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イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの矢
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エウリュピュロスの訪問

 神々の手なる見事な防壁に守られたトロイア人は、次の戦いに備えて装具の手入れを欠かさなかった。いかにアキレウスを破ったと言っても、アカイア勢には手強い勇士が残っている。機略縦横のオデュッセウスに、その豪勇、アレースの如きメネラーオス、民を統べる王アガメムノン、テューデウスの子ディオメーデス、また、テラモーンの子アイアースもいると考えられていた。


 このように、アキレウスの死によって、イリオンの町は一時の活気を取り戻したが、未だ戦局は厳しいものであった。そこで、老王プリアモスは続けて援軍を呼び続けたが、次の来訪者は、プリアモスが恐れるヘラクレスの孫、エウリュピュロスであった。


 エウリュピュロスは防壁の門を叩く時、自らが持つ盾に布を巻き、その出自を隠してイリオンの地に足を踏み入れた。

 輝ける君アポローンの神官であるクリュセースは、神に供物を捧げる間に、鼎の中にヘラクレスの孫が来訪するという予兆を見て、すぐさまパリスの屋敷へと向かった。


 その頃パリスは、弓弦を張り直し戦に備えていたのであったが、クリュセースの訪問と聞いて急ぎ出迎えて、この予言について聞いた。クリュセースによれば、以下のよう。


「その美貌神にも見紛うアレクサンドロス王子、あなたを助ける神によれば、雷を愉しむ君ゼウスは、我々にヘラクレスの血筋の者を、援軍として寄越してくれるのだそうです。盾を隠した来訪者には、もれなく直接歓迎されるのが良い、とのこと」


 パリスもこれに応えて、「見張り番にも伝えて欲しい」と答えた。そして、クリュセースがこれを伝えに行くときに、ちょうど見事な盾を隠したエウリュピュロスが訪れたのである。これを受け、見張り番に言伝をして、急ぎパリスの元へと戻ったクリュセースは、彼を引き連れてエウリュピュロスの元へと戻った。


 エウリュピュロスの容顔はまことに美しく、その美貌はメムノーンに次ぎ、パリスにも似ていた。これは彼がラーオメドンの血を引く母の子であったためで、プリアモスは叔父にあたる。パリスと相対すると、エウリュピュロスは暫くその美貌に驚いて立ち尽くした。

 そのような彼の手を、パリスは優しく握って歓迎の挨拶をする。


「英雄ヘラクレスの血を引くエウリュピュロス様、イリオンはあなたを歓迎します。どうぞ、私の屋敷であなたを歓迎しましょう」


「驚いた。このような美しい女性が歓迎して下さるとは」

「へぇっ!?」


 パリスは声を上げて叫んだ。容姿こそ端麗だが、声も服装も男の装いをしたパリスは、自分の服や声を示して、彼に男であることを示す。ところが、身振り手振りをする指先も、腿も柔らかで美しく、美丈夫の少年のようであり、今度は年齢を誤って言う。


「そうか、従者の少年か。少し背は高いが、なるほど老王が寵愛するのも分かる」


 一人得心した風のエウリュピュロスに、パリスは必死に訴えかけて言う。


「王子です、パリス王子!アレクサンドロス!!」

「え、嘘・・・。君が?ヘクトールの次の子と聞いていたが」


 一連のやり取りを傍で見ていたクリュセースは、その気の抜けた様子に心を和ませ、神殿に戻るのをやめて彼らに随伴することにした。

 数分の説明の後、ようやくパリスを老王の子と理解したエウリュピュロスは、彼の後をついて屋敷へと向かう。その間、戦争で寂れてはいたが見事な街並みを横切り、その他見事な屋敷の前も通りがかった。


「この建物は?」

「そこは、亡き兄ヘクトールの屋敷です。今はスカマンドリオスと兄の妻アンドロマケーの屋敷となっています」


 その佇まいは宮殿にも似て見事なもので、エウリュピュロスは暫く屋敷の外観を眺めていた。石柱を基盤が支え、渦巻き頭の石柱が支える屋根は帯や彫刻が施され、華美な佇まいをしている。ところが屋敷の中は暗く、主人亡き後に喪に服す寡婦のような侘しさもある。


「大変立派な御仁だったようですね」

「えぇ、それはもう。イリオンの希望でしたから・・・」


 パリスも兄のことを思い、感傷に浸る。


「兄を亡くしてから、家族との時間が愛おしくてならないのです。ですから、エウリュピュロス様のご家族のことも聞きたいです。英雄ヘラクレスのこと、その妻のこと、御兄弟のこと」


「私の両親は父神ゼウスとその遣わした女鹿だと思っています。幼い頃は捨てられましたから」


 この境遇を聞くなり、パリスは彼に親近感を抱いて心を開く。外行きの落ち着いた声音をやめて、友人にするような穏やかな言葉遣いで語り掛けて言う。


「私も、助産する君(オルシロキア)アルテミスの御心配りで、雌熊に助けられたのです。身寄りのない子を救って下さる心ある神々のご神慮は感謝に堪えません」


 暫く屋敷を眺めた後、屋敷守る神(ヘルケイオス)ゼウスの見事な祭壇などを横切って、パリスの屋敷へと辿り着く。その道中、二人はエウリュピュロスの家族の話などを通して、打ち解けた。パリスは兄弟や王を招くために宮殿に遣いを寄越して出発させると、エウリュピュロスを歓迎して言う。


「改めて、王子パリスです。戦局が苦しいにもかかわらず、お越しいただきありがとうございます。エウリュピュロス様、どうぞごゆっくりお寛ぎください」


 これに応えて、ヘラクレスの孫も椅子に腰かけて答える。


「母から黄金の葡萄を贈られた時は少々驚きましたが、これも私達の縁だと考え直して、こちらに応援に参りました。あまり固くならずに、和やかに行きましょう」


「そうですね。料理を準備させますので、少しお待ちくださいね」


 パリスはこのように答えると、自分の育てた羊や牛を屠殺して解体し、屋敷の従者たちと共に厨房の窯に火を点けた。肉を窯で焼き上げ、塩を振りかけて土色の皿に盛ると、これを自ら運び出して客人をもてなした。エウリュピュロスは自ら給仕する姿に驚き、目を丸くして言う。


「本当に王子ですか!?礼儀や作法はどうなっているのですか!?」


 料理を机に置き、次の食べ物を取りに厨房へと戻りつつ、パリスは自嘲気味に答えて言う。


「ははは。暫く羊飼いとして過ごしていたので、こういう仕事の方が板についてしまっていまして・・・」

「何もかも変な御仁だ・・・。はやく老王や御兄弟にあって安心したい・・・」


 エウリュピュロスが狼狽えながら呟くのをパリスは耳にしていたが、構わずに色とりどりの果物や野菜などを運び込んだ。エウリュピュロスはこれらを平らげるうちに、パリスの子供じみた所作にも慣れていった。その間に、パリスの兄弟であるヘレノスやデーイポボス、老王プリアモスがパリスの屋敷に到着する。


 老王は彼を見るなり、喜びに心を揺るがされて涙を流し、逞しい体と抱き合って挨拶を交わした。ヘレノスは注意深く彼の荷物を観察していたが、食事を運ぶパリスに驚いて目を丸くした。そして、デーイポボスは意外にも料理上手なパリスの料理に驚き、またエウリュピュロスの堂々とした振る舞いに感心した。


「英雄ヘラクレスの子、その血筋も正しいあなたにご助力いただければ、一人当千の力となりましょう。どうかイリオン人を苦しめるアカイア勢を追い払って下さい」


 老王がこのように語り掛ければ、英雄ヘラクレスの孫は大胆不敵に答える。


「あの豪勇アイアースや、民を統べる王アガメムノンを必ずや討ち取って、彼らを盾に乗せてあなた方の屋敷にお運びしましょう」


「それは頼もしい!私からの贈り物も是非受け取ってください!」


 感激するプリアモスが運び込んだのは、見事な宝物であった。青銅の鼎や鍋、煌めく銀貨、とねりこの丈夫な槍と、革張りの均整の取れた円盾などがずらりと運び込まれる。種々様々な贈り物に、エウリュピュロスも歓迎して言う。


「こんなにたくさん頂けるのですか?いやぁ、これは、頑張らなければ」


 和やかな笑い声が上がった後、ヘレノスは彼の持つ見事な盾に関心を示して声を掛けた。


「ところで、エウリュピュロス殿、そこの荷物はもしや盾ではないですか?ぜひ拝見したいのですが」


 僅かに表情を曇らせたエウリュピュロスは、視線をプリアモス王に向けて、慎重に盾を取り出した。


 エウリュピュロスの見事な盾には、英雄ヘラクレスの数多の偉業が刻まれていた。幼いヘラクレスが腕に掴んだ蛇は、彼を殺めるために女神ヘーラーが遣わしたもの。幼子の命を無情に討ち取ろうとしたが、その剛腕はすさまじく、蛇の喉はその丸い手で潰された。

 そして、次にはネメアの獅子を絞め殺す若きヘラクレスの姿が描かれた。この獅子は、数多の勇士を難なく屠った恐るべき獅子であったのに、ヘラクレスはこれを素手で締め上げて、幾日も跨いで暴れ回る獅子を討ち取ったのであった。血の泡を吹き、ぐったりと力尽きる獅子は、逞しい腕に抱かれている。

 さらに、襲い掛かる多頭の蛇ヒュドラーの首を狩り、英雄の友イオラーオスと共にその傷口を焼き止めて新たに首が生えるのを防いだ。まさにその様が描かれており、無惨に落ちた首は大地に横たわり、愛らしい仲間思いの蟹が勇気を振り絞っている。熱した鉄で傷口を塞がれたヒュドラーが殺されていく様を不憫に思い、ヘラクレスを斃そうとした蟹は、その見事な踵で踏み潰された。英雄はそれを知らずに怪物と格闘している。

 さらには畑を荒らす火を吹く鹿の角を取り、懲らしめるヘラクレスの偉業、次いでステュンファロス湖の鳥どもについて描かれている。鳥どもは、人を啄んで殺したが、狼を嫌って逃れていた。そこで、神々から授けられたガラガラを激しく鳴らし、驚いて飛び去る鳥どもをヒュドラーの毒を塗った矢で討ち取った。この時のことが描かれていた。

 ヘラクレスは悪名高いミノタウロスを産んだ父、ミノスの牡牛も倒している。ミノス王をポセイダオンが懲らしめるべくかけた呪いが元凶だが、この獰猛な牛を見事に生け捕りにした英雄は、牡牛をアルゴスへと運んでいく。この様子が描かれた。

 さらには火を吹く牛を養う牛舎から、川へと牛を導く偉業も描かれている。これは牛舎の掃除のために牛どもをいっぺんに川で洗うべく導いたものである。

 また、ヘラクレスは男勝りのアマゾーンの、ヒュッポリュテーが持つ帯を力任せに奪い取っている。これも盾には描かれて、逞しい英雄は屈強な女どもを破り、見事に偉業を果たしている。

 さらに、人食い馬を手懐けた王ディオメーデスが、この暴れ馬に人を食わせていたが、それらを懲らしめる様も描かれた。

 さらに、獰猛な狂犬オルトロスが横たわって描かれているが、これは、ヘラクレスが牛を求めて訪れた際に襲い掛かった獰猛な犬であったが、飼い主諸共英雄の棍棒で殴り殺された。

 さらには、黄金の林檎を守るラードーンが、林檎の木の下に落ちて殺されている姿が描かれている。この不死の竜は百もの頭を持つ恐るべき竜であったが、ヒュドラーの毒を塗った矢を射かけられて無惨な姿を晒している。

 さらには、アイデスの飼い犬、恐るべき地獄の門番ケルベロスを強引に殴り飛ばしたヘラクレスが、生きたままのこの猛獣を運び出す姿が描かれた。ミケーネまでの道のりに、犬が垂らした涎の跡が、トリカブトの花となって足元に咲き乱れている。

 また、彼は穏やかなケンタウロス族のポロスを助けるために大猪を生け捕りにしたが、これを喜んで歓迎を受けている間に、通常のケンタウロスがそうであるように、乱暴なケンタウロス共がポロスの家を包囲した。彼はこれを撃退したが、この時の偉業も見事に描かれている。歓迎会の見事な料理や酒は無惨、割れた皿の上で血糊と共に転がっている。松の木に頭を突っ込んで倒れ込むケンタウロスや丸太を振り回すケンタウロスも、散々にヘラクレスに打ちのめされて地面に横たわっている。

 その他英雄ヘラクレスの数え切れない偉業が大小、エウリュピュロスの盾には刻まれていた。


 それは見事な装飾の盾であったが、ヘラクレスは老王プリアモスの兄弟を殺した仇でもある。案の定、プリアモスの眉が僅かに動く。しかしそれも一瞬のことで、老王はその賢明さで心を隠して、盾を褒めそやして言う。


「これは見事な盾ですね。英雄ヘラクレスの偉業を模した装飾でしょう。偉大な父の名に恥じぬように、盾を背負っていらっしゃったとは。私は感激してもう一度泣いてしまいそうですよ」


 プリアモスはこのように答え、歓迎の宴は何事もなく無事に終了した。


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