不朽のアスフォデルス
イリオンの都で、パリスの葬儀が執り行われる。薪を組み敷き、そこに数多の花で飾った祭壇は、どの戦士のものよりも鮮やかで美しいものとなった。青白い顔に化粧を施し、と紫色の唇に紅を引いたパリスは、胸の上で手を重ね、変わらない美しさで眠っていた。
棺の蓋を取って最後の別れを惜しむ家族たちは、皆が生前の姿を思って涙を流した。
死んだと思われて、心の傷となっていた最愛の息子を思う老王は、彼の額に口づけをすると、鮮やかな黄色の花を棺に納めた。
その妻は、兄と仲睦まじく過ごす彼のことを思い出して、青い花を手向けた。
弟は、共に訓練した日々を思って白い花を手向けて彼を偲んだ。
その妻は、鳥籠の中にあった彼女を救ってくれた英雄を、鮮やかな赤い花で飾った。
それぞれが最期の別れを終えると、棺の重い蓋が閉ざされ、組み敷かれた薪の上へと運ばれる。ヘレネーはその様子を見つめて、パリスに語り掛けるように呟いた。
「ありがとう、ごめんなさい。綺麗な花をもっと一緒に見たかった・・・。ねぇ・・・」
デーイポボスは一歩歩み出て、薪の上へと運ばれる棺に向かって大声で叫ぶ。
「ヘレネーのことは、俺が守るから!」
棺が頂点まで運ばれると、薪に炎がくべられる。炎は静かに燃え上がり、天まで届く煙となってオリュンポスの神々へと捧げられた。その時、燃え盛る犠牲と薪の中に、オイノーネーが飛び込む。彼のことを真に悔んだ妻は、体に炎が移る中で、彼の棺へと寄り添い、それを抱いた。
組み敷かれた薪が燃えて消え去るとき、白い灰がキラキラと輝いて、空中へ舞い上がっていった。
-紀元後1453年、コンスタンティノープル-
「ふむ、ようやく落ちたか」
金角湾の海上には、長大な鎖が組み敷かれている。二つの要塞に睨まれた海上を漂う木っ端の類は、ヴェネツィアやジェノヴァの旗が絡みついていた。
湾口に構えた巨大な防壁に残る傷跡が、戦争の凄まじさを物語り、馬上にある壮麗な大男の堂々たる姿が、戦争の結果を如実に示していた。
「スルターン、兵士達が領内の略奪を開始しました。あと3日ほどで、市内の富は全て我が軍のものとなるでしょう」
従者が耳打ちをする。馬上から僅かに姿勢を傾けたスルターンは、報告をしっかりと聞き終えると、難しい表情をしてゆったりとした口調で答えた。
「ふむ。それは、困るな」
「は?」
「朕は国家の富を平民に奪われることは良しとしない。どうせそれらを分配するのだから、それは均してから返すべきだ。それに、異教徒の学芸が損なわれては朕が読めないではないか。手短に済ませるように手配せよ」
スルターンの言葉には重厚な凄みがあった。従者は大男の指示に恐れをなして、乱れた足捌きで巨大な城壁の中へと駆け込む。巨大な砲弾の傷跡はあちこちにあり、不正確な照準の新兵器が、多くの無辜の民を瓦礫の下敷きにしている。市内で点々と燃え盛る炎が、彼らの営みが不可逆であることを示している。
難攻不落を極めた城都は、まさに宝の山であった。異教徒の家や教会から、大量の宝物を運び出すイェニチェリ達。誰もが醜く歪んだ笑みを湛えていた。
従者が触れ込みを伝えると、兵士達は即座に掠奪を止めた。不思議なことに、スルターンの名を口にするだけで、彼らは青ざめて宝物を返却したのだ。
このことを報告しに戻った時、スルターンは既にルメリ・ヒサスへと帰還してしまっていた。従者は苛立ちながら下っ端の兵士を探し、背の低い手頃な兵士を見つけると、その者の胸倉を掴んで迫った。
「おい、馬を出せ。ルメリ・ヒサスのスルターンにご報告があるのだ。陛下を少しでも待たせてみろ。お前もあの都市のようになるぞ」
震え上がった兵士は一目散に馬を運んできて、従者は早速これに跨ってスルターンを追った。彼の迅速な判断が功を奏してか、スルターンはそれ程時間を空けずに従者の報告を耳にすることができた。
「ご苦労。落ち着いたら朕も市内を巡るとしよう」
「はっ。時に陛下、異教徒の礼拝所はどのように致しましょう。あそこには偶像やそれに纏わる珍品が山のようにございますが」
「遺物は取引に使える。朕のコレクションとせよ。そして、礼拝所はモスクとして新たに利用することとする。必要な改装のみをせよ」
「はっ」
一通りの指示を終えると、スルターンは手に持つ古い書籍を閉じ、肘掛けに手をかけて物思いに耽る。僅かな沈黙の後に、彼はぽつりと独り言を呟いた。
「双角王も酔狂なことをするものよ・・・」
「あの、陛下・・・?」
従者は嫌な予感がして、スルターンに声を掛ける。スルターンは書籍を隅に置くと、身支度を始めた。
「お前も来い。朕は待たされるのを嫌う」
「ひぃぃ!」
従者は大わらわになりつつ支度を整える。スルターンは煌びやかな衣服を身に纏うと、その巨体を預けるに足る見事な馬に跨り、要塞を出発する。
暫く陸路を進み、湾を渡る。スルターンは石を積み上げられた塚の前で下馬すると、さざめく西日を受けて目を細めた。
「朕はオスマン帝国スルターン、メフメトである。喜べ、ヘクトール、及びイリオンの者たちよ。貴殿らの屈辱を晴らし、ギリシャ人達の支配を朕がこの手で終わらせてやったぞ。これで安心して眠れるな」
その塚に冷たい風が当たるとき、射し込んだ西日が山際に沈み始める。その光は、山際に留まるにつれ、より強く、美しく輝いた。
『イリオンの矢』-終幕




