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イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの矢
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弔いの日

 エウリュピュロスの猛進は凄まじく、イリオン勢とアカイア勢の形勢は逆転していた。ギリシャ軍が防壁の付近に追い詰められ、時には防壁の内側から抵抗した。しかし、彼と対峙した戦士たちは時には胸に槍を受け、そうでない者は惨めに遁走して防壁へと戻っていった。ギリシャ軍の多くが防壁の内側から石や槍を投げて対抗したが、戦局は一向に好転しなかった。


 イリオン勢はついにギリシャ軍が撤退してくれるものと喜び、徹底的に攻勢を加えた。犠牲者は絶えなかったが、それは両軍変わりなかったために、士気が落ちることは無かった。


 数日間の激戦の後、民を統べる王アガメムノンは、劣勢を覆すべく策を弄した。


「アルゴスの優れた戦士たちよ、勇気ある者は名乗り出るがよい。その者に敵に立ち向かうための重要な任務を与えよう」


 傲慢な王アガメムノンが言うと、アルゴス勢の多くが名乗りを上げた。そうすることが、王を不機嫌にさせない最善の手段であったためだ。アガメムノンのその中から一人を指名し、その者に親書を渡して命じた。


「この手紙を、エウリュピュロスに渡してこい。我が軍とイリオン勢共の犠牲者を、それぞれ弔うための時間を求める手紙だ」


 この時、多くの者達がその意図を解しかねたが、もしその場に機略縦横のオデュッセウスがいたならば、この妙案に素早く賛同したであろう。オデュッセウスは遠く海を渡って優れた英雄を味方に引き込もうと試みていたため、その場にはいなかった。

 その代わり、この妙案の意図を察して、賛意を示したのが老ネストールであった。彼は見事な白髪を揺らして王を褒めそやして言う。


「オデュッセウス殿が帰還するまでの短い期間を、互いに弔いに使うことで休戦するのですね。我が軍の消耗を避ける優れた案じゃ」


 ネストールがこう言って、はじめてアルゴスの戦士たちが賛意を示した。これは戦うための休戦期間だ、恥ずべき事など何もないのだと得心した。士気が低くなっていたとは言え、彼らは優れた戦士に違いなかったのだろう。すぐに使節は馬車を駆り、テーレポスの子エウリュピュロスのもとへと向かった。


 この時、イリオン勢は大攻勢を仕掛けようと逸り立っていた。アカイア勢に向けて、パリスは辛抱強く退却の勧告をしていたが、それがギリシャ軍には得意になっているように思えただろう。彼の本心は、ヘレネーと穏やかに過ごすことだけであったのだが。


 石突を大地について聳え立つ長槍の様は壮観というほかなく、使節は丸腰で向かったことを後悔して怯え切っていた。イリオン勢は誰もがこの男を晒し者にしようと考えたが、使節が現れたことを、軍勢の指揮者になっていたパリスとエウリュピュロスに伝えた。この時、パリスの顔は晴れやかで明るくなり、エウリュピュロスの顔は得意顔になった。両者は並んで使節の前に現れたが、使節はエウリュピュロスの方にのみ、礼儀正しく振舞って手紙を渡した。


「ヘラクレスの優れた子孫、テーレポスの子エウリュピュロス殿、こちらは民を統べる王、アトレウスの子アガメムノンの提案を記した親書です。一時の休戦をして、互いに死者を弔う時間を設けようというものです」


 この時、戦場には死屍累々がそのまま積み上がっていた。皆魂はアイデスの館へ導かれていたが、大地に残した肉体は、野犬や野鳥の餌となって積み上がっていた。それは悍ましい光景であったが、多くの者がそれを悲しむ暇もなかったのである。


 あるのは、恐るべき怒りと報復だけであった。


 そこで、エウリュピュロスは使節の態度にも腹を立てて、怒鳴り返して言った。


「惨めな時間稼ぎのために、お前はここに来たのか!?正々堂々と戦って、仲間たちに報いるべきだろうが!それにアレクサンドロス王子へ対するその態度が気に入らぬ!私の血の半分は、彼らの家族の血なのだぞ!」


 エウリュピュロスは怒鳴ったが、それを宥めたのは隣で話を聞いていたパリスであった。彼は怯える使節の手から手紙を受け取ると、その内容を熟読し、エウリュピュロスを説得して言う。


「二日間の休戦ですか。僕には受け入れる準備があります」


 パリスは周囲を見回した。異臭漂う死の大地に、野犬共が屯して遺体を貪っている。


「仲間の死に目を弔えないのは、酷く悲しいことですからね・・・。エウリュピュロス殿、どうか彼らの心を汲み取って、私達も仲間達を弔うことに致しませんか」


 エウリュピュロスはパリスの悲しげな目を見て、反論ができなくなった。彼は使節に荒々しく手紙を突き返すと、鼻息も荒々しく答えた。


「分かった、お前たちの要求を呑もう。二日間の休戦で、互いに死者を弔うため。武器を交えるのは無しだ。いいな」


 その凄まじい形相に気圧されて、使節は逃げるように去って行く。パリスはエウリュピュロスに丁寧に礼を尽くして、謝意を述べた。


「ありがとうございます。これで犠牲者も報われると思います」

「あなたは優しすぎる。すぐに足元をすくわれますよ」


 エウリュピュロスは吐き捨てるように言うと、イリオン勢に犠牲者の遺体を一所に集めるように指示を出した。


 使節はこのことを仲間たちに伝えたが、英雄ヘラクレスの孫が、アルゴス勢に怒って牙を剥いたと伝えては評判が悪いと感じた。彼は民を統べる王アガメムノンに、事実と逆の通りに伝えた。即ち、得意になったパリスは要求を断ったが、優れたテーレポスの子は即座に快諾し、パリスを言い包めたのだと。こうして両者は誤解を抱いたまま、二日間の休戦期間に向かった。


 イリオン勢は先に動くことができたので、先に犠牲者を一所に集め終えた。とはいえ、この時うずたかく積まれたイリオン勢の犠牲者の遺体は、その戦闘の凄まじさを物語っていた。パリスはその光景に胸を痛め、気分を悪くして吐き気を催した。しかし、心は彼らへの憐みで溢れており、仲間たちと共に薪を集めて、これを高く積み上げた遺体を囲むように組み立てた。

 遠くではギリシャ軍が遺体を集めて盛んに声を上げて泣いている。その悲痛な叫びは白い腕の女神ヘーラーの心を痛めたが、同じように遠くから響く鳴き声にパリスも心を痛めた。犠牲者の少なくない数が、矢傷を負っていた。


「兄さんのことを思い出したんだ・・・」


 パリスはデーイポボスにそう零した。ヘクトールを慕う兄弟は黙って同意し、組み敷かれた薪の中の多くの犠牲者たちに祈りを捧げた。


 夜には火がくべられ、薪が爆ぜて大きな炎が遺体を包み込んだ。濛々と立ち込める灰と煙は、漂う死臭を洗い流し、天におわす神々へとその肉体を届けていく。遥かなオリュンポスの峰へ向かう煙を見届けながら、しめやかに兄弟は語り合った。


「僕はアキレウスを憎いと思った。兄さんを殺したアキレウスを。そいつをこの手で殺めた後は、言いようのない胸のむかつきだけが残った。恨みを晴らして喜ぶこともできたはずなのに、できなかったんだ」


「分かるよ。俺はいい気味だと思ったのに、少しも嘲り笑うことができなかった」

「悲しみを目前で見た時、それを晴らそうとしてする復讐は、とても虚しいものだよ」


「それなのに、仇が生きていると知ると、腹の虫が収まらない。どうすればいいんだろうな」


 二人はそれきり黙って天を見上げた。エリュシオンへ送られていく戦士たちの稀有な魂を見届けた。


 そうして悲しみ泣き崩れるもう一つの集団が、遅れて薪に火をくべた。遠くで赤い炎がうなりを上げる。

「あっちも、始まったみたい」


 肉の焦げたにおいが周囲には漂い、燃え尽きて崩れ落ちた薪の中では、黒い煤と骨だけが残った。


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