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ブルキエ

作者: 名取能貫

 店主は、今までつつがなく受けて来た定例の依頼契約を、「気分が悪くなった」という個人的な理由で打ち切ってしまおうとした事がある。

 〈赤き戦斧亭〉という宿酒場インでは冒険者斡旋業もしており、その業者アドベンチャーキーパーの資格を、エシッド王国から王都エシッディア冒険者ギルドを通して免許されたのが、〈赤き戦斧亭〉の店主を務める大女アーグステ・ズブレッツィであった。

 冒険者の花形と言えば冒険、つまり見知らぬ土地へはるばると旅し、古めかしい遺跡か何かを攻略して帰ってくる――といったところである。一度の大冒険での一攫千金。

 しかし実際のところ、普段の冒険者斡旋業者が請け負うのは期間を定めての定期的な冒険者人材の提供、冒険者達へ差配する依頼の中では定例の依頼がなかなかの割合を占めている。例えば馬車の定期便の護衛がそれである。

 こうした定例の依頼の内の、ある一つを店主は衝動的に打ち切ってしまいたくなった。結局そうはならなかったものの、当の店主にとっては後味の悪い思い出として記憶されている。それはブルキエというドワーフ娘のせいであった。


 ブルキエことブルカルダ・レデルヘンは、ハイケという王都エシッディアで記者をしていた女の娘である。

 ハイケは友人の婚姻をきっかけに子どもを授かる事を願うようになり、すぐに故郷の片田舎アーハリェの町へ戻った。ハイケは同族の男グントベルトと結ばれた。しかしグントベルトは結婚後も鍛冶に血道を注ぎ、ハイケに興味を示さなかった。彼にとってはドワーフらしさの象徴である鍛冶の道が全てであった。妻ハイケの事も、当人の結婚願望と押しの強さ、また周囲が無責任に婚姻を推し進めるのも煙たがったがために、面倒を手早く終わらせたくて折れたのに過ぎなかった。それでも彼がハイケとの間に子供を作ったのも、鍛冶というドワーフの魂の継承者が欲しかったからだろう。

 こうして生まれたのがブルカルダ・レデルヘンであった。ハイケは娘をブルキエと呼んで可愛がった。

 しかしハイケは、夫の仕事の邪魔をしないよう気遣うふりをして、ブルキエを鍜治場に近づけなかった。それどころか陰で夫の陰口を叩き、それをブルキエに聞かせていた。確かにグントベルトは良い夫である――つまり、稼ぎはまあまあで、自分の事を束縛しない。しかし彼のいかにも典型的なドワーフの中年男という伸び放題の髭をいい加減に編んでいるのも、いつも鍜治場の炉の煤で全身を真っ黒にしているのも、王都での暮らしを知っている彼女には耐えがたいほど不格好に見えた。

 ハイケ・レデルヘンの見てきたと言いふらす王都の姿とは、実際に現地で暮らしてきたと言い切るにはいささか表面的なものだった。彼女は王都の街並みのうち絢爛なところしか見ていない。革新的な新市街を歩いた時の事を「歴史ある旧市街を見て来た」と言って回っているくらいなのである。彼女は記者だった。当然取材をするのが彼女の仕事であるので、王都の中でも取材相手の仕事場の大きな店舗、白緑町はくりょくまちと俗称される上流階級街に建つ貴族の屋敷へは何度も出入りをしても、俗世間的な地域は東部の海近くにあるアプフェラーの大市場すら行った事が無かった。普段の暮らしも、彼女の所属する〈ニュース・ウィンドブローイング〉の所有するホテル的に整った社宅的な建物の客室で、世間離れしていたと言っていい。

 結局は何も知る事の無かった彼女だが、一つだけよく学んでいた事があった。都会での言葉である。

 公正契約語ネヴァヴラハとは、交易・商談や、領主や国同士の公的な取り決めのために使われる言語である。人工言語であるためどの種族・どこの地域の言語というものではない。会話をする誰のものでもない言語でこそ、〈えこひいきの無い(ネヴァヴラハ)〉公正なやり取りが出来る、という考え方から生まれた多くの人工言語のひとつであった。

 ただ、普段からずっと公正契約語ネヴァヴラハで取材相手から話を聞き出し、話し続けていた彼女は、この公正契約語ネヴァヴラハを、

「これこそが、都会での話し言葉、都会の都会たる証。偉い都会の方々はみんな、普段からこれで話をしているのよ。いい、ブルキエ? 田舎の言葉よりもずっと役に立つ言葉なの……」

 と取り違え、思い込んでいた節があった。

 こういう親の元に生まれたブルキエは、当然ハイケの影響を強く受けて育った。

 ハイケは幼い頃からブルキエに公正契約語ネヴァヴラハを教え込んで育てた。家の中で娘とは必ず公正契約語ネヴァヴラハで話し、外でも自分との会話には娘に必ずそれを使わせた。都会の者並みに流暢に公正契約語ネヴァヴラハを覚えさせるためであった。親以外とは、公正契約語ネヴァヴラハではなく周りと同じドワーフ語で話すように言われていた。当然ながら町民はみなドワーフであり、彼らの母語もまた種族語であるドワーフ語であった。

 ブルキエは物心ついた時から手習いのために、地元アーハリェの小さな神殿に通って奉仕活動をしていた。ブルキエは当然司祭ともドワーフ語で話した。しかし母ハイケが迎えに来ると公正契約語ネヴァヴラハで家族同士の話をするので、

「まあブルキエちゃん、公正契約語ネヴァヴラハが話せるんですね? すごいですねえ。お母様も公正契約語ネヴァヴラハがお分かりになるなんて……」

 と司祭達がブルキエをたびたび褒める上、母親にもお世辞を言うので、ブルキエは幼いながらにそれが得意な気持ちになっていた。これが彼女の性格形成の中枢となっていった。

 彼女が七歳の頃、ある一台の馬車が町に現れた。母ハイケも司祭も、街中が少し騒がしくなった。

 アーハリェは穴場の景勝地・避暑地である。町の外れには整備された林を挟んで澄んだ池沼があり、その林や湖畔や小さな丘、風光明媚な自然の中で別荘が点々と並ぶ閑静な地帯となっていて、武具・防具などの伝統的な工芸品が個人の工房で細々と作られている以外ではこれが唯一の地元の誇れるものである。それらの別荘は基本的には、都会に住む何者かが生業や暦で切りの良い時分にふらりと泊まりに訪れては、数日か長くても数か月したらさっさと帰って行く、という使われ方をされるものであった。

 しかし今度の客はそうではなかった。

 ある時アーハリェの町に見慣れない馬車が現れた。それは貸し別荘の客ではなく、ある一棟をまるまる購入してマナーハウスとして改築したいという話であった。

 馬車は伯爵のマイーニェ家のものであった。噂によれば伯爵令嬢クリナラヒ・マイーニェ嬢がアーハリェに年単位で滞在するためだという話だった。

 伯爵家がそこまでしたのは、クリナラヒ嬢の療養のためだという。クリナラヒ嬢は後継者問題から命を狙われたが事あり、辛くも一命は取り留めたものの、なかなか回復しなかった。怪我は治っている。身近な親族に冷徹に殺されかかった事が精神的に響いているのだ。彼女は心身の調子を崩しやすくなっていた。

 再び自分が襲われた屋敷に住み続けていても娘の気が晴れないだろうと考えた伯爵の案によって、彼女は王都を離れて穏やかなアーハリェの町でしばし暮らし、そばの岸辺に群生する生の薬草を煎じて飲みながら横になって精神を休める事に決まった。

 この話を、母ハイケは昔取った杵柄でどこかから仕入れてきて、ブルキエに聞かせた。

 ブルキエは母親の鶴の一声で、その日から行儀見習いのためマイーニェ家の別荘へメイドとして雇われる事になった。

 手を引かれて、普段町民は足を運ばない林の向こうへ行くと、湖畔に一際大きなマナーハウスが建っており、その前に馬車が何台も並んでいた。馬車は一台だけが高貴な者の乗る箱型のキャリッジで、あとは恐らく調度品か何かを載せるためのワゴンだった。

 その脇で、厚手の布の服の上から革鎧を着こみ、麻のマントを羽織った冒険者態数人も立ってあたりを見回したり、馬車の積み荷を運ぶのを手伝ったりしているのが見えた。ブルキエが初めて冒険者というものを見たのはこの時だった。また「都会に住んでいる市民達」を見たのも初めてだった。ブルキエは彼らが何か「都会の言葉」を言うのではないかと、密かに耳をそばだてた。しかし彼らは何かを口にする事は無く、ただ馬車を警護するカカシの仕事を全うしていたので、ブルキエは内心残念に思った。

 話はあらかじめ母がほとんど通していたようで、ブルキエはすぐにマナーハウスの中へ案内された。中は豪奢だった。

 二人を案内したのは、年老いたシルフ族の使用人の男だった。尖った長い耳は柳の葉のようで、着ているものも上等な、いかにも貴族社会の一員という風の風貌だった。二人は来客室か食事室かのどちらかのような部屋に通された。彼は慇懃で礼儀正しく、また気遣いというものが全身に染みついているようで、ハイケと雇用・奉公についての打ち合わせをしている間ずっとアーハリェ住民に合わせてドワーフ語で話をしていた。シルフ語が母語らしく、その訛りがあった。 

 ブルキエはずっと疑問だった。

 ――どうしてこのおじいさんは、公正契約語ネヴァヴラハを使わないんだろう? 都会から来たはずなのに……。

 その答えをその場で耳にする事は無かった。

 まもなくしてシルフの老使用人は母ハイケとの会話を終えた。そしてブルキエの前に立ち、彼女と目線を合わせてしゃがみ、

「さあ、今度はお嬢さんとお話をしましょうか……」

 と言った。お嬢さん! ブルキエはそう呼ばれたのは生まれて初めてだったので、むず痒いやらこそばゆいやらで奇妙な心持ちだった。

「ブルカルダちゃんと言いましたね?」

 老使用人はやはりシルフ語訛りのドワーフ語で続けた。なのでブルキエも外での会話としてドワーフ語で返した。

「は、はい、ブルカルダ、七歳です」

「ブルキエさんと呼ばれているのですね?」

「はい、そうです」

「そうですか……お母さまから、あなたは今日からここで働くという事は聞いていますね?」

「はい、今朝聞きました。えーと、病気のお嬢様のお世話をするって聞きました」

「そうです。お嬢様は体が良くなるまでの間しばらくは、ここアーハリェでお暮しになります。ですのでブルキエさんにはこのマナーハウスに住み込みで働いていただき、身の回りのお世話やこまごまとした雑務の他、お嬢様のお話相手にもなっていただきたいのです。ここで働くのはブルキエさんだけではありません。他の使用人も王都の屋敷から来ますので、難しいお仕事は彼らがしてくれます」

「お爺さんはここで働くんですか?」

「私は残念ながら、王都のお屋敷の伯爵閣下に仕えている身ですので。しかし時折お嬢様のご様子をうかがいにこちらへ参りますよ。我々がいない間はブルキエさんがお嬢様のご様子を見て差し上げていただけますね?」

「は、はい、分かりました」

「それでは、一つ、確認しなくてはいけない事がありまして……ハイケ・レデルヘン様からお話は伺っております。疑うわけではありませんが、言葉遣いなどを念のため。万一の失礼があってはいけませんからお嬢様にお会いする前に――」

「あら?」

 老使用人が話している途中で、割って入る声があった。小さな鈴のように静やかで、か細く、綺麗な声であった。にもかかわらず存在感があり、特別な何かを感じさせるものだった。

 この声にブルキエは強く反応した。

 ブルキエと一緒に、老使用人も慌てて振り向いた。

「お、お嬢様――」

 入ってきていたのは、二回り、三回りほど年上のシルフの若い女性だった。シルフ族の特徴をさらに誇張したような、背の高く、そして非常に華奢な体つきだった。耳もまた長く細く、つば広のシルフ帽でも耳の先が収まらないのではと思うほどであった。全く日焼けの無い肌は少し生気が無いように見え、頬も痩せていた。汚れ一つ無い真っ白な薄手のツーピースドレスに身を包み、その左肩にかかった髪は極めて長く、腰下まで伸びている。あくせく肉体労働をするために邪魔な髪を切り落とすどころか結ってまとめる必要すら無い、上流階級の習俗を素直に体現している。この女性の正体は、若いブルキエにも気づいていた。

「そんな、言葉で誰かを判断するような事があってはいけないわ、ヴィルリック。大事なのは心の中に持っているものよ――ハイケ・レデルヘンさん、初めまして、クリナラヒ・マイーニェです。そこの彼女がお子さんですか?」

 クリナラヒ嬢は小さく礼をしてから、開いた手でブルキエの方を指した。

「ブルキエちゃん。今日からお願いね……」

 彼女はブルキエに微笑んだ。

 ブルキエはこの時の事を一日たりとも忘れた事が無い。彼女は生まれて初めて、都会の市民が話す本物の公正契約語ネヴァヴラハを耳にしたのである。



 それからブルキエは、マナーハウスに住み込みでクリナラヒ嬢の面倒を見て働く生活を送る事になった。

 クリナラヒ嬢は時折湖畔まで出歩く日もあったものの、一日中寝たきりのまま暮らす事も少なくなかった。病弱なクリナラヒ嬢は一日中屋内にこもりっきりである事が多かった。それに療養の身であるため出来る事も少ない。定期的にマナーハウスを訪れる家庭教師から魔術を習い、その術式を覚える事をのぞいては、一日の予定は無いと言って差し支えない。あとは高級な食事を少量だけもそもそと口にするか、高価な薬をいかにも嚥下しにくそうに飲み下すだけだった。マナーハウスにはブルキエ以外にも料理人や家政婦など他の大人の使用人が数人おり、奉公の前にシルフの老使用人が言った通り、まだまだ子供であるブルキエには身長や技能などの面から難しい仕事を担った。彼らは常にマナーハウスにいる訳ではなく、特に家政婦は月に一、二度来て、マイーニェ伯爵からクリナラヒ嬢に宛てた便りや伝言をブルキエに預けるほかはマナーハウスの高所の掃除などをするのみにとどまっていた。料理人は病弱な令嬢が食べるにふさわしい格式と健康の双方に気を配った料理を作るために頻繁に通っているものの、それでも三日に一度ほどだった。使用人ではないが、クリナラヒ嬢の体調を診るためにアーハリェの神殿の神官が時折駆り出されていた。

 ブルキエの仕事は、事前説明の言葉そのままクリナラヒ嬢の身の回りの世話であった。朝、彼女が起きたら料理人が作った朝食を薬と共に饗する。それが終わったらベッドを整える。その後は皿洗い、部屋の掃除、洗濯。家でしていた家事という家事をここでもこなして働いた。

 それ以外の時間でもブルキエはクリナラヒ嬢に付きっ切りで付き合っていた。ブルキエの仕事のうち、最も重要で、比重の大きな、大部分を占めるものがそれであった。それがクリナラヒ嬢の話し相手であった。退屈を紛らわせ、彼女の良い刺激となって療養生活を明るいものに保つのが、奉公人ブルキエに最も求められている仕事であった。

 彼女は朝食を取った後、朝の読書か魔術の自主学習を終えるとすぐに、

「ブルキエ、ブルキエ……」

 とか細い声でとてもうれしそうに呼ぶのだ。それを聞くや、ブルキエは必ず彼女の元へ駆けつけた。

「はい、なんのご用でしょうか」

 ブルキエは呼ばれると必ず、先達の家政婦から教わった通りにそう彼女に尋ねた。しかしクリナラヒ嬢の返事はいつも分かり切っていた。

「お話ししましょう、ブルキエ」

 毎日毎日二人だけで話していても、決して二人は飽きる事は無かった。話のタネは尽きなかった。ブルキエは都会での暮らしに興味を強く持ち、事あるごとにクリナラヒ嬢に王都についてのあらゆる事を尋ねた。身分を考えると失礼であることは頭では分かってはいたものの、そのたびに好奇心の方が勝った。クリナラヒ嬢も悪い気はしなかった。普段は家庭教師や本から教わる事ばかりなので、自分が教える側に回るのは心地が良かった。それに何を教わったかをブルキエに話として聞かせるのは復習に都合が良かった。そうでなくても、他愛の無い雑談をするのが、クリナラヒ嬢には陰鬱な療養生活で何よりの気晴らしになったのだ。その内容は些細でとるに足らぬような事であればあるほど微笑ましくて良かった。

 朝食のウェットトースト。部屋にある机の角のでっぱり。窓の向こうを不意に横切った大きな角付きトカゲの若いオス。そうしてしばらくの間、ずっとおしゃべりを二人はするのだった。それは時折昼食も忘れてしまうほどだった。


 マイーニェ家のマナーハウスに雇われてからというもの、ブルキエは得意げな事この上なかった。ブルキエは小さい頃から母親に都会の暮らしの事を聞かされ、羨望の感情を植え付けられながら育った。さらに都会で使われる公正契約語ネヴァヴラハを教わり続けていたからである。

 妖精界、特に人族領にはこういう価値観がある。言語とは話し手が何者かを示すもので、自身の根源的な自認と自尊心の源でもある。かつて人族妖精が魔族妖精に奴隷・家畜として虐げられて暮らしていた頃から、言語は当時の彼らが彼らである事を示す数少ない尊厳の保証として死守されてきたものである。人族による巻き返しを図る現代では、一度話者の絶滅した言語のうちのいくつかは再構され、起源や話者の分布などを元に種族語、地域語(地帯語・国家語・方言)などに分類された。

 その中で言語に対する認識や価値観はさらに発展し、単なる話者の定義から、話者の立場を示していると見なされるように変わっていった。言語が分類された事で、同じ者の発言でも言語によって相手が異なった印象を受け取るようになったのである。もしも相手が種族語を使っていればその種族の代弁者として、地域語を使っていれば出身地の代表として話している、という具合である。

 そこからさらに時代が進むにつれ言語は、相手の言語に合わせて話す事は敬意を示すだとか地位の低い者の行為であるとか、立場に関する様々な受け取り方がされるようになった。

 使用言語が話者の立ち位置・目線を反映するようになると、母語を等しくしない者同士が対話によって対等な関係を築く事が難しくなった。片方の言語に合わせて交わされた議論は、その言語の話者に偏った不公平な結論を出すと信じられるようになった。そこで当初は双方の母語ではない言語で会話がされた。しかし都合良くお互い共通する第二言語を有する場合は少ない。

 そこで、異なる言語の話者同士の橋渡しとなるような基軸的な言語の選定が、まだ成立して間もない人族領の各国間で議論されるようになった。

 当時の専門家や国家運営者達が国際的な議論や研究を重ねた結果、

《もとからある言語を採れば、それがいかなるものであれ、結局はどこぞかがその成り立ちのしわ寄せを被り得らむ。畢竟、云わば〈母語話者のない〉言語でなくては、国際におしなべる言語として、とてもふさわしからじ》

 という身も蓋も無い結論を迎え入れるに至った。すなわち、人族全体が等しい立場で共有可能な、公的な取引・通商に堪える言語を新たに作り出す必要性があった。この社会的命題が一時期は人族領全体を凄まじい勢いで駆け巡り、多種多様な人工言語が提案されては廃れた。

 公正契約語ネヴァヴラハは、その中で最も成功した言語と今では断じて差し支えない。現在ではほとんどの人族国家が採用しており、都市部では貧民街を除いて大体通じると言って良いほどである。都会に住む市民のうち、一定以上の経済力のある家のほとんどが、覚えられるかどうかは別として、神殿か私塾で学ばせていた。ただしその発達経緯から母語話者だけはいないし、哲学上いてはならない。

 一方、地方で公正契約語ネヴァヴラハ話者にお目にかかる事は少ない。公正契約語ネヴァヴラハは地方では出番が無いのだ。地方では自分達の地域語があればまず困るような事態は起きず、外部と交流する際にも自分達のあるいは第三者の種族語を使えば良いだけからだ。必要性も無いものに金と時間を浪費してまで習う者もいなかった。

 しかし唯一地方で価値を持つとすれば、それは都会風の教育を受けているというステータス的な価値である。ブルキエはこれをほとんど生まれながらにして、物心つくより先に、何ら苦労する事無く得ているのであった。

 確かに、彼女らレデルヘン母娘以外にアーハリェでは話せる者のいない言語である。それを、

「お前、誰も話せない言葉を話せるから何だってんだよ。町でそんな言葉話す奴なんか誰もいないし、そんな事を知ってたところでお前は他の事を何にも知らないじゃないか。それでお高くとまった話し方が出来て、偉くなった気になってるだけじゃないか。やあい、都会かぶれだ、都会かぶれ。格好悪い奴……」

 などとからかわれる事は、幼い頃から何度もあった。

 こういう事は、実は町の他の住民達が多かれ少なかれ内心思っている事ではあったのだが、面と向かって言う奴というのは町一番の悪童ランベルトくらいのものだった。

 ランベルト・シューエの父親はドワーフにありがちな反魔族パルチザンの元隊員で、その後憲兵の職に就いた男であった。生前はずっと関所脇に一日中詰めては、都会からアーハリェに来る旅人の事を見張っていたという。しかしある日、何がどう話が食い違ったのか街を訪れた王都勤めの同業・何某と口論になり、揉めた結果ランベルトの父の方が責められた。これに反発したのが裁定所おかみの心証を悪くし、そのまま罷免されてしまった。この事が町で針小棒大に広まり、親の悪評がそのまま息子ランベルトの悪評として敷衍されてしまった。当人が無関係な事で後ろ指をさされて育ったのであるから、これでランベルトがぐれない方がおかしかった。

 ブルキエと同い年の彼は、ドワーフらしい髭もまだ生えていないので代わりに髪の方を伸ばし、ドワーフ伝統の三つ編みにしていた。職後の父親が細々と営む八百屋を手伝わずにその辺りをふらふら歩き回り、恐喝だの万引きだのといった非行ばかりしていた。さらに癇癪を起こしやすく、彼が憲兵仕込みの腕白をするのを恐れて周りの者は彼を一言注意する事さえ出来なかった。そして彼の被害者の一覧の中にはブルキエも頻繁に入っていた。

 その日もランベルトは手頃な財布(﹅﹅)が歩いていないか探し回っていた。ブルキエは彼にとって都合の良い財布の一つだった。親が王都帰りゆえか時折悪くない額を持たされている事があり、そうでなくとも彼女は意味不明な言葉を使うだけで、唐棹からざおの一発で容易に金を奪えるからだ。彼はほとんど無頼少年だった。

 ところが最近は、ブルキエの姿を町で見る事がほとんどなくなった。アーハリェの町は何度か魔族達が街の中に忍び込んで略奪を図ったり軍隊を組織して攻め込んで来たりした経験があったので、彼はしばらくの間は彼女がそれに気づかぬうちに巻き込まれて死んだのではないかと思っていた。

 昼近く、ランベルトは適当な酒場に入った。なぜかは不明だが不可解にも〈脚立〉という屋号のつけられたこの中庭式の酒場は、田舎のそれらしく造作こそ小ぢんまりとしているものの、ラウンジは広く、間取りに不相応なほど立派な暖炉だってついている。何より、地元の醸造所と営業提携をしているためいつでも良い地酒が飲めた。成人ドワーフなら誰でも魂の活力の源にしている百薬の長・釜酒は、酵母を五、六十度という酒類の醸造としては超高温の環境下で発酵させて作られる。この種類の酒は未成年は本来頼めない事になっているのだが、ランベルトの前では無理が道理を引っ込ませていた。

 酒場で一杯やっている時に、彼らは偶然ブルキエの姿を見かけた。久しぶりに見る彼女の姿は、何かがは分からなかったが、とにかくどこかが明らかに様変わりしていた。着ているものの上等さはほとんど変わらないにもかかわらず、見慣れない言葉の本を抱えて歩く彼女の雰囲気が、彼の知る今までの彼女とはまるで違っていた。街の誰も彼女のように、自分以外はこの世界に誰もいないかのように歩くいたりはしなかった。

 その自身に満ち溢れた、今までの彼女らしくない姿が彼には気に入らなかった。ランベルトは声を掛けようと立ち上がりながらわざとらしく、

「おい、おやまあ、ブルキエじゃないか、ええ?」

 とおどけて声をかけた。

 しかし彼女は彼の事など聞こえていないかのように彼を無視して、酒場のカウンターまでまっすぐ歩いて向かった。彼女はドワーフの酒場のマスターに話しかけた。

「おじさん、お酒を注文しに来ました」

 彼女はまず最初に公正契約語ネヴァヴラハで話しかけ、その後ドワーフ語で言い直した。公正契約語ネヴァヴラハなど生涯で一度も使わった事の無いマスターは明らかに戸惑いを見せており、そのやり取りははたから見ていて奇妙だった。

 彼は二人が話し終えた後を見計らい、ブルキエに近づいて再度話しかけた。

「おう、ブルキエ」

「あら、何かしら?」

 彼女は振り返った。その声色は明るい。

 ――なんだ、マジでいやに偉そうにしてやがるな……。

 彼は戸惑った。あの頓珍漢な事しか言わない泣き虫が。それが少し癪に障った。

「てめえ、こんなところで何してやがるんだ、ああ?」

「お酒を買い付けに来ましたのよ」

「んだよ、『来ましたのよ』ってのは、気持ち悪いしゃべり方しやがるな……おい、おつかいとは大変だよなあ、ええ? 荷物重くてよ。俺が財布の中身代わりに持ってやろうか?」

「何の話?」

「金出せっつてんだよ、デタラメ言いの屁こき虫女」

 ランベルトがいつものように凄んで詰め寄った。最後にあった時までは、たったこれだけで彼女は少しばかり的外れな事を言いながら喚いた後、黙って有り金を差し出したものだ。

 しかし今のブルキエはそうではなかった。初めて見るにやにやとした底意地の悪そうな笑みを浮かべ、黙っているだけなのだ。

 この反応が彼の神経をさらに逆なでした。

「ああ? 久しぶりにぶん殴ってほしいってかあ?」

「そしたら伯爵令嬢様に言うわよ」

「伯爵令嬢ぅ?」

「あたしね、伯爵令嬢様に雇われたの。身の回りのお世話で。あたしはあの人から色々な難しい事を学んでるの。粗相しちゃいけないから毎日忙しいけれど、それでも楽しく暮らさせてもらってるわ」

「お前があ? お前なんかがお偉方に目をかけられる訳が無え。どうやって取り入ったか言ってみよ」

「どうやってって、あたしは公正契約語ネヴァヴラハが出来るからよ。あなた達が散々馬鹿にしてきた公正契約語ネヴァヴラハのおかげで、町の誰にもできない仕事だってさせてもらえれば、こんなきれいな服も着られるの。あたしは都会の方とお仕事してるの。邪魔しないでもらえるかしら」

 毅然とこう言われてしまったものだ。

 ランベルトは彼女がここまで真っ向から突っぱねて来るとは思わなかった。それに(はな)垂れだった彼女が社会的立場を得ていた事にも驚愕した。出るはずの手が出なかった。貴族ともめたら後々面倒くさい事になる。何より彼女の立ち居振る舞いに戸惑ってしまった彼はそれ以上言葉が出ず、立ち去る彼女を見送る以外には何も出来なかった。



 ある日の朝。

 クリナラヒ嬢はベッドから起き上がった後、数時間のうちは何事も無く自然魔法(ドルイディック)の座学に打ち込む事が出来ていた。しかし日が昇ると共に少しずつ体力を消耗してきて、短い魔法の杖を持つ手がおぼつかなくなり始めた。

 彼女はしばらくのうちはカップの中の温めた山羊の乳を少しずつ飲みながら、騙しだまし教本を読み進めていたものの、それも苦しくなり始めた。クリナラヒ嬢は長い髪をかき上げながら額に手を当てた。熱っぽかった。

 体の好調がいよいよ崩れてきたのを察した彼女は、少し息を切らしながら立ち上がってカップの中身を見た。すでに空になっていた。彼女は卓上に立ててあった取っ手付きの共鳴版ベルを手に取った。これは軽く振れば壁を隔てていても聞き取れるほど良く響く、それでいてうるさ過ぎない適度に大きな音で鳴る。さらに音に指向性があるため、大きな声が出せない時や腕に力が入らない時でも使用人を呼べるので、重宝していた。彼女はそれを振った。

 ベルの気持ちの良い音が扉の向こうまで鳴り響き、呼ばれたブルキエがそれ聞きつけてすぐに駆けつけて来た。ブルキエは雇用された当初から主人の幼い忠犬であったのだが、一年も二年も使用人として働きながら過ごすうちにそれに磨きがかかり、別荘での仕事をかなり任されるようになっていた。

 ブルキエ自身も年月とともに大人の階段を上って成長し、いくらか子供のあどけなさの取れた風貌となった。背丈が伸びるごとに新しい給仕服が支給され、そのたびに少しずつ仕立ての上等なものに格上げされていった。彼女達ドワーフは種族柄、女性でも髭が生える(そのため他種族にとっては男女の見分けがつきにくい種族の一つとして悪名高い)。ブルキエもその例に漏れないのだが、シルフ族の伯爵の娘に仕えている彼女は、彼らに合わせてつるりと脱毛剤で髭をさっさと除去してしまっていた。

 ブルキエが静々と迅速にの部屋に入ってくるとすぐに、

「水を……」

 クリナラヒ嬢は弱々しく頼んだ。委細をわきまえているブルキエは彼女の血色の悪い顔と乾いた唇を見てすぐに「承知しました」と部屋を出て行き、彼女の粉薬を用意して水に溶かして出した。クリナラヒ嬢はそれをゆっくりと飲んだ。すると人心地ついたようですぐに頬に赤らみを取り戻し、呼吸も深くなった。

「ありがとう、ブルキエ」

「発作の方はいかがでしょう」

「これは発作というほどのものじゃないわ、命に関わらないわよ。大丈夫、ありがとう」

「お部屋の非常時用のお薬が切れておりますので、補充しておきましょう。それと、お昼の量を少なめにするよう料理長にお伝えしますか?」

「……そうね。アンスリッヒにはそう伝えてちょうだい」

「承知しました」

 ブルキエが丁寧に頭を下げて答え、彼女の部屋を出ようとした時にクリナラヒ嬢が、

「待った。少しお話、してから……」

「駄目です。先に料理長に連絡しなくては、料理が盛り付けられてしまいます」

 袖を引く彼女に、ブルキエは顔だけ意地悪く笑いながらあやすように言った。クリナラヒ嬢はブルキエに少し甘えるようになっていた。寂しさが募りやすく自尊心も落ち込みやすい病床生活にあって、年の近いメイドが支えてくれるのは、彼女にとってとても大きかった。天下の伯爵家マイーニェ一族の高貴な血を引く彼女とて一人の生き物であり、病の前では子犬のように震えるほかに無く、まさにそのうるんだ目を見る事が出来るのはこの世にブルキエただ一人だった。そして、仮にも上級貴族の一員、それも嫡子に対して平民でありながら意見し、時には少しからかうような事さえブルキエはしたし、クリナラヒ嬢はお互いにそれを求め楽しんだ。それが許される資格とはまさに身分を超えた友人だった。

 ブルキエが戻って来た。薬が効き、クリナラヒ嬢の体調は先ほど飲んだ薬のおかげで、すでにほとんど平静を取り戻していた。彼女は本を片付けながら窓の外を眺めていた。

 窓の外で、エメラルドブルーの草花やインディゴの湖面の上で澄んだそよ風が揺蕩う青空へ、おいしそうな匂いの湯気や煙が調理場の歓喜窓を通って昇って行く。

「良い匂いね」クリナラヒ嬢が呟いた。「今日は酒蒸しなのね。鳥かしら、それともキノコかしら」

「ええと、シェフによれば――」

「待った、ブルキエ。楽しみはお昼まで取っておきたいわ。酒蒸しには目が無いの。こっちに来てから大好物になったわ。良いお酒を買って来てくれたわね」

「ありがとうございます」

「地酒だそうね。良い物だわ」

「いえ、大した品ではございません」

「謙遜よ。本当に良い香りよ。なんて銘柄?」

「銘柄だなんて……ただの釜酒ですよ」

「釜酒ですって? なんて事! あたしは『瓶の中の工芸品』を酒蒸しにして食べてたのね! さすがはドワーフの里……」クリナラヒ嬢は瞠目して感嘆した。「あたし、釜酒は知ってるわ。お父様と一緒に仕事のお話の場に座らせてもらった事があるのだけれど、その時に先方がテーブル脇に置いてたのよ。すごくおいしそうに飲んでて、それで印象に残ってるのよ」

「打ち合わせ中にお酒を……会食ですか?」

「いいえ、冒険者さんへの依頼よ。用があって出た帰りについででね。〈冒険者の宿〉っていうものが都会にあるのだけれど、知ってるかしら、ブルキエ?」

「もちろんです。危険を伴う行為を冒険者の方に依頼するためのお店ですね。アドベンチャーキーパーがその斡旋の権利を持っています。隣町にもありますよ」

「あら、あたしが療養してる間にそこにも新しく出来たのね。へえ……王都にいた頃、お父様とそのお店へ行ってね。お父様がアドベンチャーキーパーの方と色々依頼の話をしたのよ、あたしの事で。療養生活のために冒険者さんを雇いたいって。あたしがここで療養するためには、アンスリッヒ達料理人が料理に使う材料をここに持ち込んだり、他の使用人達もこのマナーハウスに時折来なきゃいけないでしょ。家庭教師や薬の事もあるしね。それで馬車でアーハリェと王都の間を行き来するためには、ほら。野盗もおっかないし、野良魔族の群れだっていつ出るか分からないわ。だから馬車に護衛を雇いましょうって事になったのよ。一か月の間にこれこれこういう能力と人数の冒険者を何度、一年間の間に毎月いくらで都合してくれるかって折衝をして長期契約をして、それを――半年おきだったかしら、一年おきだったかしら。いけない、忘れっちゃったわ。とにかく契約期間を設ける事にして、それが切れるごとに都度契約を更新しましょう、って約束をして契約したの」

「定例依頼、あるいは定例契約と呼ばれるものですね」

「そうよ。あなた、詳しいわね」

「冒険者の方には会った事がございます。アーハリェは自然にも街道にも隣接していますから、野生動物絡みでも辻馬車強盗ハイウェイマン絡みでも、彼らの飯の種となるような困り事は起きます。それに我々ドワーフは他種族から『半魔族』と呼ばれますので、そこから生まれるいざこざや軋轢もありますし……」

「大変ね。可哀そうに」

「いえいえ、田舎とはせいぜいそのようなものです」

「『せいぜい』ってあなた……」

「とにかく私は冒険者の方のご活躍を拝見した事がございますし、アドベンチャーキーパーの方ともお話をした事もございます」

「アドベンチャーキーパーと?」クリナラヒ嬢は驚いて身を乗り出した。「冒険者じゃなくてそれを斡旋する立場の者が現場に出てくるような事なんてあるのかしら? 滅多に無いでしょう、ほとんど心当たりが無いわ」

「そう言われましても……実際にお会いいたしましたから。それはそれは体の大きな方でした。最初は魔族だと思い込んだほどで……私が五つの頃、この辺りに大きな魔族の集団が攻め込んできた事があったのですが……」

 アーハリェの町に魔族の軍隊が攻め込んで来たのは、雲の厚くて暗い秋の朝だった。事が全て収まった後に彼女が周りから聞いたところによると、カルトリヒト半島沿岸部のサハギン共の陸上部隊が人族領の魔法技術やらなんやらを狙っての奪窃を図ろうとしたものらしかった。触れ役(タウン・ディンガー)がすぐにその事を怒鳴って回ったので、たちまち町は非常事態を認識した。当時のアーハリェの混乱ぶりはひどかったもので、誰もが生き残りたい一心で、着の身着のままの格好で怯えたり荷物をまとめたりしながら、雑貨屋や貸し馬車屋なんかに殺到したりしていた。そこへ周辺村落からの避難民が流れ込んで来て町の無秩序ぶりはいよいよ増し、一部はほとんど錯乱の様相を呈していた。アーハリェの衛視や駐在していた憲兵隊は、町の薄く低い木の防壁を頼りに早々に防衛戦ではなく撤退戦の用意をする事に決めた。そのために岩積み台車を引っ張って空樽やロープの粗末な陣地を設営している様子を見て、ブルキエは幼心地にも非常に惨めに感じたのを今でも深く覚えている。

 町の入り口辺りまで魔族軍が迫って来てアーハリェの憲兵隊と衝突し始めた直後、その横から甲冑を着こんだ騎士様達がどおっと土砂崩れのように魔族の先鋒達に覆いかぶさって張り倒してしまった。この不意打ちが魔族軍の出端をくじき、さらにそれに同道していた革鎧の冒険者の方々も加勢して、彼らの進軍の勢いをすっかり抑え込んだ。その後も騎士団と冒険者隊は手を緩める事無く、ついにはその日のうちに魔族軍を追い払ってしまった。

 どうも後方から前線を見ていたサハギン達の本隊は、王都からの派兵が来たのを見つけるとすぐに、動員した野良魔族兵達をトカゲの尻尾のように切り捨ててさっさと退散してしまったらしかった。騎士団は「あの進攻はあくまで威力偵察でしかなく、端からサハギン共は勢力拡大など考えていなかったのだろう。あわよくば、例えば技術的価値のある人材・物資・設備の略奪が出来れば万々歳、というような程度で」と推測していた。

 魔族共が粗方掃討され、あとは蜘蛛の子を散らすように尻尾を巻いて逃げ去った後、騎士団に従軍する従者のうち斥候の心得がある者が、ご当地の地理と野外での活動の両方に明るい狩人を従え、魔族軍の殿しんがりの後を密かにけた。彼らが引き返してくる様子も無い事を確かめると、戦地を原状に回復するための復興がすぐに始まった。アーハリェの町の外の周辺村落での復興活動がすぐに後続した。

 敵軍の侵入を食い止めた町内と違ってその外での被害は大きかった。踏み荒らされた畑は数も知れず、略奪や破壊活動を被った地域は中々広く、もののついでとばかりに家畜・家禽を殺された家もあり、魔族軍の蛮行によって生活基盤を失った住民が暴徒化するなど治安の悪化が懸念された。そこで騎士団が地域一帯の巡邏じゅんらに徹する事となり、復興作業は冒険者が主導を握って行われた。騎士団はあくまで戦闘が本分であり、冒険者の方がより器用で技能も多様で小回りも利き、しばしば上流階級出身で嵩高かさだか権柄尽けんぺいずくに思われがちな騎士団長が指揮を執るよりも、庶民の信頼を得やすく円滑に立て直しが出来ると考えたためだ――ブルキエがそこまで話した時、

「あなた……本当に、その……何というか、詳しいわね」クリナラヒ嬢が、半ば呆れたように言った。「吟遊詩人、というよりむしろ劇弁士か歴史家様みたいで、感心するわ。一被災者がそこまで軍記ものめいた言い方出来ないわよ」

「ほとんどアドベンチャーキーパーさんからの受け売りですよ。何を隠そう、復興作業に駆け回る冒険者の一団の現場指揮を執ったのが、その冒険者の方々の所属するお店のアドベンチャーキーパーさんなのです。戦後の後始末の事まで考えた結果、自ら出張った方が良い、とお考えになったのだそうでして。母から教わったこの公正契約語ネヴァヴラハ私の人生の半分を、あの大きな体のアドベンチャーキーパーさんがもう半分を決めたと言っても差し支えは無いのです」

 幼い当時のブルキエは、彼女にも唯一出来る瓦礫の片づけを手伝っていた。それがひと段落ついた時、珍しく家の鍜治場の外へ出て精力的に動き回っている父親から一つお遣いを頼まれた。行き先は〈脚立〉だった。

 この時の酒場〈脚立〉は、調理設備や真水・酒精の備蓄を備えている事から、炊き出しを主とするいくつかの復興作業の一拠点として活用されていた。

 生まれて初めて、それも未成年で入った酒場の中は、今まで大人から聞いていたような社交場とは程遠かった。他所から来た物々しい恰好の騎士やその従僕、それに革鎧姿のままの冒険者達が何人か席に着いたまま、何も飲まずにただ難しい顔をしてじっと座っていた。ブルキエはその場違いな緊張感にどぎまぎしながら、目当ての相手を探した。

 これが、あの冒険者の宿〈赤き戦斧亭〉の店主アーグステ・ズブレッツィであった。

 ブルキエは父親から、店主の特徴をとんでもない大女だと聞かされていたものの、しかし果たしてそれは思っている以上だった。上背はドワーフ達とは頭二つ分も三つ分も高い上、全身が大きく発達した筋肉と強固な脂肪の鎧で膨れ上がった偉丈夫であった。それを飴色の革鎧や同系色の草木染めの丈夫な布の服で上から下まで茶色にしているので、最初ブルキエは山から湖を泳いでヒグマが渡って来て〈脚立〉の店内に現れたのかと思ったほどだった。店主はその大きな体をいかにも窮屈そうに縮めて〈脚立〉のドワーフの縮尺で作られた小さな椅子の上に辛うじて収めて座り、卓上に並べられた大量の薬剤の小瓶と、走り書きを彫った手元の木簡の荷札とを難しい顔で見比べながら何やら考え事をしているようだった。

「あ、あのう、すみません、『あかきせんぷてい』のてんしゅさんですか?」

 幼いブルキエが話しかけると、

「ああ、お嬢ちゃん、あたしが〈赤き戦斧亭〉の店主だよ。何の用だい?」

 店主は顔をあげて笑った。その大きな体から発せられる声が今まで聞いた事が無いほど太く力強かったので、当時六歳のブルキエには少し怖いくらいだった。

「あの、おとうさんから『おてがみをてんしゅさんにわたすように』っていわれて、もってきました」

「お手紙?」

 ブルキエはおずおずと手を伸ばし、父親から預かった封筒を店主に差し出した。店主が巨大な体を椅子から浮かせて手を伸ばすと、腕はブルキエの手元まで簡単に届いてしまった。まるで山が動いているようだった。店主はその場で封筒を豪快に開けて読み始めた。

「ああ、レデルヘンの親方かい。わざわざ羊皮紙で書いてきて……へえ。そうか、そうか……」

 当時の幼いブルキエには、独り言からは手紙の内容は察しがつかなかった。今でもブルキエは、父親が店主にどのような手紙を送ったのかを知らない。店主はその後も独り言をつぶやきながらそれを読んでいた。

「て事は、この子は親方の娘さんかい。へえ……」

 しばらくして、読み終えた店主は手紙を畳んだ。

 ブルキエは巨体の店主が山がせり出してくるように身を乗り出して見下ろしてくるのと目を合わせるのに、怯えないようにこらえなくてはならなかった。

「ぶ、ブルカルダ・レデルヘンです。みんな、ブルキエって、いいます」

 緊張して声が震えた。この経験も今日が初めての事だった。

 店主の方に力んで目線を返したのが、睨み返したようになってしまった。しかしその幼年の割に強い目で睨まれて、店主は、

「あっはっは……いいね。強い子は好きだよ……」

 豪放に笑い、かえって気に入ったように彼女の頭を撫でた。

 それから店主はブルキエを無理やり隣の席に座らせ、ちょっとしたものをおごってやった。王都エシッディアから持って来た小さな糖蜜菓子だった。こんなに甘い食べ物はブルキエは食べた事が無かった。それから都会の面白いものとして、所属冒険者の一人が写本した高級魔導書を見せた。店主がそこに書かれた文章を指でなぞるごとに文字が宙に浮かび上がり、指先でつついた挿絵がひとりでに動き出したりするごとに、ブルキエは驚きで声を上げた。さらに店主はブルキエを楽しませてやろうと思って、都会の色々な話を聞かせてやった。成功した冒険者、王都の経済的発展の様子、学や教養の事を。ブルキエはこの上なく聞き入っていた。

 ブルキエはしばらく夢のような時間を過ごしていた。しかし店主の方が彼女が父親を待たせている事に気が付いて、話を切り上げた。店主は最後に、

「いいかい、ブルキエ。あたし達の一生ってのはお勉強で出来てるんだ。座学だけじゃあない、知るってのは剣の振り方や依頼人との金貨の関わる話のし方もそうだし、周りを見て自分の身の振り方を直すのもそうだ。一生かけて、色んな奴と色んな事を話して、色んなところで色んな事をするのさ。しなきゃいけないし、避けようとしてもなんだかんだ結局そうなってるものなのさ。ははは……そうしないと色んな事を知るって事は出来ない。そうでないと少しの事しか出来なくて色んな所で大変な思いをしたり、井の中の蛙になってうぬぼれちまったりしちまうよ。だから学は無くてもいいから、実のある奴になりな。中身のある奴になるんだ。そういう奴が王都で大成するんだからね。いや、どこでもそうだよ。まずはブルキエ、お前はアーハリェで一番立派な奴になんなよ」

 と言って、再び頭を撫でてやってから、父親のところへ帰したのだという。

 こういう思い出がブルキエにはあった。それで彼女は都会に憧れがあるのである。

 ブルキエが昔話をし終えた時、すでに日は昇り切っており、すっかり昼になっていた。静聴していたクリナラヒ嬢は、この話を聞いてたいそう喜んで手を叩いた。それにブルキエもスカートの裾をつまんで一人の聴衆に対して一礼して見せた。クリナラヒ嬢が、

「素敵な話ね」と言った。「それに、知らなかったわ。あなたが王都のアドベンチャーキーパーと知り合いだったなんて」

「いえ、知り合いというほどでは……」ブルキエは謙虚にかぶりを振った。

「もしかしたらあたしも知ってる方かもしれないわ。今度の契約更新の時にあなたの事を話してみようかしら。きっと良い話のタネになるわ……ねえ、ブルキエ」

「なんでしょう?」

「やっぱりあたし、ドワーフ文化が好きになったわ」

 クリナラヒ嬢はうっとりと言った。それに驚いて、瞠目するだの眉と口を曲げて困惑するだのしたのはブルキエだった。

「ドワーフ? どうしてそこでドワーフの話が出てくるのでしょう?」

「あなた達の文化は素敵よ。さっきの釜酒もそうだし、ドワーフと言えば鍛冶で有名でしょう。王都じゃドワーフ製の武具や防具は良い物の代名詞よ。料理だってとっても美味しいわ。料理人はみんな料理の勉強をするためにあたしのところまで馬車で通っているようなものだって、アンスリッヒ料理長が言ってたわよ。それに何といっても、あなた達ドワーフ達は優しくて賢くて心が温かいのよ」

 クリナラヒ嬢は両手を合わせて褒めちぎってまくし立て、ドワーフから連想される様々な優秀さの世界に浸って聞かせた。

 ブルキエはまたも否定した。「そのような事はありません」

「謙遜よ。五歳なんて小さな年頃で戦争被災地の復興作業に混ざれるなんて、他の地区ではあり得ないわ。他じゃあ一たび戦火や災害で荒れたら最後、たちまち略奪者だらけになってしまうのが普通だもの。なのに子供が外を出歩いて、たった一人でお遣いが出来るなんて、このアーハリェの住民の道徳教育の行き渡りぶりの水準が高くないととても出来っこないわ」

「そんな事はありません」

「アーハリェがどうして景勝地として有名なのかと言えば、これも治安が優れていればこそ、避暑地・観光地としても一際――」

「買い被りすぎです」

「聞いてちょうだい、ブルキエ」

 クリナラヒ嬢は身を乗り出し、興奮して語り始めた。

「あたしね、夢が出来たの。あたし、ドワーフ達の文化を広め、都会の人々にドワーフの良さを分かってもらいたいわ。これからはこの命をドワーフとあたし達シルフの仲を取り持つ事に使いたい。ドワーフが人族社会の中で外様の種族のように扱われてる現状を払拭したいと思うの。歴史がどうあれ、今の時代にドワーフを『半人族』や『半魔族』呼ばわりし続けるのは間違ってるもの。でしょう?

 ブルキエ、あなた達ドワーフは凄いのよ。このアーハリェの町は素晴らしいわ、文化も、その心根も。あたし、もっとあなた達の事が知りたいわ。ブルキエ、あなた達の精神的支柱を磨く仕事、このあたしにも手伝わせてくれないかしら?」

 クリナラヒ嬢は純粋な目でブルキエをまっすぐ見つめた。

 しかしブルキエは今までと同じような丁寧な調子で、彼女の申し出を断った。

「お嬢様、そんなに我々にかかずらっていただく事などありません。ドワーフという遅れた種族には、アーハリェという未開の町がお似合いなのです」

「……どうしてそんなに、自分達の事を悪く言うの?」

 クリナラヒ嬢は心の底から悲しそうな声を漏らして尋ねた。

 その目の潤んだ、哀れむような表情が、ブルキエには理解が出来なかった。

 どうして都会という恵まれた、上等な、優れた社会の出身の者が、それ以外の劣等な地域、田舎ごときをほめちぎり、あろう事か心酔までする事があるのだろうか。無論、彼らは教育水準も道徳意識も高いので、礼節を弁えているはずだから、より率直でない(﹅﹅﹅﹅﹅)振舞いも出来るだろう。正直で嘘を言わないのは美徳だ。それに、発展した社会を知る者が田舎を見て「遅れている」と感じるのは自然な事だ。だが一方で、無暗に敵を作るような事を言わないのも賢さである。なら我々田舎者に対して、お世辞をわざわざ言ってくれる事もあるだろう。それにしたってお嬢様の様子はおかしい。どうしてこんな町など、こんな種族などを好いたと強調しているのだろう、何か事情があるのだろうか――ブルキエにはそう感じるのだ。

 産まれた時からずっと、王都帰りの母親ハイケ・レデルヘンに都会至上主義的な価値観を仕込まれ、アーハリェをその対極たる田舎として見下すように意識させられ、そこに住む自分達ドワーフ族を劣等種族として数段下に見るように刷り込まれ、父親グントベルトをその代表例として軽侮するように暗に躾けられ続け、ただ都会への憧憬のみを与えられて育てられたのだ。彼女はアーハリェに生まれたドワーフでありながら、アーハリェにもドワーフ族にも帰属意識が育まれていなかった。彼女にとってそれらは、いわば永遠に〈悪い見本〉であるはずのものであった。全ての認識の大前提となる母親からそう教わったのだ。そして、そのような価値観を築く彼女が正しいと感じる事とは、その始祖たる都会の偉大なる方々が感じる事のはずなのだ。

 ブルキエからすれば、クリナラヒ嬢は今、間違った事を言ったのだ。

「お嬢様、そのような事をおっしゃってはいけません。都会にその名を轟かすマイーニェ家の嫡子で次期家長になろうという方が。王都はこの国の周辺地域の全ての上に立つべきところなのですよ」

「何を言ってるの? 今は王都の話はしてないわ」

「しかし今、アーハリェのドワーフ達の事を話したではありませんか。お言葉はありがたいのですが、我々のような者にかかずらっていただかなくとも……」

 この返答に、クリナラヒ嬢は耳を疑った。

「あなたもアーハリェのドワーフでしょう? 自分達の持っているものがどれほどの光を放ち、アーハリェを照らしているのかを理解した方が良いわ」

「それをおっしゃるなら、お嬢様こそ王都の方でしょう。お嬢様達のお持ちでいらっしゃるものがどれほどの光を放ち、アーハリェを照らしているのかをご理解いただくべきです」

 ブルキエはクリナラヒ嬢の言葉に意地になって、あくまでも彼女を持ち上げる態度を堅持した。

 二人はお互いの言っている事が理解できなかった。似ているはずの言葉が、二人の間で論理を成していなかった。二人の価値観の間に、意思疎通も十分に出来ないほどの深い溝が見えてしまい、それはそのまま二人の間を横断し引き裂いていた。沈黙が部屋を支配していた。二人とも繋ぐ事の出来る言葉を見つけられなかった。ブルキエにはクリナラヒ嬢の事が世界の理を知らぬ狂人に、クリナラヒ嬢にはブルキエの事が世界を自ら破壊せんとする狂人に、急に見えはじめていた。二人はお互いの瞳を訝って覗き込み、睨みつけるとまでは行かずとも、少なくとも怪訝と不信の意を持って、まるで時が差し押さえられて先の時間へ進む事が出来なくなったかのように我を忘れて見つめていた。

 外では正午を迎えて太陽が昇り切っている。直射日光が横から窓へ射し込まなくなって、先ほどまで机の上に日向の出来ていた部屋の中は、外のアーハリェの町の明るさに反比例した影となっている。

 そこへ、

「お昼餉ひるが出来てございますよ、お嬢様!」

 というアンスリッヒ料理長の太く響く声が外から割って聞こえてきたので、ブルキエはそれを彼のもとへ取りに部屋を出て行き、クリナラヒ嬢も本を片付けて食堂室に向かう準備をしなければならなかったので、この場はこれで話が途切れた。

 この日を境にブルキエとクリナラヒ嬢の関係はぎくしゃくとし始めた。



 アーハリェの町の経済活動は第二次産業、金属加工の伝統工芸が最も栄えている。流通量や経済規模こそ細々としているものの、山の民ドワーフが鎚を振るっての本物の〈鉱族の兵具ひょうぐ〉が麓で手に入るとあって、地方の二級地域としては申し分の無い額の外貨の獲得に貢献している。そのため武具・防具の仕入れ先の兵器業界の問屋や関係者達、得物にこだわりのある武術家や冒険者、種族意識から同族の手になる包丁や作業着などを求める都市部のドワーフ族達などがよくこの町を訪れ、それらを相手にした飲食店・酒場、馬の繁養や貸し馬車が栄えている。いわば武具鍛冶・防具鍛冶は、町の経済の主軸であった。依存していたと言い換えても良い。

 こうした事情があって、領主が地域の第二の主力産業としてマナーハウスを含む貸し別荘などの観光業の推進を命じたのが、今の景勝地としてのアーハリェの成り立ちである。それらも元はこの恩恵を元に成り立ったものであった。鍛冶は地元住民にとっては誇りであるとともに、いくらか状況は改善されたものの、未だに町全体の切実な収入源でもある。

 ある日から町で持ち切りの話題になっているのが、

「怖いわあ、街道筋で強盗だなんて、一体どんな連中なのかしら」

「恐ろしいわねえ……本当にひどい連中らしいわよ」

「口では世直しを訴えているらしいけれど……おお、嫌だわ」

 であった。なんでも王宮おしろ政治まつりごとに不平不満のある無頼騎士やら官職にあぶれた下級貴族の次女次男やらなどのろくでなし連中がたむろして大店おおだなに押し込んでは金品を奪って回っているとかで、襲われた先の奉公人は口封じに皆殺しにしているというので一帯は震えあがっていた。それ自体が街道を物理的に塞いでいるというわけではないものの、商用での行き来や物流には大きく影響を及ぼしていた。

 これが町全体を怯えさせ、活気を麻痺させて盛り下げ、息をひそめた暗いものにしていたという事も、確かにある。しかしブルキエに限ってはそれだけではなかった。

 この頃彼女は外出するたびに気分の悪い思いをしていた。彼女が外に出るたびに、他の町民達の目や表情が気になるのだ。みな彼女を見ると一様に、噂話は音量が下がり、目は合わず、いやによそよそしくなる。

 ブルキエはアーハリェの地元神殿、ザンクテ・ロスクニッヒ=シーグライヒェル神殿へ足を運んでいた。ここは〈戦勝の誉れを得たる戦神ロシュヒナッハ〉と奉じた名を冠するとおり、ご当地のドワーフ文化の特色の色濃さを象徴するような建物である。天地を開闢せし神々四柱とその神話を表す四ツ石の紋章も目線の上に掲揚せず足元に配置しており、玄関前の石畳や床の敷石として四つの正方形に切り出した石材を並べて象っている点で全国的にも稀有である。

 境内中央に鎮座する大篝火の向こうで、マインハルト・キューステル神官が四ツ石の床を自ら丁寧に箒で掃いていた。長い髭も眉もすっかり白くなった彼の丸顔は好々爺そのものといって良い。

「キューステル神官、お久しぶりです」ブルキエは声をかけた。もちろんドワーフ語である。彼はいくつもの古語に精通していたが、近代的な公正契約語ネヴァヴラハはそうではなかった。

「これはブルキエさん、いつもいつも」

 彼は変わらずそう挨拶すると、少し待つように言い置いて奥へ引っ込み、すぐに戻って来た。ブルキエはクリナラヒ嬢の服用する薬包を受け取るために定期的にこの神殿を訪れていた。彼女はこのキューステル神官だけは好きになれた。彼は経験の豊富な老神官として町の外の礼拝施設の事情だけでなく、それ以外の事、生涯で迷い苦しんだ時に必要な色々なものに詳しかった。それに彼の温和な性格の前では誰でも毒気が抜かれるものだ。また、彼の姓は直訳すれば「牛っ子」とか「牛娘」、つまり牛飼い・酪農家――転じて俗に胸の大きな娼婦――を意味するのだが、牧場から平地を連想させる意味を持ち、しかもノーム語の接尾辞が後接して形成された派生語であるために、山の民であるドワーフには麓らしさや平野部の発展群落を強く意識させたのもあった。

 薬包をブルキエに手渡しながら、

「これはシルフ族の方に良く効くように調合した物。他の薬ではお体に合いますまいぞ。わしらドワーフ族向けの薬を飲ませてはどんな不具合があるか。どうか、クリナラヒお嬢さんのお体が良くなりますように」

 祈るように言い添えてくれた。今さらこんな事を言って釘を刺した理由は察せられる。

「薬の材料の搬入も滞ってるんですね」

「すっかり届かなくなってしまいました。祈祷では限界のある症状です。薬無しでは病人は死んでしまうというのに……あの例の強盗ですよ。恵まれていながらそれに気づかず、身の置かれた場所に感謝するどころかさらに欲深く求めるなんて、傲慢な振る舞いではありませんか。彼らが一刻も早く慎ましくある事を知る日が来るのを祈るばかりです」彼はいかにも彼らしい表現で嘆いた。

 ブルキエもうなずいた。「口では世直しと言っているそうですね。彼らは自分達が正義だと信じ込んでいるのでしょう」

「そうですね――しかし」キューステル神官は一旦そこで言葉を切り、顔を少々険しくしてブルキエに相対した。「お耳は痛いでしょうが、はっきり言わなくてはなりません。最近はあなたも少し、そのような様子がありますよ」

 彼は声を低くして彼女を指差した。

「ブルカルダさん、自分の考えがいくら正しいと思ったからといって、そう誰かれ構わず議論を吹っ掛けるものではありません。誰にでも心の内に、一番大事にしているもの、誇りとしたいものがあるのです。それを忘れて――」

「何ですか? 私が悪いって言うんですか?」ブルキエははらわたが煮えくり返る思いがして、思わず反発した。「ツェプルハイム先生の事だってホッビンガーさんの子供の事だって悩みがあったから聞いてあげたんです! それがいけない事なんですか?」

「そこではありません――」

「どうしてあなたに言われなきゃいけないんですか!」

 ブルキエは怒鳴った。今までの事を思い返した。あの時もこの時も、自分の提示した考えは正しかったはずだ。なぜならそれは王都に住む何人もの市民に今もてはやされている、先進的な都会の考えだからだ。彼らの方が古臭く、遅れていて、間違っている。だから知恵を授かっている私が正してあげたのだ。それなのにどうして誰も素直に受け止めず、それどころか喚いて突っぱねるのだろう? どうして出歩くたびに陰口を叩かれなくてはいけないのだろう? いつから世の中はおかしくなったのか。何かが変わり始めたのは、クリナラヒお嬢様がドワーフ文化をありがたがるような奇特な事を言い出したあの日あたりからだ。あの日からお嬢様も私とお話する事を減らされ、あまりお側に置いていただけなくなった。お嬢様すら。お人好しのキューステル神官までもがあたしに偉ぶって説教しだすなんて! ブルキエは逆上した。感情のままに、言葉として聞き取れないほど強く彼を糾弾した。自分が今何を言っているかは把握出来ていないし、興味も無かった。

「ブ、ブルキエさん……」

「はあ? あたしはずっと正しい事をし続けてきたのよ! 都会の方々に見られても恥ずかしくないように心掛けてきたの!」

 さらに一歩彼の方へ詰め寄った時、突然後ろからブルキエの襟首を乱暴に引っ張った。

「ふざけやがって!」

 ランベルトがいつの間にか後ろに立っており、彼女の髪を引っ掴んで凄んだ。彼の顔は怒りで赤黒い。頬には一本の長い擦り傷の跡がある。

「てめえ、俺のお袋に何吹き込んだ? あぁ!?」

 ランベルトは唐棹を力任せに振りかぶった。柄の先が頭に当たって倒れた。

「や、止めなさい!」キューステル神官が、彼とよろめきつつ立ち上がるブルキエの間に慌てて割って入って止めにかかった。しかしランベルトの振るった唐棹の打部が強かに側頭部に当たり、その場にくずおれてしまった。

「どいつもこいつもお優しいから面と向かって言えねえでいやがるけどな、俺は勇気ある憂郷の士、はっきり言ってやった方がお郷里くにのためにならあな。なあ、ブルカルダ大先生はご存じえご様子だがよ、街中全員がな、お前の事をこう思ってんだよ。『都会かぶれで偉そうで、何につけても見下してくる、こっちが少しでも口挟んだら笑って馬鹿にしてきやがる、むかつく虎の威を借る狐野郎』ってな! おかげで親父もノイローゼになっておかしくなって俺ぁ殴られた。ずっとずっとてめえの事はいけすかねえと思っていたが、もう我慢ならねえ。講演会ぶって偉そうに町中に口出ししてきやがって! 全部てめえのせいだ!」

 ランベルトは吠えるや、唐棹をブルキエへ叩きつけんと振り回した。逃げる彼女の胸倉をつかんで棹を持った手で顔を殴った。

「止めて……止めて!」

「うるせえ、偉ぶりゃあがって!」

 転倒した彼女の腹を踏みつけ、馬乗りになってさらに彼女の顔に拳骨を浴びせた。

 ようやく神殿の正門からアーハリェ駐在の衛視達が、神殿の若い神官見習い達に連れられて大慌てで駈け込んで来た。彼らはまず彼女にのしかかって暴力を振るうランベルトを後ろから取り押さえて拘束した。次に倒れている二人、ブルキエとキューステル神官に駆け寄った。

 キューステル神官は当たりどころが悪く、他の神官達によってその場で死亡が確認された。差し当たりの葬送の祈祷が唱えられた。彼の事があって、ランベルトは傷害ではなく殺害犯として逮捕される事になった。

「とうとうとんでもない事をしでかしたな、ランベルト! お前だって殺しなどしたら町からずっと遠くの監獄へ送られるのは知っているだろう――さあ、立て!」

 衛視はランベルトをどやしつけながら彼の手に縄をかけ、そのまま彼を引っ立てていった。

 ブルキエがそれを見送っている時に、神官達が駆け寄ってきて――怪我人が彼女だと分かった途端に全員が微妙な顔をしたが――おずおずと近づき、治癒を始めた。頭、顔、お腹、体中が未だに痛み、腫れて熱を帯びていた。ランベルトさえいなければ被る事の無かった痛みだ。その患部を見習い神官が手当のつもりで下手な手付きで無遠慮に触れ、さらに無用な疼痛を受ける。

 ――技術の遅れた、他者の痛みに無頓着な、田舎者の治療のし方だわ。こんな町の知識層なんてしょせんごまかしばっかりの無能ばっかりよ。こんな連中から道徳を教わった、この町の全員がそうなんだわ。こんな町にいたって仕方が無いわ。

「触らないで!」

 まめまめしく手当てをしていた見習い神官の一人の手を、ぴしゃりと叩いてブルキエは叫んだ。



「応報刑相応の原則、その一……」

 クリナラヒ嬢が本を音読みする声は暗かった。

「被疑者が不法行為を行った後、判決までの間に、すでにその罪に対する報いを受けたと裁判官とみなす事を認めた時に限り、これを〈刑の応報〉に相当するとして――」

 この国の律法制度についてを記した本を読んでいた。覚えるべき事は多く、概念は独特かつ難解で、複雑な定義を正確に覚えていなければ、法制度は運用出来ないものだ。それを教養として、あるいは将来授かるかもしれない官職で使われる可能性があるため、覚えておかなければならない。これがなかなか難航していた。理解を進めるためには、山ほどあるのに手元のものでは足りない判例集の狭い海を泳いで、該当する規則の当てはまった事例・事案を手間暇をかけて探し出し、少ない資料の中に役に立つ判例が載っている事を祈る他には手が無かったからだ。

 ブルキエの手は借りていなかった。この手の具体的な教養・知性を求められるような話題には、学の無いブルキエとのおしゃべりはあまり役に立たない。

 そもそも今もって彼女との仲は氷解しきっていなかった。

 彼女がお遣いから帰って来るまでには、今読んでいる項目の理解を進め切っておきたいと彼女は思っていた。しかし、

「その二――〈刑の応報〉として認められるのは、その自らの不法行為によって発生した、あるいはそれを念頭に置いて行われた、被告の被った被害・損益のうち、犯行後の顛末として憐れむべき点であり、それを汲んで刑を酌量するに足ると十分みなされる場合に限る――」

 独特かついくらか古風な文体によって綴られた抽象概念は、読み解いて理解するだけでも苦戦する難解なものだった。時間はかかり、頭を回し続けなければならず、体力を使った。

 幸いなのは、療養暮らしが功を奏して近頃は消耗しにくく体調も崩すことが少なくなった事だった。それまでは疲れるとすぐに気分が悪くなってしまい、そのたびにいちいち薬を用意してもらい、場合によっては横にならなくてはいけなかった。事あるごとに周りの手を煩わせてきてしまった。それが、ブルキエが薬を受け取って帰るのがいくらか遅れても、体に差し障りが無い程度には回復した。

 彼女がいなくても大丈夫になった。

 ――ブルキエは、伯爵おとうさまのお決めになった事をどう思うかしら。

 本当ならば、家令ヴィルリックのような他の使用人の口から伝えてほしい内容だった。しかし彼は今王都で伯爵おとうさまにつきっきりだ。

 そのブルキエがようやく戻って来た。なんでも、また出先で喧嘩沙汰に巻き込まれたらしい。

 クリナラヒ嬢とブルキエの間に溝が生まれたあの日以来、彼女が揉め事に関わる事が増えたそうだった。曰く、町民達は事あるごとに助言を無下にして反発してくるそうな。

 しかし彼女が「事あるごとに」という言葉を使えるほど町民達の問題に首を突っ込んで回っているのだとすれば、それはお節介の焼き過ぎという奴なのではないか。何につけても口を挟んできて、しかも都会のやり方だと言って鼻にかける。それでは反感も買うだろうに。ドワーフにはドワーフの飯の作り方、シルフにはシルフの服の着方がある、とは誰の言葉だったか。とにかくそれを心得てほしかった。

 しかしクリナラヒ嬢はあまりにも優しすぎて、忠臣に注意をしてやる事が出来なかった。彼女は閉鎖的になりがちな田舎で、彼女は率先してよそ者の自分を受け入れてくれた。よく自分の事もほめてくれ、町中に受け入れられるように町民達に良いように広めてくれたのだ。その恩があった。何より、自分の生まれ育った王都エシッディアでの様々な事に興味を示してくれた事がうれしかった。そんな彼女に都会の事を話すなと言う事は、彼女が自分にしてくれた事、ひいては彼女の精神性そのものを否定するような気がしてしまったのだ。

 ブルキエは、アンスリッヒに気を遣われながら簡単な昼食を取った後、廊下の掃除の用意を必要以上に手際よく始めていた。日々の仕事にのめり込む事で嫌な事を忘れようとしているのだろう。

 クリナラヒ嬢は、

「ブルキエ、掃除の前にちょっといいかしら」

 少し口ごもりながら彼女を呼びつけた。

 ブルキエは主人との微妙なものになった関係性にもかかわらず、仕事であれば相変わらずすぐに駆けつけてきた。彼女は主人の声の調子から何か常ならざるものを感じ取り、表情を硬くしている。

「何でしょうか」

「ブルキエ」

 彼女は重い口を開いた。

「いつになるかは分からないのだけれどね、その……あなたがとてもよく働いてくれたのもあって、五年近く療養してて、体調がだいぶ良くなってきたの。ありがとう」

「いえ、お嬢様に仕えている身ですから、お嬢様のお役に立つのは当然の事です」

 ブルキエは抑揚の乏しい声で慇懃に答えた。

「でね、お父様もとても喜んでくれて、もうだいぶ元気になったから、もう薬を飲んで暮らしていなくても大丈夫じゃないか、って言ってくれてるのよ」

「つまり……?」

「お父様はあたしをそろそろこのマナーハウスから出て、都会へ戻そうという考えてるの」

「えっ……」

 突然の話に、ブルキエは目を丸くした。「本当なのですか?」

「ええ。お父様がね、あたしをそろそろ王都に戻してもいいんじゃないか、って言ってるのよ。いつになるか分からないけれど、そう遠くない内にこのマナーハウスを引き払って、アーハリェの町からも引っ越す事になると思うわ」

 雷で撃たれたような衝撃がブルキエの中に走った。

 お嬢様がこの町からいなくなる? 嘘だと言ってほしかった。しかしクリナラヒ嬢は嘘や冗談を言っているような様子では無かった。もしも伯爵閣下の鶴の一声でなければ、で突っつけそうなところを突っついてみて引き止めたり撤回させたり出来ないか試してみるというのに。

 街中の誰もが、なぜか自分の偉さを理解してくれない。公正契約語ネヴァヴラハが出来るあたしは、他の芋臭くてものを知らない田舎者とは違うのだ。なのに町で唯一公正契約語ネヴァヴラハが出来る人がこの町から去ってしまったら、あたしは自尊心が保てない。

「今までありがとう、ブルキエ。あなたのおかげよ」

 主人から労をねぎらわれ感謝の言葉を賜ったにもかかわらず、今のブルキエにはそれが全く耳に入らない。

「――あ、あの、私がお支え申し上げなくても大丈夫なのですか?」

「大丈夫よ、あたし一人でもなんとか生活出来るわ」

 クリナラヒ嬢は微笑みを作って答えた。

 一緒に都会へ出てマイーニェ家にまた仕えてもらうという選択肢は、事実上全く無かった。高級貴族に使えるには、本来ならばそれなりの家格が必要なのだ。それが無いただの地方都市の町娘に、屋敷の倉庫の管理か皿洗いをさせる程度ならともかく、そばに置いて嫡子の身の回りの世話を許しなどすれば、伯爵家の名誉にかかわる。それに、彼女とブルキエの間に出来たぎくしゃくしたものを考えると、本音を言うなら、一緒に来てほしくなかった。

「もうあなたにはこのマナーハウスで働いてもらう必要は無くなってしまうわ。あなたはあたしの元で働く事は無くなってしまう。あたしからお父様になんとかならないか頼んでみるけれど……でも、あなたにもこの町での生活があるでしょう?」

 またクリナラヒ嬢はブルキエに笑って見せた。

 主人と付き合いの長いブルキエはその表情を見抜いていた。口では気遣っているように聞こえても、実際には取り付く島も無いのだ。

 お嬢様は、私を、都会へ連れて行く気が無いのだ。捨てたいというのだ。否定するというのだ。

 なぜ? その理由がブルキエには全く分からなかった。私は都会の方々をこんなに信奉しているというのに。飼い犬が飼い主をこんなに慕っているというのに。その飼い主が、飼い犬を捨てたいと思う理由など無いはずなのに。期待を裏切るはずが無いのに。

 己の主人が、目の前で薄い笑いを浮かべたまま、目だけは石で出来たように情も冷たさも何も感じさせない視覚だけの視線で己と目を合わせている理由が、彼女には理解が出来なかった。

 クリナラヒ嬢は〈ブルキエ〉を見ていたのだ。ブルキエ自身が今までずっと全身の態度に表し続けてそう暗に求めてきたように、もはや〈片田舎アーハリェに住む尊敬すべきドワーフ達のうち、最も身近な一人〉としては見ていなかった。

 ご主人様はもはや自分に親しみを覚えていない事だけは、ブルキエにも理解が出来た。しかし結局そこまでしか及ばなかった。彼女は尺度を、都会にどれだけ近しいか、その一本を除いて何一つ持っていなかった。クリナラヒ嬢は彼女がその尺度でしかものを見られない事に辟易し、しかし上手く批判する事が出来ず、結局遠ざけた。だがブルキエはその別れの言葉でさえ問題の尺度でしか量れなかった。お嬢様は都会の方のはずだ。にもかかわらず無知で遅れて劣った旧文化に縋る精神的田舎者のドワーフの方を持つばかりか、狂惑してあまつさえ褒めたたえるなどという理解しがたい行為に及んだ。私は都会の公正契約語ネヴァヴラハを使える。つまり都会の精神性と価値観を深層から理解する能力を、この町で唯一有している。お嬢様はその私を袖にした。

 私は正しさを理解している。町民共は教えても理解しない救いがたき精神的不具。そして、お嬢様は?

 ブルキエは今までかしずいてきた主人を見つめ直した。

 その時、彼女は己の身分に課せられた最後の責務を見出したのだ。

「……承知いたしました。お嬢様のお言葉とあらば、このブルキエ、最後までお支えいたしましょう」

 ブルキエが今までの会話からは想像も出来ないほど深々と慇懃に一礼した時、彼女は心の底から本物の忠義と忠誠心に溢れていた。

 今まではお嬢様の体を治すために奉公をしてきた。最後のご奉公では、お嬢様の心を治そう。そのきっかけをお嬢様に与え、救われる切っ掛けを授けてやらねばならない。

 お嬢様の求めるものを、救いを、この私が全身全霊を尽くすつもりで与えなくてはならない。

 そして、正しさをお嬢様に教えるためには、少しぐらいお灸を据えてやる必要がある。

「今日のお薬を入れてまいります」

 ブルキエはその場では何ともない風を装い、薬入れを回収して主人の部屋を後にした。



 大きな四頭立ての馬車が何台も、木立の間を抜けてアーハリェに並ぶ別荘を通り過ぎ、湖畔へと向かって行く。マイーニェ家のマナーハウスの前まで来ると、御者達は馬に足を緩めさせた。一際大きな馬車の御者アステーリェ・クノックは馬車を停めた後、

「着きましたよ、店主」

 御者台から横へ身を乗り出して後方の荷台へ、彼女にしてはいくらか張り上げた声で呼びかけると、荷台の幌が開き、中から大女が山のような巨体を揺らして降りてきた。それはあの冒険者の宿〈赤き戦斧亭〉のアドベンチャーキーパー、アーグステ・ズブレッツィであった。彼女は馬車を降りるや、

「ずっと来てなかったけど、いやあ、懐かしいねえ……」

 以前アーハリェ防衛戦とその戦災復興で陣頭指揮を執るべくご当地を訪れた時の事を思い出してしばし嘆声を漏らした。その後周りの馬車へ向かって怒鳴った。

「お前達、お嬢様のお引っ越しだよ! 粗相の無いようにやんな!」

 その大きな一声を合図に、赤き戦斧亭所属の手勢の冒険者達が一斉に馬車を降りてマナーハウスへ踏み込んでいく。

 それと同じくして、停まっている馬車のうち唯一麻の幌ではなく豪奢な黒塗りの箱馬車が開き、中から出てきたのは落ち着いた色の長い外套に身を包んだシルフの白髪の老紳士である。マイーニェ伯爵に仕える家令としては、品位も格式も日々の立ち居振る舞い・一挙手一投足の慎みから成る事を忘れるべからず、というのが老使用人ヴィルリックの信条であった。ブルキエをマナーハウスの使用人として雇ったあの日以降、アーハリェの町に足を踏み入れて伯爵令嬢のお体のご様子をうかがう機会には中々恵まれず、お嬢様が療養から元の屋敷にお戻りになるという話が決まった今になって、その移徙わたましの出迎えという形でようやくご当地を再び拝むに至り、彼にもまたささやかながら複雑な感懐があった。

 彼も降りてすぐに両手を振り、普段はマイーニェ家の王都のお屋敷に奉公している何人もの使用人達を馬車から降りて来させ、引っ越し作業を手伝ってくれる事になった赤き戦斧亭の冒険者達の手を引くよう指示をして行かせた。

 アーグステ・ズブレッツィは馬車とマナーハウスの間を巨体で遮るように仁王立ちし、手勢の冒険者達の数人を呼びつけて何事かを言いつけ、彼らに荷運びや護衛の手はずの指揮を代わらせた。家令ヴィルリックは幌馬車へ戻って行こうとする彼女を呼び止めた。

「ご店主殿、平素より当家の馬車を護衛していただき、誠にありがとうございます。益々のご活躍の、拝聴しております。当家の主もご中隊の事はいたく信を置いていらっしゃいまして」

「そんな堅苦しい言い方はやめちゃいただけませんかね、フィーアハルト卿」

 アーグステ店主は頭を掻いた。下町生まれの彼女には、お高く留まった言葉遣いはどうしてもこそばゆかった。どうしてそんな手紙みたいなしゃべり方をするんだい! 口で話してるんだから文語で話さないでおくれ。こっちまで偉い奴になったみたいで、照れるじゃないかさ。

 彼女がヴィルリック・フィーアハルトをそう呼ぶのは、伯爵家が〈赤き戦斧亭〉へ馬車の護衛の定例依頼を申し込んだ際に、代表して彼が伯爵と共にそのように依頼票に依頼者名を署名したからだった。彼は伯爵家に上級使用人として仕えるのに過不足の無い家格を持つ、ステンベック子爵フィーアハルト家の生まれであった。

 ヴィルリックが赤き戦斧亭の事を「ご中隊」と呼んだのは、実は冒険者斡旋業者に対する呼びかけとして儀礼に適ったもので、冒険者稼業の組織形態の由来が傭兵部隊にある歴史が反映された呼称である。

「私は伯爵にお仕えする家令でございます、ただヴィルリックとお呼びくださいませ。それで、ご店主。今回のお嬢様のお迎えと、調度品の運搬に関してですが」

「それは出発前に打ち合わせした通り、運搬はきっちりやらせていただきますよ」

「心強いばかりでございます。それでなのですが、もしも運ぶ物が多かったりした場合の事など、色々と話しておきたく――」

 アーグステ店主は快く頷き、あまり開けっぴろげにするべき話でもないので、彼をさしあたり幌馬車の荷台の中へ案内した。他の場所だと都合が悪かった。特に、ヴィルリックの乗ってきた箱馬車には彼女の飛び抜けた巨体はとても収まらないのだ。

 それからしばらくの間、二人は今後の引っ越し計画の具体的な手順について打ち合わせをしていた。その間、引っ越しのための運び出し作業に明け暮れていた冒険者達が報告、連絡、相談、色々な事で何度も尋ねて来た。積み荷を荷台に固定するための縄がこれでは調度品が傷ついてしまうので、家具をくるめる物を探している。あの場では聞けなかったが、マナーハウスから退去した後この建物を伯爵家は所有し続けるのか、もしそうなら大きな家具は残していった方が良いのでは。掃除用具入れの中からお嬢様の薬が出てきたが、これはどこへやってどうやって運ぶべきか、などなど――

 その中で一つ、妙な連絡が出来しゅったいしてきた。なんでもクリナラヒ嬢からの伝言で、久しぶりに少々具合が悪くなったので、私室には入らないでほしいとの事だった。冒険者の方々の作業に差し支えるのは分かってはいるものの、体調ばかりはどうにもならない。せっかくヴィルリックが来てくれたのは嬉しいが、しばらく一人で静かに寝かせて欲しい――これを聞いた二人は驚き、不思議に思った。彼女の体調が良くなったから王都の屋敷へ戻ろうかと引っ越しを始めたのに、急に体長が元に戻ってしまったとはあまり考えられなかった。それでも当人の訴えを無視する事も出来ない。ヴィルリックはお嬢様のご様子を確かめに一目会いに行くべきかと一度は考えたものの結局はやめにして、乗ってきた黒塗りの箱馬車に戻ってそこで作業が終わるのを待つ事にした。

 アーグステ店主も、引っ越し作業に影響がどの程度出るか考えていた。もしも運び出す荷物がうんと少なくて作業が驚くほど手早く済み、その日のうちに旅支度も済ませて王都へ戻れるようなら、すぐにクリナラヒ嬢を乗せて出発してしまおうと考えており、少なくともそれは無しになった。クリナラヒ嬢が自室で寝ているなら、自室の調度品は運び出せない。また体調を整えるために薬や食事を摂ったり、起きて着替えた後の洗濯物の事まで考えると、自室以外にも今荷造りをしてマナーハウスから持ち出してはいけない物がある。

 このあたりは現場の冒険者達が考えるべき事だ。クリナラヒ嬢当人やお付きの使用人達から話を聞いてから。アーグステ店主は幌馬車から失礼する事にして、家令のヴィルリックに一言挨拶をして別れ、マナーハウスの中で作業がどうなっているのか確かめに行こうとした。

 途中、冒険者の一人とすれ違った。店主は思うところがあって、彼には一つとある指示を出しておいた。

 ちょうどその時、マナーハウスのから一人若いメイドが出てきた。玄関扉を神経質そうに開け、少し周りを見回したり後ろを振り返ったりしながら、落ち着き無く正門あたりまで歩いてきた。

 その彼女が、店主と目が合った。彼女は店主の顔を見た途端、突然、

「あっ……」

 口に手を当てて驚いたかと思うと、

「お、お久しぶりです……」

 とメイドは喜色満面で店主に駆け寄ってきた。しかし店主には彼女の顔に見覚えは無い。

「あたしですよ、あたし……」

 メイドは流暢な公正契約語ネヴァヴラハで感慨深そうに話しかけてきて、店主になおも懐古の情を露わにした自らの顔を指差し続けている。店主は頭を掻いた。

「あー、悪いけどあんた誰だい?」

「そりゃあ、そうですよね。一度しか会った事がございませんもの。それも当時あたしは子供でしたし、それにアーハリェの町は魔族との防衛戦で荒れてしまっていて、あたしも汚い服を着て――」

「ああ、あの子かい!」店主は手を叩いて叫んだ。「手紙を持って来た子だね、レデルヘンの親方の娘っ子! ブルカルダちゃんと言ったっけねえ」

「みんなブルキエと呼びます」

「そうだった、そうだった! ブルキエ、いやあ、久しぶりだねえ。大きくなった……」

 店主の脳裏に、おどおどしながら腕を差し出すあどけない少女ブルカルダの幼い顔が浮かび上がり、それと眼の前で背筋を伸ばしてお行儀良く立つ彼女と見比べた。確かに面影が残っていた。顔の造作は全く変わっていない。当時のアーハリェは、町の外は焦土になってしまった範囲が広かった一方で、町の中には戦火そのものは飛び込んでこなかった。ただ、恐怖や不安によって市井に生まれた混乱と、その中で飛び交う流言飛語がひどかった。この機に乗じて何らかの政治的活動を目的として町民めがけて喚き散らして煽動せんとした不埒者もいた。そのような中で彼女は無垢に誠実さを保って一人でお遣いなどをしていたのは健気だった。しかし店主から見て、その顔つきは全く異なってしまっているように見えた。表情の裏にどのようなもの、どれだけのものがあるのかが、少し見えたような気がした。

 ブルキエもまた、店主の顔に非常に懐かしいものを覚えた。あれからすでに十年にもなる! 店主の体は一見すると、当時より二回り萎んで背も縮んだかのように錯覚しそうになる。しかしそれはブルキエの方が成長して大きくなった事を意味していた。それを加味して思い出し直せば、熊のような太い腕、山のような大盛の体は、少しも変わっていなかった。豪快そうな丸顔もだ。

 ブルキエは自然と話しだしていた。

「ええ、お久しぶりです。会えてとてもうれしいです、店主さん。あの時は本当にありがとうございました……あれからあたし達もなんとかやっていけていまして」

「そうかい、そうかい。お前、こんなところで一体何をしているんだい?」

 店主はさしあたり当たり障りの無い事を尋ねた。しかし不思議でしかたがなかった。当時彼女はドワーフ語で話していたはずだ。いつの間に公正契約語ネヴァヴラハなんか覚えたのだろう。

「あれからあたし、マイーニェ家に雇っていただいたんです。お嬢様の身の回りのお世話係として」

「えっ、本当かい……」

 店主は口を押え、目を丸くした。実際のところは恰好から予想がついてはいた。しかしいざその通り言われると、やはり驚きが勝った。伯爵家の女中、それも侍女など、ただの町娘がそう簡単になれるものではない。特別な技能を必要とするわけではないために求職者は常に供給過多な上、由緒正しい家は地位の高い使用人にはしばしば教養の担保として家柄を求めるものだ。「一体、どんなご縁があったんだい」

「母から公正契約語ネヴァヴラハを小さい頃から教わっておりまして……アーハリェにお嬢様がご療養のためにお住まいになられるという話になった時、母がヴィルリック家令に話を付けて下さいまして……」

「そうだったのかい……上手くやれてたかい?」

「もちろんですとも!」

 ブルキエは胸を張って答えた。いつの間にか彼女は、初めて店主と会った時の幼い子供に戻っていた。とっても優しくてかっこよかった店主さん。強くて頼もしい冒険者さんをまとめ上げる、もっと頼もしい店主さん。生まれて初めて会った、都会から来たという旅の方。幼い頃の大きな手で撫でられた時の記憶が思い出され、それが店主に認められたいという気持ちを起こさせていた。

「ええ、お嬢様とはずっとずっと、それこそ一日も欠かさず、お話のお相手をさせていただいておりまして、お嬢様はあたしと一緒にいる事に非常にご満足いただいております。それと、お薬の用意もあたしの仕事なのですが――」

 彼女は口を開くうちに、いや口を開けば開くほどに、今の()()()()()()を予想してしまう。その想像からは目を逸らしながら、良いところだけを選んで伝えなくてはいけなかった。

 ――店主さんは最近のアーハリェの事は知らないはず。お嬢様の事も。町の皆の事も。

 そのような打算が頭にしみ出すように広がったからだった。それが彼女の語り口調と身振り手振りを大袈裟なものにしていた。

「――町の皆様にも、とっても親しくしていただいております。特に、あたしはお嬢様のお側に仕えておりますので、都会の事についてとても詳しい唯一の者ですから、よくよく周りからも頼られます。あれはどうしたらいい、これは一体どう考えたらいい、都会ではどうしているんだい。そういう悩みを解決して、この町をより良いものにさせていただいております」

 そうだ。これこそがそうだ。

  事実。

   現実。

    真実。

     真理。

      原則。

       そうに違いない。

       そうでしかありえないのだ。

       自らそう思い込み、その理想の世界に浸らなくては、自尊心が保てなかった。

       その事を直視する事は辛かった。

       だからそれは、理想の世界の物理法則に反する行為だ。

     あたしは自分自身の信じるものを信じよう。

  ブルキエは目を逸らした。

 彼女は今日をもって、彼女の中の法原則の世界に閉じこもり、その永住パスポートを自分で受け取った。世界の外を見ないように生きさえすれば、彼女へ飛んで来る議論は全て彼女の信じる法原則の素晴らしさ再確認にしかならない。そうすれば苦痛は無い。()()苦しむ事の無い世界。そもそも、その法原則の世界が世界の全てであって、その外に何かあるはずが無いではないか。

「本当に頻繁に頼られるものですから、最近ではあたしの方から悩んでいる方はいないか、と町中お声掛けをして回っているくらいでして――」

 自分の世界の中の事実を述べるだけになると、ブルキエの口は自分でも驚くほど良く動くようになった。当然の事である。彼女は〈正しい事〉を言っているだけで、何も考えるような事など無いのだから。

 しかし。

 それをじっと聞いていたアーグステ店主の表情は、最初は彼女の成長と立身出世を歓迎しにこやかに喜んで耳を傾けていたのが、すぐに何か思い当たる節があるかのように眉が上り、口角も丸まったかと思うと、次第に眉をひそめだした。

 とうとう顔が険しくなったのを、しかしブルキエは理解しなかった。目端の利く彼女はそれを鋭敏に察知し認識こそしたものの「何か仕事で思い出した事でもあったのだろう」としか解釈できなかった。彼女はパスポートを受け取った際にこの手の能力も放棄していた。

 店主の思いも事実上つゆ知らず、ブルキエは切り出した。

「それでですね、店主さん」

「……何だい」店主の声は低く、露骨に悪感情がにじみ出ている。顔色も黒ずんでいる。

「お嬢様のお体も我々の必死の看病が功を奏した事もあり、今回ついに都会へお帰りになるということになりました。うちのアンスリッヒさんも――ああ、料理長の事です」

「知ってるよ」

「料理長も大層お喜びになっております。まあご当地の釜酒が料理に使えなくなる事だけは心残りのようですが。それで、お嬢様がマナーハウスからお離れになるにあたって、我々使用人一同もマナーハウスのあるアーハリェに何度も馬車で通う必要も無くなり、今後は従来通り王都のお屋敷で咆哮をさせていただく運びとなったのですが――」

「それがどうしたんだい」

「なんと、このあたしもそのまま王都のお屋敷で奉公出来るよう取り計らいたい、とお嬢様がおっしゃるのです。望外の喜びです。まだお父上たる伯爵閣下にはお話を通していらっしゃらないそうなのですが、正式な.にご拝命があればこのブルカルダ・レデルヘン、今後も王都のお屋敷にて助力を尽くす所存です」

 店主はブルキエを睥睨したまま一言も発さず、答えない。ブルキエはそれをただ驚いているのだろうと考えた。

「つきましては、伯爵閣下へのお目通りをしなくてはなりません。急な話ではありますが、帰りの馬車に私も乗せていただけませんか」

 ブルキエは言った。とうとう()()()()を言った。もう後戻りは出来なかった。

 クリナラヒ嬢につい先程した()()()()だけなら、重大な過失として叱責されるだけで済んだだろう。しかし計画を本当に実行に移す事に決め、実際に今そうしてしまった以上、あとはもう成り行きに任せて押し切るなりねじ込むなりしてどうにかする以外に無い。

 ブルキエは、店主の顔を覗き込んだ。嫌に緊張した。些細なやり取りのはずだ。妥当な理由での些末な頼み事を、この優しい店主が願い届けてくれないわけが無い。

「あたしを都会へ連れて行って下さい」

 ブルキエ一世一代の大芝居だった。ばれるわけが無い。彼女はそう信じていた。

 しかし店主は首を縦に振る代わりに、一つ尋ねた。

「もしも、伯爵がそれを許さなかったら、お前一人で帰れるのかい?」

「そうなりました時は、マイーニェ家を出た後、店主の元へ押しかけるかもしれません。大丈夫です、私は都会の言葉が分かりますから、伯爵家で習った事全てを活かして――」

「他に何か出来るのかい?」

「『他に』というと――」

「ドワーフらしい事、と言ったらアレだけれどね。お前はマナーハウスで生まれ育ったんじゃないんだから、アーハリェで他に学んだ事があるはずだろう? 何して育ったんだい」

「ご冗談を、田舎の事なんか都会の方は利口ですから見向きもしないでしょう」

「……だから、何が出来るってんだい、って……」

「何、って……」

 店主は今や顔をどす黒くして厳めしく強張らせている。目を吊り上げ、眉にしわを寄せて逆立て、固く引き締めた口を辛うじて開け、重々しくしか話そうとしなかった。ブルキエは豹変の心当たりを見出す事が出来なかった。店主はしばらく黙っていたが、すぐにブルキエを半眼で見下ろした。

「……分かった。お前はそういう奴なんだね。じゃあ安値でこき使ってやる。それしか出来ない。給金はとうてい食っていける額ではない。それでも良いという訳は無いだろうけれど――」

「や、やった……」

「何だって……?」

「え?」

「どうしてそんな中身の無い女になった!」

「えっ……」

 店主に大音声だいおんじょうで大喝されて、ブルキエは動揺した。媚びたようなごまかし笑いを浮かべようとしたのを、店主は遮ってさらに怒鳴った。

「町一つ見下すような奴に、都会から村へ手を遣る仕事をさせられるかい! 伯爵家にご奉公だって? 体面第一の貴族様だってそんな奴を雇う奇特な家も無いさね! 都会も田舎も甘く見て……お前はいつから卑屈なうぬぼれ屋になったんだい? だから町中から嫌われ抜いたし、大好きなお嬢様からも見放されたんじゃないのかい!」

「だっ、誰から、その話を――」

 ブルキエは思わず首を振って店主に縋ろうとした。

 その時にはすでに、聞き逃さなかった店主が冷たく彼女をねめつけていた。

「あっ――」

「馬鹿だね、ここに来てすぐに今の町の事は色々聞いてたってのに……〈脚立〉って名前の店を見つけて懐かしくて入ったのさ。そしたら〈脚立〉のマスター、お前の事ばっかり言うじゃないか」

「ううっ、ああ……」

「……ブルキエ。クリナラヒ嬢の薬を隠して、飲ませないようにしたね……」

「そ、そのような事は、ありません」

「報告があったよ。掃除用具入れの中から薬が見つかったってね。それで、今一人とっつかまえて『部屋には入って来るなと言われたのは無視をして、掃除用具入れの中から見つかった薬をクリナラヒ嬢に今すぐ飲ませに行け』と言っておいたところさ。薬が捨てられてなきゃ今頃お嬢様は無事だよ」

「あたしは、悪い事なんか、していません……」

 白を切るブルキエの後ろで、マナーハウスの玄関扉が慌ただしく開き、中から冒険者が一人出てきた。店主は黙ってヴィルリックのいる黒塗りの箱馬車を親指で指差した。危篤の一報を聞いたヴィルリックが慌てて馬車から飛び降りてきた。

「フィーアハルト卿――じゃないや、ヴィルリックさんね、今からお嬢様のご様子を見にお行きなさいな……ブルキエ、これでもうばれちまうんじゃないのかい」

「あたしは間違ってません! あのクリナラヒって女はきっと田舎者なんです! あいつが悪いに決まってるじゃないですか! もしもあれで死んだら、神様方がそうすべきだとお思いになっただけで――」

 そうブルキエが喚いた時には、店主はいつの間にか手に持っていた護身用の片手剣を抜き放っており、それを目にもとまらぬ速さで振り降ろした。

「ううっ……」

 瞬間、ブルキエの右足は腿の下からばっさりと切り落とされていた。

 正門の石畳の上に崩れ落ちたブルキエを、店主は無念そうに見下ろし、呟くように言った。

「脚一本でこらえてやったんだ。感謝して、町で静かに暮らしな……縫い物くらいは出来るだろうよ……」

「どうして、……? どうして……」

 マナーハウスの前で這いつくばってうめくブルキエのかすれた声を、店主は聞きたがらずにすぐにふいと背を向け、何か適当な布で刀身の血を拭うとそれをその場に乱暴に投げ捨て、そばにまだ立っていた冒険者の一人に衛視を呼ばせた後は足早に馬車の幌の中へ籠ってしまった。



 五、六台の幌馬車の一隊が一列に並んで道を行き、木々の間を進んでいる。日は強いのだが千切れ雲が多くて空は白く、また木々が伸ばす枝葉が街道の細い道の上に掛かっており、道中は暗い。アーハリェは他の町と比べて少々小高いところにあるため復路はしばらくの間下り坂で、馬車を操る御者達は雑木林を抜けるまでの間しばらく気を遣う。

 馬の顔に日が当たった。林を抜けて木立が途切れるのと同時に、坂道も終わって街道は平坦になった。先頭の馬車を操縦していたアステーリェ・クノックが御者台でため息をついた。顔は少し疲れていた。衛視と話すのは、例え自分が清廉潔白な身であろうと、気疲れをする。それになにより、どうして雇い主が突然貴族の使用人を斬るという凶行に及んだのかが気が気でなかった。

 今は、そのような行為をなぜ衛視が見逃したのか不思議でならない。アステーリェは後ろの荷台の中に乗っている店主を見た。巨体を横たえて寝っ転がっている。ふて寝をしているという風だった。

「アスタン、街道を逸れておくれ。大分早いが、今日はもう宿にしよう」

 店主が振り向きもせずにアステーリェに言った。アステーリェは特別歴の長い店の奉公人ではないが、それでも聞いた事が無いと驚くような投げやりな声だった。例の世直し気取りの無頼騎士だ何だの強盗集団も、大方は捕まったとはいえまだ残党は残っているそうである。危険が想定されている道程でこうも気力の無い姿をさらす事など、普段の店主ではあり得ない事であった。

 アーハリェの町を発って、店主が初めて口を開いたので、アスタンことアステーリェは尋ねるかどうか迷ったが、やはり聞いた。

「店主……どうして、あんな事を?」

「〈刑の応報〉って法律の決まりがあってね、簡単に言えば、悪い事した後に自分のした事のせいでひどい目に遭ったような奴には、罰も手心を加えてやっても良い――みたいな感じの奴があるのさ」

「そんな法律が……それで?」

「足一本斬ったら哀れだろうと。馬車無しに旅も出来まいしねえ。ブルキエを衛視に突き出した時に、あたしが言い訳したり役人にごちゃごちゃ詰められてたりしたのはその事さ。頭に血が昇っちまったよ、全く……帰ったらあたしも後々の取り調べを受けなきゃならないから、店の事はよろしく頼むよ……。

 法律、と言うならね、この前小耳に挟んだ裁判の判例によれば、薬が無ければクリナラヒ嬢が死ぬ、と分かっていて薬を隠すような場合でも、立派な殺しにあたるそうなんだよ。殺そうとした相手が貴族の家ってのはなお悪くてね、王都のお屋敷に移ってご奉公なんて嘘っぱちを吐いて伯爵に雇われようとしたのは、国家の臣下たる貴族の懐に不当に潜り込む行為だし、暗殺やスパイ容疑、外患援助罪にあたると判事に受け取られてもおかしくない。どれだけ甘く裁かれたとしても無期拘禁からという重罪だ。そうでなくても、あたし達の今日の依頼は、お嬢様と調度品を無事に王都まで送り届ける事だ。それを害したあいつを、本当なら町の衛視に()()()()通報しなきゃならなかったんだよ……いや、私も四面四角な女じゃないから、仕方無かった奴に哀れな奴、心変わりの見込みのある奴のしでかした事にゃあ、それなりの情を見せたりはするがねえ」

「……その節は、本当にご迷惑を――」

「良いのさ、お前は。馬だって覚えたじゃないか。でもあいつはいけないよ。あいつは自分の生まれ育った里ありのままの姿……どうしようもないが掛け替えの無い住民や、よそよりは貧相かもしれないがこの世に二つと無い自分達の歴史って奴を軽侮して、正面から見なかったんだ……客の中には、それを守りたくて依頼してくる奴もいるってのに。だからあたしゃあ、あんな奴を見ちまうとどうしてもさあ……何が伯爵家のお屋敷にご奉公だい。本当は、あいつをああ育てる以外に出来なかった、能無しの親の方を衛視に突き出してやりたいんだけれどねえ……」

「……それにしても、片手剣で足一本をばっさり叩っ斬って落としてしまうとは、恐ろしい事を――」

「アスタン、しばらく静かにしておくれでないかい……今日は、気分が悪い……」

 店主はごそごそと土産の釜酒を帰りまで取っておかずに封を開けてしまい、ラッパ飲みを始めてしまって、そのまま体中に沸いた黒いべたつく汚れを洗い流すように高い酒をぐびぐびと呷って飲み干してしまった。

 そこから先は、店主は覚えていない。馬車に酔うのも構わず荷台に寝っ転がり、そのままいぎたなく眠ってしまった。


 結局、マイーニェ家との馬車の護衛依頼の契約は破棄に至らなかった。だが伯爵の方が〈赤き戦斧亭〉に用を作りたがらなくなってしまった。

 クリナラヒ嬢は一命は取り留めた。しかしそれだけである。

■応報刑相応の原則

一、被疑者が不法行為を行った後、判決までの間に、すでにその罪に対する報いを受けたと裁判官とみなす事を認めた時に限り、これを刑の応報に相当するとして減刑の根拠とする事が出来る。


二、刑の応報として認められるのは、その自らの不法行為によって発生した、あるいはそれを念頭に置いて行われた、被告の被った被害・損益のうち、犯行後の顛末として憐れむべき点であり、それを汲んで刑を酌量するに足ると十分みなされる場合に限る。


三、公による明確に不当な扱い、あるいは必要性を大幅かつ非合理に逸脱した権限の行使による被害・損益については、刑の応報として認められる事の例外にはならない。ただし、我が国の公式に認めた、または我が国と事件当該国との間で取り決められた正規の敵討ち(ヴェンデッタ)については、応報に相当するものとは認めない。


四、酌量に値する損害の定義や、減算の出来る量刑については〈科刑の酌量の原則〉に定めるところを目安とする事。


五、応報に相応すると認められた損害については、刑の差し引きによって和解したものとみなされ、被疑者はこれについて後から訴えを申し出てはならない。被疑者は刑の言い渡しの際、訴えの申し出との選択の権利や自己の良心など任意の理由のために刑の応報の適用を拒否する事が出来る。拒否は本人のみが判事・裁判官の目の前で宣言出来る。


六、判決前後の報道による、名誉の毀損を含めた一切の損害については、刑の応報として認められる事の例外にはならない。


七、刑の応報の相応が認められた時、国家は被告が当該損害を被った要因となった自然人・法人に対し、必要に応じて行政命令・処分・起訴が出来る。


八、判事ならびに裁判官は、刑の応報による酌量のみを根拠に科刑を全て無くしてはならない。詳しくは〈科刑の酌量の原則〉に定めるところを目安とする事。


九、事件後に被告が身体に障害を負った事実とその程度が証明され、かつそれが刑の応報として認められた場合については、国家に一定程度以上の軽重の身体障がいがると認められた者と同様に扱い、〈リゴレッティーネ不具寄場〉を含む身体障がい者就労・復帰支援機能を有する施設・監獄への収監を認める。


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