パリスの最期
一時の危機が去ったとはいえ、イリオン勢に心安らぐ暇はついになかった。彼らはギリシャ軍の影に怯えながら、戦車や武器、防具で身を守って死者を弔った。うず高く積まれた戦友の遺体を、心を痛めながら次々に天へと還していく。そうするうちに、遂に恐るべき滅びが彼らの目前へと迫ろうとした。イリオン勢は弔いのために積み上げた遺体の山に土をかけるほど激しく足を動かし、黒い死から逃れようとする。その様子を見ていた賢明なプリュダマスは、慌てふためくイリオン勢を諭して言う。
「イリオンの方々、どうか聞いて欲しいのだが、こうして門の前で武装して戦うのでは、私達はいたずらに犠牲を出すばかりだと思う。神々の築いた見事な防壁はアキレウスの猛攻や、数多の苦難から私共を守ってくれた。どうだろうか、ここは一つ、防壁の中に戻り、辛抱強く耐え忍ぶというのは。彼らと違い、私達にはプリアモス王の富がある。長い遠征で疲れているはずのアカイア勢が退却するまで、食いつなぐのだ。そうすれば、ギリシャ軍が撤退するまで耐えることもできるだろう」
プリュダマスの提言は、イリオン人に僅かな希望を与えた。しかし、アイネイアースが不服そうに唸り声を上げて立ち上がる。勇猛なアフロディーテの子は、プリュダマスを諭して反論する。
「ギリシャ軍はこれまで10年もここで戦争を続けているのです。今更防衛戦をして、はい諦めます、とはならないと思うのですよ。これだけ長いこと我々を煩わせてきたのです、その恩給もなく帰るなどあり得ません。そして、利益を確保したい彼らは、籠城を始めたら交易品を奪いに来るでしょう。つまり、イリオンの金品に期待する、テーベの麦商人は辿り着かないし、マイオニアの葡萄酒売りもイリオンには来ませんよね。そうすると、養うだけの金があっても、それを運ぶための道がない。家族と共に、防壁の中で衰弱死していくのが関の山ではないでしょうか」
プリュダマスの意見は魅力的ではあったが、アイネイアースの意見はより現実味を帯びていた。何せ、イリオン勢はこれまで長らく、しつこいほどのギリシャ軍の攻勢に苦しめられてきたのだから。今更彼らが撤退するというほうが、かえって現実的ではないように思えた。イリオン勢は気が進まなかったが、アイネイアースの意見に賛同して拍手や喝采を送り、身を守る装備を身に着け始めた。
誰もが望まぬ抵抗を覚悟していたので、パリスも武器を手に取った。彼の手に馴染む弓を取り、箙の中に矢を立てた。美しい御髪を無骨な兜の中に収め、艶やかな脛に脛当てを嵌める。こうして、厭戦感情を抱えたままのイリオン勢は、砂埃を上げて攻め込むアカイア勢を、盾を重ねて迎え撃つこととなった。
進軍の折、パリスは城門の隅に白い花が浮かび上がっているのを見た。門の隅で揺れる一輪の花は、これまで見たものの中で一等に美しく、儚げに輝いて見えた。
(あぁ、次は、僕か・・・)
彼は不意にそう思うと、空を見上げる。彼の心はちょうどその空のように澄んでいた。
戦場へと続く広い平原を、戦列を並べて進むイリオン勢の一団。彼らはほとんど投げ槍になりそうな心を、一所に押し留めて並び歩いていた。次に死ぬのは誰か、自分ではないと願いながら、確証を持てずに喘ぐ心を、天を巡るヘリオスが慰めた。
ギリシャ勢が大胆不敵に突撃する時、その胸当てや兜がぎらつきながら音を立てるのを、パリスは美しく感じた。槍と槍がぶつかり合い、盾と剣が甲高い音を立てるのも、命の証と見て尊く思った。
イリオン勢は皆必死になって戦い、アカイア勢を何とか押し留めた。それでも勢いを押し留めることは出来ずに少しずつ防壁へと押し込まれていく。その中で、パリスは幾つかの矢を引き絞った。
そうして輝く命を幾つか奪った後、彼は大将の一人らしい見事な甲冑の男が、弓を手にイリオン勢に恐るべき死を齎している様を目の当たりにした。
その見事な甲冑は、英雄ヘラクレスから彼に伝わった逸品である。負い皮には不機嫌な熊が描かれ、その周りにジャッカルや豹、狼などの獰猛な獣共が牙を剥いていた。そして、それらの獣を取り巻くように、所狭しと戦闘の絵が描かれていた。
負い皮が支える箙には、アルゴス殺しの君ヘルメイスが、まさにアルゴスを討ち取る様が見事に描かれていた。また、天を目指したパエートーンが、雷霆に撃たれ、戦車から墜落する様が痛ましく描かれている。さらには、英雄ペルセウスが、巨大な大洋を背にしてメドューサを見事に討ち取り、その首を掲げている様が描かれている。最後に、鳥に心臓を啄まれ続けて呻くプロメテウスが描かれた。ちょうどこれらの描写のように、イリオン人は今まさに彼の矢を受けてのたうち回って苦しんでいた。
パリスは照準を定め、しっかと弓弦を引き絞る。すると、不思議とこの将を、はっきりと見据えて狙うことができた。目立つ甲冑や箙もさることながら、彼の大音声は戦場の中であっても目立っており、探すことは容易かった。
一方、パリスはそうではなかったし、誰も気に掛けるほど脅威ではなかった。ギリシャ勢は少なくとも、パリスが恐ろしいと感じることは無かった。そのため、この将もそのように気にせず戦闘を続けていた。
ついにパリスが指を離し、鋭い矢を放つ時、件の将は初めてパリスを見つめ、僅かに身を躱して恐るべき矢を避けた。パリスの矢は背後の戦士に的中し、その命を奪う。
「お前が望んだとおりに、お前を討ち取ってやろう」
見事な甲冑の将はきっと鋭い眼光を向ける。弓弦を引くパリスは素早く逃れようとしたが、この男こそがパリスを討ち取る定めを与えられたピロクテーテスであった。不可視の矢は風を切ってパリスの腕を傷つけ、裂傷から僅かな血が滴り落ちた。パリスはこれに応戦しようと矢を番えたが、ピロクテーテスはそれよりもわずかに早く矢をつがえ、またパリスめがけて矢を放った。
矢は数多の戦士らの間を縫ってパリスの腿の付け根を貫いた。パリスは悲痛な声を上げて蹲る。両軍は彼の消え入りそうな呻き声をかき消すほどの大音声で、戦闘を続行した。
彼の負傷にいち早く気づいたのが、弟デーイポボスであった。パリスが動けずに蹲っているのを見るや否や、彼は激しく動揺し、惨たらしい戦闘から抜けてパリスに肩を貸した。
「大丈夫か!」
「ありがとう・・・。デーイポボス」
パリスが消え入りそうな声がそう呟くと、持ち上がった傷口からとめどなく血が溢れた。デーイポボスは急いで医者の元へと彼を運び、医者は措置をしながら次々に新たな医者を呼んだ。
恐るべき毒が傷口から瞬く間に彼方此方の臓器を巡る。とめどなく溢れる血はそのために止まらなかった。また、腸は侵され、心臓は激しく脈動しつつ衰弱していった。その日の戦闘が終えても彼の傷口は固まらず、次第に唇を青くするパリスの手を、デーイポボスは握り続けた。
「頼む、死ぬな・・・。家族をこれ以上失ったら、父君も、俺も、狂ってしまう」
「デーイポボス・・・」
パリスは紫色の唇を僅かに動かした。そして、真っ白な蝋のようになった指で、そっと弟の指に触れた。
「オイノーネー・・・」
「オイノーネー?そうか、イーデー山の、ニュンペーか!」
医者が思い当たる人を言い当てると、彼はオイノーネーが優れた調薬師であることに思い至った。それを聞いたデーイポボスは、パリスを抱えて一目散にイーデー山を駆け上がった。パリスの傷口はしっかりと措置を施し、可能な限り血止めの薬を塗り、あるいは飲ませて山を駆け上る。不気味な鳥どもが枝葉を揺らして飛び交う様を見て、パリスは細い声で呟いた。
「デーイポボス、ありがとう。もう、いいんだ・・・。凶兆の鳥が・・・」
「いいや駄目だね!吉兆の鳥が飛びまわっているからな!」
「ねぇ、ヘレネーのことは、デーイポボスが守ってね。きっと、寂しい思いをするから・・・」
「いいや、お前が守るんだろう!夫としての責務を果たせ!」
弟の屈強な体にしがみついて、パリスは涙を零した。まるで沈没した船の船材にしがみつく、難破者のように。
道中に熊の導きを受けて辿り着いたのは、羊を放牧する小さな家であった。
デーイポボスは屋内へと駆け込む。すると、一人のニュンペーが寝床に降り、静かに舟を漕いでいるところだった。彼女は目を白黒させて侵入者を見る。深手を負ったパリスを見て驚愕した。
デーイポボスは構わずに彼女に近づいて、床に額をついて頼み込んだ。
「助けてくれ、パリスが死んでしまう!」
オイノーネーは戸惑いつつ、胸を締め付ける思いの中で葛藤した。やむを得ないことであったとは言え、パリスはオイノーネーを一人残し、ヘレネーと再婚した男である。そこには、アフロディーテが暗い感情を掻き立てて、両者が後ろ暗い気持ちを持たずに過ごせるように取り計っておられたことも関係していた。そのために、パリスはオイノーネーを、オイノーネーはパリスを求めずに生きられたのであるが。
「頼むよ!パリスはお前の夫だったんだろ!?この通りだ、頼む!金銀財宝何でもやるから、助けてやってくれよ!」
デーイポボスが悲痛な声を上げて泣く。パリスは重い瞼を必死に持ち上げて、暗い死を免れようと足掻いていた。心では死を覚悟しておきながら、憐れ、人は命を惜しむ生き物である。元々は弱い心のパリスでは、なおのことであったろう。
「その人は、私を捨てて出ていった男です。罪深い彼をどうして救うことができましょうか」
オイノーネーはそうデーイポボスに伝えると、息も絶え絶えのパリスに顔を近づけて、冷たく言い放った。
「あなたは私よりヘレネー妃が良いのでしょう?その肩に心を癒して貰って下さい。そして、王冠を戴くアフロディーテ様や、雲の上におわすゼウス様に、苦痛を取り去ってもらいなさい。イリオンとギリシャ、双方に犠牲をまき散らした罪深いお人・・・。もう、私の目の前に現れるのはやめて下さいね」
彼女はそう言うと、二人を乱暴に追い帰してしまった。デーイポボスは怒り狂って抵抗したが、彼女を失えば最早パリスを救うことは叶わない。傷つけることもできないまま、追い立てられるままにその場を後にするよりほかになかった。
こうして、二人は苦痛に苛まれながらイーデーの山を降ることとなった。デーイポボスが爪先や指先から冷たくなっていくパリスを背負いながら、涙を流すうちに、凪いだ心のパリスは、ただ一言、ぽつりと呟いた。
「死にたくない・・・死にたくないよ・・・」
それが最期の言葉となった。デーイポボスは背負った背中から伝わる温もりが消え、肩越しに掛かる吐息が収まったことに気が付く。それと同時に、パリスは肩に掛けた腕をぐったりと落とし、静かに息を引き取った。
デーイポボスは溢れる感情のままに山中で咆哮を上げた。鳥たちが羽ばたき、枝葉の間を抜けて月光の元へと飛び去っていく。この時、オイノーネーとパリスの間に掛かった古い呪いは解け、オイノーネーは薬を手に取ってデーイポボスの後を追った。しかし、既に事切れたパリスの姿を見て崩れ落ち、涙でしとどに袖を濡らした。




