一枚目
花粉が飛び始めた季節、すみれはマスクをつけて外に出た。中学三年のこの時期、すみれは進路も決まり暇な日々を送っていた。帽子を目深にかぶり、ベージュのコートを着て、履きなれたスニーカーでスタスタと駅までの道を歩いていく。
向かっているのは、とあるアパレルショップ。だが、友達と服を買いにいくわけではない。
駅へと歩く人ごみの中、すみれはすれ違う女性たちをチラチラと見ていた。すみれはもうすぐ一七〇センチに達する。かわいらしい服を着て、高いヒールの靴を履く彼女たちは、すれ違い様にすみれを一瞬見上げる。
――どーせ、でかいですよ
同年代どころか、年上の男性の背を越していることもあり、すみれは気まずい思いをしていた。かわいらしい服はどうにも気が引けて、着ることができない。ヒールなんてもってのほかで、一つも持っていない。その結果、すみれの服装はすごくシンプルだ。
――学生証持ってるよね?
すみれは肩にかけたバッグに、中学の生徒手帳が入っていることを確認した。電車に乗るとき、酷いラッシュ時でない限りは止められる。子供料金で改札を通って声をかけられる、あの時の悲しさといったら、堪らない。
――もうちょっとで子供料金じゃなくなるけど
高校に入ってからは、学生割引を利用するために学生証が手放せなくなるだろう。同級生たちはそれまで、こんなことなど気にしたこともないだろう。
すみれは最寄りの駅から三十分ほど電車に揺られて、聞きなれたアナウンスで電車を降りた。人ごみは苦手だ。思った方に行くのが難しいうえ、立ち止まると邪魔そうな目で見られる。賑わっている駅から逃げるように、デパートに駆け込んだ。ただ母に荷物を届けにきただけなのに、酷く疲れた。
「あ、すみれちゃん」
店に入ってすぐに声をかけてくれたのは、長年母と同じ店で働く、顔なじみの店員さんだった。母はアパレルメーカーに勤め、今は店長をやっている。
「今店長呼んでくるわね」
店員さんは明るい笑顔で店の奥へ入って行った。すみれは辺りと軽く見渡す。母はデザイナーとして会社に入ったこともあって、店内も母が考えたアイディアが多々あった。その一つに、壁に掛けられたストール。種類も豊富だが、飾られている様子がまるで一つの大きな絵のようになっている。店は三十代から四十代の母親層向けのファッションを取り扱っている。
今も数名の客が店内を物色しながら会話を弾ませていた。すみれは母が働くこの店が好きだった。すみれはお店に入るときに外したマスクを、もう一度つけた。顔を隠していると少しだけ落ち着く、この時期は花粉症で悩んでいる人々に紛れて目立たないのも利点だった。
「すみれ」
店の奥から母が出てきた。客に軽く頭をさげ、小声で話しかけてくる。すみれはカバンからファイルを取り出し、母に手渡す。
「ありがとー……助かったわ」
「それ、次の?」
ファイルの中身を確認してほっとしている母に、すみれは小さく聞いた。数日前から母が必死で書き上げた絵が、ファイルの中に入っているのをすみれは知っていた。
「そう。出来上がったら見せてあげるわよ」
母は今でもたまに服を作る機会がある。商品として店に並ぶことはあまり多くないが、完成するのをすみれは楽しみにしていた。自分の店で売ることを前提に考えているから、すみれが着るようなものではないが、それでも母の作る服が好きだった。出来上がるまではデザイン画も見せてもらえないが、それも楽しみの一つだ。
「じゃ、母さんしばらく忙しいから、すみれは先に帰っててね」
母はポケットから小遣いを出して、すみれの手に握らせた。
「たまにはおしゃれしなさいよ」
すみれは店の奥へ入っていく母を見送って、店を出た。春へと変わりつつある日、街行く人々は薄手の上着を羽織っているばかりだ。すみれは冬用のもこもことしたコートのポケットに手を突っ込んで首をすくめながら歩いた。
都心に近いその駅前は人がごった返している。時間は昼前だったが、すみれはまっすぐ家へ帰るつもりだった。駅前には母の店のほかにもアパレルショップは多くあったが、見て回る気にはならなかった。すみれは帽子を目深にかぶり直し、大股で改札へと急いだ。
再び三十分電車に揺られる。母の職場へ忘れ物を持っていくのは珍しいことではなく、すっかり慣れた道のりだ。すみれの親は昔から共働きで、一人で行動しなくてはいけないことも多かった。見慣れた風景が車窓に流れるのをなんとなく見る。すみれは母へ渡したファイルを思い出した。
デザイン画とまるっきり同じものが出来上がることはまずない。何度か出来上がった服と一緒に見せてもらったことがあるので、知っている。自分の作りたいものを吟味するための土台が、デザイン画であって、それがそのまま作れるわけでも売れるわけでもない。
すみれはふと、乗ってきた制服姿の学生たちに目を走らせた。すみれが入学する高校の制服によく似ている気がしたからだったが、その通りだった。
――シンプルなんだよね
無地の紺色のブレザー、唯一特定できるのは胸元に付けられた校章のみ。ただ、乗ってきた学生達は元のシンプルな装いとは少し違っていた。
――私服でも平気だからだろうけど
派手な色のパーカーを中に着ていたり、柄物のワイシャツだったりと、自由な着こなしをしている。制服を着ているのも数人で、一緒に話している人たちのほとんどが私服だった。それでも無地の制服は案外目立つ。電車の中には他にも学生がいたが、可愛らしいチェックのスカートや、同色のスラックスを履いた学生達ばかりだ。
――指定ソックスとストッキングの差だもん
きっちり制服を着込んだ学生と、すみれが行く少しルーズな校風の学生の差は一目でわかる。だからすみれはその高校を選んだのだが。
――楽しそう
母へ荷物を届けるようになってから、電車の中の学生をよく見るようになった。決まった格好をしている学生達よりも、自分の自由に服を着こなしている彼らの方が、すみれには輝いて見えた。さほど遠いわけでもないし、学力も問題ない。どうせならその学校に行きたいと、両親を説得して選んだ学校だ。
入学へ向けて期待が募る。だけではなかった。
――大丈夫かな
同じくらい、不安も感じていた。すみれは小・中と友達がきわめて少なかった。学校には行っていたが、たまに話をする程度で、友達と呼んでいいのかもよくわからないくらいだった。新しい環境を望んだのはすみれだが、それでも新しい友達など作れるのかと、不安を覚えずにはいられない。
――あ
すみれはなんとなく上を見上げ、車内にぶら下がっている広告が目に入った。それは女性向けブランドの広告で、モデルの顔が一面に出たものだった。その端っこに同社の子供向けブランドの写真が載っている。聞き馴染みのあるブランドがポップカラーで印刷されている。すみれはツキンと胸の奥に痛みを感じる。
――懐かしい、けど
すみれはマスクの奥で苦い顔をした。そのブランドは小学生高学年の女子に人気で、カタログを無料で配るなど、広告に力を入れている。今はどうだかわからないが、すみれが小学生だった頃はクラスの女子が、カタログを見ては騒いでいた。
――あんまり、いい思い出じゃないな
すみれは電車の中、ふと嫌なことを思い出した。近づいてきた最寄り駅の名前に席を立った。もう学生達はほとんどいなかった。
家に着き、マスクを外してコートをハンガーにひっかける。すみれは部屋へ行く途中、窓の外を見た。少し奥まったところにあるすみれの家は洋風の佇まいで、すみれの部屋がある二階の廊下には大きな窓がある。そこからすみれは隣の家を見た。母の趣味で設けられたガーデニングコーナーの奥に、数か月前に完成した家を覗く。
――今日も、いる
その家には若い男性が一人で越してきた。母がそれに驚いていたので、すみれは窓からその家を見るようになった。長らく空地だったその土地に建った家は、道路側の一室に、天井まで来る大きな窓があった。風に揺れるカーテンの隙間から、中の様子がうかがえる。
――また描いてるんだ
住人の男性は窓辺にイーゼルを立て、筆を走らせていた。たまに見かける男性の顔は、長めの茶髪に隠れてまともに見られたことがない。
登校する時にはカーテンが閉められ、帰ってくると、たまに窓辺でイーゼルを立てている姿を見かける。男性との接点と言えばそれくらいで、話をしたことはなかった。母の話しでは、画家らしい。職業柄の所為なのか、外出時の姿を見たことがない。
――どんな絵描いてるんだろう?
すみれは男性が家にこもって描いている絵に興味があった。
――一生見ることなんてないかもしれないけど
「ごっめーん」
受話器から聞こえてくる声にすみれは事情を大体把握した。
「子機に変えるから待ってて」
相手の返事を聞かずに、慣れた手つきで、すみれはボタンを押し、その場を離れた。リビングから出て、向かいのドアを開ける。母の仕事部屋は父も書斎として多少使っているが、置いてある物のほとんどが母の物だ。日常的に使っているのも母で、片付けが苦手な母の性格そのままに部屋は散らかっている。
「で、今日は何忘れたの?」
すみれは仕事部屋にある机の上から子機をとり、電話の向こうの母に聞く。またこの前ように何か仕事に必要なものを忘れたのだろう。
「ちょっと、人の話聞いてた? 今日は忘れ物じゃないわよ。遅くなるから、先寝ててねって」
予想に反して、母の声は暗くなっていた。
「……わかった」
違ったのか、とすみれは少し恥ずかしくなって小さく答えた。母はそれを聞くと「じゃあ、切るわよ」とすぐに電話を切った。母の声の後ろではにぎやかな音楽が鳴っていた。
――今日、見本ができるって言ってたっけ
前に届けたデザイン画から服の見本が、できて会議にかけられると数日前に言っていたのを、すみれはなんとなく思い出した。
――部屋にもいっぱい絵があるのに、見本ができるのだって一着だけなんて
すみれは部屋を見渡す。そこら中に置かれている紙には走り書きのメモに、隅の方に描かれた小さな絵。これらの中から練ったものを絵に起こして、形になって、人の意見を聞いて、完成していく。長い工程だ。
「私も、こんな風に……」
落書きのような、輪郭のはっきりしない絵を見て、すみれは漠然と思った。
――何かに、夢中になれたらいいのに
パシャパシャとシャッターを切る音、その的が自分。今だけは、皆が見ているのは自分だと、小さな優越感を抱いてポーズをとっていた。薄いカタログのたった一ページにも満たなくても、自分の写真が載る喜びを感じていた。
『お母さん、このお洋服かわいいね』
母が勤める会社の、キッズ用の服を載せたカタログを見て、そう言ったのがきっかけだった。少し驚いた様子の母は、ゆっくり口を開いて言ったのだ。ぎこちない笑みを浮かべて。
『すみれ。そのお洋服……着てみない?』
幼かった私は深く考えもせず、喜んで頷いた。母は笑っていたと思う。
それから、私はキッズモデルを始めた。母に連れられて行ったスタジオにはたくさんの大人と、同じくらいの歳の子供が数人いた。いろんな服を着て、カメラの前に立つ。初めの緊張はすぐにどこかへ行って、私は何度もカメラの前でポーズをとった。
ある日、小学校で友達がカタログを広げているのを見て、私は息を飲んだ。母がよく持って帰ってきてくれたカタログ。自分がモデルをしている物だと、表紙を見て気づく。教室に入って固まっている私に、友達たちが言った。
『すみれちゃん、すごいね』
ドッドッと胸を叩く音が激しくなって、暑いわけでもないのに汗が噴き出た。かわいらしいブランドの服を着て、毎日凝った髪型をしてきていた彼女たちは、私が載っているページだけを綺麗にはさみで切り刻んでいた。
周りの自分を見る目が変わったのを、胸の痛みと共に知った。
バサバサと紙の山を崩しながら整理して、おおざっぱに分けて机や棚に置いていく。
――ただのおしゃれ好きじゃなかったから
昔のすみれはあまり敏感な話題じゃなかったが、モデルとしてカタログに載ることは女子たちの夢だったのだ。それを願って奮闘していた親子も多かったらしい。
――お母さんがデザイナーなのもいつの間にか広がってたし
すみれは話した覚えがなかったが、気づけば周知の事実だった。幼いながらも夢を追いかけていた女子たちから見れば、すみれは『調子に乗っている』らしかった。いじめが段々表面化してきて、怪我をするようにまでなって、大人たちはようやくそれに気づいた。結局、すみれは中学に入るまでの一年半、モデルをしていた。
――やめてもあんまり変わらなかったなぁ
別段遠くの中学に入るでも、受験をするでもなかったすみれは多くの顔なじみと共に中学生活を送った。違う小学校から来た子たちにも噂が広まり、すみれはどこか孤立していた。
――いじめは減ったけど
いびりはことあるごとに言われた。すみれは友達を作るのをとっくに諦めていた。学校へ行って、授業だけ出て帰ってくる。学校以外は家に籠って本を読んだりして過ごした。
――本当は行きたくなかった
そういったことに疲れて休むと、共働きの両親を心配させた。自分がなんとかしなくちゃいけないとわかっていたすみれは、それが申し訳なくて休むこともできなかった。
「っと……」
床全体が見えるようになって、すみれは入口に立てかけていた掃除機を手に取った。昔から時間があるときは家事を手伝っていた。母の仕事部屋の掃除は覚えることが多かった。捨ててもいいもの、残しておくもの、どこに置くか、どう部類するか、適当に部屋を片付けていく。
――あんまり思い出ないなぁ
小学校も、中学校も、いい思い出はあまりない。隠れるようにして過ごしていたから、思い出自体もあいまいだ。だから、自然と高校への期待が高まる。
――あんまり話題もなかったし
誰とも話をしなかったわけではない。話しかけてくれる子もいた。けれど、どれもあまり長続きしなかった。すみれはすっかりどんな話をしたらいいのか、どんなことをして遊べばいいのか、わからなくなってしまっていた。
――得意な何かがあればいいのに
そうすれば多少は話題ができるような気がしていた。すみれは掃除の疲れだと言い聞かせるように、深い溜息を吐いた。