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イリオンの矢  作者: 民間人。
不朽のアスフォデルス
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延命措置の命乞い

 (エーオース)が空を渡り、東の地平線に赤々とした太陽が昇り行くその時、敗戦の予兆が間近に迫ったイリオン勢は、身に纏わりついた汗をそのままに悲しみに打ち震えていた。輝くヘリオスの戦車は最早彼らの恵みではなく、暗く先の見えない夜だけが彼を癒していた。


 暁の中にあるイリオンの丘は、雨に降られた後に雲が空を覆い隠して、苔むしたかのように、冷たい涙が緑の大地を濡らした。彼らの多くはアキレウスが未だ生きていたのだと信じた。ネオプトレモスはそれほどまでに武勇に秀でていたのである。


 イリオンに滅びの暗い光が迫る中で、アンテーノールは暁が照らす天へと手を合わせて祈りを捧げた。


「不壊なる神よ、人都を守る主神(ソシポリス)ゼウスよ。我らがイリオンの都が滅びゆく運命にあるとおっしゃるのであれば、せめて素早く、女子供と男達を一所に留めたままで、我らの命を奪って頂きたい。長々と苦しみの渦中に押し留めて、私達に無情の苦しみを与えないでいただきたいのです。あるいは、この運命をご自身が望まざるのであれば、あの恐るべきアキレウス、いや、アキレウスにも似た若い勇士を我々から退けて、我らの都市を救ってください」


 アンテーノールが祈りを捧げる時、暁に照らされた雲は赤から白へと移ろいゆく。そのように、神はオリュンポスの御座から人共を見おろしていらっしゃった。そして、その手に雷霆を持ちながら、憂いを帯びた御顔で、アンテーノールの願いの内一つを叶えることとされた。すなわち、神の見事な執り成しによって、滅びゆくイリオンの都で、彼らの子孫と共に、戦士たちが滅びることをお許しになったのである。これは、雷を愉しむ君ゼウスが、既に裁定を下しておられたためで、イリオンを滅ぼし、人類の半分をアイデスへと預けることを望まれたことを暗に示してもいた。


 光明が照り付けるイリオンの町は、眩いほどの美しさであった。今、戦場には非情にも死者の山が積み上げられ、それらの肉を、野蛮な野犬が食らっている。それと比べれば、町には女たちが育てる花の残り香があった。そして、宮殿にも、パリスとヘレネーが育てた花が咲き誇り、朝露に陽光を映していた。


 輝きに満ちた朝の庭園を、失意のプリアモスが歩んでいく。背むし男のように背を丸め、賢明なる老王は弱々しい老人に成り下がっていた。彼は子供らの死を想い心を狂わせたヘカベーを慰めつつ美しい花々を指し示して話しかけたが、王の言葉にも抑揚はなく、溌溂とした輝きは損なわれていた。ついにヘリオスが燃え上がる戦車で空を渡り出すと、山際にあった輝きは天空の上に躍り出る。老王はこの忌まわしい輝きに胸を痛め、妻を連れて宮殿の中へと駆け戻ると、震える声で伝令を呼びつけて言う。


「弔いだ、死者を弔うために暫く休戦を申し出るのだ!」


 それはアカイア勢を城門から遠ざけるための、老王の必死な抵抗であった。


 伝令は半ば追い出されるように宮殿を出発すると、アカイア勢が陣を敷く船団まで駆けていく。イリオンの都を故郷と考える者たちは、誰もが戦を遠ざけるために必死であった。追い出された伝令でさえ、恐れ慄きながらアカイア勢に近づき、命乞いでもするかのように若い勇士の膝に取り縋って弔いを請うた。この若い勇士はネオプトレモスであったが、戦場に出なかった王の伝令は美丈夫なこの勇士しか言い包められる自信がなかった。もっとも、アキレウスの優れた子が、彼の心から離れた要望を聞き入れるはずはないのだが。


「そこの優れた勇士よ、どうかアカイア勢の猛将達に伝えておくれ。老王プリアモスは先の戦いで死んだ者たちを弔うために休戦を求めていると。どうか断らないでおくれ。私達は本当に、エウリュピュロスを尊敬していて、多くの仲間たちと共に彼らを弔いたいのだ」


 アキレウスの優れた子は、これを好機ととらえて伝令に答えて言う。


「確かに、アカイア勢にも多くの犠牲が出た。死者があれこれと私達を苦しめることもないしな。そういう事であれば、アトレウスの子らにも伝えておこう。私もこの機会に父に挨拶をしてくることにするよ」


 この応答に、伝令は心の底から喜びに満たされて涙を流し、ネオプトレモスの逞しい脛に縋り付いて謝意を述べた。イリオン勢の惨めな醜態は、アカイア勢には嘲笑の的になっていたであろう。しかし、アキレウスの優れた子は、こうした凡夫たちの事など意に介することは無かった。伝令は彼に謝意を述べると、すぐにイリオンの都へと戻っていった。彼の足取りは軽やかで、宮殿で震えていたプリアモスも、伝令の足取りを見るなり胸を撫で下ろした。


「葬儀の支度をしよう。皆の者、薪を集めよ」


 プリアモスがこう告げると、イリオン人は内心安堵しながら、薪を集め始めた。イーデーの山際まで赴き小枝を集める者、無花果園の枯れ枝を折る者、それぞれが心安らぐ場所へと赴き、火葬のために薪を集めた。

 パリスはイーデーの山へと吸い込まれように向かったが、そこには小鳥の囀りや、羊どもの鳴き声がのどかに響いており、彼の張りつめた心を解した。改めて穏やかな日々に心を預けると、幼い頃から慣れ親しんだ故郷の音や、サンダル越しの柔らかな土の感触が、彼に纏わりついた不釣り合いな荷物を降ろしていくようであった。ちょうどそのように、パリスの足取りは少しずつ軽やかになり、薪を集めるために手斧を軽やかに振るった。

 イリオン人の中にはこの山で薪を集める者もあったが、パリスの手際の良さに驚く者は多かった。何故なら、戦場でのパリスは常に勇気に欠けており、得物の扱いにも慣れていないように思われたためである。しかし、山育ちのパリスは、むしろ手斧や狩猟用の弓矢、毛刈り鋏を用いて羊毛を刈る作業は、都市の住民よりも手慣れている。これは至極当然のことであった。


 このような器用で身軽な身のこなしに、イリオン人はかえってパリスを訝しんだ。戦場での動きの悪さは、ギリシャ勢と通じているからではないかとさえ訝しんだ。


 しかし、薪を集め終え、満載の馬車を動かす時、パリスの足取りはとても重いものになっていた。それを見て、彼を訝しんだイリオン人はむしろ安堵した。何故なら、パリスがギリシャ勢に与しているならば、葬儀に際してかえって身軽に構えているはずで、明日のことを思って足取りを重くするのは自分達と同じだったからである。


 こうして、戦死者たちの葬儀が始まった。

 船団の脇で薪をくべるギリシャ勢は遺体の周りで葬送競技をして士気も高く保ち、ネオプトレモスは十二人のミュルミドンらと共に、アキレウスの塚に赴いて父を弔った。

 一方、イリオン勢は心安らぐ夜の中で、戦友たちの遺骸が燃え朽ちていく様を眺めて、ただ、さめざめと涙を流した。

 明日は我が身と心を委縮させ、神々の防壁に身を寄せながら、神々へと祈りを捧げた。葬儀の中にはアンテーノールの姿もあった。彼は英雄の孫エウリュピュロスが葬られた炎に寄り添って、神々の元へと還っていく戦士たちの安息を願った。彼の願いは、不壊なる神々の主人ゼウスも聞き入れられ、イリオン勢の優れた勇士達はヘルメイスのお導きにより、エリュシオンへと送られた。


 葬儀はさらに二日間続き、うず高く積まれた遺体が全て灰となって地上の砂に収められると、再び戦闘に怯える日々が始まった。


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