アカイア勢の屈辱
早速戦争に参加することとなったエウリュピュロスは、支度を整えるイリオン人の戦列の前を通って様子を窺った。彼らは英雄の血を引くエウリュピュロスにしきりに緊張して、士気も高かった。満足のいったらしいヘラクレスの孫は、見事な盾を風に晒しながら持ち場へと戻る。その道中、遥かに遠方で支度をしたパリスが、矢筒を肩に掛け、弓を手に持って彼のもとへと現れた。
エウリュピュロスは槍を持たない王子の様子に驚き、満足げだった表情を再び驚きで染めた。
「ご来援感謝いたします。その身のこなし、輝く円盾と見事な装具も、英雄の子孫に相応しい、本当に見事な立ち振る舞いです。共にギリシャの豪傑を打ち倒し、イリオンに平和を取り戻しましょう」
「えぇ、嬉しいお言葉ありがとうございます。神々によって生死は決められているとはいえ、私は前線で逞しく戦うこととしましょう。私も死ぬまでは退却しないと誓いますので、あなたも、勇敢に戦って下さい」
エウリュピュロスは彼の矢筒を見ながら答えた。これにはパリスも意図を察し、右手を差し出して答える。
「僕には僕の戦い方があります。勇気を振り絞って戦うので、どうか、協力して下さい」
「そういう事なら。美貌神にも近いアレクサンドロス王子、あなたの全力を確かめさせてもらいますね」
エウリュピュロスは彼の手を取った。強い握手を交わした両雄の姿を見て、アキレウス亡き後士気も高まったイリオン人は俄かに沸き立った。その時、大歓声をかき分けたデーイポボスが彼らの前に躍り出る。彼は見事な装具を身に着け、盾と槍を構えている。
防壁に相対する景色は、彼には懐かしいものにも思えた。パリスは意気揚々として、血を分けた兄弟の肩を抱いた。
「エウリュピュロス殿、自慢の兄弟のデーイポボスが必ず力になってくれます」
「お前も力になるんだよ」
デーイポボスは乱暴にじゃれつく。かつては怯え切っていたパリスも、慣れ親しんだ彼の振る舞いを喜んで笑った。エウリュピュロスはその様子を眺めて、自らを鼓舞して石突で地面を叩く。
「よぉし、行きますか!」
大歓声が沸き上がり、イリオン人はアカイア勢との激しい戦いに向けて踏み出した。彼らの戦列が砂埃を上げて向かってくる様を、アルゴス勢は要塞の近くで迎え撃った。彼らはアキレウスとアイアースを亡くし、戦意を喪失していたが、互いに激励を交わして、勢いづいたイリオン勢に盾を向けた。
鎧と鎧、兜と兜が遂にぶつかると、凄まじい金属音が辺りに鳴り響いた。連なる槍の穂先が縦横に動き、馬や勇士らを屠って大地に捧げていく。その魂はアイデスの館を潤し、戦闘の後を追って野犬共がついて回る。
そのように、凄まじい戦闘が続く中で、一人当千のヘラクレスの孫は、抑え込まれるイリオン勢の前線に躍り出ると、さながらアキレウスの如くに暴れ回った。
美貌豊かなニーレウスを見事に討ち取り、その兜を奪い去らんと逸る。すかさず隙を突いたマカオーンが槍を突き出し、エウリュピュロスの右肩を突いた。肩からは豊かな血が迸り、汗に混ざって流れていく。力溢れんばかりのテーレポスの子は、仕返しとばかりにマカオーンの腰を槍で痛めつけた。マカオーンもまた優れた勇士で、懐に入り込んで無防備になったエウリュピュロスの頭蓋を目掛けて、尖った石を叩きつけた。見事な兜が彼の命を守ると、衝撃に手を痺れさせるマカオーンに、必殺の槍が繰り出される。心臓を一突きされたマカオーンは膝から崩れ落ち、その魂はアイデスの館へ運ばれていった。
エウリュピュロスが二つの死体を砂の上で辱めていると、ギリシャ軍の内から、どこからともなく声が響いた。
「ニーレウスとマカオーンを奪わせるな!全軍勇気を奮い立たせて戦え!」
エウリュピュロスの勇猛さにギリシャ軍の戦士たちは震え上がったが、自らを鼓舞して踏みとどまった。彼らの士気は大いに下がっていたが、心ひとつで踏みとどまり、戦局は均衡状態を維持している。
ここから、戦闘は二人の遺体を中心に展開していく。ニーレウスとマカオーンの遺体を回収するためには、ギリシャ軍の総力を結集させなければならなかった。大多数の勇士達がエウリュピュロスの武勇に苦しめられ、またその瞼が真暗の闇に覆われた。
アカイア勢は何とか二人の遺体を回収することができたが、その後がさらに問題であった。というのも、彼らはエウリュピュロスの凄まじい猛攻に堪えかねて、散々に遁走し始めたのだ。数少ない勇士がその場に残って攻撃をやり過ごしたのだが、それはオイレウスの子小アイアース、アトレウスの優れた子ら、アガメムノンとメネラーオスなどであった。
この時パリスは後方におり、戦局を注意深く確かめて、次々に矢をつがえていた。彼の目には戦局は非常に有利に見え、攻め時だと考えていた。そこで、パリスは周囲の射手たちを鼓舞して言う。
「前進、前進して!射程を伸ばして敵を消耗させます!」
パリスの声に答えて、多くの射手が前進し、一斉に矢をつがえた。遁走する的を打ち倒すのが半分、前線の勇士を妨害するのが半分で、射手たちは力を合わせて敵を追い詰めようと逸った。
しかし、優れた勇士らが揃ってエウリュピュロスに対峙したために、イリオン勢の戦士たちも五体無事とはいかなかった。軍勢の知恵者プリュダマスは、パリスの陰気な賢しさも彼を喜ばせたので、今が勝機と逸り立って、前へ前へと勇士らを押し進めた。少数のアカイア人を討ち取るのは容易いか、手こずったとしても彼らは手練れのものである。これを逃す手はあろうはずもない。彼はエウリュピュロスに続けとばかりに、全軍に指示を出して言う。
「囲め、囲め!敵は消耗しているぞ!」
戦列は折れ曲がり、歪曲してギリシャ軍の英雄達を取り囲む。これは名案であった。敵が優れた勇士であることを除けば。
オイレウスの子小アイアースは、プリュダマスが勝利に逸って声を上げたために、誰が戦列を率いる主人なのかを即座に理解した。彼は混戦の中、知恵者プリュダマスを狙って槍を突き出した。その鋭い穂先はプリュダマスの右肩から胸までを撫で、鋭い傷を作った。プリュダマスがたまらず後退すると、イリオン人の指導者が急にいなくなる。包囲した戦列は途端に統率を欠いて、一部の優れた勇士だけが脅威となった。
もみ合う混戦の中、アトレウスの子メネラーオスが、病み上がりのデーイポボスの胸に槍を突きつける。この槍は咄嗟に身を躱したおかげで、浅い傷しかつけられなかったが、手痛い負傷を嫌った彼が後退し、傷を癒そうとする。
こうして統率者と呼べるものはヘラクレスの孫エウリュピュロスのみが残ったが、統率を失ったイリオン人が包囲を解いて遁走を始める中で、その殿を務めるべく突き進んだ。多くの敵を屠った血濡れの槍で敵兵を通りすがり際に打ち倒しながら、彼は包囲の中心にあったアトレウスの優れた子らに向かって猛進していく。
猛将アガメムノンは怒り任せに暴れ回り、赤く染まった恐るべき形相でイリオン人を追い立てており、メネラーオスは兄に続いてイリオン人を追いかけた。優れた兄弟に迫っていくエウリュピュロスの前に立ちはだかったのが小アイアースである。
パリスは後退するイリオン勢を見て、すぐさま戦列が崩れたことを知る。彼は弓兵部隊に強く言い聞かせつつ駆け出した。
「殿を務めるエウリュピュロス殿を守る。あなた達はその場で矢を射掛けて、戻ってくる戦士たちを保護して下さい!」
後衛部隊はこの言葉に否やはなく、アトレウスの子らに続く少数の軍勢に向けて足止めの矢を放った。パリスは負傷したデーイポボスとすれ違い様に声を掛ける。
「無事でよかった、頑張ってくる!」
「・・・頼んだ!」
パリスは前線に向けて、デーイポボスは後衛部隊に向けて駆けていく。そして、パリスと同様に立ち向かう勇士がもう一人あった。
「おお!アレクサンドロス王子だ!怪我なされないように!」
「アイネイアースが僕のことをちゃんと守ってね」
パリスが真剣に言い放つのに対して、アイネイアースは茶化すように笑いかける。
「はは、じゃあ後ろにいてよかったんじゃないですか?」
「狙いにくいから。はい、真剣に!」
「手厳しいなぁ」
アイネイアースは軽々とパリスを追い越して、凄まじい速度でエウリュピュロスの前に辿り着く。彼は間髪入れずに俊足の小アイアースに飛び掛かると、彼の関心が一瞬アイネイアースに向かった。しかしそれは僅かの隙で、彼はエウリュピュロスにもアイネイアースにも隙を見せずに盾と槍で攻撃を躱そうとした。アイネイアースは飛び上がり、兜を目掛けて石を振りかざす。これをアイアースが槍で受け流そうとする。エウリュピュロスの鋭い長槍の穂先が、アイアースの向けた盾を貫かんとする。
その無防備になった右手に、パリスの矢が射掛けられた。
迫り来るパリスの矢に気づいたアイアースは、槍で矢を払いのける。無防備になった頭上から、大石が投げられた。アイネイアースの投げ込んだ大石は見事に兜に当たって脳を揺さぶり、小アイアースはたまらず昏倒した。彼は一命こそ取り留めたが、その戦場ではもはや戦う気力を失った。
こうして、前線にはアトレウスの子二人が、殆ど取り残された形となる。孤立した王たちを屠るために、エウリュピュロスがイリオン勢に無情の声を掛けて言う。
「皆のもの、ギリシャの軍兵どもを皆殺しだ!」
後退していたイリオン勢が踵を返して襲い掛かる。アトレウスの子らは四方八方から投げ込まれる石やら槍やら、あるいはパリスの矢やらを躱すのに精一杯になった。
アトレウスの子らの危機を察した少数の勇士達が、彼らに加勢してイリオン人の大軍勢に立ち向かう。こうして、再び前後縦横見えぬほどの大混戦が巻き起こる。エウリュピュロスは敵と見れば即座に突き殺した。次々と穂先を血で汚し、潰走するギリシャ軍を間髪入れずに追いかけた。
この時、パリスは無防備なままで比較的前方にあったので、四方八方から投げ込まれる手槍の脅威に、仕方なく掴んだ槍を両手で用いて、殆ど泣きながら躱していた。とはいえ、後退する余裕などなく、ギリシャ軍の射程にも入ってしまっていたパリスは集中狙いされる。ついに勇ましいトアースの槍が彼の滑らかな腿に槍を突き刺すと、パリスは女のような甲高い悲鳴を上げて蹲った。
ついに討ち取られるかに見えたパリスだったが、彼の生き汚さは凄まじく、普段の進軍では見せないほど、地を這う油虫の如くカサカサと四肢を動かして後退した。その姿は見る者の多くを不快にさせたが、誰もその速度を狙えないほどの俊敏さで後退したのである。
彼は置き去りにした弓と矢を拾い上げ、後退しながら敵を狙い撃つ。勇猛さが微塵もない彼のことを脅威と見るアカイア勢はほとんどいなかったが、彼はこの戦いにおいてエウリュピュロスに並ぶほど武勲を上げた。
戦士たちが武器を取って立ち向かう時、それは目の前の敵との激しいぶつかり合いである。そのため、誰もパリスの事など気にも留めない。臆病者が逃げているようにしか見えないし、実際にその通りであったからだ。しかし、したたかにも彼は、敵と味方の足や盾の隙間で弓を引き絞り、彼に注意を向けない多くの勇士が、目や顎や、脇腹や腿に矢を受けて戦場に散った。
最後には折り重なって倒れる遺体の多くがギリシャ軍のものとなった。それほどまでに英雄の血は強かった。ギリシャ軍が船団の中に無事引き返すことができたのは、慈悲深き夜が空へと巡り来て地上に靄をかけたからで、もし素早く夜が巡らなければ、ギリシャ軍の船団には火が放たれていたであろう。それほどまでに恐ろしい戦いによって、逃げ帰ったアカイア勢は屈辱の夜を過ごした。




