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イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの矢
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兄の死を嘆くポダレイリオス、老雄ネストールと語らう

 ところで女神よ、イリオン勢の戦士たちにも家族があるように、アカイア勢の勇士達にも家族がある。先の激戦で兄マカオーンを亡くしたポダレイリオスが、この時どのようであったのかを、私に語らせたまえ。


 輝ける君アポローンの御子である、神にも等しきアスクレピオスの御子、ポダレイリオスは優れた医者であったが、その為に、武器を取って戦列に並ぶことができなかった。何故なら、この時の戦いはギリシャ軍の多くを傷つけて、彼の癒しの力を多くの者が欲したからである。その時、兄を失ったポダレイリオスは酷く取り乱して槍を取ったが、務めを果たすように仲間に縋られて、涙ながらに参戦を見送ったのである。


 無事に遺体が運び込まれた時、ポダレイリオスの悲しみは頂点に達した。アカイア勢の勇士達をかき分け、兄の遺体を見つけると、強引に疲弊した戦士の間に入り込んで、彼らの足を止めさせた。彼は兄の遺体を抱いてさめざめと泣き、その日の美貌確かなニーレウスの葬儀の間も、兄のために泣き続けた。


 心を覆う(ニュクス)が空から隠れた時に、空には(エーオース)が巡り来て、ポダレイリオスの頬を伝う涙を白く照らした。その日も、士気の大いに下がったギリシャ軍が全軍出征する時に、彼は兄の遺体を抱いて延々と涙を流した。


 夜のうちに丁重に葬られたマカオーンであったが、その墓の前には一日中ポダレイリオスがあった。


 戦場にはエウリュピュロスの恐るべき力によって悲鳴が次々と上がり、絶え間なく盾と槍、石と兜、鎧と矢がぶつかる音がけたたましく響いていた。


 しかし、ポダレイリオスの耳には何も届かなかった。彼の視界には涙ばかりがあり、墓石が地面に埋もれる静かな音だけが、彼の耳に届いた。

 そして、その囁きは彼をも死へと誘おうとする。彼は囁きに心を打たれ、毒を持ちこんだり、槍を飲み込もうとしたり、何であれ自殺を試みた。これを多くの仲間たちが励まして何とか命を繋いでいたが、彼らも戦いに向かわなければならない。一人、また一人と、民を統べる王アガメムノンに諫められて彼のもとから去って戦場へと駆り立てられていく。

 こんな有様であったから、老齢の勇士ネストールは、うら若き心が晴れることを望んで、マカオーンの墓石にお参りに来た。


 彼はポダレイリオスの隣に屈み込むと、涙で顔の荒れた若い医者に優しく声を掛ける。


「ポダレイリオス殿、私も手を合わせて良いかな?」


 ポダレイリオスは黙って頷いた。土は涙でしとどに濡れ、恵雨の如く大地に降り注いだ。とめどなく流れ落ちる涙はマカオーンの眠る土の中に浸み込み、兄弟の間を隔てる物を弱々しく穿つ。ひとしきり祈りを終えた老ネストールは、ポダレイリオスに語り掛けて言う。


「悲しみに打ちひしがれた心に色々と手を尽くしても、なかなか悲しみは飛び去ってくれないものだなぁ。君もそうは思わんかね?ポダレイリオス」


 ポダレイリオスは言葉も出せずに頷いた。深い悲しみを感じ取った老雄は、その心を汲み取って続けた。


「儂も我が子を失くして、酷く悲しみに打ちひしがれたが、悲しみだけは飛び去ってくれず、今も心の内を痛めつけている。立ち直ることは出来ないのだな。だが、死は必定のさだめであって、神は人を見逃しては下さらぬ。ときには儂のような老人より先に、若い衆を連れて行ってしまわれるのじゃ。だから、悲しむばかりでは生きてゆけない。悲しみを胸にしまって生きていかなければならない」


 このように優しく語り掛ける老雄に、死と向き合うことも多い医者のポダレイリオスは心を許して打ち明けた。


「ご老人、私は優れた兄を持ち、そして亡くしました。兄は、父アスクレピオス亡き後、私を養ってくれたのです。ですから、私にとっては父でも兄でもあります。私の医術も兄譲りのものです。手解きを受けたおかげで、私達は父の財産を互いに分け合って、仲良く過ごすことができたのです。それが、この仕打ちです。あまりにも惨い・・・」


 ポダレイリオスは墓石に縋り付いた。最早影も形もない兄に縋りついて泣いた。

 老人は胸が締め付けられる思いを抱き、彼の肩を我が子のように丁寧に抱いて、墓石に取り縋る腕さえも温い老体で包み込んだ。


「そうだなぁ。モイライが糸を紡ぐとき、それは悪戯に儂らを苦しめる。クロートーが伸ばして下さった糸は、豊かなラケシスが計って下さる。そして、無情なアトロポスが断ち切ってしまわれた。そうして長短それぞれに作られた運命が、性悪に長いものを与え、善良な者に短いものを与えてしまわれることもある。しかし、こう信じなさい。君の兄は多くの人の命を救った医者だ、善行は果てしなく多く、神々はそれを見守って下さる。だから、彼の魂は天上で穏やかに過ごせると。いくら長い糸を受け取った悪人が追ったとしても、その後の苦しみの方がよほど長いのだから、君の兄は幸せに過ごしておるよ。君も、優れた兄と同じところに行けるように、人を救って過ごすのが良い。そうすれば、兄弟ともども天上の神々が救い上げて下さって、君たちを巡り合わせて下さるよ。もし短い糸を受け取っても、それに気を病んで性悪になってしまっては、二度と兄と巡り合うことはできない。だからな、多くの仲間を助けてやっておくれ。君の助けを必要とする人々は、大勢いるのだからね」


 ネストールがこのように慰めると、墓石を濡らした雫がネストールの服をも濡らした。それを優しく受け止めた老雄は、彼を船団の中に導いて、仲間達と共に穏やかに過ごすように取り計らった。


 人が深い悲しみに落ちる時、神々は無情を齎すことも多い。そのような時に、老雄の言葉は人を慰めて、導くものである。それ故に、ネストールを慕う若者が多いのは当然のことであろう。


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