勇士アイネイアースとの邂逅
ペレクロスの元へ向かったパリスは、アフロディーテの胸に寄り添われて、彼女の語り掛けるままにペレクロスに船を造らせた。プリアモス王きっての願いとあっては、ペレクロスも躍起になり、この美しい王子に相応しい立派な船を造った。ところが、造船はアテーナーの権能の一つであって、ペレクロスの凶行は、女神にとって真に受け入れ難い出来事であった。彼の腕は確かであったが、そうして女神が彼を手放したために、その船は最善の船出をすることを阻まれた。
船の完成するころになって、ようやく我に返ったパリスは、既に抗い難い運命が始まったことに気づく。アフロディーテは先刻の通りには惑わさず、彼の傍らで囁いた。
「美貌確かなアレクサンドロス、私を選んだ可愛いパリスよ。安心して私に身を預けなさい。それしか、お前が助かる術はないと、ようく、分かっているでしょう」
パリスは竣工する船を見ながら、息を呑んだ。本当に彼は無力であり、神意に身を預けることしか許されない。
アフロディーテは身震いするほどの美しさの、熱い唇でパリスの耳朶を食まれた。柔らかな吐息が、パリスの心を揺るがす。
狼狽えるパリスに女神が囁かれておっしゃった。
「恐ろしいですか?パリス」
女神が肩に御手を添えられ、耳元で囁いておっしゃるので、パリスはその細指に心を許して、恐る恐る頷いた。女神はパリスの耳元で、翼あるお言葉を投げかけた。
「それでは一人とは言わず、いま一人誘って同船してはどうですか。あなたを助けるのに相応しい勇士を一人、ご紹介いたしますよ」
アフロディーテはそうおっしゃると、パリスの肩からするりと手を下ろし、踊るようなしなやかさで身を翻した。女神はすぐに戻って来られる。彼女はパリスにも劣らぬ美青年を連れて来られた。
その容顔はアフロディーテの艶やかな微笑によく似て、眉目秀麗でありながら、数多の勇士に引けを取らぬ厚い太腿を持っている。その雄々しい勇士はパリスに近づいて言う。
「その美貌、神にも見紛うアレクサンドロスよ。母があなたの相談に乗れと仰せになるので、馳せ参じました。いかがなさいましたか」
「あなたは?」
「申し遅れました。私は、アフロディーテとアンキーセースの子、アイネイアースと申します。さぁ、信頼して頂けましたか?」
アイネイアースはパリスの倍もある太腕を、剣の柄に置いて耳を傾ける。ペレクロスがひっきりなしに板を打ち付ける音で、互いの声は大層聴きづらいのであった。
パリスは口をもごもごと動かすものの、周囲の音が大きすぎ、アイネイアースの耳に声を届けることは出来ない。堪えかねたアイネイアースは、腹に息を大きく吸い込み、大音声で言うには、
「ここでは答えづらいのでしたら、私の家にお招きしましょうか」
アイネイアースはパリスの手を掴むと、彼を強引に引っ張り出して宮殿近くに構えられた自宅へと招じ入れる。
静かな室内で向かい合った二人は、テーブルを囲んで向かい合う。パリスは長い間躊躇っていたが、アイネイアースへと上目遣いをした。
「アフロディーテ様に、強引に、ヘレネーを妻に迎え入れるようにと勧められました。本当は、オイノーネーと静かな暮らしをすれば満足だったのです」
パリスはその思いを率直な言葉に乗せたが、アイネイアースは彼の身を案じて言葉を遮った。
「なるほど。そういう事であるならば、私が一肌脱ぎましょう。あなたの御家族はその提案に賛同しておられるのですか?」
「皆、警戒しております。滅びを招くと予言された私の申し出ですから、致し方ないことです」
アイネイアースはパリスに耳打ちをし、口裏を合わせるように促す。パリスはオイノーネーの幻のことを思い出し、彼の言うように気丈に振舞って見せる。
「助かります、アイネイアース!持つべきものは友ですね」
「母の神意に感謝いたしましょう」
女神はその一部始終を見守っておられたが、知恵深き勇士アイネイアースの顔に免じて、パリスの失言をお許しになった。パリスはアイネイアースから、イリオンの内情や女神アフロディーテと自分との関わりについて詳細に聞き、旅立ちまでの時間を過ごすこととなった。その心の内は暗い感情に支配されていたが、会話はいくばくか心の慰みとなった。
船は一夜にして出来上がり、やがて、出奔の支度が整ってしまう。翌朝、旅の安全を図るため、アフロディーテとポセイダオンに捧げ物をした。イリオンの不落の市壁を背にして、後ろ髪引かれる思いを抱きながら、パリスは船に乗り込んだ。
それでは女神よ、海の果てなるイリオンから、スパルタまでのその海路を、導き給え。はじめイリオンとアカイアの地を隔てる広大な海へ出るために、へレスポントスを船出した。その名は空に瞬く黄金の御羊から落ちた憐れな娘、ヘレの名を借りたものである。
その不穏な逸話と、仇なす神の名に似た名を持つ娘であることとが、彼の航海を苦難に陥らせたのかも知れない。たちまちに空は暗雲が垂れ込める。黒い雲は渦巻き状に互いの背を追い回し、その凄まじい汗が地上に降り注いだ。
船に打ち付ける大粒の雨は波打つ海を荒々しく叩き、目覚めたポセイダオンがイリオンの愚かな王を祟って漕ぎ手の櫂を海へと引き込もうとされる。
勇士アイネイアースはすぐさま櫂を武器として、荒れ狂う海原へとそれをかきいれる。しかし、大海の神の前にはヒトの力は儚く、彼はバランスを崩すパリスを支えるために、櫂を取り落としてしまう。
海原は荒れ、パリスは激しい雷雨に打たれながら、揺り動かされる母の背に向けて嘔吐した。即座に泡より生まれ出たアフロディーテの出自を思い起こし、怯えながら許しを乞うて言う。
「ああ、女神よ、この非礼をお許しください。私はあなたの背に薄汚れたげろを吐き、そのたおやかな背を汚しました。どのような事情であれ、美と愛を穢すことは許されることではありません」
パリスの脳は揺り動かされ、ポセイダオンは次々に櫂を奪い取ってしまわれた。アフロディーテは海原に乳を垂らして、その甘やかな声で、荒れ狂う神を宥められた。
「雄々しい大海の神よ、どうかお怒りをお鎮め下さい。あなたは私のお体まで海へ引きずり込むおつもりですか。この男、憐れなパリスは、何もあなたを懲らしめるために、私の背を櫂で撫でたのではございません。私が撫でるように乞うたのですから、その背を撫でたに過ぎないのです」
すると、ポセイダオンは暫く高い波を船に当てられていたが、やがて欠くところなき美貌に免じて海は凪ぎ、波打つ砂浜がパリスらの視界に戻っていった。
やがてイリオンが眺望するダルタニアの地を抜けて、船はトラキアの地にあるイスマロス湖を、陸地を伝って進み始めた。
船はハイモニアを出て、いよいよアカイアへと至る。数多の花々が風に花弁を揺らしてパリスらを出迎える中、かの縁ある神を待つ花が、パリスの目に留まった。
「ヒヤシンスだ・・・」
太陽の如く輝く青く小さな花々は、切なそうに風に揺れて、飛び立つ烏を見上げている。この黒い烏は瞬く間にオリュンポスの峰へ向けて飛んでいったが、露に濡れるヒヤシンスは首を垂れて彼を見送った。
羊飼いのパリスにとって、縁深い神の一柱であらせられるアポローンは、ヒヤシンスの花を寵愛されていた。それは、愛すべき人をいたずらに殺された、輝きの君の慰みであったためである。昔、ヒュアキントスという少年があり、その者を、神は寵愛されたのだ。美しさが災いし、少年はゼピュロスのいたずらで死んでしまう。その死から生まれ出た花こそが、この悲しみに沈んだ青い花、ヒヤシンスであったのだ。
パリスはそれまでの人生で頼りにしてきた神に祈りを捧げ、ヒュアキントスへの追悼を行った。
船上での弔いは、オリュンポスの峰に座する輝きの君の目にも留まった。遥かに世界を見晴るかすオリュンポスの御座から、アポローンは災いの種をまく子、パリスを見つけておっしゃった。
「そのようなことはするな。お前を見捨てられなくなるだろう」
アポローンは胸中に苦々しい思いを抱かれながら、弓を手に持つか、竪琴を手に持つか、戸惑われた。この場でパリスを射殺してしまえば、イリオンは守られるに違いなかった。しかし、神のお心はそのような無慈悲な一矢を、素朴な羊飼いに与えることを躊躇われたのだ。
神の戸惑いを知らぬまま、パリスらはその川沿いにスパルタを擁するエウロータス川へと至る。様々な町がこの川に沿って建てられ、アカイアの人々はこの川を母なる川と呼び親しむ。この、ささやかな小川の流れに沿って船を漕ぐと、やがて壮大なタイゲトスの山々が現れる。激しく凹凸する岩肌を擁するこの山々には、香り高い草が生い茂り、踏み出すたびに、恍惚とする香りが匂い立つ。
この壮大な自然の要塞の中を、船は船底を川面に擦るように進む。やがて小さな村落が視界に広がり始める。パリスらはいよいよ、城壁のない都市、スパルタへと至ったのである。