戦勝祝い
アキレウスの死は、絶望に沈んだイリオンの民に再び喜びを与えた。夜は篝火が灯り、皆が蓄えた家畜の最も上等な肉を神殿に持ち込んで献杯した。戦利品を獲ることは叶わなかったものの、一時の安らぎは彼らの英気を養い、これまでの鬱憤を晴らすのに役立った。
まずヘスティアーに祝詞を捧げ、ここに家畜の臓物を捧げた。続いてアポローンに戦勝祝いの品々と家畜の血肉を捧げる。最期に盃を掲げてデュオニューソスに献杯する。燃え上がる炎は赤ら顔の男達を照らし出し、遠視射る君アポローンへの感謝として、人々は賑やかに演奏や踊りを楽しんだ。
浮かれ気味のイリオンの民の中には、夫や我が子の無事を喜ぶ女たちの姿もあった。女たちにとってデュオニューソスへの献杯は何より喜ばしく思われ、雄々しい男達に混ざって踊る者さえ現れた。
「神懸かりのアキレウスが死んだぞ!」
「ゼウスは我らを見捨ててはいなかった!」
「矢を射当てたのだからアポローン様のお力添えがあったに違いない!」
様々な喜びの声を上げ、不壊なる神々に感謝する人々。灯火は絶え間なく燃え盛り、高い声、低い声の混声合唱が、オリュンポスの峰まで高く響いた。
老王プリアモスも泣いて喜び、ヘカベーと共に喜びを分かち合う。二人は我が子らを集めて宴会を催した。老王は早速ヘファイストスの手なる見事な銀の杯を掲げ、神々に献酒する。
「アキレウスへの勝利を齎して下さった不壊なる神々、世で最も優れた雷を愉しむ君ゼウスに献杯!」
「「献杯!」」
空席の目立つ宴会場に、歓喜の声が高らかに響く。ヘカベーは、一杯の酒を飲み干すと、空の隣席を見やって涙を零した。
「ああ、この場にヘクトールがいてくれれば、もっと喜びは深いことだろうに・・・」
「今はつらいことを思い出すな、ヘカベー。きっとアイデスの館で喜んでくれているよ」
老王は慈しみ深く妻を抱きしめると、妻は涙ぐみ、弱々しく頷いて言う。
「あなたの言う通り。優しいヘクトールならば、きっとそうしてくれる」
年老いた夫婦がこのように喜びを分かち合う間、生き残った子供はどのようであったのか。まず、ヘクトールを最も尊敬したデーイポボスは、久しぶりの馳走に舌鼓を打ちつつ、感涙を酒と共に飲みこんだ。彼は遠視射る君アポローンと共に、俊足のアキレウスを討ち取ったのがパリスの矢であることを最も喜び、浮かない表情のパリスの肩に手を回して大笑する。あふれる涙を拭うこともなく、ただ、パリスの功績を素直に讃えて語り掛けた。
「アレクサンドロス、お前の手柄だぞ!ほら、食え、食え。兄君の見立ては間違いじゃなかったんだな。俺はお前を立派な戦士と認めるぞ」
デーイポボスは、パリスの口に乱暴に肉を捻じ込む。咀嚼する間もなく口に運ばれてゆく肉を必死に躱しながら、彼は苦笑交じりに兄弟の言葉を受け止めた。
「・・・ありがとう。ちょ、ちょっともういいって」
「ええ?聞こえない、聞こえなーい!」
デーイポボスはそう言って大笑し、杯を仰いで酒を飲み干した。
一方、その様子を冷静に眺めていたのが、予言の力を持つカサンドラーとヘレノスである。二人の周囲に漂う空気は異様に重く、食事もゆっくりと摂りながら、互いの距離感を慎重に保っていた。
というのも、彼らの背後には大きな柱があり、これが光を阻んで表情を暗くさせたのである。二人は示し合わせたように互いの力を用いて、歓喜に湧く者たちの末路を予言していく。
ヘレノスは静かに料理を口に運んだ。それは見事な柘榴で、赤々とした粒がぎっしりと詰められている。カサンドラーはプリアモス、ヘカベー、パリス、デーイポボス、スカマンドリオス、アンドロマケー、ヘレネー、という順番で予言の力を用いていく。いずれの結末も彼女には受け入れがたく、眉間の皺はますます深く刻まれた。気狂いを起こしそうなカサンドラーは、最後にヘレノスの運命を予言する。
すると、彼女はみるみるうちに顔を赤くして、今にも発狂しかねないほどに荒々しく息をした。激しい呼吸音に気づき、カサンドラーに視線を向けるヘレノスは、怪訝そうに眉を顰める。彼は彼女に何か言おうと口を開いたが、カサンドラーは無言でその場にあった花瓶をヘレノスへと投げつけた。
激しい破砕音と共に花瓶が割れ、注がれた水がヘレノスの足元を濡らす。活けられたクロッカスの花が水に塗れてしなびている。
ヘレノスは彼女を落ち着かせようと声を掛けるが、カサンドラーは頭を激しく掻き毟り、髪を振り乱してその場を後にした。ヘレノスは仕方なく、花瓶の破片を集め、従者に掃除を命じる。
「ヘレノス、大丈夫か?」
デーイポボスが声を掛けると、ヘレノスは小さな声で「ええ、まぁ」とだけ答えた。水浸しのクロッカスを見たパリスは、暗い表情をして徐に立ち上がる。デーイポボスが声を掛けてきたために、彼は疲れた笑顔を向けて答えた。
「酔っちゃったみたい。ちょっと、外の空気に当たってくるね」
「ああ、気をつけろよ?」
パリスは空返事で応じ、宮殿の庭へと繰り出して言った。
イリオンでは、不滅に思える炎があちこちに灯っている。町の大通りを埋め尽くす灯りは全盛期の祭祀の時よりもなお多く、ヘクトールを称える歌を歌う一団が町を練り歩いていた。神々の見事な防壁は無傷でその威容を示しており、この地に滅びが齎されることを微塵も感じさせない。偉大な指導者を称える行列は大通りを行っては来てを繰り返して、その手にある灯りや竪琴がちらちらと光を反射している。
宮殿の庭には案の定クロッカスが咲き乱れていた。それを目にしたパリスは静かに眉尻を下ろし、表情をますます暗いものに変える。曇った表情をするパリスは、彼と同じく宴会から飛び出したカサンドラーの姿も目にした。彼女は乱れた髪を掻き回し、見事な巻き毛も枝毛のように彼方此方に跳ねさせて、恨めし気な金切り声を上げている。
暫くパリスが様子を見ていると、視線に気づいたカサンドラーは荒々しく歩み寄り、滅びの御子の肩を掴んで揺さぶった。
「あなたの責任なのだから貴方に命ずるけれど、ヘレノスを今晩中に殺しておしまいなさい」
カサンドラーは恐ろしい形相をパリスに限りなく近づけて回答を迫る。クロッカスの花が風に揺れ、紫の花弁が怪しく踊る。赤い雄しべは一方が他方へと向かい、もう一方は激しく揺れて一方から逃れようとする。その様は、さながら俊足のアキレウスに追い立てられるイリオンの戦士たちのよう。激しく吹く西風に煽られて、クロッカスは首を擡げている。
「ヘレノスは仲間で親族なんだから、そんなことは出来ないよ」
乱れ髪のカサンドラーは、断るパリスの肩を掴み、激しく彼の体を揺すって迫る。
「いいえ、何としても責任を取りなさい。あの男は後に裏切り、しかもそのせいでイリオンが滅ぶ。分かるでしょう?神々の予兆を見逃すあなたではない筈。憎たらしいほど鋭いんですもの」
確かに、パリスは嫌な予感を感じてはいた。その正体が何であるのか完全に理解していなかったが、予言者カサンドラーの言葉であれば信頼に値するものだ。しかし、結末がどうであれ、彼は親族に対して不信に陥り、殺めることを良しとはしなかった。
パリスは口の中でもごもごと言葉を発する。
「ヘレノスはきっと裏切らないよ。彼のことを信じよう」
パリスが言い終えるより速く、カサンドラーは髪を取り乱しながらパリスの胸倉を掴んだ。両の手で掴まれた服は伸び、美しい襞は損なわれる。
「どうせ信じないとは思ったけれど、どうしても私の予言は信用されないようね!滅びの御子、忌まわしいパリス、あなたには失望すらしていません。だって予想通りの愚図なのですからね。さぁ、分かったらさっさと宴会に戻って、愚かに戦勝を祝ってきなさい」
カサンドラーはこのように激昂すると、パリスから手を離し、月に吠えながら寝床へと駆け戻っていく。パリスは呼吸を整えて、彼女の背中を見届ける。宴会に戻るような気分にはなれず、彼はその場に蹲った。
さめざめとした西風が、クロッカスの花弁を攫っていく。不夜城の如く灯りの絶えない大通りを辿っていくと、その遥か先では大きな炎が猛っていた。
「アキレウスの・・・」
ギリシャ人が押し寄せた海岸線の辺りで燃え上がる炎は高く激しく燃えており、今にもイリオンまで延焼しそうなほどであった。
「ここにいたのですね、パリス」
「ヘレネー・・・」
宴会から抜け出してきたヘレネーは、パリスの横に屈み込み、群生するクロッカスを共に眺める。
「主役がいないのでは勿体ないではないですか。さぁ、戻りましょうよ」
ヘレネーはパリスに柔和に笑いかける。しかし、パリスは浮かない表情で、美しい花々を見おろした。
「アキレウスも、同じ気持ちだったんだろうな・・・」
パリスはぽつりと呟くと、ヘレネーの手を取った。二人は足並みを揃えて宴会へと戻っていく。空虚な黒い空に、幾つもの煙が登っては消えていった。




