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イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの矢
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不吉の影

 この、忌むべき戦いは、イリオンの戦士たちの胸の内に巣食ったトラウマを呼び起こした。誰もがアキレウスの幻影を見て、ネオプトレモスに恐れをなしたのである。ところが、アキレウスと対峙したことのないエウリュピュロスとその戦士たちは、そうとは知らずに勇猛に戦った。

 空に夜が巡り来ると、野営地に薪を集め、火をくべたイリオン勢は、身を寄せ合って打ち震えていた。

 その様子を怪訝そうに見ていたエウリュピュロスは、パリスに声を掛けて尋ねる。


「どうしたことだろう。彼らは突然、敵に恐れをなしたように見えるのですが」


 パリスは英雄の孫に、素直にその理由を打ち明けた。


「私と同じであれば、恐らく彼らも、あの若者にアキレウスの幻を見たのだと思います」

「アキレウスというと、ヘクトール殿を討った勇士ですか。では、彼はその血縁者というわけですね」


 炎が赤々と燃え上がり、腰を下ろして語り合う兵士達の姿が見える。心をやわらげる会話の合間に、薪の弾ける音が点々と鳴り、和やかな語らいにリズムをつける。美貌神にも見紛うパリスは冷たい岩に腰かけて、膝を抱いて答えた。


「えぇ、正直に言いますと、イリオン人は誰もが、アキレウスのことを恐れているのです。腹の底から耐え難い恐怖が込み上がってきて、口の中が酸に満たされたようになってしまいます。それ程、恐ろしい男でした。丁度、アカイア勢があなたを恐れているのと同じようなものです」


 二人と同じ炎を囲んで、二人の会話を聞いていたイリオン人の戦士は、会話に割って入った。


「ですから、恐れを知らぬエウリュピュロス殿は、私達にとって希望の星なのです」


「なるほど。それならば、夜が明けた後は私があの英雄の子を引き受けましょう」


 エウリュピュロスの勇敢な言葉を耳にすると、幾つかの炎を囲んで項垂れていた仲間たちは、皆顔を上げて勇気を取り戻した。そして、恐れを知らぬ英雄の孫を、いろいろな言葉で褒めそやして言う。


「流石はヘラクレスの血を受け継いだ男だ!」

「盾に描かれた逸話に、新たな物語を刻むのですね!」

「皆、エウリュピュロス殿について行こう!」


 肌寒い平野に喝采の声が響き渡る。幾人もが囲む炎は拍手と喝采の声に仰がれて激しく揺れ、勇気を萎ませたイリオン人の表情を明るく照らした。


 安らかな夜が空を巡り行くと、休みを知らぬ暁が、燃え盛る戦車を引き連れて空を登ってくる。深まる夜に心を休ませて、戦士たちは明日の戦いに備えて眠りについた。


 仲間たちがゆっくりと休めるように、パリスは寝息を立てて炎を囲む仲間たちに、薄い衣服をかけて回る。

 そうして仲間たちが寝静まったあと、小さくなった炎の前に腰かけたパリスは、ぼんやりと平野を眺めていた。見張り達が灯りを掲げて周囲を警戒している。そして、仲間達の中でもひときわ大胆なエウリュピュロスが、盾を背負ったまま横になっていた。その顔も、小さな炎の前に僅かに照らされて、子供の様な無防備を晒している。そうして力強い勇士達が、赤子のようにガイアの胸に頬を預けて眠りこけていた。


 そのような中で、パリスは闇の中に浮かぶ白い花を遠目に見つけた。それは、時折宮殿の周りで目にしたアスフォデルスで、それが闇の中に再び浮かび上がっていたのである。若い英雄の子を目にした夜に現れた不吉な予兆は、彼の心を執拗に揺さぶった。ちょうど彷徨う魂のように浮かび上がるアスフォデルスに向けて、彼は苛立たし気に弓を構える。しかし、オリュンポスの御座から降ってこられた輝ける君アポローンは、パリスの柔らかい手を戒めておっしゃった。


「苛立ち任せに射抜いたところで、運命は変えられぬぞ」


「アポローン様。分かっています。でも、この心まで鎮めることはできない!」


 パリスは恐怖と悲しみに苛まれて声を荒げた。斜に構えた君アポローンは、冷たい眼差しを憐れな王子に向け、蔑むようにおっしゃった。


「だから人間は不完全な生き物なのだ。その軽率さ故に、運命の糸を手繰り寄せてしまう。ちょうどそこに咲くアスフォデルスと並び咲くようにな。己が運命を速める必要は無いだろう」


 輝ける君はそのままパリスの弓を下ろされる。そして、膝を抱えて座る美貌のパリスの隣にお座りになった。


「アポローン様は、何故ここにいらしたのですか?私達が何か、粗相をしてしまったのでしょうか」


 尋ねるパリスに、輝ける君アポローンは、答えておっしゃった。


「アテーナーが喜び勇んでシーゲイオンの岬に降り立ったからな。不吉な予兆と見てお前たちの様子を見に来たのだ。予想通り、良からぬ運びとなっているようだな。父君や母君の気に障れば、再び恐ろしい事態を運ぶこともあろうから、そろそろオリュンポスに戻るぞ」


 こうおっしゃると、眩い輝ける君はパリスに柔らかな紫雲を掛けて、心地よい眠りに誘われた。美貌神にも見紛うパリスは、たちまち神の暖かな雲に身を預けると、心地よく眠りに身を任せた。


「運命が決まったものを見たくはないものだな・・・」


 アポローンは静かにそう呟かれ、そのままオリュンポスの御座へとお帰りになった。


 その夜は、イリオン人と同じように、ギリシャ軍の陣屋では、誰もがアキレウスの優れた子、ネオプトレモスの功績をたたえて褒めそやした。


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