。
雅人がニコニコしながら待っていると、研究員が雅人の頬を指で突いた。
強と同じ段取りだ。
雅人は小さく口を開け、男と唇を重ねた。
雅人の舌が男の口の中の肉を掻き出し飲み込んでいく。
雅人の白い喉が、二回三回と上下する様は妖しくそして美しかった。
飲み終わり、
「ありがとう。」
雅人は少し掠れた声で研究員に礼を言った。
一方言われた研究員の目は焦点が合わない。
雅人が研究員の膝から降りようとした時、
「お代わりは?」
と別の研究員に聞かれ、
「ありがとう、でも、もうお腹いっぱいです。」
雅人はニッコリと微笑むと、自分の席に戻った。
雅人が席に戻るまでの間に、メイヤーは居なくなっていた。
「どっか行っちゃったねw」
「ほっとけw」
強が笑うのを見て、雅人はフォカッチャを千切って頬張った。
観測所名物を堪能した後、翌日の出発時刻を考慮して、雅人達三人は早々に自室へ引き上げた。
時刻は午後8時。
出発は午前3時を予定している。
自室に戻った雅人と強は、明日の準備を手早く済ませた。
「セロエルポトシの現場までは徒歩だから、2,3時間はかかると思う。
この季節の山頂はかなり冷える。
衣類に張り付けるだけじゃ無く、リュックに予備のカイロを入れておけよ。」
アドバイスをしてくる兄を、雅人がじっと見詰ていると、
「手が止まってるw」
強は”仕方ねぇな”と呟きながら、雅人の準備に当たり前のように手を貸した。
雅人はそんな強の優しさが好きだった。
「ちぃ兄は優しい。」
胸の内の言葉が、口から零れ出た。
「今更かよw」
と言って笑う強に、雅人は抱きつき、
「ちぃ兄は危険から僕を護るんでしょ。
だったら僕は、ちぃ兄の背中を護るよ。
僕はちぃ兄の後ろから目を逸らさない。」
雅人は強の背に腕を回し、その広い背中を撫でた。
「頼りにしてるぜ。」
強は雅人の砂色の髪に唇を寄せた。
この当たり前過ぎる兄弟間の挨拶もそこそこに、準備を完了させると、
「飲み物でも買ってくる。
自販機は・・・確か食堂にあったな。」
と言い、強はルームキーを持って部屋を出ていった。
一人残された雅人は、テレビのリモコンを手に取りスイッチを入れた。
FOXのニュースが映った。
リモコンを操作して天気予報専門チャンネルに合わせる。
画面にはアメリカ南部の各州とメキシコの地図が映し出されていた。
どうやら、今夜から明日にかけてモンテレーはアメリカから南下する寒気に覆われるのだとか。
”マジか・・・”
悪天候の予報だった。
そう言えば、日本でも春の嵐や季節変わりの長雨は珍しく無い。
ましてや、ここは3000メートル級の高所だ。
”明日、どうなるのかな?”
などと一人考えていると、背後でドアの開く音がした。
兄が戻ってきたのだと思った。
「おかえりぃ。」
雅人が振り向くと・・・、
「!」
「ようw」
そこに居たのは兄では無かった。
そいつは・・・検問所に居た、あの米兵だった。
雅人はベッドから飛び降りベランダに続くガラス戸に向かって走った。
男は強よりも大柄で凶悪な筋肉を薄いシャツ一枚で覆っていた。
そしてその股間はズボンの中央を前に押し出している。
雅人に対する性的興奮を隠しもせず、狭い室内を追い回す男・・・最悪な事態は直ぐに起きた。
雅人は部屋の片隅に追い込まれ、とうとう逃げ場を失った。
兵士は下卑た笑いを口元に張り付かせながら伸ばした腕は、確実に雅人の細い首を狙っていた。。
「来るな!」
雅人が叫ぶ。
兵士の腕から逃れようと身体を捻ったが、壁を背にした雅人に逃げ場は無かった。
兵士はその剛腕で雅人のうなじを抑え込み、一方の手で雅人の細腕を背後で拘束していた。
流石兵士と言ったところか。
手際の良さに、雅人は意識の奥底で感動を覚えた。
身動きできない雅人の耳元で兵士が囁いた。
「ふぅ・・・良い匂いだw
ボゥイのこの小さな尻を、たっぷり可愛がっていやる。」
煙草と酒の入り混じった熱い息が首筋あたった。
次の瞬間、雅人はベッドにうつ伏せに押し倒されていた。
「やめろ!」
身じろいだところで雅人の細い体が筋肉の鎧に包まれた兵士に敵うはずも無かった。
「黙ってろよボゥイw」
兵士が喋るたび、酒臭い熱い息がうなじにかかる不快感に雅人の心は凍り付いていった。
兵士が雅人相手に何をしたいのか、嫌でも想像できる。
雅人は抵抗を止め、兵士に語り掛けた。
「いい気になるなよ。
あんた、今のうちなら生きて自分のベッドに戻れる。
見逃してやる・・・離れろ。」
雅人の口から、強がりにも似た言葉が漏れた。
兵士が甲高い声で笑う。
組み敷かれ、今まさにレイプされる寸前の少年の言葉など、兵士の耳には冗談にしか聞こえなかったからだ。
雅人は自分の体温が急速に下がっていくのを感じていた。
兵士は雅人のズボンを脱がそうと、汗だくになって奮闘中だ。
雅人の体温が更に下がり・・・。
異変は直後に起きた。
室内の気温までもが一気に下がったのである。
空気に含まれる水分が凍り、周囲は照明の光を受けてキラキラと煌めき、二人の吐く息も白くなった。
ガラス戸の内側に霜が降り、瞬く間にガラス戸が凍っていった。
外気より室内の気温が低く無ければ、こんな現象は起きない。
兵士は組み敷いている少年の体が死体より冷たく感じ、慌てて拘束を解いた。
兵士は掌に痛みを感じた。
さっきまで雅人を拘束していた手だ。
兵士は強張る指を見て愕然とした。
雅人に触れていた皮膚は赤くなり、一部皮膚が剥がれ落ちていた。
「どうなってる・・・・化け物か・・。」
兵士は異変を理解できず、雅人から一歩、また一歩と後ずさった。
拘束が解かれた雅人がベッドからゆるりと体を起こす様子を、兵士は凍り付いて閉じなくなった瞼と眼球に映していた。
兵士の方に向き直った雅人の大きな瞳は、まるで火の点いたルビーの様に赤々と輝き、兵士を見据えていた。
言葉に出来ない恐怖に床にへたり込んだ兵士が雅人を見上げた。
雅人がベッドから降り、ゆっくりとした足取りで兵士に近付いていった。
立場は逆転した。
雅人が近付く度、兵士は手と踵を必死に動かしながら後ずさる。
だが、そもそも狭い部屋の中だ。
壁際に追い込まれた哀れな兵士の、その蒼ざめた顔には汗が凍りつき光の粒となって恐怖にひきつった顔面を飾り立てていた。
雅人は兵士に近づくと、徐に自分のズボンと下着を下ろした。
そして、
「咥えろ。」
兵士に命じた。
雅人は瑞々しく猛る分身を兵士の口元に押し付けた。
怯える兵士の頬を指で押し、強制的に口を開けさせ、その中に分身を押し込んでいった。
兵士は手足をばたつかせ抵抗した。
だが、雅人に掴まれた頭部は微動だにしない。
雅人の分身がゆっくりと男の口の中に押し込まれていった・・・。
シュゥ・・・・男の口から湯気が上がった。
雅人は兵士の口に分身を根元まで入れると、そのまま見下ろした。
兵士は白目をむいたまま動かない。
時間にしてほんの数十秒。
雅人が分身をゆっくりと引き抜いた時、兵士の唇は黒色に変色していた。
引き抜いた雅人の分身に、真っ黒な肉片が貼りついている。
紛れも無い、兵士の凍った舌の残骸だった。
突如、雅人は悲鳴を上げた。
空気を切り裂く甲高い悲鳴は何度も何度も繰り返えされた。
そんな自分の声を、雅人は何故か遠くから聴いていた・・・。
大きな音を立てて部屋のドアがけ破られた。
何人もの人間が部屋に押し入ってくるのを感じ、直後、雅人は意識を手放した。
雅人が目を覚ましたのは翌日の昼前だった。
ベッドの傍らで、兄の強が心配した顔で雅人を見ていた。
「・・・ちい兄・・・。」
「気分はどうだ?」
兄の言葉に、
「・・・酷いことがあった・・。」
と、雅人は応えた。
「ああ・・・知ってる。
だが、お前のせいでは無いよ。」
強は雅人の頬に指を滑らせると、雅人はその指に頬を寄せた。
「予定を狂わせた?
ごめんなさい・・・。
あっ・・・ちぃ兄、あいつは?」
雅人の記憶にある兵士の顔は、下卑た笑いを浮かべていた。
レイプされそうになったことを、雅人は兄に訴えた。
「分かっている。
あいつは山を下りた。
もう、お前が酷い目に逢うことは無い。」
「下りた?」
「ああ・・・厳密には・・・下ろされた。」
「そう・・・なんだ。」
雅人はそれ以上訊くことを止めた。
「それと、2,3日ここに留まることになったよ。」
「・・・?」
「メイヤーが居なくなったんで、新しい医師が着任するまで、俺が代行することになった。」
「え・・・? メイヤー?」
「あいつも・・・山を下りた。」
「?」
「あの兵士が俺たちの部屋に入るのに手を貸したからだ。
メイヤーがあそこまで卑劣な奴だったとは、俺も想定してなかったよ。
すまなかった。
俺の甘さがお前を危険な目に逢わせてしまった。
だが、二人ともこの観測所から退去したから。
もう・・・大丈夫だ。」
強は雅人の額にかかる砂色の巻き毛をかき上げた。
「ちぃ兄・・・あのね・・・。」
「ん?」
「あの時、変な感じがしたんだ。」
「変な感じって?」
「襲われた時、急に体が冷たくなって、自分で自分の意思と体のコントロールが出来なくなった・・・。
僕は只、何処か隔たった場所から、霞んだ風景を眺めていた・・・そんな感覚っていうか・・・。
見える物・・・、何もかも真っ赤だった。
それから赤と黒が複雑に混ざり合って。
怖くて・・・気が付いたら、こうしてベッドの上にいた。」
雅人はトパーズ色の大きな瞳に涙を滲ませて強を見た。
「雅人は何を見た?」
「・・・あいつ、僕から逃げようとしていた、と思う。
腰が抜けたみたいで・・・這いずるように後ろに下がって・・・。
僕はあいつに何か言っていだ。
聞こえなかったけど。
・・・そして・・・そして・・・。」
雅人は呼吸の仕方を忘れたように息を荒げた。
過呼吸の発作だった。
「落ち着け・・・。」
強は雅人の胸に手を置き、ゆっくりと呼吸を促しした。
まずは、息を吐く。
ゆっくり、長く・・・。
そして鼻から息を吸う。
軽く吸う。
そして口からゆっくりと吐き出す。
強は雅人の胸に手を置いて掛け声とともに呼吸にリズムを与えた。
2,3分で雅人の呼吸は正常に戻った。
「いい子だ。」
強はそう言って、雅人の額に口づけた。
「今は無理に思い出そうとしなくていい。
状況の全ては明らかになっているからね。
不届き者は処分されたから、もうお前を脅かす原因はここにはない。
だから心配するな。
そうだ、腹が減ってないか?
食事はホセがここに運んでくれる事になっている。」
強は雅人の目を見て優しく微笑んだ。
「ちぃ兄・・・もしかして、部屋が替った?」
「あ?ああ、よく気付いたなw」
「・・・あの部屋はツインベッドだった。
でもここは、ダブルベッドだ。」
「だなw
その方がいいだろ?」
「うん。」
雅人は強の指に自分の指を絡め、その甲に唇を押し当てた。
ナーバスな気持ちが少しだけ楽になった気がした。
その時、ドアがノックされた。
ドアが開き顔を覗かせたホセは、雅人の顔を見て笑顔を浮かべた。
雅人達の為に食事を運んで来てたのだ。
「お!気が付いたんだね。
良かった、良かったw
少しでも食事をして体力を付けてくださいよ。
まだ今回の旅程のメインは終わって無いですからねw」
「ありがとう、迷惑かけてごめんなさい。」
雅人がピョコンと頭を下げる。
「雅人が悪いわけじゃないでしょ。
折角だから、ゆっくり養生してw」
ホセは小さく手を振ると部屋を出ていった。
「おっ!
雅人の好きなポテトサラダがあるぞ。
あとは・・・コンソメスープにミックスサンドか。
どうだ?
食べられそうか?」
「うん・」
雅人はベッドに半身を起こし、ガラスのボールに入ったポテトサラダに手を伸ばした。
スプーンにたっぷりとポテトサラダを乗せ口に運ぶ。
「ん・・・美味しい。
ちい兄も食べてみて。」
雅人はスプーンにポテトサラダを載せ、それを兄の口に入れた。
「んん・・・おお、旨いな。
この施設のコックはなかなか腕が良いw」
「だねw」
「・・・やっと笑ったなw」
「・・・。」
雅人は笑顔を真顔に戻して強の顔をじっと見た。
「どうした?」
「僕・・・あの時すごくおかしくなってた気がする。
体が冷えて・・・僕の心と体が僕の物で無いような・・・何か別の物に明け渡したみたいな感じ・・・。」
「そっか・・・。」
「でもね、これって初めての経験じゃないんだ。
去年・・・フランスで・・・ちぃ兄、どうしよう。」
「あぁ・・・すまん、そのことは知ってるよ。」
「え?」
「しかし・・・気にするな。
お前が悪い訳じゃない。
俺は、お前を決して見捨てないし、俺の全てを以てお前を護る。
だから、お前はお前らしく今まで通り生きていったらいい。
俺たち家族にとって、お前は・・・雅人は特別なんだから。
愛している。
自分自身より愛している。
だから・・・気にするな。
いいな。」
「ちょっと待ってよ。
ちぃ兄は・・・僕の何を知ってるの?」
「多分、お前以上にお前の事を知っている、と思う。」
「・・・何・・・それw
僕がブルゴーニュで起こした事件のことも?
学校で起きていたことも?
僕とユーグ教授の関係も?」
「ああ・・・。」
強が肩を竦める。
「ぷっ、あははははっ!」
雅人は、ベッドの上で笑い転げた。
「はぁ・・・あはは・・・胸の中につっかえてたモヤモヤが・・・あはは。
バカみたいw」
「うちの情報収集能力を見くびるなよw」
「ははは・・・だよね。
今の今迄、秀さんのネットワークの事忘れてたw。
でも守備範囲が広くない?
まさかフランスまで追い駆けて来ていたなんて・・・w。
健闘を称えてメキシコの土産を買って秀さんに渡す事にするよw」
「ナイスアイデアだw」
強は雅人の頭をガシガシと撫でつけた。
レイプ未遂事件から三日後、メイヤーの後任が観測所にやって来た。
60に手が届く軍医は温厚な雰囲気の男で、名前をレイノルズと言った。
雅人はレイノルズの診察を受けた。
「凍傷もない。
きれいな体だw
メンタルは・・・兄さんがフォローしているみたいだし、大丈夫かな?」
レイノルズは雅人に優しく微笑みかけた。
”メイヤーとは雲泥の差だな・・・あれ?
凍傷って何?”
雅人は、レイノルズに気になる単語の真意を尋ねた。
「ドクター。」
「ん?何だい?」
「凍傷って・・・どういう意味ですか?」
「?・・・君は何も聞いてないのかい?」
雅人は意識を途中で無くしていた事、その後の兵士の処遇については誰からも聞かされていない事等をレイノルズに話した。
「ふむ・・・。」
話を聞き終えたレイノルズは、真剣な面持ちで雅人をジッと見詰めて尋ねた。
「真実を知りたいって事か?」と。
雅人は小さく頷いた。
「ええ・・・もし、真実があるのなら知りたいです。
僕一人が蚊帳の外に置かれるのはちょっと。」
「ふむ・・・。
分かった。
でも雅人君、全てを君に告げるには君の兄であるドクター伊藤の承認が必要でね。
彼の立ち合いの元で良いなら、私もやぶさかでは無いよ。
君のお兄さんと少し相談する時間を貰ってもいいかな?」
「はい。」
雅人はシャツに腕を通しながら返事をした。
身支度をして自室に戻ると、強が雅人を待っていた。
「レイノルズから連絡を貰ったよ。
俺は雅人の望むとおりにしてやってくれと言っておいた。」
「・・・いいの?」
「どんな時でも俺はお前の味方だし、お前は思うがままに生きていけばいい。
俺はそう言っただろ?」
「・・・うん、ありがと。」
「おいで。」
強に手招きされた雅人が兄の胸に顔を寄ると、いつもの様に、強の長い腕が雅人の身体を優しく包んだ。
「もう少ししたらレイノルズがここに来る。
彼が話すことは全て真実だ。
お前が混乱しても、俺はここにいる。
お前の事は俺が護る。
いいな。」
「うん・・・わかった。」
その後部屋に来たレイノルズから、雅人は”真実”という前置きの元、昨夜起きた事件の説明を受けたのだった。
「ドクター伊藤の承認を戴いたので雅人君に説明しますね。」
レイノルズはコホンと小さな咳ばらいを吐き、手に持ったファイルに視線を落とした。
「まず、雅人君を襲った兵士ですが・・・名前はいらないね。
うん、知る必要はない。
結果から言うなら、彼はあの部屋で死亡していた。
死因は凍死。
原因は・・・あの晩、ここセロエルポトシ上空を覆っていたマイナス37度の寒気団に起因していると判断された。
事件のあった部屋のガラス戸が開いていたことから推察するに、強力な冷気が室内に流れ込んだ結果だとね。
実際、君も体温が34度台まで下がっていた。
兵士は凍死したが、君は・・・、運よく助かったに過ぎ無い。
ベッドの上で毛布にくるまっていた事で、最悪の事態を回避できたのかも知れないね。
私が君の身体に凍傷の有無を心配したのは、そんな理由からだよ。
でも、君には凍傷の痕跡は無かった。
つくづく幸運に恵まれたと言うか、本当に無事で良かったよ。」
レイノルズは落ち着いた声で話を締めくくった。
レイノルズの話を聞いた限りでは、嘘は無い、しかし、全てでは無い。
雅人は、そんな気がした。
でも、雅人に明瞭な記憶が無い以上、今は聞いた話を受け入れるしか無い。
「テラスのドアが開いて・・・そうだったんですね。
言われてみると、ものすごく寒かった、それは覚えています。」
雅人の知る記憶の一部は、確かにレイノルズの語った話で補強された訳だ・・・。
もう一歩踏み込んで訊いてみようかどうしようか、と雅人が逡巡していた頃、レイノルズの胸中は穏やかとは程遠い状況だった。
事前に強との口裏合わせをした際、真実の断片のみを雅人に語る事にしたからだ。
雅人に知らされない、隠された真実は山の様にあった。
”兵士は雅人君の男性器を咥え、行為に及んでいた事。
引き抜かれた雅人君の男性器に、兵士の舌が絡みついていた事。
・・・千切れて・・・それは、凍傷で黒く変色していたが、確かにあれは兵士の舌だった”・・・と、メイヤー医師の作成した診断書には記載があった。
兵士は何らかの方法で極低温下に置かれ、凍結状態になったのだ。
それも極めて短時間で。
レイノルズ自身がモンテレーの病院で行われた検死ビデオを見たから判る。
・・・何と言うか。
室温と照明の熱で・・・まるで氷が解けるように兵士の肉体が水と油に分解していく様子は、レイノルズに恐怖与えるに十分だった。
ビデオの中で検死医が凄まじい悲鳴を挙げているのを耳にした時、もしも自分があの場所に立ち会っていたら、彼と同じ反応をした・・・否、気絶したいただろう。
再生ビデオをモニター越しに見ていたに過ぎなくても、あの場で検死にあたっていた医師達の恐怖は想像できた。
にも拘らず、視覚から流れ込む情報が余りにも非現実的過ぎて、映像を眺めながらレイノルズは声を出して笑っていた。
恐らく、脳がバグったのだ。
レイノルズの混乱を他所に、ビデオは再生を続けていく。
次に画面に登場したのは軍警察・・・数人のMPだった。
彼等は兵士の溶けた遺体の残骸から何かを探していた。
だが、水と油以外、結局何も無かった。
そして調査は唐突に中止された。
軍の上層部から、今回の事件に関して中止の指示が出たのである。
理由は判らない。
軍人は、上部からの指示に絶対服従する。
レイノルズもこれ幸いと、それ以上関わることを止めた。
これらは、雅人に知らせていない。
レイノルズは肩を竦め、雅人を見て言った。
「雅人君にあの時何が起きたのか・・・分かったのは兵士の死とメイヤーの下らない工作があった事だけだよ。
メイヤーの身柄は現在、アメリカ本国に送還されてMPの監視下だと聞いている。
今後は軍法会議に於いて処遇が決定されるだろう。
私から話せるのはこのくらいかな。
すまないね、雅人君の疑問や不安を払拭することは出来ていたらいいのだが・・・。
そうだね、敢えて一つ言うとしたら、雅人君、君に罪は無い。
悪いのはメイヤーと君をレイプしようとしたあの兵士だからね。
君は悪くない。」
話し終えたレイノルズは、強と握手をして部屋を後にした。
レイノルズが去った後、残された兄弟は沈黙を続けた。
その沈黙を雅人の一言が破った。
「人が死んだね。」と。
「・・・ぁぁ。」
強の返事は小さく、短かった。
「これで条件は揃ったんだろ?
カトリックが棲まう観測所。
兵士の死。
僕達兄弟が・・・欲望に溺れた。
宗教と死と大罪。
・・・ちぃ兄、いつあそこに行くの?」
「明日早朝、3時にここを出発する。
もうメイヤーも兵士もいない。
俺たちを止める障害は無いからな。」
話しの割に沈鬱な表情を崩さない強が、雅人と目を合わせようとしないのは何故か。
雅人は兄の手を握り語り掛けた。
「一つ教えて・・・。
もし、もしも、あの兵士の死が無かったら・・・代わりに死んだのは誰?」
雅人の指に力が入る。
「さあな・・・わからんよ。
俺だったかもな・・・否、お前って可能性もある。
それに・・・。」
「なに?
まだ何かある?」
強は一呼吸おいて雅人に向き直った。
「死は・・・兵士一人だけとは限らない。」
「・・・。」
雅人は絶句した。
「怖いか?
俺が怖いか?
この状況が怖いか?
だがな、雅人。
俺はこの身に代えてお前を護る。
今度こそ、何としても、何があっても。
本当ならお前を連れて行きたくない。
でも・・・お前が行かないと完成されないロジックなんだ。
11年前蒼汰があの場に必要だったように、今回は雅人、お前が必要なんだ。
怖い思いをさせるつもりはない。
しかし現実は恐らく・・・俺らの想像を遙かに越えた所にあるって事は覚悟しなくちゃならないだろう。
だからって、今回の登頂が無駄に終わる可能性だってある。
でも、ここまで来た以上、行かなくちゃならないんだよ。
なぁ雅人、俺に付き合うのは今回だけでいい。
今回失敗したら、雅人を二度と誘ったりしない。
だから、最初で最後の俺の我儘だと思ってセロエルポトシの現場へ同行して欲しい。」
頭を下げる強の姿がそこにあった。
「何言ってるの?
僕は最初からちぃ兄と一緒だし。
実は僕もね、ちぃ兄が言っていた灰色の靄みたいなのが見えているんだ。」
「!・・・いつからだ?!」
強は目を剥きだして雅人を凝視した。
「メキシコシティのシェラトンンのあの部屋で・・・。
驚いたけど怖いとは思わなかった。
今も、濃さが増してはいるけど恐怖は感じない。
不思議だけど・・・どちらかと言えば、その靄を周辺に感じるようになって安心しているって、変だよね。
ちぃ兄とは少し違うけど、靄から敵意は感じられないんだ。
だから、僕は此処で留守番をする気は無いからね。
ちぃ兄と一緒に行く。
毒を食らわば皿まで、だろ。」
雅人は強の目を見て笑った。
その夜、兄弟は持参する機材の点検をして早々にベッドに入った。
雅人は強に肩を揺すられ薄眼を開けた。
「おはよ、さ、支度しよう。」
「ん・・・・何時?」
「2時になったところだ。」
雅人は半身を起こし窓の外に目を凝らした。
「雪は降ってないみたいだね。」
「ああ・・・前回は寒気の接近があって荒天予想だったが、今日は大丈だ。
風も無いし、月も出ていて明るいからな。」
兄に促され、雅人は事前に用意していた登山用のウエアを身に着けていった。
雅人の準備が済んだ時、部屋の中に軽食が乗ったワゴンが置かれていた。
「コーヒー飲むか?」
「あ、うん。
これも、ホセが?」
「彼もすぐにここに来る。
軽く食事して3時になったら出発だ。
天候の急変さえ無ければ、現地で御来光が拝めるかも知れないぜ。」
「御来光ってw。
あ、でも富士山と同じくらいの標高だっけか。
今年の正月はパリだったし、山は違うけど富士山だと思えばご利益がありそうw」
雅人が強と軽口を叩き合っていると、ドアがノックされた。
「お早うございます。」
どことなく眠そうなホセが部屋に入ってきた。
「コーヒーw」
強がホセにカップを渡す。
「んん・・・いい香りだ。」
「ホセ、今日はよろしく。
俺は雅人の面倒をみるから、あんたは荷物を無くさない様に頼む。」
「了解ですw
任せてください。」
深い皺がホセの目尻に刻まれた。
”良い人だ。きっとロディの良いパパ何だろう。”
雅人はホセの向こう側に小さなロディと若く美しい妻のマリアの顔が過った。
三人は揃いのゴアテックスのフード付きジャンパーとズボンを着こんだ。
午前三時、ホセを先頭に三人は観測所出発した。
お互いの体を、腰に下げたカラビナにザイルを通して繋ぐ。
これは万が一に備えた安全策だ。
観測所から西側の尾根には道らしいものは無い。
ただ、11年前に山肌に打ち込まれたハーケンが現場までの道標だった。
ハーケンは天頂の月光に照らされ、まるで宝石の様に輝き三人を目的地へと導いていく。
途中背筋を伸ばしたホセが、
「当時はこのハーケンを打ち込むのが大変だった事を思い出します。
なんせ、この山の表面は今夜同様、異様に硬い氷に覆われていて・・・。
でもあの時の苦労のお陰で、今夜は楽が出来る訳です。」
後ろに続く雅人達を振り返ってホセは笑った。
ホセの昔話を最後に、沈黙の中、一行はひたすらに目的地を目指した。
先頭はホセ、次は雅人、最後尾は強の順で凍り付いた岩場を一歩、また一歩と足を進め行く。
永遠の時を降り積もった雪はぶ厚い氷塊と化し、もはや水晶・・・否、巨大なダイヤモンドに見えた。
表層の雪が上昇気流に巻き上げられ、雅人達の足元には所々黒ずんだ土が顔を覗かせている。
そして当たり前のように剝きだしの土もまた、凍り付いていた。
注意を怠ったら最後、凍ったがれ場を永遠と滑り落ちて行く姿が容易に想像できた。
そんな危険な場所を、ピッケルで進行方向を叩いて慎重に歩を進めていく行くホセの緊張は、想像以上だろうと雅人は思った。
目的地が近づくにつれ、周囲の風景が変化している事に気付いた。
顕著な違いは、万年雪が何処にも無い事だ。
周囲の積雪はまるでミルフィーユの様に見えた。
雪の層は湿気を多く含み、地面は滲み出した雪解け水で濡れていた。
”凍土も氷塊も見当たらない・・・。
もしかすると火山性の地熱か?”
雅人の疑問に応える者は誰もいない。
更に進むと、剥き出しの岩肌は溶けた溶岩流の様にうねり奇怪なオブジェを形成していた。
”岩や土が飴のように溶けるって・・・”
過去、想像を絶する熱が地面を炙ったとしか思えなかった。
「そろそろですよ。」
ホセの声が前方から聞こえた。
そろそろと言われてから30分も経った頃、
「ここが現場です。
俺はこの先の平地にテントを張ってきます。
機材とかもそこに準備しますので。
あまり、ここから動かないでくださいね。
踏み外すと大変な事になりますから。」
ホセの腰に付いた小さなランプが揺れながら遠ざかっていくのを見送り、雅人と強は溶けた岩の一つに腰を降ろした。
「途中の休憩無しで2時間・・・流石に疲れたぁ。」
雅人がふくらはぎを揉む。
「頑張ったな。
ホセには悪いが一服するか。」
強は煙草に火を点け大きく吸い込んだ。
そしてステンレスのマグカップにポットからコーヒーを注ぎ雅人に渡した。
煙草の先から立ち昇る紫煙が真っすぐ昇っていく。
「無風・・・マジか。」
と、感心したのも束の間、山頂の希薄な空気に雅人は息苦しさを覚え、スプレー缶の酸素を何度か吸い込んだ。
途端、視界が明るく開けた。
「酸素って凄いw」
「だなw
それにしても不思議な地形だ。
地面から鍾乳石がはえているみたいじゃないか。」
「あっ、そうそう、僕もそう思った。
ここの岩石を溶かした高温て、何度位かな。
周囲に氷も雪もないなんて、・・・地熱の効果かな?
こやって・・・地面に触っても、それほど冷えて無い・・・不思議だよ。」
土で汚れた掌をゴアテックスのズボンに擦りつけながら、雅人はまだ暗い周囲に目を凝らした。
隣に座っていた強が徐に立ち上がると、
「俺はサンプル採取するけど、雅人はもう少しここにいるだろ?」
「うん、足元気を付けてね。」
「おう。」
強は採取用の機材を取りに、テントの設営をしているホセの元へ向かった。
強が近づいても気づかないのか、ホセは一心にテントを張り、続けて小ぶりのトランクからカメラやボイスレコーダー、採取用のガラス瓶、小さなハンマーとノミなどをネルの布の上に並べ始めた。
「ホセ、助かるよ。」
強はホセの背後から声を掛けた。
驚いたように振り向いたホセは、相手が強だと気づくと笑顔になった。
「この後軽食を準備しますから、しばらく待っていてください。」
「ありがとう。
今から作業を始めるから、慌てなくていいよ。
何か異常を感じたら、これで知らせて。」
強はホセにイヤホンマイクを渡した。
「かっこいいですねw
じゃ、失礼して。」
ホセはマイクをフックで襟元に挟み、イヤホンを装着した。
強はホセと自身のイヤホンのスイッチをオンにした。
「テス、テス、聞こえる?」
「はい、ばっちりです。
なら、俺も。
テス、テスw どうです?」
「オッケーだ。
3,40分したら、ここに弟と来るから、よろしく。」
「了解です。」
「あ、そうだ・・・。」
強はこの時、ホセに何かを手渡している。
そして強は採取用キットを持ち、雅人の元に戻って行った。
所在無さ気にしていた雅人は、兄の姿を見て安堵の笑みを浮かべた。
「僕も手伝うよ。
何をしたらいい?」
じっとしていられなかった。
何時に無く、雅人の気持ちは高揚していた。
「いいね。
このガラス瓶に周囲の小石をいくつか入れてくれ。
コルク栓を忘れるなよ。」
「オッケー。」
雅人はピンセットで器用に小石を摘まむと、底に綿の入ったガラス瓶に入れてはコルクの栓をする作業に夢中になった。
小石は不思議な模様と磨いたような滑らかさがあり、ピンセットで摘まむにはコツがいった。
一方ホセはその頃食事の用意をしていた。
事前に凍らせて準備しておいたクリームシチューを鍋で温めるだけの簡単なものだ。
現在の時刻は午前5時半。
東の空が白むまで、まだ1時間以上ある。
夜明け前と言えば、急激な気温の低下が起こる事は珍しくない。
ホセは自身の呼気を掌に充て、息の白さから外気温を推し量っていた。
と、その時、
・・・ザザザザ・・・ザザ・・・ザ・・・ザザ・・・
イヤホンに雑音が流れた。
ビニールの買い物袋が風に揺れているような音。
ホセはイヤホンマイクに向かって強の名を呼んだ。
「強さん!
妙な音がします。
そちらは大丈夫ですか?」
ホセは力の限り叫んだ。
だが彼等からの返事は無い。
強達との実質的な距離は僅か50メートル。
だとしたらこのまま彼等と合流するのが良いのではないか?
そう思い、立ち上がったホセは初めて気付いた。
地面からおよそ2メートルの高さに、濃い霧が・・・・いやもっと粘度のある、ねっとりと絡みつくような灰黒色の何かが立ち籠めている事に。
イヤホンから聞こえるノイズの音量は増し続けていた。
だが諦める事無くホセはマイクに呼びかけ続けた。
「強さん!応答して!」と。
何度も・・・何度も。
距離的には肉声も聞こえる近さだ。
しかし、強から応答は無かった。
ホセは靄に触れないように身をかがめて強達のいる方向へ急いだ。
頭上では靄が生き物のように蠢いている。
ねじれ、混ざり、ぶつかり、絡み合い・・。
急いで歩を進めているはずなのに、一向に強達との距離が縮まった気がしない。
経験した事のない事態に、ホセの額に冷たい汗が流れた。
フリースの袖でその汗を拭い背後を振り返ると・・・。
「!」
テントを建てた場所から、多分1ミリも移動していなかった。
”どうなってる?”
疑問は焦りに変わった。
山岳ガイドとして幾度となく危険な目に遭ったホセだったからこそ、今の状況は回避も対処も無理だと一瞬で悟ったのかも知れない。
脳裏に美しい妻マリアの顔と愛息子ロディの笑顔が浮かんだ。
“せめて、もう一度・・・・”
ホセの想いは届く事無く、灰黒色の靄に全身を飲み込まれていった。
「だいぶ順調だなw
そろそろホセのところに行くか?」
強は無心に石拾いをしている雅人に声を掛けた。
「あ、うん。
はぁ、腰が凝ったぁw」
雅人は立ち上がり腰を叩いた。
そして気づいた。
「ちぃ兄! あれ何?!」
「ん?」
強も立ち上がる。
ホセが設営したテントの方角に目をやると、さっきまで見えていたライトの光が何処にも無い。
同じ場所には、蠢く闇があった。
「ホセ! ホセ!」
強がイヤホンマイクに向かってホセの名を呼ぶが応答は無い。
「ちぃ兄、あれ、こっちに来てる?」
指をさす雅人に、
「走れ!雅人、走れ!来た道を戻るんだ!急げ!」
強は叫んだ。
同時に雅人の腕を取り、強は駆け出していた。
しかし、地面を這うように近づく靄は想像以上のスピードで二人に迫っていた。
「雅人!!」
靄が二人を覆い尽くす寸前、強は雅人の体を抱き寄せ足場の悪い地面に伏せた。
バランスを崩した二人の体は、急斜面のがれ場を転がり落ちていった。
恐らく、十数メートルの距離を滑り落ちながら、強は雅人の頭と腰を抱えて、地面を転がり続けた。
天地が反転する中、一瞬周囲がオレンジ色に染まった。
余りの眩しさに、強は硬く目を瞑った。
しかし閉じた瞼は何の役にも立たず、オレンジ色の光に視神経が焼き切れる恐怖を覚えた。
雅人も同じだった。
周囲が光に覆われ何も見えなくなった。
お互いの事も自分自身の事も何もかも。
光に続き轟音が、二人に襲いかかり聴覚を奪って行った。
轟音は激しい衝撃を伴っていた。
体が引き裂かれるような、そして細胞の一つ一つがバラバラになるような・・・・。
強は激しい痛みに襲われながらも、弟の体を手放すまいと必死に抱きしめた。
どれ程の時が流れたのだろうか・・・。
気づくと、雨が降っていた。
耳鳴りが酷く眼の焦点も合わない。
豪雨に打たれ溺れそうになりながら、強は自分の腕の中に柔らかな人の温もりを感じた。
微動だにしないが・・微かに呼吸している。
「雅人・・・良かった・・・生きてる。
何てことだ・・・結局こうなってしまった。
すまない・・・本当に・・・。」
強は雅人の体を抱きながら咆哮をあげた。
言葉にならない魂の叫びだった。
頭上から降り注ぐ豪雨が強の慟哭の涙を洗い流していった。
この時、生きている奇跡に、強は生まれて初めて感謝した。
同時刻、セロエルポトシの観測所は膨大なエネルギーの発生を観測していた。
また、強達一行が発生源近くに向かっていたことが問題視された。
とても無事でいるとは思えないと、誰もが思った。急遽救助チームが編成され強達の捜索にあたることが決定した。
救助チームと言うより遺体回収チームが強達の捜索に着手した頃、強と雅人は山頂近くの窪地にいた。
豪雨は止んだが、周辺の窪地には雨水が溜まり、その大きさはちょっとした池くらいになっていた。
そんな窪地の一つに全身を沈めていた強と雅人が、溺死せずに済んだのは幸いだった。
太陽が東の山々の稜線をオレンジ色に染め始めた頃、兄弟は体温低下を起こしかけていた。
強は激痛に軋む体を叱咤し雅人を抱き上げると、ホセの設営したテントへ急いだ。
サバッと水飛沫を上げ、二人のジャンパーから水が流れ落ちる。
ズボンも靴の中も髪も何もかもびしょ濡れだった。
体感温度はかなり低い。
”体がもつか・・・だが俺の責任だ。
雅人だけでも助けなくては・・・。”
強は身体の痛みと凍える寒さの中、雅人の体をテント迄必死に運んだ。
たった50メートルの数キロに感じられ、込み上げる涙と鼻水が顔に張り付いたまま凍りついていく。
朝靄の中にテントを見付けた時、強は安堵に呻いた。
やっとの思いでテントに着いた強は、雅人を横たえ衣服を全て脱がせた。
同時に怪我の有無をチェックしていく。
怪我はない。
気を失っているだけだ。
再び強は大きく息を吐いた。
自身の体も痛みと寒さから震えが止まらない。
だが、今は自分の事など後回しだ。
テント内の荷物からタオルや乾いた衣類を探し出し、雅人の体を丹念に拭き、清潔で乾いた衣服を着せていった。
荷物の中に貼るタイプのカイロが入っていた。
以前強が指示したことを、雅人は言い付け通りに準備していた。
これは幸いだった。
強は、雅人の体にカイロを貼りまくった。
そして寝袋で雅人の体を包んだ。
さて次は自分の番と思った時、ホセがいないことに初めて気づいた。
イヤホンマイクはいつの間にか外れていた。
強は最悪の状況を想像しながらも、ここで強は自己の保全を優先した。
素早く着替えカイロを手首、両脇、心臓の上に貼った。
数秒でカイロは発熱を始め、その熱は血管を流れる血液を温めていく。
凍えた指先に体温が戻っていくのを感じ、強は何度か手を握ったり開いたりした。
大丈夫だ、動く。
強はテントを出るとホセを探した。
数分後、ホセだった何か・・・を発見した。
だが、本当にそれがホセなのかと、強は何度も自問自答を繰り返していた。
なぜならその物体は、ついさっきまで雅人と共にガラス瓶に採取していた小石と・・・形状も色も同じだったからだ。
1センチから5センチほどの大きさの小石が積み重なり、人の形を作っていた。
ではなぜそれがホセと思ったのか・・・。
小石の山の中に、強がホセにプレゼントしたロレックスの腕時計が朝の陽光に照らされ輝いていたからだ。
それもほんの3、40分前にホセに渡した腕時計。
テントにガラス瓶を取りに来た時、ホセに、
「よかったら使ってくれないか?
今回の旅程では色々と面倒もかけたし、俺からのほんの詫びだ。」
強は自分の腕から外し、そのままホセに手渡した時計だった。
ホセは”受け取れない”と固辞したが、強が”是非”と言って受け取らせたのだ。
ホセがハニカミながら、その場で腕に嵌めたのを強は見ている。
だから・・・この小石の集積はホセの変わり果てた姿だと確信した。
この山頂に散らばる無数の艶やかな小石は、それが何らかの生き物の残骸であることを強は理解した。
強が小石の集積の中から腕時計を引き抜くと途端、ザラザラ・・・ガラガラと音を立て・・・小石の山が崩れた。
それがホセだったと知る者は、強だけになった。
強はテントに戻り、空のガラス瓶を持ち出し、ホセだった小石を幾つか瓶に入れた。
別の大きめの瓶には、大量に降り注いでいた雨水を注ぎ入れた。
これは10本分採取した。
気付けば太陽はすっかり山の上に顔を出している。
薄靄も雲一つ無い青空は、モントレーより、東京よりずっと濃く青く美しかった。
”夜が明けた・・・だがこれ程重苦しく悲しい夜明けを俺は知らない。
さて、雅人には何と説明したモノか・・・”
強が目を細め見上げた東の尾根から、強達の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。
間も無く、それが捜索隊の一団である事が判り、
「助かった・・・。」
強は近づいてくる人の群れに向かって大きく手を振ったのだった。
救助チームには兵士の他に、地質学者と軍医のレイノルズが同行していた。
「ドクター伊藤、無事で何よりです。」
「怪我は?大丈夫ですか?」
声を掛けられ抱き合い、救助チームの面々から無事であった事を喜ばれた。
救助チームの米兵等は協力的だった。
雅人は担架に載せられレイノルズの指示のもと、観測所に運ばれた。
機材や採取済みのサンプルも嫌な顔一つせず、米兵達が運んだ。
現場には地質学者の研究員と強が残った。
彼がホセと知己だったことを強は知っていた。
「ホセが死んだ。」
強が告げると、研究員は周りを見回し、
「遺体は?」
と訊いた。
強は無言で自分の足元に転がる小石の堆積を指さした。
「嘘だろ!?」
研究員がその場を飛びのく。
「本当だ。後でDNAを調べないと・・・・
あぁ・・・参ったな。
ホセの家族に伝えないと・・・。
参ったな・・・。」
陽光に照らせれ、ぬめったように光る小石を、研究員はハンカチで丁寧にくるんでポケットに入れた。
「私が調べても?」
「ああ・・・よろしく頼む。」
「一つ訊きたいんだが。」
「どうぞ。」
「この山頂にある此の種の石は・・・その・・・そういう事なのか?」
「・・・多分。
場所を変えていくつかサンプルと採ったから、今後鑑定していく事で明確になると思う。」
強の返事に、研究員は身を震わせた。
「調べるにしても一旦戻ろう。
それと・・・この件は当面は外部へは漏らさない様にしないと・・・ミスター伊藤はどう思う?
考えを聞きたい。」
その問いに、強は小さく息を吐いて応えた。
「勿論だ。」と。
観測所に戻り手当が済んでも、雅人は目覚めなかった。
そんな雅人の体は皮膜に似た物質に覆われていた。
色は透明だが、光の加減によっては油膜のように虹色に光って見えた。
レイノルズはその皮膜をアルコールや水、お湯などで拭った。
しかし、剥がれない。
それを聞かされた強は11年前の蒼汰の事を思い出させた。
皮膜は雅人だけでなく強の全身も覆っていたのだから。
試しに、強はガーゼに3.4%の濃度の塩化ナトリウム溶液を沁み込ませ、自身の肌を拭ってみた。
皮膜は面白いように剝げ落ちていった。
強はその結果をレイノルズに伝えた。
ほぼ海水と同じ塩水が、雅人にも散布された。
皮膜が無くなった事で、体に刻まれた無数の細かな傷の治療が出来るようになった。
雅人の傷は強に比べたらどうということは無かったが、感染症に罹らないとも限らない。
些細な傷の全てに治療が行われた。
救助されて二日後、雅人は目覚めた。
「・・・ちぃ兄。」
雅人は一言兄を呼び、抱きついて泣いた。
「無事でよかった。
大きな怪我も無かった。
気分はどうだ?」
強は雅人を胸に抱き尋ねた。
「夢を見てた。」
「夢?」
「うん・・・女の子の夢。」
「どんな娘?」
雅人は遠い記憶を思い出すように目を細めた。
その少女は年の頃15歳前後。
カールした長い黄金の髪は腰より長く伸び、細く華奢な身体は白くふわりとした柔らかな布で覆われていた。
少女の周囲はシロツメクサの群生地だった。
少女はそこに座り、花を引き抜いては手元で何かをしていた。
花冠? を作っているように、雅人には見えた。
その情景は、どうにも現実味を欠いていて・・・。
雅人の視点が何度も切り替わり、少女の姿を映し出していく。
時々吹き抜ける風が、少女の髪を乱し服の裾を巻き上げていった。
その度、白く美しい足が見え隠れした。
雅人は”眺め続けていた”、のだと言う。
「不思議な夢だな。」
「うん・・・でも僕、その娘に会うのは初めてじゃ無い気がしてさ。」
「そっか・・・もしかしたら雅人に縁の深い人なのかも知れないな。」
「それはちょっと・・・実はその娘、眼がね・・・。」
「ん?」
「真っ赤だったんだ。」
そう言って雅人は強の腕をギュッと掴んだ。
「怖かった?」
「・・・凄く怖かった・・・あれは人じゃない。
僕と縁があるなんて・・・やだ。
考えたくない。」
雅人は強の胸に顔を埋めて震えた。
その日の夜、地質学者の研究員が軍医のレイノルズを伴って強の部屋を訪ねて来た。
「ドクター伊藤、結果が出ました。」
そう言って研究員からファイルを渡された強は、食い入るようにそのファイルを読み進めた。
それはホセの荷物の中にあった櫛から採取した毛根と、例の小石のDNAが一致したと書かれた報告書だった。
暫く誰も何も言わないまま時が流れた。
沈黙を破ったのは医師のレイノルズだった。
「ロドリゲスの死亡診断書は俺が書く。
遺族に説明しなくてはならないだろ?」
「・・あぁ・・・保険金請求にも必要だから、手数をかける・・・5枚ほど作成してくれるか?」
「メキシカンが保険金?
珍しいな。」
「いや・・・俺が掛けた。
今回の計画を立てた2年前に契約している。
勿論、ホセは了解していたし、受取人は彼の妻のマリアだ。
俺じゃない。」
「・・・別に疑ってはいないよ。
診断書の件は了解した。
遺体は本人の意思で献体された事にしておく。」
「すまない・・。」
「いいんだ、じゃ、また後で。」
レイノルズは部屋を出ていった。
残った地質学者の研究員が声をひそめた。、
「トップシークレット扱いになる。
軍への報告だが・・・。」
「調査通りの事を報告書にして問題ない。
ただ、作成した報告書を本部へ送付する前に、一度俺に見せてくれないか?」
「別にいいが・・・。
改ざんとかは無しだぜ。」
「しないよ。
ただ俺のサインを付足したいだけだ。
それとコピーを一枚くれ。
部外秘の部分は黒塗りして構わない。」
「了解。
早速作るよ。
ところで、弟さんは大丈夫か?」
「あぁ、ありがとう。
雅人は大丈夫だよ。
明後日には山を下りてメキシコシティに向かうつもりだ。」
「そうか・・・書類は急ぐ。
じゃぁな。」
「あぁ、またな。」
研究員を見送った強は、隣室で眠る雅人のベッドの縁に腰掛け弟の顔を眺めた。
雅人は伊藤家の四人兄弟の中にあって最も美しい容姿をしている。
小さな頃から天使だったが、17歳になった今も天使のままだ。
柔らかな砂色の巻き毛に指を絡めると、雅人の長いまつ毛が震えた。
「ん・・・。」
「雅人?」
「ん・・・? ちぃ兄?」
「具合はどうだ?」
「もう平気・・・ねぇ、ちぃ兄。」
「ん?」
「あのさ、視えなくなったんだけど。」
「何が?」
「あのモヤモヤした灰色の何かが、全然視えない。」
「そか。俺もだよ。」
「でさ、ねぇ、教えてくれない?
ホセはどこ?」
「・・・。」
「・・・死んだの?」
「明後日メキシコシティに戻る。
その足でホセの家族の元に向かう。」
「・・・死んだんだね・・・。」
雅人は指の先が白くなるまでシーツを握りしめ、強から目を背けた。
「お前を助けるので精一杯だった。
・・・すまない・・・。」
「僕に謝るなよ。
マリアとロディに謝って。」
「わかってる。」
強の返事には、僅かな怒気が含まれていた。
「何にしてもホセの事は避けて通れない。
ちゃんと謝罪する。
お前の納得できる形かどうかは・・・。」
「ちぃ兄。」
強の話は雅人に遮られた。
「ちぃ兄はホセの事・・・ホセがこうなる事予想していたんでしょ。
予想していたなら、対策だって出来たんじゃないのか?」
雅人の言葉が、強の心を凍らせていく。
「どういう謝罪をするつもり?
日本と違って危険な国内環境の中で、マリアとロディが安全に生きていけるとでも?」
「俺なりのけじめを付ける。
何れにせよ明後日ホセの家族に会ってからだ。
お前も一緒に行くよな。」
「・・・。」
「ん? 俺のやることを見届けないのか?
行くだろ?」
「・・・行く。
行くに決まってる。」
そして翌々日の早朝、一機のヘリが観測所の屋上に舞い降りた。
輸送用の大型ヘリは米軍が派遣したものだった。
米兵が数人降りてきて、兄弟の荷物を手際よくヘリに積み込んでいった。
1時間ほどで出発となった。
兄弟の見送りに、レイノルズが屋上にやって来た。
「ドクター伊藤。
またお会いしたいです。
いずれ私も日本へ赴任できるように上申しようと思っています。」
「あはは、日本はいいぞ。
飯が旨いし、戦争とは一番遠い国の一つだしな。
日本に赴任したら一報くれ。
じゃ、またな。」
「お気をつけて。」
レイノルズは飛び立つヘリに向けて、見事な敬礼をして見せた。
当日の昼過ぎ、メキシコシティにある米軍の駐屯地にヘリは着床した。
駐屯地には黒塗りのバンが二台、二人を待っていた。
「トランク一つとデイパック二つを残して後は横田に輸送しておいてくれ。
現地へはラボから使いの奴が引き取りに来る。
横田の到着時間だけメールしてくれると助かる。」
強から”指示”を受けた兵士は、何故か強に向かって敬礼をしていた。
雅人はその不思議な光景を眺めて思った。
”一介の医師に過ぎない強が米軍にパイプを持っているとは?
そう言えば観測所に迎えに来たのも米軍の輸送ヘリだった。”
膨らみ続ける疑問を他所に、雅人は兄と共に黒塗りのバンに乗せられた。
バンは市内のシェラトンホテルで停車した。
2週間前、メキシコに来た際に泊まったホテルだ。
雅人達がホテルの玄関前に降り立つと、馴染みのベルボーイが駆け寄って来た。
「お帰りなさい。」
ボーイは満面の笑みで雅人のリュックを受け取った。
「またお世話になります。」
雅人も笑顔で応えた。
以前同様、ベルボーイの先導で前回と同じVIPスイートに案内された。
セロエルポトシの観測所をヘリで離陸してから、兄の強とは会話をしていない。
ホセの処遇について、兄弟の間で気まずい空気が消えなかった。
部屋に入り、強がボーイにチップを渡している風景は2週間前と何ら変わらない。
しかし、雅人はソファに腰掛け、テラスの向こう側の景色を呆然と眺めていた。
背後で戸が閉まる音がした。
ボーイが出ていった・・・・。
続く衣擦れの音。
兄が着替えるのか・・・シャワーでも浴びに行くのか。
雅人は腹の中に溜まったモヤモヤは、爆発寸前だった。
”あーっ!もうっ!”
苛立つ感情に、雅人が後ろを振りむくと、強が上半身裸で立って雅人を見ていた。
引き締まった浅黒い兄の体。
雅人には無い割れた腹筋と呼吸する度上下する大きな胸筋を目にして、思わず顔が火照り、雅人はテラスの方へ向き直った。
「どうした?」
数時間振りに聞く強の声に、
「・・・別に。」
雅人は備え付けのクッションに手を伸ばし、それを胸に抱いた。
「いつまで拗ねてる?」
「拗ねてなんかいない。」
「ホセの家族の後始末は、俺に任せておけばいい。
お前の責任は片鱗も無いんだ。
気に病むな。」
強の言葉に、雅人は全身の毛が逆立った。
「気に病むなって、何だよ!
僕の責任って、はっきり言ったら良いだろ!
僕が自分の事を自分で対処出来ていたら、ホセは死ななくて良かったんだ!
だろ?!
そう言えよ!
そう言って・・・僕を責めて・・・責めろよ・・・。」
雅人の瞳から涙が溢れ出し、体の震えが止まらない。
混乱する雅人を、強は何も言わずに抱き締めた。
雅人は泣いた。
ホセの死を悼んで、泣いた。
妻のマリアがホセに向けていた、信頼の眼差しを思い出し、泣いた。
ロディが・・・父がもう戻らないことを知ったら・・・そう思うだけで涙が止まらなかった。
兄の素肌の胸に顔を埋めて・・・泣いた。
兄の腕の中で、雅人は泣き続けた。
雅人が落ち着きを取り戻して後、二人でシャワーを浴びダークな服装に着替えた。
強はアタッシュケースにいくつかのファイルと小切手帳、そしてケースに入れた腕時計を仕舞った。
出発までの僅かな時間に、強からホセの死亡診断書を渡され、雅人は目を通している。
「落雷?」
「死亡原因は落雷だ。
レイノルズの診断だよ。
遺体は本人の希望で献体された。
献体については家族も承知している。」
「そうなんだ・・・でもちぃ兄。」
「ん?」
「後でいいから、僕に本当の事を教えてくれるよね。
僕に嘘つかないでね。」
「・・・・・・・、あぁ、勿論だ。」
強は声を絞り出すように、そう応えた。
そしてホセの家。
以前来た時と同じ。
白い漆喰の壁に小さな木枠の窓。
窓の下には花が咲いている。
ピンクと白の・・・サフィニアだろうか。
花々が春風に花びらを揺らす。
ゆらゆらと、ひらひらと揺れる花々が滲んで輪郭を失っていく。
雅人は、慌てて袖で涙を拭った。
強がドアをノックした。
程無くドアが開き、若い女が顔を出した。
「あら。」
ホセの妻、マリアだった。
腕にはロディを抱いている。
マリアは強張った兄弟の表情から何か察したのか、僅かな逡巡の後、
「どうぞ・・・。」
と、小さな声で二人を招き入れた。
強が、そして雅人がその後に続く。
ロディが雅人の顔を見て嬉しそうに笑い、手を伸ばした。
「やぁ、ロディ。」
雅人はマリアからロディを抱き取り、兄から少し離れた場所に移動した。
「ニーニャ?」
「・・・ニーニョだよw」
雅人がロディの頭を優しく撫でると、健康的な白い歯を見せてロディは笑った。
ロディはおもちゃ箱から、あの日二人で作ったレゴブロックのロボットを持って来た。
壊れやすいブロックの作品は、あの日のままだった。
「大事にしてたの?」
と、訊く。
ロディが小さく頷いた。
雅人が小さなエンジニアの頭を少し強めにワシャワシャと撫でると、ロディは嬉しそうに笑った。
強とマリアの話は一時間以上続いていただろうか。
マリアは終始静かに泣いていた。
山男の妻として、夫の仕事が危険と隣り合わせだと覚悟していたとしても・・・・、それが現実となると話は別なのだろう。
強は幾つかの書類を示し、マリアはそれぞれにサインをした。
まるで流れ作業のように・・・。
最後に、強はアタッシュケースから小切手帳を取り出し、数字を書き入れてマリアに渡した。
小切手を千切る音が、雅人の心を深く抉った。
強は続けて、
「これはホセの遺品になります。
納めてください。」
そう言って、ロレックスの腕時計をマリアの前に置いた。
今の今まで静かに涙を流していたマリアだったが、その腕時計を握り締めると、初めて声を挙げて泣いた。
ロディは驚き、母親の元に駆寄った。
その時、レゴブロックのロボットを蹴り倒していた事など、ロディは知らない。
バラバラになったブロックが床に散乱していく様は、まるで、ホセの大切にしていた家族がバラバラになっていく、雅人にはその象徴のように思えた。
雅人はブロックを拾い上げ、ロボットを復元しようとした。
しかし、何度やっても元の形には戻らなかった。
色合いも大きさもデザインも微妙に違う何かになった。
慟哭するマリアにしがみつくロディは、もう雅人への関心を失っていた。
強は静かに立ち上がり、マリアに頭を下げた。
「雅人、帰るぞ。」
「・・・。」
泣き続けるマリアと不安がるロディをそのままに、二人はホセの家を出た。
「はぁ・・・・。」
強が珍しく溜息を吐いた。
「意外。」
「え?」
「ちぃ兄の溜息なんて、初めて見た。」
「そうか?」
「うん。」
強は流しのタクシーを止め乗り込むと、市街の中心にある有名なメキシコ料理の店名を告げた。
「マリアさんの納得する形の補償は出来たの?」
「多分・・・な。
今回の計画は二年前から準備していた。
ホセに二百万ドルの保険に加入させたのもその時期だ。
受取人はマリア。
それとは別に、俺の提携先の神宮司のラボから慰謝料として300万ドルが支払われた。
日本円にすると、保険金と合わせて7億くらいになる。
マリアはメキシコシティの北部に移住するそうだ。
日本人ビジネスマンが多く暮らす地域ってことで、治安が良いいらしい。
そこに移住すれば、神宮司のサテライト法人が住宅や息子の教育に関してフォローする事になってる。
ホセを亡くしたマリア達にとって十分だとは言えないが、生活の不安は無いだろう。
俺が出来るのはここまでだ。
お前がどう思うか・・・。」
「ホセの家族の心に寄り添うことが出来るのは、多分、僕達じゃない。
マリアやホセの親や兄弟こそ、今必要とされていると思う。
僕達じゃないんだ・・・・。」
「そう・・かもな。」
「弱気だね。」
「そうか?」
「うん、弱気だ。
早く日本に戻りたいよ。」
「明日の夜の便で戻ろう。
俺も母さんの手料理が食べたい。」
「マザコン。」
「お前ほどじゃねぇよ。」
強は微妙な笑いを口元に浮かべて雅人を見た。
雅人もまた・・・強の肩に頭を載せて揺れる車に身を任せた。
早めの夕食をメキシコ料理の店で済ませ、二人はホテルに戻った。
色々な意味で疲れていた。
強はホテルに戻ってからも、関係各所への連絡や報告に忙しくしていた。
その間雅人は放って置かれた。
雅人がベッドに横になり天井をぼんやりと見詰ていると、脳裏にメキシコで出会った人々の顔が浮かんでは消えていった。
ホセの顔は、いつも優しく微笑んでいた。
ロディの黒い巻き毛と茶色の大きな瞳。
その瞳はいつも雅人の事を見上げていた。
マリアの慟哭と強が切った小切手の音。
それらが耳にこびりついて離れない。
胃の奥がギリリと痛み、雅人は呻いた。
医師のメイヤーと薄笑いを浮かべた兵士の顔。
軍医のレイノルズが浮かべた苦悩の表情。
強の溜息。
そして・・・ブロンドの髪が豊かにカールした・・・真っ赤な瞳の少女。
”以前会った事がある”そんな気がする。
”誰なんだろう”
という興味と、
”人外?”
突然、寒気が足元から這い上るのを感じた。
丁度兄の強がベッドルームに戻って来たことで、様々な記憶の渦が霧消したのは幸いだった。
「もう寝るのか?」
強に尋かれた。
「ちぃ兄、あのさ。」
「どうした?」
「あの一件以来、ちぃ兄は僕に触れないね。」
「そうか?」
「そう、今回の目標を達成したから、僕の役目が終わったとか、そんな感じ?」
「拗ねてんの? 可愛いな。」
「違うし・・・そういうんじゃ無い。」
「あのさ、お前、女抱いたことある?」
強の唐突な質問に、雅人が唖然としていると、
「今から、女を抱きに行くか?」
「なぜ、そういう話になるのさ。」
「お前、男としか絡んだこと無いだろ?
誰が見ても絶世の美少年なのに、女を知らずに生きてくのもどうかと思うぜ。」
「あのさ、それって、ちぃ兄が僕の事面倒臭くなったって事じゃん。
女なんて抱きたくないし、そんな気分じゃないから。
もういい!ほっといて!」
雅人は兄に背を向けシーツに潜り込んだ。
「俺は今から女としけ込んでくる。
今夜は戻らないかも知れないけど、お前も子供じゃないし、いいよな。
じゃ、明日の朝会おう。」
強は立ち上がり、寝室のドアノブに手を掛けた。
「やだぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
雅人は絶叫していた。
強はノブを回す手を止めて雅人を見た。
涙目で顔を歪ませた雅人がそこにいた。
「俺と行くか?」
「行かなくちゃダメ?」
「あぁ、何事も経験だ。」
強は雅人の肩を抱くと、そのまま夜の街へと繰り出していった。
赤色灯に照らされた娼館に、雅人は連れていかれた。
濃い化粧と強烈な香水の匂いに噎せ返りながら周囲を見渡す。
娼館のフロアには沢山の女達がいた。
彼女等は布の少ないドレスを纏い、裸に近い姿をくねらせ、うねらせながら、雅人達に値踏みするかのような視線を向けていた。
子供に興味のない女の多くは、強に向けた瞳に欲望の炎を宿し、強の一挙一動を眼で追った。
そんな女達を前に、強が声を挙げた。
「今夜は俺の弟を男にしてやってくれないか?
何人でもいいぜw
可愛いだろw
但し怪我をさせたり、トラウマになるようなことはするな。
誰かお願いできるかな?」
「あたしじゃ駄目かい?w」
娼館の女主人が、雅人に近寄って言った。
母の玉枝より遥かに年齢が上にみえる。
雅人は女の圧力に気おされ、後ずさった。
「はははは、冗談だよ。
お前さんのママンより上の婆あなんざ、お断りってか。
わかってるよw。
そうだね・・・・エリーゼ、こっちにおいで。」
女主人に呼ばれて若い女が近寄って来た。
「エリーゼは16だ。
何日か前にここに売られてきたばっかでね。
多分、生娘だよw
旦那の方のお相手にどうだい?」
エリーゼと呼ばれた少女は覚悟を決めた堅い表情とは裏腹に、体は小刻みに震えていた。
これから自分の身に起きる事を思い恐怖しているのだろう。
「いいね。」
強はエリーゼの手を取り、甲にキスをした。
「んで、こっちの坊やは・・・と。」
女主人が客待ちの女たちを一瞥する。
何人かが手を挙げた。
主人はニヤリと薄く笑い、
「お前たち、この子を立派な男にして差し上げなw」
結果、雅人は三人の女と一緒にプレイルームに入ることとなった。
雅人が逃げ腰になっている間に、兄の強はエリーゼと共に姿を消していた。
雅人はキングサイズのベッドの上で、女たちの手で裸に剥かれた。
雅人の白く美しい肌と、均整の取れた若い肉体に、女たちの理性は一瞬で吹き飛んていった。
触られたら嫌でも反応してしまう雅人の分身に、女たちは我先にと群がり舌を絡めていく。
いつまでも硬さと太さと大きさを保持する分身に、女達は代わる代わる跨った。
プレイルームの中は、女たちの香水の匂いとそれを凌駕する体臭、更にメスの臭いが充満し、雅人は何度も吐き気に襲われた。
女達が繰り広げる全ての行為が苦痛でしかなかった。
三人の女が雅人の両側に死んだマグロのように横たわったのを見て、雅人はベッドから降りた。
出の悪いシャワーで体を洗った。
女の痕跡の全てを落とすには、水流の弱いここのシャワーでは無理だと悟った。
早々に着替え、娼館のロビーに行くと強が待っていた。
「ちい兄、お風呂に入りたい。」
「だな、帰るか。」
既に代金は支払い済みらしく、女主人は愛想よく二人を見送った。
タクシーに乗りホテルに戻る道すがら、雅人は強に尋ねた。
「エリーゼのバージン奪ったの?」
「まぁな。」
強が煙草に火を点け大きく吸い込んだ。
「酷い事してないよね?」
「さぁな。」
「!」
一瞬、雅人の体が強張る。
「酷いかどうかは相手が感じることだろ?
そういうお前は?」
と訊かれ、
「全然よく無かった。」
と、雅人は応えた。
「まじか。」
「自分でするからいい。」
雅人は車窓を流れる景色を眺めながら、小さく応えた。
「手伝うぜ。」
強の言いように、
「バカなの? 余計なお世話だから。」
と、応えたはずだった。
しかし、ホテルのバスルームの中で、強にこれでもかと愛撫され、雅人はあられもなく声を挙げ身悶え、そして、兄の背に幾筋もの爪痕を付けたのだった。
その晩、いつも通り強の腕に抱かれて眠った。
夢も見ず、不安も後悔も無い眠りは、久しぶりだった。
帰国便は深夜十時に離陸するのだとか。
ロビーは閑散とし、当然兄弟を見送る者は誰もいない。
「やっと帰れる。」
雅人は兄の腰に腕を回して呟いた。
仲の良い兄弟と言うより、恋人のように寄り添う姿は人目を引いた。
ロビーを行き交う人の中から独り、近寄ってくる者がいた。
「こんばんは。」
それは娼館にいたエリーゼだった。
雅人は驚きエリーゼを、そして兄を見た。
「こんばんは。
アメリカを目指すのか?」
「ええ、ドクターのご厚意に甘えることにしたので。
NYで暮らす叔母の元に行って世話になります。
それと・・・学校にも通います。
ドクターにここで会えたことを神に感謝しないと。
では、失礼します。」
エリーゼは小さなボストンバッグを一つ下げ、NYに向かう便の受付カウンターへ歩いて行った。
昨夜見た怯えた少女の面影は、どこに行ったのか・・・。
「あの子に何をしたの?」
雅人は訊いた。
「別に何もw
ほんの少しだけ”足長おじさん”の真似事をしたくなっただけさw」
「ふぅん。」
「ん? 妬いた?」
「んな訳ないw」
「おぉ、大人になったなw」
「言ってろ、バカ兄貴。」
こうして強に無理やり同行させられたメキシコの全ての旅程が終了した。
13時間もしたら、懐かしい日本の大地と空気の中にいるだろう。
二人は東京行きの搭乗口に向かった。