二枚目
掃除道具を片付け終わってふと、すみれは窓の外を見た。母の仕事部屋からは車越しに隣家が見える。一階からではあの大きな窓は見えない。
――絵、か
すみれは絵を描く自分を思い浮かべて、首を振った。母の手先の器用さを少しくらいもらえればよかったのにと言うくらい、すみれは不器用で絵も下手だった。
――ない、もっと簡単なこと
そこまで考えて、また首を振る。『得意な何か』が、簡単なことではダメな気がした。
すみれは椅子に座って、ぼんやり部屋の中を眺めた。壁一面に作られた本棚には、母の蔵書が並ぶ。そのほとんどがデザインやファッションに関するもので、一部は雑誌であったりする。すみれが好んで読む小説などはここにはない。
「……おしゃれ、か」
母の口癖を思い出す。背が高く、同年代が好むような服が着られないすみれに、それでも母はそう言って聞かせた。
『女の子なんだから、おしゃれしなさい。女の子の特権なんだからね』
――特権
それが特別いいことだとは、すみれはあまり思わなかった。周りがかわいらしい恰好をしている分、自分はなんだかみじめに思えた。おしゃれが嫌いなわけではなかった、むしろ好きだった。でも、すみれの好みとは反対に背はぐんぐん伸びた。かわいらしい服もすぐに着られなくなった。
――いつも、私だけ
浮く存在だった。私服の時は特に。背が伸びるにつれて、どうせかわいい服を着れないのだからと服装はシンプルになり、デザインよりも機能性を重視するようになった。
寒がりだから、暖かいように何枚も服を着て、鏡に映った姿は背の高いだるまのようだった。それでも仕方ないと思って、誰に何を言われても気にしないようにしてきた。
「だって、しょうがないもの」
すみれは本棚の一部に並べられた薄いカタログを手にとった。まだ背も周りと同じくらいで、おしゃれを楽しめていたころの自分が載っている。
――このころには戻れないもの
笑顔で写っている自分の姿は、今の自分とはだいぶ違っていて、別人のようだった。
本棚の中でも色が変わりいくつもの傷が出来ているものを手に取った。背表紙もかすれ、文字はうっすらとしている。母が大切にしている本の中でも古く、思い入れのあるものらしい。今でも勉強した名残がある。さまざまなところに付けられたままの付箋、余白部分に書き込まれた文字。母が真剣に取り組んでいたことがわかる本だった。
すみれはバラバラとページをめくる。何度か手に取ったことのある本だが、じっくり読んだことはなかった。
――やることないしな
すみれは本を手に、椅子へ腰かけた。もうすぐ卒業式を迎えるすみれは、空いた時間をすっかり持て余していた。
初心者向けと銘打っているだけあって、挿絵も多くわかりやすい内容になっていた。すみれは教科書ほどの厚さの本を、三十分ほどで読み終えた。読み終えた本をゆっくり本棚に戻し、ぼんやりと眺める。背表紙を読んで、本を引き抜く。本屋で衝動買いをしそうになっているときのように、すみれはうろうろと本棚の前を歩いた。
「……『着たい服がないなら作ればいいじゃない!?』」
背表紙のタイトルを読み上げ、すみれはその本を手に取った。暇はつぶせそうだった。
窓を開けていると桜の花びらがどこかから飛んできた。すみれは手を止めて、それを掴んだ。ぼんやりとその感触を確かめて、またペンを走らせた。
机には母の書斎から持ってきた本、線の引かれていない紙、書き終えたデザイン。それらが散乱した机の上で、すみれは服を作ろうとしていた。
――簡単なのなら、一着くらい
にわかに本のタイトルに惹かれてやり始めたことだが、これがなかなか難しい。平面と立体の差につまづき、一人ではとても無理だろうと早々に母へ相談した。雑誌を読んでいた母はブラウンのくせっ毛を手で梳き、すみれを凝視した。
『え……あんたが? なら、着たい服をまず描きなさい。話はそれからよ』
思っていたよりもあっさりした返事で、すみれは拍子抜けした。それから数日、言われた通りに着たい服を考えては描いているのだが。
「……下手だなぁ」
自分でも呆れるほどに絵が下手だ。思った通りにはまったく描けない。着たい服のイメージは大体あるのだが、うまくまとめることができない。
――かわいいのは……やっぱり浮くだろうし
そう思って描き出したシンプルなデザインの服は、手持ちの物とたいして変わらなかった。それでは意味がないかと、思ってはそれを端へ置く。かと言って、かわいらしいものを描くと、どうにも違和感があって納得いかない。
――私、何が着たいんだろう
すみれはぼんやり窓の外を見ながら考えた。今のところ、一番出来がいいのはワンピースだった。背があるせいで、探すのが大変な服の一つだ。ロングワンピースならある程度大丈夫なのだが、短いものだとサイズが合わない。自分で作ることも考えて、飾りは少なめだが、レースを取り付けた薄ピンクのワンピースを描いた。
――このくらいなら、似合わないことも、ないと……思うんだけど
フリルやリボンの多い服はどうにも『服に着られている』感じがしてしまう。すみれは顔立ちも『大人っぽい』と言われる部類に入るので、なおさらだった。色やデザインはかわいらしい感じだが、シンプルな形とスカートの長さでそれを抑えれば、自分にも着られそうな気がする。
「よし」
すみれはこれにしようと、決意して立ち上がり、椅子を机の下へ入れる。一階に持っていておこうと、机から紙を掬う。
ビュゥ、と小窓から吹き込んだ風が音を立てた。
気を抜いていたすみれは思わず肩を震わせた。拍子に指先で触れていた紙が、宙に舞う。捕まえようと思うより早く、紙はすみれの手から逃れて行った。
「はぁ」
驚きを紛らせようと、溜息をついて、すみれは手元を見つめた。
開けていた窓から、ほのかに花の香りが漂ってくる。母のガーデニングスペースが、部屋から近いからだろう。窓の外では花びらが数枚舞っていた。
真下に見えるガーデニングスペースと、両親の愛車、柵を越えた先の隣家。大きな窓の傍、適度な長さで切り揃えられた芝生の上に、白い紙が一枚、ひらりと落ちたところだった。すみれは声にならない落胆を、溜息に込めて部屋を出た。
鉄の門扉は軽く押すと、音も立てずに開いた。すみれはどうするか一瞬悩んで、庭に入った。相変わらず静かで、住人がいるのかわからなかった。庭に入ってまっすぐ行くと玄関だが、紙が落ちたのはその横の芝生だった。
――ない
すみれはそっと、芝生の上へ踏み出して大きな窓を覗きこんだ。カーテンの奥に人影があった。大きな窓の一つが開いていた。すみれは静かに窓辺へ寄った。
――不法侵入で怒られないかな?
すみれはドキドキと高鳴る控えめな胸を、服の上から抑えた。窓の縁に手をかけ、すみれは揺れるカーテンの隙間から中を覗いた。
広々とした部屋には画材と思われる物が多く置かれていた。細い脚のテーブルに手をついて、すらっとした背の高い男性が立っていた。落ち着いたトーンの茶髪は地毛なのか、肩にかかる長さでも均一な色味をしていた。白いテーブルに置かれた男性の手に、白い紙が握られていた。
「それ」
私の。すみれは状況も忘れて声を出してしまった。窓辺に背を向けていた男性は、勢いよくこちらを振り向いた。驚いたように大きく開かれた目、白いシャツに飛び散った絵具の色。部屋の真ん中に置かれたイーゼル。
「すみません。その紙、私のです」
すみれは反射的にカーテンの引かれた窓に隠れるように、身を寄せた。男性は以前見たときよりも少しやつれているような気がした。すみれの言葉を聞いて、男性はもう一度紙を見て、すみれを見た。
「風で、飛ばされちゃって。勝手に入ってごめんなさい……返して、もらえますか?」
相手の反応に、すみれはビクビクしながら喉を震わせた。男性はまだ少し驚いているような顔をしていたが、すみれを見て軽く微笑んだ。
「君が、描いたの?」
すみれは小さく頷いた。下手な絵を見て笑っているのだろうかと思って、すみれは顔が赤くなるのを感じた。
「……ここ、こうした方が似合うと思う」
彼はすみれに近づいて窓辺に座り込み、鉛筆ですみれの絵の隣にざっくりと似た形のワンピースを描いた。すみれが描いたそれと比べると、幾分か丈の短い裾のひらひらしたワンピースだった。その絵はすみれが描いたものよりも、上手だっただけでなく、かわいらしくて、すみれは彼の絵に魅入った。
「どうしたの?」
すみれが差し出された紙を受け取らないのを見て、彼は首をかしげた。黒い縁のメガネがその拍子に下へとずり下がった。すみれが紙を受け取ると、彼はずれたメガネを直してまた、軽く微笑んだ。
すみれは思わずその場を走り去った。何も言わず、走って庭を抜け門扉を抜け、家の玄関へ駆け込んだ。振り返ることもせず、扉を閉めてもたれかかってからすみれは息を整えた。
――お礼、言ってない
すみれは紙をもう一度見て、力が抜けたようにそのままずり落ちた。
――笑って……た
初めて話した隣人は、思ったより優しい声をしていた。彼から漂ってきた絵具の匂い。すみれは訳も分からず高鳴る鼓動に、膝を抱えた。柔らかく笑った顔が、しばらく頭から離れなかった。
桜が散っていた。薄桃の、小さな花びらが舞っている中、すみれは緊張をほぐすために溜息を吐いた。真新しい制服の裾を引っ張り、姿勢を正す。
「すみれちゃん、大丈夫?」
少し前を歩いていた父が、心配そうにこちらを見た。いつもとは違う、グレーのスーツは母の見立て通り、父によく似合っていた。対になるように選ばれたレディースのスーツは、母の私室にかけられたままだった。
「式には間に合うはずだから、そう気を落とさないで」
父は苦笑いで私に言った。母は仕事を途中で抜けてくる約束だった。すみれは軽く頷いて、張り出されたクラス表を見た。父と一旦別れて、教室へ向かう。
「ねぇ、さっきのお兄さん?」
階段を上がっていると、ふと後ろから声をかけられた。足音が近く、振り向くとすぐ近くに、声をかけたらしい女生徒がいた。抑えられたブラウンの髪色と、同色の大きな目、真新しいシンプルな制服を着こなした彼女はすみれの隣を歩き始めた。
「さっき、かっこいい人と一緒にいたでしょ? まさか、お父さん?」
彼女は人懐っこい笑みを浮かべて、一方的にしゃべりだした。すみれは内心に驚きと苛立ちを感じつつ、精一杯の笑顔を浮かべて答える。
「父です」
――いきなりなんなんだ
父の恰好を改めて思い出して、すみれはデジャブを感じた。
「え……マジ!? わっかいねー」
彼女は本当に驚いているようで、一瞬声を詰まらせた。父は確かに歳の割には童顔で、背は低くもないが、すみれと並ぶくらいだ。あまり似ていない父とは、少し歳の離れた恋人に見られることもしばしばだ。
「別に若くもかっこよくもないですよ」
すみれと父の似ているところと言えば、ストレートな黒髪くらいだ。嫌な事を思い出したすみれは、ぶっきらぼうに言った。
「ふーん。まぁ、自分の父親のことを言われてもそうだよねぇ」
まずいかと思ったが、彼女はたいして気にした風もなく笑っていた。すみれは言葉に詰まりながら、彼女と並ぶ形で階段を上がった。
目当ての教室まで来ると、担任になる教師らしい男性が声をかけてきた。名前を聞かれ、答えると席の場所を教えられる。後ろからついてきた彼女とはここで別れるだろうと、一応振り返る。
「秋田愛奈です」
彼女は先ほどまですみれと話していた教師に名乗り、座席表を覗き込んでいた。
「同じクラスだなんてね、よろしく!」
にこやかに笑いかけてきたのだった。
厳かな音楽が体育館に響き渡り、長い列が徐々に中に入って行く。すみれは列の後ろの方で苦い顔をしていた。教室で長い説明を受け、移動をし、しばらく待たされる。さらにこれから長い式が待っていると思うと、少なからず憂鬱な気分になる。それ以上に、悩ましいことがあった。
「ね、ね、すみれって呼んでもいい?」
すみれはゆっくり進む列の途中で、後ろから声を何度も掛けられていた。小声で適当に返していたが、短時間に何度も話しかけられ、苛立ち始めていた。
――この子、うるさいなぁ
厳粛な雰囲気だというのに、彼女のおしゃべりが終わらない。すみれは早々に辺りへ視線をそらし、気を紛らわせることにした。ゆっくりと進んでいた列は急に動き出し、体育館の入口が近くなった。
「あ、すみれのお父さん、あそこじゃない?」
後ろから愛奈が指差した。体育館の入口近くの保護者席に、父の姿があった。すみれはその隣に開けられた席が目についた。
――まだ来てない
父はすみれの姿に気づいて、苦笑いした。まだ母からの連絡はないらしい。すみれは列に続いて席に着き、静かに式が終わるのを待つことにした。この様子だと母は来られないと、すみれは諦めた。
「いっぱいだねぇ」
静かに待つのは無理そうだった。