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四枚目

「最近寝不足?」

 すみれはかくんと首が落ち、慌てて顔をあげた。

「え? ごめん、なに?」

 愛奈はベージュのブラウスを着込んでいて、フリルの襟が紺のブレザーから出ている。今日はカーディガンもベージュで合わせていて、明るい装いになっている。すみれはというと、白い学生用ワイシャツに黒いカーディガン、厚手のタイツを履き、ブレザーを着込む、暖かさを重視した装いだ。四月の終わりで、さほど寒くはない気温だが、大抵はこういった恰好だ。

「寝てないの? さっきから眠そうだけど」

 愛奈が机に肘をつき、あきれ顔で言った。すみれは顔を軽く撫でて、背を伸ばした。

「いや、ちょっとだけ寝るのが遅くて」

 すみれは母の休日を見つけては、服作りを進めていた。ワンピースは袖も襟も付けたデザインで、初心者には少し難しいところがあるので、元々器用ではないすみれは、つまずく所が多かった。そのせいで寝不足だった。

「ふーん……目の下にクマ、とかやめてよね。一気に台無しになるから。見てて残念な気持ちになるわ」

「ひどい言いようですね」

 すみれは笑みがひきつった。朝鏡を見たときはクマなどできていなかったから、大丈夫だとは思うが、釘を刺されてドキリとした。

「美女が眠そうにしてるのも、物憂げな雰囲気があっていいけど、クマはダメよ。ただの不養生だから」

 愛奈は非常にまじめな表情で言い放った。すみれはどう返すべきか分からず黙った。返事が出来ずに、誤解された経験が苦い思い出になっているすみれだが、愛奈はそんなことは気にしていないようだった。

「好きなことがあるのはいいけど、ちゃんと寝ないとだめよ。美女はいつでも美しくないとね」

 愛奈はそういうとにっこり笑って、肩にかけられたブラウンの髪を後ろに流した。緩くかかったうねりが跳ねて、柔らかな印象を受ける。彼女は確かに美女だと、すみれも思う。

――私まで同じ扱いなのは……ちょっと困るけど

 そういった扱いをされるのは、初めてでどうしたらいいのかわからない。

「私、すみれのキリッとした顔とか気に入ってるんだから」

 愛奈は頬杖をついて微笑んだ。すみれは不意な愛奈の告白にドキリとした。

――同性に好かれるの……すごく久しぶりかも

 何かと疎われたり、遠ざけられることが多かった所為か、不思議と恥ずかしくなった。すみれは小さく頷いて、しばらく黙り込んだ。


「先生。急いでくださいね」

 イーゼルと画材が散乱し、乾かしている途中の絵が高橋の周りを囲んでいた。足元に散らばる画材をゆっくり片付けている男は、時折こうして釘を刺してくる。高橋はそのたびに苦い顔をして、胃の痛みを我慢する。

「個展まで時間ないんですからね。今月中にはあげてもらわないと」

 高橋の絵を売買している商人、草加は時々家にやってきては個展や、買い取り主の情報を持ってくる。それには非常に助かっているのだが、スケジュールはハードであることも珍しくない。

「最近は筆が進んでなかったみたいですね? 前に途中まで描いていたのもまだ終わってないみたいですし。なにかありましたか?」

 仕事をさせながらも、気遣う言葉をかけてくる辺りが、なんとも憎めない。

「個展が終わったら、方々の教室から講師に、と呼ばれているんですからね。しっかり仕事してくださいね」

――もっとゆっくり描きたいなぁ

 それが難しいこともわかってはいるが、もともとマイペースな高橋は淡い希望を抱いていた。絵を描くのに生活の影響を受けるタイプの高橋は、家に籠って絵を描くと決まって暗い色彩のものが出来上がってしまう。それが評価を受けている部分もあるのだが、外にでて新しいものを描いてみたい気持ちがあった。高橋は淀んだ空気を吐き出すように溜息をつき、筆に新しい絵具を乗せた。


 入学してからの時間が経てば経つほど、新しい友人はできにくかった。話しかけてくれる人もいたが、まだ愛奈と仲良くなれる人はほとんどいないと言ってよかった。

――一人の時に話しかけてくれる子はいたんだけど

 愛奈の視線が気になるらしく、あまり親しくはなれていない。

「すみれ? どうしたの?」

 当の愛奈は無邪気に笑いかけてくる。すみれは複雑な思いで首を横に振った。

「……もしかして、またあの人のこと?」

 愛奈は顔を近づけて耳打ちした。すみれは一瞬、愛奈の言う『あの人』が誰だかわからず、ぽかんとした。意味ありげに微笑む愛奈を見て、すみれはふと彼のことが思い浮かんだ。

「いや、あの」

 すみれは慌てて否定する。愛奈と仲良くなるにつれ、すみれは隣人との不思議な関係を話すことになった。話の流れで相談したのだが、それからというものたびたび愛奈はその話をしてくるようになった。いつもニコニコと、楽しげに。

「ワンピースだっけ? 出来たの?」

 すみれは苦い顔をした。眉間にしわが寄っていることだろう。母親の協力を得て、制作を始めてから一か月足らずでワンピースは完成していた。だが、すみれはまだ彼――高橋――にワンピースを見せに行くことができていなかった。

「出来た……けど」

「けど? 見せに行ってない、とか?」

 歯切れ悪く言うすみれに愛奈は怪訝な顔をした。すみれが静かに頷くとその表情は一層険しくなった。どんな言葉が返ってくるのかと、すみれは目を伏せた。

 静かなままなのを不思議に思い、目を開けると愛奈が笑っていた。

「すみれって、可愛らしい性格してるのね」

 頬杖をついた愛奈の表情が穏やかで、すみれはからかわれた時に似た恥ずかしさで顔を赤くした。


 レースがついたピンクのワンピース。制服とは違った素材のそれは同じ膝上丈でも、ひらひらと揺れて、そういった服を久しぶりに着たすみれは心もとなさを感じた。お昼時の日曜日に、すみれは覚悟を決めて高橋邸の玄関前に立っていた。

――すごい今更だけど、なんであんなこと言っちゃったんだろう

 求められたわけでもなく、自分から進んで「見せに来る」と言ってしまったことを、すみれは後悔し始めていた。

――ちょっと寒いなぁ

 まだ夏は先で、時折吹く風がスカートを揺らして行き肌寒い。すみれは深呼吸を一つ大きくして、インターホンへ手を伸ばした。

――と、とにかく会うだけ会えば、いいよね!?

 それで約束は守られたことになるだろう、すみれは律儀に約束を守ることを考えていた。黒いインターホンの小さなボタンを押すと、ピンポーンと聞きなれた音が鳴った。

「…………あ、れ?」

 返事がない。すみれはインターホンの前で首を傾げた。高橋としなやかな字で書かれた表札を、眺めてしばらく待ってみたが人が出てくる様子はない。すみれはもう一度インターホンを押してみた。

――これで出てこなかったら帰ろう

 隣の家だから、勇気さえ出せばいつでも来ることができる。その勇気がなかなか持てないのは事実だが、相手がいないのに外でずっと立っているのも落ち着かない。

「帰ろう」

――ドサッ!

 家へ帰ろうとしたすみれは背後からした音に、振り返る。金属音を立てて、スーパーの袋からジャムのビンが転がり出た。

「あ……こんにちは」

 すみれは高橋に頭をさげた。

「え、あ、……こんにちは」

 袋を落とした高橋はゆっくりと屈んでそれらを拾い始めた。すみれは近くに転がってきたビンを拾い、高橋に渡した。高橋は茶色い髪を後ろで一つに結わいていた。夏っぽい白のポロシャツにはよく知るウサギがいた。

「びっくりした……久しぶりに外に出たから、幻覚でも見てるのかと思った」

「幻覚って……大丈夫、ですか?」

 そんなに驚くようなことだったのかと、すみれは少し不思議に思った。袋を持ち直し、立ち上がった彼は、ゆっくりとすみれの恰好を確かめるように見ていた。

「えっと……変、ですか?」

 居心地の悪さをどうにかしようと、すみれは問いかけてみた。高橋はすみれの顔を一度見て、笑いながら首を振った。

「いや、似合ってるよ」

 居心地の悪さは結局変わらなかった。


 画材の散乱した部屋とは違う部屋にすみれは通されていた。すみれは、話の流れで高橋邸に上がっていた。

――また迷惑かけるかもしれないのに

 部屋に入ってすぐに、その心配ごとは忘れてしまった。吹き抜けの天井と、白い螺旋階段に目を奪われる。近くに寄ってみると、屋根にガラスがはめ込まれていて、太陽の光が降り注いでいた。

 すみれは視線を戻し、高橋の姿を確かめた。リビングダイニングは、作業をしていた部屋の雑多なイメージが変わるようなシンプルな家具がそろっていた。螺旋階段の印象は強いが、部屋全体は落ち着いた雰囲気で、階段も部屋に馴染んでいる。カウンターキッチンも飾り付けがなく、白やシルバーで統一されていた。

 すみれはカウンターの前に置かれた四人掛けテーブルに近寄って行った。近くの開かれたままの扉から、洗面台が覗いていた。飾り気がなく、整理されている洗面台は、どこか生活感が無いように思えた。

「はい。紅茶、平気だった?」

 高橋はキッチンから出てきて、白地に青い模様の入ったティーセットをダイニングテーブルに置いた。すみれが頷いて椅子へ腰かけると、高橋は軽く笑った。

――よく、笑う人だなぁ

 すみれは勧められるまま、紅茶を一口飲んで、高橋の顔を見た。見せに来たはいいが、そのあとのことは一切考えてなかった。ワンピースは自分では納得のいく出来だった。自分がそれを着るということ以外は、何も違和感がなかった。

「あのさ」

 反対側に座って紅茶を飲んでいた高橋が、うつむいたまま口を開いた。すみれは次の言葉をドキドキしながら待った。高橋はゆっくりすみれの顔を見て言った。

「僕のモデルになってくれないかな?」

 すみれは、ドキドキした。ただ、うれしいだけじゃなかった。とにかく時間がゆっくり流れているような感覚がした。目の前にいる高橋が、まっすぐ自分を見ている。そのことがすごく不思議で、幸せなことだと思った。


 部屋に鉛筆で紙を擦る音が静かに響いている。大きなカンバスの中に描かれた人が、明細になっていく。すみれは手に大きな本を持ち、それを座って読んでいた。集中はできていないし、内容は半分も入ってきていない。内心は落ち着かないが、昔取った杵柄とでも言おうか、表情筋は動いていない。すみれは体が昔の事を覚えているのを実感する。

 すみれは高橋のモデルを、仕事として受けた。すみれのチャレンジに賛同的な母は喜んで快諾し、父は心配そうにしながらも週に何日か通うことを許してくれた。

――暇だろうからって、本を渡してくれたけど

 まったく集中できず、渡された趣のある本の内容はさっぱりわからなかった。外国人作家の作品を日本語訳したものらしく、紅いシンプルな装丁は絵にも映えそうだ。すみれはこのままでは長い時間は耐えられないと、文章を集中できないなりに読み始める。

――動いてたら描きにくいだろうし、なるべく気にしないようにしないと

 仕事として受けたからには、迷惑はかけられない。すみれは背筋を伸ばし、少し重い本を固定して読み始める。

 タイトルから予想していたものとは違った内容に興味が湧き、すみれは改めて本を読み進めて行った。すみれが普段読むような雑誌や、少女向けの小説とは違って、難しい表現もありつまずくたびに、すみれは顔を軽く上げ、どういうことなのか考えながら読んだ。しばらくするとえんぴつの音も気にならなくなった。


「すみれさん」

 柔らかな声が近くでした。すみれは本から顔を上げた。栗色の瞳、白い肌にうっすらと赤い唇が、目に飛び込んできた。すみれは身を大きくのけぞらせて、覗き込んでいた高橋から離れようとした。

「あ、危ない!」

 背もたれにぶつかると思っていたすみれはその感覚が来ず、そのまま後ろへ体制が崩れたことでその言葉の意味を理解した。ぐらりと体が元に戻れない位置まで来て、本を投げ出した。

「あ」

 その手を長く節ばった手が掴んだ。

――バタン!

 背中に強い衝撃が走って、すみれは息を飲んだ。だが倒れた割には頭が痛くない。大きく揺すぶられるはずの体が不思議と、安定している。すみれはゆっくり目を開けた。

「……ごめん、意味なかった」

 目の前には再び高橋の顔があった。体にかかな重みと、他人の体温を感じた。右手を長い手で握られている。高橋の左腕はすみれの頭の下にあり、その体制を理解した。倒れるのを防ごうとしたが、支えきれなかったようだ。

「頭打たなかった? 平気?」

 高橋はすみれの頭上から問いかけてくる。かすかに体が触れている状態のまま、すみれが頷くと、高橋はすみれの上から起き上がった。握られたままの右手を引かれ、すみれも起き上がる。視界が上がって、ワンピースの裾がめくれているのが一番に目に入った。

「……っ!」

 すみれは慌ててスカートを押さえた。辛うじて下着が見えるようなことはなかったが、高橋は分かりやすく顔をそむけていた。

「ごめん。その……いろいろと」

 すみれは高橋に小さく「いえ」と言ったきり黙り込んだ。体が少し痛かったが、それ以上に心臓が早鐘を打って痛かった。

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