アイアースの最期
予言者カルカースが、テラモーンの子テウクロスに予言した不吉な出来事は、この葬送競技の夜に起こったことである。それはテウクロスを酷く悲しませ、また彼に後に襲い掛かる不幸の予兆ともなった。
うら若き戦士たちが甘い葡萄酒に縋り、その身に降りかかる心地よい眠りに身を預けている時、アイアースは装具を身に纏い、悶々とした心と共に剣を抱いていた。
下った裁定に得心することの出来ないアイアースは、怒りに任せた恐ろしい思考を巡らせている。それは、ギリシャ勢を大勢殺して、力を示すべきかどうか、あるいは、オデュッセウスの寝込みを襲い、粉々に切り刻んでアキレウスの装具を勝ち取るかどうかである。
巡り来る夜は彼の心にも暗い影を齎し、恐ろしい行為を現実のものとするように誘う。これを知ったパラス・アテーナーはアカイア勢が痛手を負う事の無いように、アイアースの黒い心に靄をおかけになった。アイアースは意を決し、剣を持って外へと繰り出す。狂気の眼で外を駆け回ると、彼は防壁の外へと繰り出し、山を登り始めた。
彼はそこにギリシャの軍勢が残らずいると女神に見せられていたのである。山肌を登ったところで羊の群れと出くわしたアイアースは、猟奇的な笑みを浮かべ、目を爛爛と輝かせて言う。
「出会ったなぁ・・・オデュッセウス!」
彼は羊に襲いかかり、その喉をかき切って殺した。羊の群れは慌てて逃れようとするが、誰も彼の狂気からは逃れられない。諸刃の剣を振りかざし、その身を羊の血で汚しながら、アイアースは泡を吹くほど顎を開き、激しく猛り狂った。
この声を耳にしたメネラーオスは、騒ぎに気付いて飛び起きる。彼は兄を起こすと、心細そうに囁き声で言った。
「アイアースの声です。あの逞しい男を失くすか、アカイア勢に甚大な被害が及ぶか。いずれにせよ、戦力を大きく損なうことになるでしょう。兄君よ、私達は、酷い裁定をしてしまったようです」
メネラーオスの言葉に驚いたアガメムノンは、寝床から身を起こし、狼の咆哮のような巨大なアイアースの雄叫びを耳にする。彼は震え上がり、アイアースの身を案じて鎧と武器を身に纏うために立ち上がった。
「なにをするのですか、兄君。やめて下さい。今のアイアースは正気ではありません」
「ではどうするのだ!?あの男を失っては戦力が酷く削がれてしまうぞ!」
アガメムノンは縋り付くメネラーオスを蹴飛ばし、咆哮の響く方へと歩んでいく。そこには大きな山があり、山の中から響く大きな叫び声は、身を竦ませるほど恐ろしい野獣のようであった。
一方、アイアースは羊どもの群れを一網打尽にし、肩を揺らして大笑した。最期の羊の首を切り落とすと、その肢体をズタズタに切り裂いて、血肉を大地の上にばら撒いた。
「どうだオデュッセウス!!これが強い者に楯突いた男の末路だ!襤褸雑巾のように大地に倒れ伏し、手足首腹に至るまで切り落とされて、背骨を引き抜かれる気分はどうだ!声も出まいな!お前は俺よりもはるかに弱いとこれで証明されただろう?さぁ、その見事な装具を明け渡すのだな!」
こう言って猛り狂うアイアースの耳元で、煌めく眼の君アテーナーが息をお吹きかけになり、彼の心に掛かった靄を取り払ってしまわれた。すると、アイアースの曇った心が晴れ、黒い心を宿した眼は、目前に羊どもが血だまりの中で倒れ伏している様を目の当たりにした。そして、彼は手に持つ首を見ると、それは憐れ、舌を出して血を滴らせる羊のものであった。
ここに至って、アイアースは自らの黒い心を悔やみ、大地に膝をついた。血濡れの大地の上に、アイアースの狂った眼が映っている。空は大地を見晴るかす夜が見おろしておられ、アイアースの心を激しく諫めている。我に返ったアイアースは天を仰ぎ、嘆きの咆哮を上げた。
「ああ!神々はそれほどまでに私を憎んでおられたのか!?卑怯者のオデュッセウスがあれほどまで高く評価され、何故俺だけがこのように苦しむのだ!?どうして無辜の羊どもがここにいて、この手にある首がオデュッセウスのものではないのだ!?結局は気高き英雄ではなく下劣な人間の方が評価される世なのだな!ギリシャ勢に呪いあれ!オデュッセウスに数多の苦渋あれ、民を統べる王アガメムノンを生きては返すな!!」
アイアースは激しく猛り狂い、ヘクトールの剣を取り出して、自らの首を貫いた。鷲が山から飛び立ち、野ウサギがその場から逃げていく。彼は喉を貫く激痛に声にならない声を上げ、喉から剣を伝って滴り落ちた血の中に、自らの体を投げた。こうして彼の瞼を黒い死が蔽い隠した。
そして、まさに死の直後、アガメムノンと兵士達はアイアースのもとに辿り着く。大地の血だまりの中に倒れ伏し、羊の頭を掴んだままのアイアースから剣が飛び出しているのを見て、アガメムノンは激しく慟哭して叫んだ。
「我が軍の優れた猛将が!!女神テテュスめが私達の心を惑わさねばよかったのに!!」
この声は海の底にまで届き、銀の足を持つ女神の心を酷く悲しませた。




