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六枚目

 角を曲がった突き当りがすみれの家で、高橋の家は通りに面していた。角を曲がらなくても、その大きな窓の向こうで明かりが灯っているのがカーテン越しに見える。すみれは締め切られているカーテンの奥で、高橋は仕事に励んでいるのだと思い、愛奈の言葉を思い出した。

――我慢……女磨き

 具体的には何をしたらいいのか、すみれにはピンとくるものがなかった。愛奈に聞いておくべきだったと、後悔しながら、角を曲がった。すみれは昔なにかそれらしいことをしていなかったか、と思い返してみた。

――雑誌を読んで、ちょっと運動して……あんまりやってないな

 すみれはキッズモデルをやっていたときも、特別なことをしていたわけではなかったのに気付いた。

――明日愛奈に聞いてみよう

 角を曲がって、高橋の家を通り過ぎ、門を開けて玄関前の石畳を歩いていく。うつむいて歩くと肩にかけた髪が、伸びているのが気になった。

――切っちゃおうかなぁ

 馴染みの美容室に行こうかと思って、ふとすみれは髪を触った。

――あ……切っちゃったら、描けなくなっちゃう

 椅子に腰かけ、赤い本を読む、ピンクのワンピースを着た少女。長い黒髪で描いているはずのその絵が、描けなくなってしまう。絵のことは詳しくないすみれだが、髪が変わってしまったら描きづらいかもしれない。しばらく髪を切るのはやめておこうと思った。

 ドアノブに手を掛け、回す。いつもは鍵がかかっている扉が簡単に開いた。

――あれ、今日お母さんいるのかな?

 家に入ると、少し蒸し暑く感じた。もうすぐ梅雨に入る、閉めきられた家には湿気が溜まっていた。すみれはやっぱり母はいないのかと、軽く肩を落とした。玄関を上がって、リビングに入る。暗い室内になにか甘い匂いがする。すみれは電気をつけて、テーブルの上にメモ書きが置いてあるのに気付いた。

――お母さんかな?

 すみれはブレザーのボタンを外しながら、メモを覗き見た。たびたび置かれているような、走り書きとは違った文字で書かれた内容に、すみれは唖然とした。


 二面の鏡張りの壁に、白い床、大きな窓の部屋で、すみれは真剣な顔で歩いていた。部屋の中には机に大量の服を並べる母と、紺のスーツを着た男がいるだけだった。

 赤いロングスカートと、ベージュのタートルネックに、黒いハイヒール。柄のないシンプルなそれらは、今日のために用意された物だった。すみれが無言で歩き続けるのを、男も黙って見ている。母はすみれの方をみる気配すらない。

 カツカツと鳴るハイヒールの音がそれからしばらく響いていた。

「うん。いいね」

 数分、部屋をぐるぐると歩いていると、男が口を開いた。渋い顔をしている割に高く、優しげな声だ。すみれはようやく安心して一息ついた。

「ありがとうございます」

 男に向き直り、礼をする。額に浮かんだ汗をそっと拭う。男は笑顔になって軽く拍手をした。

「あ、終わった? とりあえずこれだけ置いておくから、(きょう)ちゃん、後はよろしく~」

 軽い口調で母が、男――京ちゃん――に手を振って、足早に部屋を出て行った。

「ほんと、軽すぎでしょ、あの人。自分の娘がモデルやるかもしれないってのにさぁ」

「はは……あんまり興味がないんじゃないですかね」

 京ちゃんの呆れた声に、すみれも乾いた笑いで返した。京ちゃんは、母の友人のカメラマンで、すみれも昔お世話になった人だ。四十代に差し掛かる、顔つきは渋めの京ちゃんだが、物腰が柔らかく、中性的にすら感じる。

「さて……とりあえずレッスンしますか。て、いっても写真だからウォーキングは必要ないんだけど」

 すみれは母のオフィスにある、レッスン室へ来ていた。母の会社が出しているカタログや、雑誌に服が載るときなどに撮影をする部屋だ。部屋の天井には背景の絵が描かれたスクリーンをかけるフックがあり、今は片付けられているが、来たときには物が雑然とした部屋だった。

「まぁた、すみれちゃんの写真が撮れるとはねぇ」

 京ちゃんは嬉しそうに言った。書置きは京ちゃんからの手紙で、内容はモデルの仕事依頼だった。家に着いたばかりだった母と、鉢合わせし、すみれは先日の写真がきっかけだと知った。会社のカタログや、比較的小さな広告でモデルが足りていないそうだ。

――たまに人手が足りなくなるんだよなぁ

 素人のモデルと言ってもそれなりに給料が出る。母の関係で安く済ませられるという事情もあり、すみれに白羽の矢を立てられたそうだ。六月に入った今日、資料用を含めて数枚の写真を撮る予定だった。

――とにかく頑張ろう!

 高橋と会えなくなったすみれに、舞い込んだチャンスは大きく思えた。モデルに対しての夢や、苦い思い出は胸の中に残っているが、やってみたいという気持ちのほうが強かった。

――綺麗になって、会いに行こう

 また、「綺麗」が聞きたくて。すみれは京ちゃんに指定された服を手に取った。


 高橋はまだ寒い夜を一人で部屋に閉じこもっていた。カンパスの前に腰を掛けている高橋の、白かったシャツと深い緑のエプロンは黒くなり、汚れていた。茶色の髪にも所々絵具がついている。もともと少し癖のある髪が、変に跳ねて、人前に出られるような姿ではなかった。

「……足りない」

 カンパスには裾の汚れた白いカーテンと、暗い部屋。今の高橋に見えている全てだった。

 うつむいたまま、数時間経った。昔はいろんなものを描いたし、描きたいものがたくさんあったはずだ。それが今は

――もう……無理かな

 最後の一枚が、完成しない。高橋は焦燥と、諦めに駆られ、なげうつように天を仰いだ。他の部屋より一段高く設計されているこの部屋ですら、狭苦しく感じるようになっていた。

――なんでだろうなぁ

 念願だった広い仕事部屋と、小さめの二DKだが一軒屋が同時に叶ったというのに、こんな思いをすることになるとは思ってもみなかった。

――むしろ、ちょっと寂しいかもなぁとは思ったけど

 狭い、と感じるとは予想していなかった。

――ローンまで組んだんだけど

 高橋はぼーっと首が痛むのも構わずに天井を見ていた。行き詰ったときは諦めて筆を置く、それが高橋のやり方だったし、今でもそうしたいと思っている。

――もう、期限過ぎてるんだよなぁ

 個展が数日後に迫り、さすがに草加は家から出て行き、準備に走り回っていた。時折携帯がけたたましく鳴り、這いずるようにして出ると、草加が疲れたような声で

「後六日です」

 と、残りの時間だけを告げて切られる、一方的な電話がかかってくる。そんな日々を迎えて三日目。高橋は少しやつれて、体重も多少落ちているだろう。一日中カンバスに向かって、基本的な生活を忘れたように筆を取る。

「……ふぅ」

 高橋は椅子から立ち上がった。反動でよろめき、カンバスに少し当たった。重たいカンバスは少しずれただけで、倒れるような気配はない。高橋はそれを見て、ふらふらと窓へ向かった。

――シャッ

 カーテンを力任せに引き、久しぶりに光を浴びた。と、言っても日はすでに傾き、たいして明るくもない。だが、蛍光灯すらほとんどつけていなかった高橋には十分に眩しく感じられた。

――外に出て、何か見ないと、描けないだろうなぁ

 見たもの、感じたこと、自分の内面に絵が影響されることを、ここ数年で強く実感していた高橋は、そう思いながらもそれが叶わないのを、頭の端で理解していた。

 よれて汚れたシャツも、くたびれたズボンも、絵具が固まって手櫛でとかすこともできない髪も、すべて綺麗にしなくてはいけない。その余裕が全くない。

 高橋は窓を開けて、足を外へ投げ出した。縁に座り込むと、もう立ち上がれる気がしなかった。そのまま窓へ頭を預けると、倒れこんでしまいたくなった。

――草加さん怒るだろうなぁ


 すみれはどうしたらいいのか、しばらく迷った。午後四時過ぎ、シーズンが過ぎて売れ残った服を貰って帰ってきた帰宅路で、立ち止まっている。モデルの話しがまとまって、本格的に撮影に入った今日、すみれは疲れていた。

――いや、でも

 自分以上に疲れた様子で倒れている。

「高橋さん」

 曲がり角を曲がれば、帰宅は済むのだが。すみれは塀越しに、家の中でぐにゃりと体をしならせて倒れている男に声を掛けた。最初に見たときは何かと思った。

――いろんな色が混じってるから、人だと思わなかった

 高橋の身に付けている服に、付着した色とりどりの絵具の所為で何か物が置いてあるのかと思った。割と大きな声を出したのだが、反応がなく、ただ微かに上下に動いている胸部が、眠っているだけだと知らせてくれる。

 すみれは一度その場を通り過ぎ、隣人宅の門扉を開けた。三週間ぶりほどに入った高橋宅は、すっかり芝生が伸びていた。

「高橋さん」

 すみれは最近履くようになったハイヒールで芝生を踏み、窓辺へ寄って再び声を掛けた。足を外へ投げ出し、斜めに体を曲げて寝転んでいる高橋の顔はやつれていた。覗き込んですみれは、部屋の中へ視線を向けた。

――忙しいとこうなるんだ

 掃除などしていないのだろう部屋。足を踏み入れれば、靴下が色とりどりになってしまうだろう。

――個展、いつなんだろう?

 今こうして眠っているのも、大変な状況なのが窺い知れるが、このままにしておくわけにはいかなさそうだった。

――まだ終わってないんだろうなぁ

 イーゼルに立てられたカンバスの傍にはまだ綺麗な色の絵具が乗ったパレットが落ちている。時折吹いてくる風はまだ冷たく、このまま放っておくわけにはいかなかった。

「高橋さん。起きてください」

 すみれは少しだけ開けられていた窓を、開け放ち、眠る高橋の隣へ腰を下ろした。部屋の中心はひどい汚れだが、窓辺は平気だった。体をゆすったり、声を掛けたりしているうちに、うっすらと反応が返ってくる。

「うっ……ん?」

 かすかにうめいて、高橋が身じろいだ。


 奏介は目を徐々に開けて、夢を見ているのだと思った。近くで自分の顔を覗き込む少女の、瞳に夕日の色がきれいに差し込んでいた。

「高橋さん? 大丈夫ですか?」

 細く白い手が遠ざかって、彼女は首を傾げた。奏介は夢から引きずり出されたような、気分になった。

「す、みれさん」

 喉が張り付いたみたいに、詰まって、声がきれいに出なかった。奏介は肘を床について起き上がった。

「お疲れ様です」

 彼女は苦笑いをした。窓辺に腰かけた彼女の足元に紙袋と、黒い大きなカバンが置かれている。どこかへ行っていた帰りに、見つけてくれたらしい。

「大丈夫ですか? 何か手伝えること、あります?」

 彼女をじっと見ていた奏介は、頭をゆっくり回し、口を開閉した。

「ごはんとか、食べてますか? お仕事まだ忙しいんですか?」

 本当に心配しているのだろう、彼女はいつもより少し早口だった。奏介は乾いた笑いがこぼれた。

――足りないものなんて、わかりきってるじゃないか

 低い、音にすらならないような笑いがしばらく喉をついて、奏介は顔を上げた。立ち上がった彼女は不思議そうに、自分を見下ろしていた。カバンへと伸ばされかけた手を、奏介は強引にとった。まだこんなに動けたのかと、思うほどに強く。

「ごはんはいらない。仕事ももうすぐに終わるよ。君が居てくれたら」

 奏介は表情をころころと変えた彼女を部屋に引き入れて、カンバスの前へ立った。絵筆を持つ前に、自分の部屋に掛けられたままの、白いカーディガンを彼女の肩へかけた。


 すみれは窓辺に座っていた。カバンの中を漁っていても、じっと顔を見ても、高橋はすみれに反応を示さなかった。ただ、すみれを見ては、筆を走らせていく。外から入る風が髪を乱していく。火照った頬は冷やされて、すっかり元通りだ。

――どういう意味だったんだろう

 すみれはじっと、高橋が描き終わるのを待った。予定とは変わってしまったけれど、大切な絵ができる。そんな予感を胸に、すみれは髪を撫でつけた。絵具のついたカーディガンを押さえながら。


 都心の画廊で、一人の作家の個展が開かれていた。人の入りはそれなりに多く、彼が以前描いた絵がプリントされた手提げを持つ人の姿もあった。

 すみれは個展の一角に、一枚の絵を見つける。じっとそこから動かない人が数人いた。すみれはそこに近づいてその中に混じった。

 暗い部屋に、絵具で汚れた床。開けられた窓と、揺れる白いカーテン。夕日を受けて、座っている少女。白いカーディガンを肩にかけ、黒いブラウスと、グレーのパンツを着た少女は、かすかに頬を赤く染め、ぎこちなくはにかみながら、こちらを見ている。彼女の足元には、庭に咲く数輪の菫。タイトルは「幸福」。明暗のはっきりした画風で、菫の花ことばをタイトルにしたその絵は、広告ポスターの一角にも載せられていた。

「この作家が人を描くのは初めてじゃないかね?」

「ええ。作風が少し変わりまして。お気に召されましたか?」

 すみれは隣でじっと、絵を見ていた男性が口を開いたのをそっと見た。恰幅の良い中年男性が、傍に寄ってきた男と話出した。

「ずいぶんいいじゃないか。モデルでもいるのかね」

「さぁ。そこまでは私も聞いておりません」

 ふっと、男性客に笑顔を見せた、男はすみれにちらりと視線をくれた。

 奏介から聞いた画商の男は、前に見せた睨みの効いた目とは違った目で、すみれを一瞬だけ見た。

「ふむ……これはいくらだ?」

 男性は少しだけ生えたひげをなでつけ、男に小さく問いかける。男はにこりと、微笑み軽く頭を下げた。

「申し訳ありません。こちらは作者の希望で、非売品となっております。あちらの物はどうです? さきほど、熱心にご覧になられていらっしゃったようですが」


 ピンクのワンピースにベージュのボレロを羽織って、白いハイヒールを履き、短く切った髪を風になびかせ歩く。

「奏介さん」

 目当ての人を駅前で見つけて、大きな声で呼んだ。周りの人が見るのを気にせず胸を張る。手を振ると、驚いていた奏介が、恥ずかしそうにはにかんだ。六月末の、梅雨も終わり晴れ間が広がる日、すみれは思い出の絵を飾るための額縁を選びに二人で出掛けた。

 ハイヒールを履いたすみれと奏介の背はほとんど変わらない。けれど、心晴れやかにすみれは奏介の腕を取って、歩いた。

 読書をする少女の絵は、完成後、高値で取引された。高橋が描いた絵の中でも高い評価を受け、一度だけ展示に出された少女の絵の噂が、高橋奏介の名前と共に広がって行った。

 その後、高橋奏介という画家の作品の中にたびたび、同一人物と思われる女性の姿が描かれるようになり、次第に代表的な作風の一つとして数えられるようになった。

 その中でも多く描かれたのは、日本各地の名所での楽しげな女性の姿だった。後々には夫婦や、子連れの家族の絵が出てくるようになり、作者の人生が垣間見えると、評判になった。

 その女性の姿が、あるモデルによく似ていると噂になり、彼女もまたその名を世に馳せらせた。高橋は生涯、彼女を描き続けた。彼女の名前が付けられた画集が発売され、二人が夫婦であることを公表した。タイトルは『高橋すみれ――幸福の足跡――』。高橋が描いた人物画のみが収められた画集は、担当画商の手によって見事に大流行した。

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