スカイア門の戦い
それは白い腕の女神ヘーラーが、怒り心頭になってしまわれたのか、あるいはそれを受け止めた彼女の優れた勇士達が、大地を揺るがして攻め寄せたのか。いずれにせよ恐ろしい地響きが、イリオンの町に近づいていた。
戦が始まる。イリオン勢がおおいに慄いた。それを見て、弓と箙を担いだパリスが防壁へと昇っていく。そして、仲間たちを鼓舞して言う。
「いつまでも怯えていても、ギリシャ勢は逃げてはくれない。力を貸して欲しいです」
パリスの言葉はイリオン勢には響かなかった。誰も死を待つことを望んではいなかったためである。パリスは胸壁から身を乗り出し、土埃を上げて迫る丸盾の軍勢を睨んだ。時は急を要する。誰かが防衛をしなければ、もはやイリオンは陥落するであろう。
パリスは弓を番えた。砂埃の間、鋭い槍の穂先が放つ光が重なる辺りに照準を合わせた。
イリオン勢は誰もが恐れをなして、パリスと同じことができなかった。それは武勇に秀でた男達でさえ。
誰も斃れてはいなかったが、パリスの放った矢は、何者かの兜に当たったらしい。僅かに戦列が崩れたが、その程度ならばすぐにギリシャ勢は立て直した。パリスは再び矢を番えた。
イリオンの内の、力自慢の男達は、パリスの背中を見上げるだけであった。神にも見紛うパリスの不毛な射的は成功しても功を奏さなかったので、男達の心をたぎらせることは出来なかった。代わりに、投げ込まれた槍や石が、パリスの兜や胸壁に当たって甲高く音を立てた。
だが、その背中をしかと見た男は確かにいた。誰よりも近くでパリスを見ていた男であった。彼は槍と盾を手に取ると、歯を食いしばって震える体を押し止めて、防壁の前で身を寄せ合って震える、力自慢の男達の前へと躍り出た。
「ええい、気張れ、気張れ、気張れ!お前たちはあいつの背中を見て何も思わないのか!自分の妻ヘレネーと家族を守ろうとする、アレクサンドロスの姿を見て!あいつと妻のことがお前たちには関係ないとしても、お前たちの家族や子とは無関係とは言わせねぇぞ!負ければみんな無くなってしまうんだぞ!美味しかった料理も、楽しかった時間も、触れ合った温もりも、全部!」
パリスの持つ弓弦が弾ける。彼は切れた糸を投げ捨てると、弓に糸を張り始めた。丁寧に、力強く糸を結ぶ。
デーイポボスと男達の足元に、切れた弓弦が落ちると、デーイポボスは槍を振り上げて強弁を続けた。
「俺達の前に突然現れた戦は、勝手に避けてはくれない。俺だって、恐怖や怒りで震えあがって、兄君も失った。だからわかるんだよ!ここで逃げたら、何も、何もかもが無くなっちまうって!俺はもし死ぬなら、この場所で守れない仲間達を見て死ぬくらいなら、あの土埃の下で死んで、盾に体を乗せてイリオンに戻ってきてやる。そうすれば、少なくとも破滅を前にして後悔しなくて済むだろ。まだ分からないのか!?俺達は戦争の渦中にあって、もう退けば先には破滅しかないんだって!お前たちはどうなんだよ。盾の上で、まだ明けない明日の喜びを夢見るか、天の星の下で蹲って眠るのか。どっちを選ぶんだよ?」
デーイポボスはそう叫ぶと、城門をこじ開け、戦場へと繰り出して行った。
男達はその手に槍を持った。ある者の妻が泣きながら鎧を運ぶと、男は鎧を身に纏ってその女を抱いた。冷たい青銅越しに、その熱がジワリと伝わってくる。ある者の子供が兄弟で兜を運んできた。
重い兜を小さな手で父に渡すと、彼らはべそをかいて父の膝に縋り付いた。ごわついた馬毛の兜を被ると、男は子供たちの柔らかい髪の毛をくしゃくしゃと撫でた。一生分の静電気を蓄えた髪の毛が、男の手に纏わりつくほどに撫でまわした。
ある者の父が脛当てを息子へと運んでくる。年老いた男はその頼りない手で脛当てを手渡すと、自ら服をはだけさせて数多の傷を息子に見せた。傷は癒えても跡が消えずに、老人の武勇を伝えている。内心ではその臑当てに細い手を回し、息子を引き戻そうと思う気持ちを抑えて、老人は息子の背中をそっと押した。
そして、デーイポボスの背中を追いかけるように、ガチガチと音を立てる鎧が、横一列に居並んで城門の外へと繰り出して行く。最後の男達が全て町の外へと繰り出すと、パリスは防壁を降り、彼らの後ろへと続いた。城門はしっかりと閉ざされ、戦場とイリオンとが別たれた。
威風堂々と風を切って進むギリシャ軍の戦士たちは、心に幾らかの余裕があった。土埃を上げて野原を駆けることができるのも、城門の前まで敵と鉢合わせとなることはないと考えていたためだ。
事実、デーイポボスが鬼気迫る表情で駆けつけてきたのを見ても、厭戦感情に駆り立てられた逃亡兵としか思えなかった。そのため、剛腕のデーイポボスに最初に槍を受けた時、彼らは驚愕と恐怖で身を強張らせた。
それが勝機と見て取ったデーイポボスは、しなやかなとねりこの槍を振るって、敵を数名薙ぎ払った。戦術も構えもない、酷く乱暴な一薙ぎで。
しかし、アカイア勢の勇士達はすぐに立て直し、デーイポボスを討ち取らんと襲い掛かった。その刹那、降り注ぐ矢の雨がはるか後方からアカイア勢を襲った。そして、アカイア勢がそうしたように、凄まじい砂埃を上げて、イリオンの勇士達がデーイポボスの横に並び立った。
その顔は精悍として恐れを知らず、ただ目前の敵を討ち取らんと欲するばかりであった。
ここに至って、両軍はついに正面から激突する。戦車が歩兵を轢き倒し、かと思えば戦馬は槍の餌食となった。激しく盾がぶつかり合う中を、彼方此方から放たれた手斧が飛び交う。槍の穂先は乱暴に盾の皮を抉り、矢の雨は互いの兜に当たって甲高く鳴いた。
血飛沫が飛び交い、それが誰のものか最早わからなかった。顔についた返り血も自らの腕から迸る黒い血も、イリオンの勇士達は構わずに立ち向かった。
アレースの如き激しい攻勢を防壁から眺めていたイリオンの民は、誰もが両手を合わせて天へと祈った。それは妻や女であったし、寄り添い合う子供達であったし、青白い顔をした老人でもあった。目を逸らしたいほどの惨状を前にしても、イリオンの民は誰もこの都市を逃れようとはしなかった。
戦場にあって、デーイポボスは次々と戦士をなぎ倒した。身を竦ませるものは最早なく、彼もなりふり構わず敵と槍を交える。そんな中、豪腕のデーイポボスの前を、一台の戦車が通りかかる。彼はすかさず槍を持ち替え、御者の額に向かって投じた。これは見事に命中し、御者は死屍累々の上へと崩れ落ちた。この戦車には老雄ネストールが乗っていたが、彼は戦友を失くして悲しみに暮れた。デーイポボスも好機を逃すものかと逸り立ち、計略に優れたネストールを討たんと槍を構えた。しかし、ネストールの戦車にメランティオスが飛び乗り、槍で馬を叩いて戦車を加速させる。戦車は見事に戦場を離脱し、デーイポボスは諦めて槍を下ろし、次の戦場へと向かった。
彼は道すがら敵を突き殺し、野犬共の肥やしに変える。やがて、クサントスの川に辿り着くと、戦を捨てて逃れようとする者やデーイポボスに立ち向かって川を渡る者を川に沈めて窒息死させる。顔を強引に川の中に押し込まれた者は、みるみる空気を失くして白い息を零し、顔をむくませて動かなくなった。激しい水流をものともせず、アレースの如きデーイポボスは敵を川の中へと沈めた。このように、彼は一気に多くのアカイア勢を葬ったが、それはイリオン人にしても同じであった。神がかったアキレウスの子ネオプトレモスが、同じ数だけイリオン勢を殺したためである。両雄は川面を赤く染め上げて、川縁へと上がって並び立った。
「おいおい、覚えてるぜ、その憎たらしい顔をよ」
逞しい神馬が牽く、恐るべき王の姿を目の当たりにして、デーイポボスの心に宿った炎は一瞬消えかかった。尊敬する兄ですら及ばなかった、アキレウス・・・。その似姿を目前にして、彼の覚悟が大きく揺らいだ。
それは一瞬の硬直であったが、彼にとっては無限の様な逡巡であった。デーイポボスは意を決し、威風堂々たる勇士の前に立ち塞がった。
すると、終始無言を貫いていたネオプトレモスは、馬車を止め、冷ややかな眼差しを向けて答える。
「こちらは初対面だと思う。恐らく父のことか」
両雄は盾を前に構えると、静かに槍の穂先を敵の方へと突き立てた。デーイポボスは敵を葬らんと逸る暗い表情で、武勇欠けるところなきネオプトレモスを睨みつけた。
「そうだな。兄君の仇代わりにお前の装具を頂いていくぞ!」
「面白い、やってみせろ!」
ネオプトレモスが鋭い槍を構え、デーイポボス目掛けて投じると、すかさずデーイポボスは盾を構えた。もし仮に、輝ける君アポローンが、デーイポボスの身を案じて黒い雲で彼をお隠しにならなければ、その命は速やかにアイデスの屋敷へと運ばれていたことだろう。投じた槍が黒雲の中で地面を叩いたとき、アキレウスの優れた子は天へ向かって咆哮を上げた。
「神々よ、逃がしたな!すぐにでも災厄を取り去ってやろうとしたのに!私の手に掛かれば、あのような臆病者は一息に殺せたのだ!何という運のいい奴だ、ギリシャ人を次々に殺しておきながら、御咎めも無しなどと、よう許されたものだな!」
一方で、イリオンの防壁まで運ばれたデーイポボスは、斜に構えた君を激しく罵って言った。
「あの場所にネオプトレモスをとどめておけば、イリオンの防壁は簡単には破られないだろうに!俺は戦うって決めたのだから、神よ、俺の願いを酌んでくれ!」
「足止めなどできようものか。アキレウスの子はお前よりはるかに優れている。犬死されてはパリスだけでイリオンを守ることになるぞ」
アポローンはこのようにおっしゃると、デーイポボスを安全な防壁の中へとお運びになって、靄の中へと消えてしまわれた。
残されたデーイポボスの周りには、アカイア勢に酷く打ちのめされて震えるイリオン勢の戦士たちがあった。行き場のない感情を吐き出す場所もなく、デーイポボスは激しく憤って地団太を踏んだ。
一方、怒り心頭に叫んだネオプトレモスの声は、天見晴るかすゼウスにまで届き、狡知のクロノスの御子はこれを聞き入れることにされた。たちまち黒い雲は地上から取り去られ、晴れた空を行くヘリオスよりも明瞭に、平野全土を見通すことができた。
イリオン勢の多くは、スカイア門の前に群がり、まさに撤退を進めている。勇猛なアキレウスの子は、好機を逃すまいと仲間たちに訴えて言う。
「もう少しだ!アカイア勢の勇士達を、勇気を奮い立たせ、勇猛果敢に敵を攻め落とそう!イリオンの防壁は間もなく落ちるぞ!そら、進め!進め!」
負けじとパリスが声を上げる。
「守りを固めて攻めます!命が惜しい者は防壁の上で、勇気ある人はスカイア門を塞いでください!」
アカイア勢はみるみるうちに城門へと迫る。歩哨路を満載にするほどの戦士たちが矢と石、手槍を構えて一心不乱に抵抗する。スカイア門の前で槍と盾を構える戦列は、大槍を前へと突き出して、迫り来る駿馬たちを傷つけようと逸った。
両軍ともに多大な犠牲を払いながら、スカイア門攻略戦が始まったのである。
神々も黙っておられなかった。遠矢射る君アポローンは、すぐさま雲でその身をイリオンの地へとお運びになる。地上に落とされる影が一つないほどの大きな光が舞い降りると、見事な箙が揺れて音を立て、アカイア勢を酷く狼狽させる。涼やかな顔立ちを保ったままで、輝ける君は無情の矢を放たれた。恐るべき弓弦の音が周囲に響き渡り、アカイア勢は疫病みの恐怖に慄いた。
一方、アポローンの御光臨をお知りになった大地を揺るがす君ポセイダオンは、アカイア勢の陣屋へとその巨躯をお運びになって、地上へと上がられた。そして、闇晴らす光明が地上に溢れる中で、彼の優れた甥を御諫めになった。
「アポローン!この期に及んでイリオン勢に与するのか!ならばギリシャの海神は全て、テテュスのためにイリオンの地を激しく揺るがし、冥府の底へと運んでやるぞ!お前の最も恐れていることだ!儂ならば容易にできるというのは、お前ほどの神ならば明知のことであろう!」
ポセイダオンが激しく御諫めになるのをお聞きになり、輝ける君は心を痛めながら天へと戻ってしまわれた。イリオンの地を守るためにはそれよりほかになかったのである。こうして、男たちの戦いから、神々の干渉が退いた。その戦いは無情な死を大地に振り撒いて、肥えた犬どもが平原を喜んで駆け回った。
徹底抗戦をするイリオン勢は、ギリシャ軍が新たな予言を受けて撤退するまで、賢明に抵抗を続けた。退いた後も、大地を撫でる冷たい風が、彼らの背筋を凍てつかせて止まなかった。




