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イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの矢
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アキレウスの装具をめぐる争い

 ところで女神よ、アキレウスをアイデスの元へ送り出し、葬送競技を終えたギリシャの戦士たちの不和について、私に語らせたまえ。


 事の発端はアキレウスの遺した多くの遺物、これにまつわる不和であった。ヘファイストスの手なる見事な装具、三界を描いた美しい盾や、煌めく銀の脛当て、怒りに震えるゼウスを描いた雄々しい馬毛を立てた兜など、これらの装具はいずれも世に並ぶものがない逸品で、誰もが求めていた物であったからだ。


 葬送競技も終盤に差し掛かり、ついにこの装具を銀の足を持つ女神テテュスが並べると、常人はまずその威容に圧倒されて、立候補することさえ躊躇った。

 煌めく黄金の盾は周囲に壮大なオケアノスを、周辺に天の星々と星座を、地上にあっては逞しい獅子や猪、狡猾なジャッカル、俊敏な豹や巨大な熊などと狩人、そして悲惨な戦場、さらには平和で公平な町が描かれた。また、舞踏の様子や、ペーレウスの結婚についても描かれている。いずれの人々も皆生き生きとして命を謳歌し、今にも動き出しそうに描かれていた。


 銀の足を持つ女神テテュスは、これらの遺品を並べられると、涙ながらにおっしゃった。


「この見事な装具を継ぐのにふさわしい御方は名乗り出て下さい。その御方とは、アキレウスの遺体を見事に守った勇敢な勇士、最高の英雄に比肩する者のことです」


 この見事な装具を欲したのは、アカイア勢でも稀有な勇士の二人、イタカの王オデュッセウスと、テラモーンの子大アイアースが名乗り出た。いずれも不足のない勇士であったので、ギリシャ人の如何なる者も異議を唱える者はいなかった。しかし、これに困ってしまわれたテテュスは、遺品を慈しみながらおっしゃる。


「困りました。いずれの御方がよりふさわしいのか。いずれの御方も相応しいというのでは、アキレウスを守った見事な装具が散逸してしまいます。このどちらの御方が、より相応しいと言えるでしょうか」


 このようにおっしゃるので、両者は威風堂々として、女神に以下のように主張した。


 先ず、輝く星のような戦果を挙げた、テラモーンの子アイアースが、力こぶを見せつけて、雄々しく声を張り上げて言う。


「女神様、私の力が無ければ、アカイア勢は壊滅していたでしょう。何故なら、私がアキレウスの参戦まで、最も戦果を挙げたのですから。ご覧ください、どうですかこの力こぶ。そう、いかなる栄誉があろうとも、戦果は力あってこそ。さぁ、私にその見事な装具を一つ残らず授けて下さい」


 対して、イタカの王、機略縦横のオデュッセウスは、沈着冷静として、細雪のように穏やかに語り掛けて言う。


「銀の足を持つ君テテュス、神がかりの御子アキレウスの母君よ。力で勝るテラモーンの子がおっしゃる通り、武勲この上ない大アイアースは見事な力をお持ちです。ですが、アキレウスの強さは力に留まらずその技あってこそ。不肖オデュッセウスは、その力ではアキレウスに劣りますが、技と智略ではアキレウスに劣らないと考えています。現に、アイアースが追い詰められた際に、窮地を助けたのはこの私です。俊足のアキレウスについては、危ぶまれる場面もなく、力を発揮できずにおりましたが、パリスやイリオン勢の戦意を削いだのは、やはり私の智略あってこそです。さあ、その見事な装具を、私に預けて下さい。もれなく使いこなして、見事な戦果を上げて見せましょう」


 いずれの主張も甲乙つけがたく思われたテテュスは、困り果てて悩んでしまわれた。そこで、この裁定に相応しい人物を人の中から決めようと、両者に語り掛けておっしゃった。


「両者甲乙つけがたく、困ってしまいます。出来ればこの裁定を何者かに預けようと思うのですが、相応しい方は居りますか」


「それならば、アガメムノンとイドメネウス、それにネストールはいかがでしょう」

「それはいい。いずれも賢明なお方ですね」


 アイアースの提案に、オデュッセウスも同意した。これを受け、両者の間に入っていった老雄ネストールは、二人を見比べて唸り声を上げた。


「女神のおっしゃる通り、いずれも優れた勇士です。どちらかを選べと言われても、儂らも困ってしまいます。甲乙つけがたい裁定にあっては、両者のうち選ばれなかった者が怒り、そして儂らを強く恨むことでしょう。そこでどうでしょうか。ここは一つ、イリオン勢に選ばせるというのは」

「ほぅ?」


 アガメムノンが興味を示す。ネストールは王の期待に応えて詳細を答えて言う。


「つまり、捕虜のイリオン勢が、いずれをより恐れたのか。称賛ならばいくらでも虚飾出来ましょうが、恐怖は身についたものですから、簡単に拭い去れません。儂らに対して不和も生まず、また不正の難しい裁定ではありませんか」


 このようにネストールが言うのを、アガメムノンは拍手をして讃えて言った。


「なるほど、流石は老雄ネストール殿。あなたの提案はまさにこの場に相応しい。アカイア勢のうち、何者が最もイリオン人を恐れさせたのか。確かにこれは明白な判断基準ですね。しかも、戦いの内で恨みを買うのはイリオン人ときた。そうすれば、選ばれなかった者もイリオン人を益々討ち取ってくれるに違いない。早速行いましょう。おい、捕虜を連れてこい!」


 アガメムノンが声を上げると、アカイア勢は先日捕らえたイリオン人の捕虜たちを、縄で縛ってその場に連れていく。連行されたイリオン人達は、皆一様に不安げで、アキレウスの見事な装具が並べられているところを目の当たりにするだけで飛びあがるほどに恐れた。


 これを見て、なるほど見事な裁定ではないかと誰しもが思った。得心した者たちは、ここから彼らがどのように捕虜を恐れさせるのか、期待して眺める。


 先手を取ったのは、テラモーンの子大アイアースで、彼は凄まじい形相で、大音声を上げてオデュッセウスを諫めた。


「オデュッセウス?ああ、俺とアキレウスが戦場で見事な活躍をしている間に、びくびくと陣屋に籠って小癪な策を弄していた男だな!お前のような臆病者は、卑劣な術で敵を陥れているに過ぎない。真に力がある俺のような男がより装具に相応しい。そうだろう!?そう言えばお前の船の位置が真中だ。あれは逃げる時に一番都合がいいよな?最前線にいる俺の船と違って真正面から来ても、また搦め手で背後から攻められても逃げられる。それに、味方を置き去りにしたり、形見の盾を投げて最初の死者となることを避けたり、そんな小癪なことをして、アトレウスの子らにも参戦についてごねていたと聞くな?お前は弱い子犬に過ぎない。獅子の様な俺こそが相応しい!いや?子犬だからよく吠えるのかな?ヘクトールが恐れ慄き、戦を避けたこの俺を、アキレウスと肩を並べて戦った俺を、隅っこで怯えてキャンキャンと吠えるお前の方が上だとお前は言うのか?かわいいなぁ、オデュッセウスよ。嫌々期の子供みたいだぞ?そんな赤子がアキレウスの見事な装具を身に着けられると思うか?あのとねりこの大槍を手に持つことすらままならないだろう。さぁどうだ?正論過ぎて声も出まいよ」


 アイアースが畳みかけて煽るのを、オデュッセウスは落ち着いた様子で眺めていた。そして、彼は小さな溜息を吐く。イタカの王の鋭い視線が一度捕虜の方を向かうと、アイアースの怒号に恐れをなして震え上がった捕虜たちが、吹雪のような凍てつく視線に身を強張らせた。


 カチカチと歯がぶつかる音が周囲に響く。オデュッセウスは再びアイアースに向き直り、ぼた雪のような語り口で質問をした。


「狩人が獣を狩るときに、必要なものは何ですか?」

「は?」

「わかりませんか。狩人が獣を狩るとき、力任せに強引に殴り倒すのではないですよ。弓矢や槍を使い、あるいは罠を敷いて、これを、武器を使って追い立てて、罠に嵌めて殺す。まことに智略とは人の身を助けるものですね。腕っぷしの強さでは助けられないものを助ける。さて、アイアース殿。私が船を中央に置いたのは、軍議に赴く際に都合が良いからです。アトレウスの子らとの軍議に、すぐに向かうことができますよ。知恵があるからこういう便利なことができます。それに、子犬のように激しく吠えるのはどちらかと言えば、この度のご発言を思えばアイアース殿のように見えます。落ち着きがないところも子供のようですね。アキレウスを守ったのも貴方だけではないし、私もその場にいましたね。それに私だけではなく数多のアカイア勢の勇士らもそうです。単に力任せで周りが見えておられないのではないですか。もう少し効率よく、戦う術を考えてみては?」


「はぁ!?オデュッセウス、聞き捨てならないな。結局お前はイリオン人を恐れさせていないし、俺のように戦いで敵を多数屠ったわけじゃあないんだろう?それに俺が視野狭窄っていうんならお前がアキレウスの屍を守ったっていう証拠を見せろよ、証拠を」


 アイアースが激しく煽って言うと、オデュッセウスを再び溜息を吐いた。

「アイアース殿、これは助言ですが、今怖がらせるのは私ではなくそこの捕虜ですよ。あなたがもし人を怖がらせるのなら、最も効率的な方法は・・・」


 オデュッセウスは徐に槍を手に取ると、視線も寄越さずに捕虜たちの間に槍を投げた。凄まじい悲鳴が捕虜たちの中から上がり、槍は一人の股の間の大地を貫いた。その男はあまりの出来事に思わず失禁し、意識を失う。オデュッセウスは手首を解しながら続けた。


「このように、力で彼らを脅かすことではないですか」

「望むところだ!」


 アイアースはすかさず捕虜の一人に飛び掛かり、その者を蛸殴りにし始めた。周囲がざわつく中、アイアースの大きな腕が激しく捕虜を打つ。鈍い音を何度も響かせ、恐ろしい力を振るうアイアースの大きな肩に、オデュッセウスは静かに手を掛けた。


「『術に乗りましたね?』私の提案に、捕虜は酷く怯えてくれているようです。どうも、有難う」


 オデュッセウスは優し気にアイアースに語り掛ける。アイアースは我に返り、殴るのを止めて、怒りに肩を震わせた。


「さて、どちらが恐ろしかったか、裁定をしてもらいましょうか。力の面ではこのように互角、あるいは技で私が上かもしれませんが、智略の面では私が上手というわけです。イリオン人の捕虜の方々、いかがでしょうか」


 オデュッセウスの冷めた視線に、捕虜たちは震え上がった。


「アイアース殿より遠くから見ても、私が恐ろしいようだ。パトロクロスの葬送競技の際にも、私の格闘技の実力はアイアース殿自身が認めて下さったことですし、勝敗は決したようですよ」


「・・・オデュッセウス!」


 捕虜たちの中から声が上がった。誰もが震える声で異口同音にその名を口にしたので、周囲は俄かに沸き立った。

 これをお聞きになった銀の足を持つ女神テテュスは、アキレウスの見事な装具をオデュッセウスのもとへとお運びになった。オデュッセウスは女神に歩み寄り、見事な装具を授かる。礼節も不足なく装具を受け取ったイタカの王に向けて、アイアースは激しく苛立ち、沸き立つ怒りで肉体が激しく熱を帯びた。

 戦友たちが彼を案じて慰めに入る声も耳に入らず、激しい怒りに心臓を鼓動させ、荒々しく腹を背骨に打ち付けて呼吸をした。彼は彼の陣屋に戻ったが、それが彼にとっての苦しみの終わりとなった。


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