三枚目
すみれは、ぐったりとベッドに顔を沈めていた。制服を雑に脱ぎ捨てて、寝間着のネグリジェを被っただけの恰好だ。入学式は二時間程度だったものの、すみれはすっかり疲れ切っていた。それは後ろの席になった彼女の所為でもあり、終始目立ってしまっていた父の所為でもあった。
結局母は式が終わる寸前に駆け込んできた。ガタガタと音を立てて入ってきた母は、周囲の目も気にせず、すみれを探していた。すみれは司会者の目を盗んで、母に軽く手を振った。気づいた母は、安心したように微笑んだ。父の隣へ腰かけた母を見守って、すみれは後ろをチラチラと見ていた。後ろの席の愛奈に暖かく微笑まれるまでは。
教室に戻るとまた長い説明と、あいさつがあった。それが終わって、ようやくすみれは一息つけた。
それでも、両親と合流して帰る途中、何度か感じた視線は酷く居心地の悪いものだった。父も母も整った顔立ちをしている所為か、外を一緒に歩くと、すれ違う人々の視線が気にかかる。
――外出るの、疲れる
友達が少ないことも加担しているが、すみれは休日のほとんどを家の中で過ごしていた。学校に行くために、外へ出るだけでも気が滅入る。
――あの子……明日もまたからんでくるかなぁ
すみれの中で愛奈はすっかり面倒な相手になっていた。深い溜息と共に、すみれはゆっくり眠りについて行った。
入学後、すみれは気分が激しく滅入る行事を迎えた。真新しい白い体操着。四月の涼やかな気温の中、薄着で校舎内を歩かされる。さまざまな身体検査を受け、最後に一番嫌なものが来た。
「体重測定か……大丈夫、増えてない。測定の日に限って増えてたりしない」
隣で愛奈がぶつぶつと、体重計に向かう列の中でつぶやいた。すみれは別のことで頭がいっぱいだった。先に体重を量り終え、別の列へ移っていく。後から出てきた愛奈はどことなく納得がいかないような顔でつぶやいた。
「服分は抜いてって言ったのに」
――引いてもらえなかったのか
愛奈の言葉に、すみれは考えていたことのほかにも重要なことがあったのを思い出した。が、たいして後悔することもなく、目の前の無骨な器具を睨む。ところどころ色のはげた青くて長い鉄に鉄の板。白い足跡に合わせて台に乗り、板を押し付けられ、身の丈を測られて、発表される。すみれにとって一番嫌な行事かもしれない。
前の子の測定が終わり、すみれの番が回ってくる。苦い顔のまま前に出る。冷たい鉄板に足を乗せて、背を向ける。向かっていくときに測定をしていた若い先生が、背伸びをして測定器を高く伸ばしたのが、少なからず不快だった。
「ひゃくろくじゅう……きゅう」
男の先生はゆっくり数字を読み、名簿をとって記録し始めた。すみれは苦い顔で測定器から降りて、その数字を頭の中で反芻した。
――また伸びた
中学生の最後に測った身長から約二センチほど伸びていた。成長はまだ止まってくれていないらしい。苦々しくすみれは溜息をついた。
一週間程度のレクリエーションが終わる頃には大抵、人間関係が出来上がっているものだろうと、思うが。すみれの周りには愛奈一人だけだった。
「どしたの、そんな険しい顔しちゃって?」
愛奈はすっかりすみれの友人という位置に座り込んでいた。人間関係を築くのに自信がないすみれとしては、話をできる相手がいるのはうれしいことなのだが、特定の人物と付き合うことで、他の人との付き合いがしづらくなることがあるとは知らなかった。
「……私が、いや、私たちがなんて呼ばれてるか、知ってる?」
すみれは重たいトーンでようやくその質問を口に出した。この一週間でクラスの大体の人の名前と顔を覚えることはできた。それは他の人も大方そうなようだ。
「え? んー……私が知ってるのは、『高嶺の花組』『近づいちゃいけない二人、ビジュアル的に』ぐらいかなぁ」
「……二個目のは知らなかった」
――知りたくもなかった
すみれは愛奈の答えにがっくりと肩を落とした。こうして教室で話をしている間にも、二人の周りには誰も寄ってくる気配がなかった。運悪く、すみれの席は教室のど真ん中、教卓の目の前だ。入学初日からすみれが愛奈と話して(一方的に話しかけられて)いるのを見ていたクラスメイト達は、すみれと愛奈の仲がいいのを思い込んで疑わない。
「主に女子がそう言ってるかなぁ。『見劣りするからぁー』とか言ってたけど」
愛奈はすみれとは違った系統の美人だった。童顔というのも微妙だが、可愛らしい顔立ちをしている。初めはメイクでもしているのかと思っていたが、聞けばすっぴんだと言うから驚いた。
――そういうのを見極めるのには自信があったんだけど
母親が詳しいのもあるが、自分も昔は化粧をしてもらってカメラの前に立った人間だ、知識はある方だろうと考え込んでいた。
「そんなこと気にせず、話しかけてほしい」
すみれと愛奈を囲むようにスペースが開けられ、他の生徒は遠い所に陣取っている。たまに視線がこっちを向き、気にしないようにするのには多少時間が掛かった。高校に入って、思惑通り知り合いは誰一人としていなかったが、だからと言って友人が簡単にはできないらしい。
「実際来られたら困るくせに」
笑いを含めた声で、愛奈が言う。確かにその通りだった。いくら容姿が他と違っていようと、誰かしら声を掛けるものだ。それなのに、すみれに他の友人がいないのはしっかりした理由がある。
「話しかけられた瞬間緊張で顔が険しくなるし、声が出てないから低く聞こえるし、返す言葉も短いしー……難しいんじゃない?」
愛奈がからかいを込めて笑っている。すみれは少しむっとしながらも、それが冗談の範囲であることを知っているため何も返せない。
「ど、りょくはしてる」
「でも、実ってない」
愛奈はかわいらしい見た目に反して、はっきりものを言う性格らしかった。クラスメイトに話しかけられたすみれに、助け舟を出してくれたりもしたが、それが余計にこの孤立状態を産んだともいう。
「冷たく見えるんだよ。私もだけどさ。……しばらくは私相手に練習すれば? しゃべるの」
にこにこと人のいい笑みを浮かべている愛奈だが、彼女自身には会話をする友人もいる。ただ、何故だかすみれといることの方が多い。
「慣れたら話しかけていけばいいんじゃない? 私は面倒だからしないけど」
「……なんで? もう友達がいるから?」
話しかけてくれるのはうれしいのだが、すみれからすれば疑問だ。愛奈はその問いに、にっこり笑って見せた。
「だって、私と同じくらいの美人って、すみれくらいでしょ? 一緒にいるのは綺麗な子のがいいじゃない」
彼女には彼女なりの美学があるらしいことは既に知っていたが、それ以上に独特な感性を持っているようだ。
「友達……できるかな」
すみれの問いは空しく人々の笑い声の中に飲まれていった。
ぎっしり教科書の詰められたカバンを落とした。鈍い音がした。足には当たらなかったが、きっちり並べられた中身はぐちゃぐちゃになっただろう。すみれは家の前に立っていた人物を見た途端に、体が硬直した。先日見たふわふわの茶髪が、今はまっすぐに肩にかかっている。
玄関を見つめていた彼は、音に肩を震わせるとゆっくり振り返った。彼はすみれを見て少し驚いたように目を見開いた。
「おかえり」
ふっと口角を上げて、彼は言った。すみれはその声にはっとして、カバンを拾った。
――え、なんでいるの!?
すみれは頭を下げながら、思った。隣人とはいえ、彼が家を訪ねてくることはなく、珍しいことだった。まして、すみれが彼と鉢合わせることはまずなかった。引っ越してきたその日に、母が共働きで昼間はほとんど誰もいないのを言っていたからだろうが。
「学校お疲れ様。回覧板、渡しても大丈夫?」
彼は首をかしげて言った。よく見ると手には見慣れた緑のボードを持っていた。すみれは小刻みに頷き、速足で彼に近づいた。彼はTシャツにカーディガンを羽織ったラフな格好だった。手が届く距離まで近づくと、すみれは彼が自分より少しだけ、背が高いことに気づいた。
「はい。夜に来ようかとも思ったんだけど、もしかしたら君が帰って来てる頃かなぁって思って」
回覧板を受けとると、彼はすみれをじっと見て話し始めた。すみれはどう反応したらいいのかわからなくて、また硬直してしまった。彼は小首を傾げてゆっくり口を開いた。
「あのワンピースは作れた?」
すみれは一瞬何を言われているのか、理解できなかった。彼はすみれの答えを待っているのか、しばらく黙っていた。彼の目を見ているうちに、すみれは彼が先日のデザイン画のことを言っているのだと気づいた。
「あ、えっと……ま、まだ途中で」
初めてデザインを起こしたワンピースは、まだ出来上がっていなかった。母にデザイン画を見せると、自分が描いた方ではなく、彼が描いたデザインの方が好評だった。彼が描いた絵をまねて描いたものを母に見せた。母はすっかりすみれがデザインした物だと思い込んでいる様子だった。
「そうなんだ? 縫っているところ? それとも布を選んでるところかな?」
彼は少し早口に尋ねてきた。あの日から一か月近くが過ぎていたが、すみれはまだ素材を集めきれていなかった。生地に望んでいた薄ピンクを探すのに、数件店を回り、袖口や裾に付けるレースをいくつかそろえてみたが、どれにするか決めかねていた。
「そっか……よかったら見せてもらってもいい? あの絵を見てから、服作りに興味が出ちゃって」
迷っていることを告げると、彼は恥ずかしそうにはにかんだ。すみれは胸が高鳴った。だが、ふと、違和感を覚えた。
――絵を見せただけだよね……作るなんて言ったっけ?
デザインを直してもらいはしたが、すみれはあの時、服を作るなんて一言も言っていないのだ。
「え、と。どうして、あのワンピース作ると思ったんですか?」
すみれが恐る恐る聞くと、彼は意外そうに黙り込んだ。
「あー……ごめんね。奥さんがよく君の話をしていたから、てっきり」
母の職業柄、すみれ自身もそういったことができると思われていたらしい。
「ごめんね? 迷惑だったら、言ってくれていいから」
彼は慌てて弁解し始めた。口があわただしく開閉し、なんと言ったらいいのか悩んでいるようで、目じりが下がり、情けない顔になった。だが、それがどこか魅力的で、すみれは軽く口角があがった。
「平気ですよ。私も服を作るのは初めてなので意見がもらえるとうれしいです」
すみれは回覧板をぐっと胸に抱き、微笑みかけた。
意見がほしい、とは言ったが、どうしてこういうことになったのか、すみれは未だに理解しきれなかった。布といくつものレース、デザイン画を抱えて、すみれは彼の家に居た。彼がよく居た大きな窓の部屋に、すみれは通されていた。部屋の中はイーゼルや絵具が雑に片付けられて、開けられたスペースに鉄製の丸テーブルが置かれている。すみれは荷物をテーブルの上に置いて、彼が戻ってくるのを待っていた。
――お茶を入れてくるって言ってたけど
『じゃ、家においでよ、今日は奥さん遅いんでしょ?』
――なんで知ってるんですか!?
どうにも母は彼によく話をしているらしい。彼は悪気のない笑みで言ってくるので、すみれは断ることがどうしてもできなかった。部屋に荷物を取りに行って、家を出ると彼はにっこり笑って出迎えてくれた。それを見て覚悟を決めるしかないと、すみれは苦笑いをしつつ思った。
「よっと、おまたせー」
扉を片手で開けて、彼が部屋に戻ってきた。お盆に乗せたグラスをテーブルに置いて、反対側の椅子に腰かけると早々に、すみれが描き直したデザイン画を手に取った。
「あ、僕が描いたの採用してくれたの?」
彼は驚いたように絵を見つめていた。すみれは少し恥ずかしくなって、小さく頷くだけにした。すみれは彼が嬉しそうにしているのを見て、さらに俯いた。
ペラペラと紙をめくる音だけが響いて、すみれはテーブルの上に置いた薄ピンクの布と、レースを彼が組み合わせていくのを見ていた。しばらく彼は黙ってそれらを眺めていた。
「あの、どうして、あの時……」
すみれは彼に問いかける。ずっと気になっていたことを。
「アドバイス、くれたんですか?」
服を作ることに悩んでいたすみれは、結局彼の絵のおかげで行動を踏み切れた部分があった。すみれがじっと彼を見つめていると、彼は不思議そうな顔で首を軽く傾げた。
「どうしてって……『ああ、この服を作って着るんだなぁ』って、思ったから。どうせ見るなら似合ってる方がいいでしょ? こうした方が似合うだろうなーって思って。……勝手に描いたの、やっぱり怒ってる?」
彼は至って普通の答えだと思っているようだった。
――思っても普通描かないよ
すみれは彼の問いに首を振りながら考えた。拾った絵の持ち主を見ただけで、そこまで考えが行き着くのもすごいとは思うが、行動にうつしてしまうこともいろいろな意味ですごいと、すみれは驚きと呆れを含んだ感想を抱いた。
「君が走って帰ったのを見て、『やっちゃったかな』と思ったんだよね。……僕、突飛なことをよくするらしくって。それで怒られたりするから、君も怒ってるんじゃないかと思ってたんだ」
彼は恥ずかしそうにはにかんだ。すみれは自分より年上の彼がそんなことを気にしているのが、なんだかおかしかった。
「わ、笑わないでよ」
思わずすみれが声を出して笑うと、彼はまた恥ずかしそうに言って顔をそむけた。すみれはワンピースのイメージを彼と話し合い、レースの組み合わせを決めた。彼は色彩についてすみれに詳しく教えてくれ、ワンピースは一層上品なデザインになった。初めは緊張や混乱で、さほど話は弾まなかったが、彼の気さくさから自然とすみれも肩の力が抜けるようになった。
話し込んでいるうちに外はすっかり暗くなっていた。すみれは窓ガラスが叩かれた音でそれに気づいた。
「お、お母さん!?」
すみれは椅子から立ち上がって、窓の向こうでにっこり笑っている母を見つめ返した。彼も慌てて立ち上がり、窓へ駆け寄った。母はそれをにこやかな表情で見てはいたが、何か言われるのではないかと思うと、冷や汗が止まらない。
「ごめんなさい、お邪魔しちゃってたんですね」
母は軽くお辞儀をして、彼とすみれを見た。
「いえ、こちらこそ、すみません。こんな時間になっているのに気付かなくて」
彼は首を振って母に頭を下げた。すみれはテーブルの上に広げていた荷物を簡単にまとめて、母の元へ駆け寄った。
「ごめんなさい。服のことで、相談に乗ってもらってて」
だから、彼は悪くない。すみれが言うよりも先に、母はすみれを軽くにらんだ。
「あんまり迷惑かけちゃだめよ。ほら、高橋さんにお礼言って」
すみれは母の言うとおりに、彼にお礼を言って家を出た。母は別段怒っているわけではないようだった。
「お世話様でした。……また、何かあったらよろしくお願いします」
靴を履いて、玄関から出ると、母は彼にそういって頭を下げていた。
「いえ、お世話なんてしてませんよ。僕がお嬢さんの服作りに口出ししちゃってるだけで」
彼は申し訳なさそうに首を振っていた。
――迷惑、になっちゃうのかな
すみれは、心配になって彼を見た。母と一緒に高橋邸を出ると、彼が窓から身を乗り出しているのが視界に入った。
「……服、出来たらお見せしにきますね!」
すみれは、何か言わなくてはいけない気がして、そう言った。母が先に玄関前で待っているのを、彼も見ていたが、彼は嬉しそうに笑っていた。