五枚目
それから数日置きにすみれは高橋の家でモデルをした。そうしているうちに、昔の感覚と、記憶を思い出すようになっていた。子供の頃、大した技術も知識もなかったが、教えてもらうことのすべてが楽しかった。
「今日はそれ?」
愛奈はすみれのカバンの中を覗いて、大型の雑誌を取り出して言った。女性向けのファッション雑誌はいっぱいあって、読みだすとキリがない。熟考したうえで、すみれは小遣いの中から数種類の雑誌を買いあさっていた。
「あんまり出さないでよ」
すみれは愛奈に文句をいいながら、カバンの口を閉めた。人に読んでいるところを見られたくない気持ちがあるが、早く読みたくてつい登校前に本屋に寄ってしまう。
「はいはい……まぁ、昔やってたくらいだし、また目指してみるのもいーんじゃない?」
軽い調子で愛奈は雑誌をペラペラめくりながら言う。すみれは苦い顔でそれを取り上げ、カバンへ押し込んだ。
「簡単に言わないで……ただ……今はどんな人がいるのかなって、思っただけだから」
長い間情報収集をしていなかったすみれは、最近流行っているファッションも、人気のモデルも知らなかった。高橋のモデルをやることになって、多少ではあるがバイト代を貰うことになったので、何も知らないままではいけないような気がしていた。そのための情報収集だった。
「ふーん。ねぇ、昔の知り合いとかいたりするの?」
愛奈は椅子に座って、頬杖をついた。すみれは思考をめぐらせて、首を振った。
「いる、にはいるけど。あんまり話したことないような子だったと思う……関わるきっかけがあるほどじゃなかったし」
今でも根気よく業界に残っている人も、同年代に何人かいるが、すみれが一方的に知っているばかりで、友達はいない。すみれは母の会社のカタログなどにしか出ていなかったので、知り合いはいても、仲良くなるような機会はなかった。
「友達いないのは、昔からなんだ」
「……うるさい」
「すみれー、ちょっとー」
出かけようと着替えを済ませたすみれは、階下からの声に振り向いた。
「はーいー」
今日は高橋と約束した日だ。すみれはいつものピンクのワンピースを着ていた。高橋はワンピース姿のすみれを描いているので、すみれも極力同じワンピースを着ていくようにしていた。寒いので白いカーディガンを羽織ってはいるが、家の中では頑張って脱ぐようにしている。すでに着色に入っていて、絵は順調進んでいるらしい。
「なに? もう出るんだけど」
すみれが準備を済ませて、一階に降りると、母がリビングで待っていた。昼過ぎの時間帯は大抵忙しくしている母が、リビングにいるのはなんだか不思議だった。
「はい、チーズ」
――カシャ
近づいていくと、母は後ろ手から一眼レフを取り出して、素早くシャッターを切った。すみれはとっさにポーズをとった。
「……何してるの?」
とっさの反応に、自分でも驚いたが、母が平然とカメラを覗き込んでいるのに、呆れた声が出た。問いかけると母は満足そうに頷いて、カメラの画面を触った。
「知り合いがねー、あんたのこと不意に思い出したらしくって。写真がほしいって言うからさ」
すみれは一瞬思考が止まった。母の顔を見つめると、にっこりとほほ笑み返される。
「それ、渡すの? ちょっと、やめてよ、急に撮ったやつを」
「いーじゃない。別に素の状態のでいいんだからさ。まぁ、ポーズとってくれたから、それはそれでいいんだけど」
すみれは母が何としても写真を渡す気でいるのを感じ取り、押し黙ると母はカメラを持って自室へ入って行ってしまった。
――まぁ、ただ成長が気になったってくらいだろうから……いいか
昔を知っている人がたまに、そういった理由で顔を見にきたりすることもあったので、それと同じだろうと、すみれは考えるのをやめた。
「綺麗になったね」
すみれは変な声が出そうになった。少なくとも、変な顔はしているだろう。慣れた仕草で髪を耳へ掛ける。驚いた時や混乱したときにする癖だ。高橋は描くのを止めて、こちらを見た。
「あ、いや。前から綺麗だけど。あの……座ってる姿勢とか、本を読んでるときの表情が、なんか……自然になったというか、そんな気がしたんだ」
慌てているのか、少し早口に言って、視線を逸らした。まずいことを言ったと思ったのか、小さく「ごめん」と言われ、すみれは軽く息を吐いた。
「別に怒りませんよ……ありがとうございます」
再び前を向き直り、すみれは混乱と恥ずかしさをどうにか鎮めようと、大げさにならないように気を付けて深呼吸をした。
――昔の感が戻ってきたってことよ。他に意味なんてない
喜ぶように高鳴る鼓動を、すみれは落ち着けようと弁解をする。高橋はすみれが怒っていないことを知って安心したのか、また筆を手に取った。静かな部屋の中で、相手の行動がよくわかるようになった。筆を取る音、筆を走らせる音、絵具を混ぜる音。さほど近いわけではないのに、呼吸や鼓動の音まで聞こえてしまいそうですみれは内心ひやひやしていた。
――全然、リラックスはしてないんだけど
緊張が外に出ないのは、利点であり欠点だった。モデルをしていたころにはそれを褒められることもあったが、私生活だとなかなかそうはならない。相手に感情が伝わりにくいのはこの『利点』の所為もあるだろう。
――かちゃん
すみれが緊張を押し殺していると、玄関の方から音がした。気になって扉を見ると、透かしガラスの向こうに黒い人影があった。
自分の知っている人物ではなさそうだった。ドアノブが軽い音を立てて回り、男が無遠慮に部屋へ入ってきた。ようやくそれに気づいたのか、高橋が小さく声を漏らした。
「あ」
「……なにをやってるんですか」
尋ねているというよりも、責めているような口調で、男は高橋に投げかけた。高橋は席を立って男へ近寄っていく。
――え、なに? 誰? なんなの?
すみれは先ほどとは全く違った混乱に陥り、男と高橋の方へ向き直るのが精いっぱいだった。
「ごめん、ちょっと待ってて」
高橋はすみれにぎこちない笑顔でそれだけ言うと、男の背を強引に押して部屋を出て行った。残されたすみれは立ち尽くしたまま、途方に暮れた。
「……誰?」
「奏介さん。あなたが気分転換をしたいからというので、数日お暇したのですよ? 個展まで時間がないのは知っていますよね? それがなぜ、女性を家に招いて楽しげにしているのですかね、私は頭が痛いです」
リビングへ移ると草加の怒涛の説教が始まった。高橋は溜息をついて、草加に向き直る。
「仕事はしてるよ。彼女はその、気分転換というと、とても人聞きが悪いけど、いいインスピレーションになるんだよ。だからその、遊んでいたわけじゃないんだよ」
高橋は個展までの時間に追われ、筆が進まなくなり、草加に休みをもらっていた。その最中、ワンピースを着たすみれに再び出会い、ふと思いついた。
――この子を描きたい!
そう思うほど、春の日差しを浴びたすみれの姿は美しかった。仕事に詰まって、久しぶりに外へ出た帰りだった。気持ちを盛り立てようとしていた所為か、あの時は自分でも驚くほど積極的になっていた。
「私はてっきり、街や観光名所にでも行かれて、題材探しでもなさるんだと思っていたんですが……普段は人物画なんて頼まれても、一枚も、絶対に、一切描かないのにですか?」
「草加さん、根に持ってるでしょ」
高橋は苦い顔をする。以前から何度頼まれても高橋は人物画だけは描かなかった。なのに、すみれを家に呼んでまで描いていた高橋に、草加は言いたいことがあるらしい。
「いいえ、別に。仕事さえしてくれれば。今日のことはまた別の機会にお話ししましょうね?」
高橋は草加に代わって頭痛がしてきたようだった。にこやかに釘を刺す草加に、高橋は溜息すら出なかった。
「とりあえず、時間がないので私はまた泊まり込むことにします」
「え?」
バッと高橋は顔を上げた。草加の口元はつり上がっているが、目も同様だった。
「なにか?」
高橋は小さく首を振り、リビングを出た。
すみれは部屋の中を行ったり来たりしていた。高橋が知らない男と部屋を出て行ってから、数分が経っているが、静かだ。
――大丈夫なのかな?
男は高橋を責めるようなそぶりを見せていたし、すみれは心配で椅子に座っていられなかった。すみれは高橋が別の人といるところを見たことがなかったので、男とどんな関係なのか想像ができない。
――兄弟……にしては、あんまり似てない
すみれは男の黒く短い髪と、細く切れ長の目を思い出してみたが、高橋のそれらとは似ていない。スーツを着込んだ男は高橋より背が低く、体格はいいように見えた。
――あ、そういえば敬語だったなぁ
男が高橋に対して敬語を使っていたことを思い出し、すみれは兄弟という仮定を頭から消した。
「ごめん、すみれさん」
部屋の中をうろうろしていたすみれは慌てて振り返った。高橋は扉の前に立っていた。後ろには少し怖い顔をした男が腕組みをしてこちらを見えている。
――に、睨まれてる?
すみれは後ろめたいことなどないはずなのに、ドキリとする。
「ちょっと、仕事があって……しばらくは忙しくなりそうだから、会えない、かも」
高橋はちらりと後ろの男を見ながら、途切れ途切れに言った。すみれはがっかりして、思わず表情が崩れた。
「ごめん、もう少しでできるとは思うんだけど、仕事の方の絵を先に描かなくちゃいけなくて」
高橋がすみれの顔を見て、あわてたように早口になった。すみれも慌てて胸の前で手を振った。
「いえ、大丈夫です……お仕事、頑張ってください」
すみれは回らない頭でそれだけ言って、頭を下げた。すみれはすぐに部屋を出ようとした。高橋は驚いたような、慌てたような表情をした。後ろに立っていた男は壁に寄りかかって、すみれを見ている。
「あの、すみれさん!」
「先生。納期まで一か月を切っていますので、急いでくださいね」
玄関へ出たすみれを引き留めようと掛けた高橋の声と、男のわざとらしい大きな声が重なった。すみれは振り向かずにドアノブへ手を掛けた。
「おじゃましました」
足早に高橋邸を出た。芝生の中から顔を出す石畳を踏み、開けられたままの門扉を閉じ、隣の自宅へ駆けた。庭へ入ったところで、明かりのついている隣家を見た。男と話していただろう、リビングの電気が消えたところだった。すみれがさっきまで居た作業部屋の電気だけが、煌々としていた。
――お仕事なら……仕方ないもん
もともと自分がイレギュラーな存在だったのだ。すみれはそう思い込むことにした。吹いた風が、カーディガンを忘れてきたことを思い出させた。夏も近いというのにひどく、寒く感じた。
愛奈は友人の溜息の数を数えていた。初めの定期考査が終わり、授業が短縮され始めた今日は、午前中に学校を出た。駅までの帰り道、愛奈はすみれと二人で見晴らしいのいい大通りをまっすぐ歩いていた。
「……はぁ」
愛奈は今日何度目かの溜息をついたすみれを横目で見る。落ち込んだような暗い表情、何を見ているのかわからない目。明らかにすみれは元気がなかった。愛奈はどうしたらいいかと思い、思考をめぐらせた。
――喜びそうな話題なんか、ないし
愛奈はすれみと一緒にいるようになってからというもの、いろんな話題を振り続けたが、思ったような反応は得られてなかった。大きな反応があったのは、ファッション系の話題と……
「あの人」
ピタリと、すみれが足を止めた。見れば目を見開いて、こちらを見ていた。
「何?」
愛奈は聞き返してみた。
――カマ掛けただけなんだけど
確信を持って愛奈は、すみれの手を取った。
「辛いことがあったんなら、いいなよ。聞くぐらいはしてあげる」
大通りでは人と車が行きかっていて、込み入った話ができる雰囲気ではなかった。愛奈は口を開閉して、何か言おうとしているすみれの手を引いて歩き出した。
「駅前にね、小さいカフェが出来たの。そこのカフェラテがおいしいのよ」
愛奈はすみれの返事を聞かずに強引にしゃべり続けた。駅まで行く道のりを、すみれが何も言わなくていいように。
高橋は乱雑に色が載ったパレットを投げ捨てた。そのまま背もたれにもたれかかり、天井を見上げる。床に新しい汚れがついたのとは対照的に、天井は引っ越してきた時のままの純白だった。それでも近くで見れば多少の汚れがあるのだろうけど。
「終わりましたか」
草加が本を閉じて、立ち上がった。草加は床の汚れを避けることなく、まっすぐイーゼルに寄った。足に高橋宅から勝手に拝借しているスリッパを履いているからだと、わかっているので高橋は若干苛立った。
――それ、気に入ってるんだけど
視線を下して、草加の履いているスリッパを見て、軽く溜息をつく。草加は分かっているのか、いないのか、じっと絵をみてつぶやいた。
「……変わった」
高橋は姿勢を戻して、草加を下から覗き見る。真剣なまなざしで一心に絵を見ている草加は、信頼できる商人の顔立ちになっている。高橋は草加以外の他の人に、自分の絵を任せられる気になったことはない。それだけの信頼を寄せている。
――元々、食べていければそれでよかったからなぁ
絵が好きで画家になったのは確かだが、職業として執着してきたわけではない。男兄弟の四男、末っ子に生まれた奏介は、のんびりした性格だった。親が何も言わないのをいいことに、美術大学に入って絵を描いて過ごした。そのうちに何度か入賞をし、絵画を集める趣味のあった親に、紹介されたのが草加だった。
「いいですね。じゃ、次お願いします」
顔を上げて、草加が高橋に微笑みかけた。下から覗きこんでいた高橋はぐっと体を引いた。顔が近づいていたことに、気づいていなかったことを深く後悔した。
――わかっててやったな
高橋は長くなってきた付き合いで、草加がとても『いい性格』をしているのを知っていた。
「……次は、いつまで?」
「そうですね、来週まで。後一枚なので、お願いします」
個展に向けての絵を毎回何枚か描かされることになるが、ここまで時間が足りなかったのは初めてだ。高橋は溜息をついた。
――次はいつ会えるだろう?
高橋は目を細めて、新しいカンバスを取りに立ち上がった。
すみれは愛奈にすべて話した。高橋とのことを、すべて。途中からなぜか涙があふれて、嗚咽交じりに話した。聞きづらかっただろうそれらを、愛奈は何も言わずに聞いていた。
「で、しばらく会えないからって、落ち込んでるわけ?」
愛奈はカフェラテを飲み干して、頬杖をついた。かわいらしい顔が、少し険しい表情になる。すみれは一瞬、それにドキリとした。
「えっと、あの」
「会えないからって何よ。ずいぶん落ち込んでるから、振られでもしたのかと思った」
言葉を探していたすみれを愛奈はばっさり切り捨てるように言った。溜息を追加して、上目使いですみれの顔を見つめる。
「ただののろけじゃない。心配して損した」
愛奈は空になったカップを端に避け、テーブルに置いてあったメニューを開いた。すみれはあまりにもさっぱりした返事に、どうしたらいいのかわからなかった。
「ご、ごめん、なさい?」
「しばらく我慢するしかないじゃない。別に会いたくないって言われたわけじゃあるまいし。いい女はね! 会えない間に女磨きするのよ!」
メニューから顔をだし、ビシッと人差し指ですみれを指差した愛奈は、ついでとばかりに店員さんを呼んでおかわりを注文した。
「愛奈が友達になってくれて、よかった」
すみれは妙に納得して、心の底から言葉が零れ落ちた。
「私以外に友達いないじゃない」
愛奈はむっとした顔のまま、言い放った。
「……友達ほしい」