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イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの矢
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イリオンの矢

 さて、戦意を喪失したイリオン人、鳥となって子々孫々でメムノーンを弔うこととなったアイティオペイア人の戦士たちも、戦場から離れてしまった。弔いのためか、太陽はその輪郭だけを白く空に残してしまう。そのために、空は深い闇に覆われていた。それを夜の到来と考えたアカイア人もその身を休めるために、多くが戦場を退いた。

 ところが、アキレウスの怒りは深く、アンティロコスを弔うアカイア勢に先んじて戦場へと戻り、イリオンの防壁まで攻め入った。


 単身で立ちはだかるアキレウスに、イリオン人は防壁の内側から弓矢を構えて待ち受けている。また、強襲に慌てて戦場に繰り出すものもあった。このような、防壁の外で戦う誉れ高きイリオンの勇士らは、アキレウスにも物怖じせずに立ち向かった。一騎当千のアキレウスがほしいままにイリオンの勇士らの命を屠り、続くアカイア勢がイリオン人と激闘を繰り広げる。

 今にも防壁に迫るアキレウスは、群がるイリオン勢を薙ぎ払い、遂に強固な防壁の門にまで至った。まさにその剛力で、鍵を砕こうとするその矢先、遠視射る君アポローンは、神々の御座から、アキレウスの前まで降って行かれた。


 アキレウスも神に手を下すわけにもゆかず、ついに手に掛けようとした門から手を離し、一歩退いた。

 イリオン勢も隙を見てアキレウスの兜を砕こうと大岩を投げようとするのだが、いずれの者もその手には力が入らなかった。これは防壁の内側でも同じことで、この場にあって身を動かすことができるのは、アキレウス、輝ける君、そしてあと一人のみであった。


 アキレウスには防壁の門と、アポローンの御姿しか映らなかった。神々しい輝きの君は、その身に箙と、鏃が鋭く輝く黄金の矢をお召しになっていた。また神々しい巻き毛は、遍く天を照らす(エーオース)が、その身をお隠しになったために、その場にある中で最も輝くものとなって周囲を照らした。眼は太陽のように燃え上がり、その様はさながらイリオンの場に陽が落ちて、周囲を白く照らしているよう。それ程の神威を前にしても、アキレウスは少しも怯まずに、アポローンに問いかけて言う。


「そこを退いて下さい。あなたは一度ならず二度までも、私の邪魔をするのですか」


 アポローンは恐ろしい瞋恚を込めた瞳で、アキレウスを睨みつけておっしゃった。


「これ以上の殺戮は神意に悖る行為だ。すぐにその場を離れ、船団並ぶ陣屋まで戻るがいい」


 アポローンの御言葉を、しかしアキレウスは一顧だにせず退けた。


「いいえ。アポローンよ。神がどのように私を遮ったとしても、私は敵であるイリオンの民を討たなければなりません。そのように警告されても、私には神と戦う道理は無いはずです。その場を退き、イリオンの民を討ち取る役目を果たさせてください」


 アキレウスは一切退く気は無かった。それはアキレウスの心の内から沸き立つ怒りが、今もその身を焼いているためであった。火炎の中で生贄の家畜が悶え苦しむように、アキレウスの身を焼く怒りは彼の心を苛み、その身を暴れさせた。

 この答えに、アポローンは呆れ返っておっしゃった。


「話にならんな」


 アポローンは防壁の上に飛び上がると、瞬く瞳を、この闇の中でも弓を引く者に向ける。輝きの君が射掛けた矢を手ずから下ろさせると、その燃える眼が勇士の目を映した。


 泣いている。

 凄まじい瞋恚を秘めた暗い瞳。

 この憎しみに満ちた瞳が、輝きの君に向けられた。


 アキレウスはついにイリオンの防壁にある門に手を掛けた。神は燃え盛る左目の炎を消し去ってしまわれた。すると、イリオン人たちはたちまち動き出した。体が動き出した途端に勢いで体勢を崩す。転倒する者もそのまま体勢を戻すものもあったが、全てのイリオン人が向かう先は皆同じであった。


 標的は、武器と盾を一度収め、扉に手を掛けるアキレウスである。


 イリオン人たちが一斉に飛び掛かり、アキレウスの右腕、左腕に掴みかかる。アキレウスがそれを振り払うたびに、次のイリオン人が飛び掛かる。

 これを何度も繰り返す様は、さながら獲物に迫る孤高の獅子が、獲物の牛の群れに阻まれて四肢を小突かれるよう。逞しい脚に幾度も押し付けられる分厚い牛の額が、鋭い爪に傷つけられ、足を折り地面に膝をつく。しかし、いかに優れた獅子であっても、数多の牛の群れ全てを屠ることができないように、アキレウスもまた、その腕に圧し掛かる幾百幾千ものイリオン人を全て、振り払うことは出来ない。また、いくら臆病な獲物であっても、自らの命が風前の灯火である時には、必死に抵抗をするように、イリオン人のあらゆる臆病者も全て、身を挺して門を庇ったのである。


 英雄に届くものは全て屠られた。アレースの子、男勝りのペンテシレイアも、アキレウスにも並ぶアイティオペイアの英雄たる、エーオースの子メムノーンも。また、ゼウスの寵愛も深き、輝く兜のヘクトールも。


 雑兵たちを次々に振り払うアキレウスを睥睨されつつ、アポローンは足速きアキレウスに笑いかけつつおっしゃった。


「怒りとは何だろうな、アキレウス」

「今、今まさに私が抱いているものだ!」


 英雄はイリオンの民を投げ飛ばしながら答える。ついにアキレウスはイリオン人に押し返されて、見る見るうちに防壁から離されていく。


「その点についてはお前に同情もするが、同時にお前を軽蔑するぞ」


 輝ける君は箙から黄金の矢をお手に取ると、銀の弓と共に防壁の上に立つ勇士に与えた。顔をくしゃくしゃにした勇士は、アポローンから見事な弓と矢を賜ると、すぐさまアキレウスに照準を合わせた。


「悲しみとは何であろうな」

「あなたが私と分かち合い、抱いているものです」

「そうだな、パリス」


 恐ろしい雄たけびが空に響き、イリオンの戦士たちが身を竦ませる。一瞬の隙をつき、アキレウスが門前に迫る。鍵に手を掛け、アキレウスがもぎ取らんとする。


 まさにその刹那、銀の弓を離れ、黄金の矢は空を切った。

 爪弾く音はパリスの耳を掠め、弓弦が震えて矢は大地へと落ちる。露わになったアキレウスの踵に、輝く矢が突き刺さった。


 やがて、空に隠されていた白い陽が戻る。パリスは静かに弓を下ろした。


 踵についた傷は浅かった。しかし、アキレウスは血の巡りを辿って心臓にまで至る激痛に、耳をつんざく悲鳴を上げた。これはまさに、神の御業であった。英雄は白目をむき、喉が裂けんばかりの声で大地を揺るがす。イリオンの戦士たちはたまらず体勢を崩し、アキレウスは踵から矢を引き抜く。たちまち緑の血が踵から流れ出し、心臓からは命が抜けていく。英雄は怒りに任せ、防壁に向けてさらに声を荒げた。


「面と向かって戦わぬ臆病者が!誰か知らないが出てくると良い!すぐにでもその根性を叩きなおして、ついでにアイデスに捧げてやる!」


 今まさに死にゆくべきはずのアキレウスは、命に満ち満ちた体躯をすぐに立ち直らせ、黄金の矢を打ち込んだ主人へと投げた。パリスに迫るべきその矢を、アポローンはその手で捕らえてしまわれた。そして、アキレウスの温い血を振るい落として箙に収められると、そのままオリュンポスの御座まで登って行かれた。


「逃げるのかぁ!アポロォォォン!」


 天へと昇って行かれるアポローンに向けて叫んだアキレウスは、苛立ちに任せて周囲のイリオン人を素手で屠り始める。拳の一撃で次々に雑兵をなぎ倒すと、次には自らの盾を手に取り、これで見境なく敵を殴り殺した。こと切れる瞬間の途切れ途切れの呼吸などせず、全ての力を振るってイリオン人を地面に叩きつけた。しかし、僅かに残った命の血も、力むほどに激しく踵から零れ落ちる。そして、アポローンがお召しになった矢は疫病みを伴って運ぶため、いかにアキレウスであろうとその運命から逃れることは許されなかった。

 最期の力を振り絞り、アキレウスは槍で幾人かの英雄を冥途の土産としてアイデスに捧げた。逃げるイリオン人の中で数少なく、アキレウスに止めを刺そうと迫ってきたオリュターオーンの額を貫き、頭蓋を破って脳髄を槍で引っ張り出した。次にはピッポノオスの目玉を貫き、この目玉ごと槍を引き抜いた。かけた瞳からみるみる魂が逃れて行き、ヒッポノオスは大地に崩れ落ちた。ついには、アキレウスはその身を支えるべくとねりこの見事な槍を大地に突き立てたのだが、彼はこの時にさえイリオン勢を討ち取ろうと試み、アルキトオスの頭蓋を穂先に巻き込んで、顎を大地に叩き落とした。こうして頭蓋は陥没し、アルキトオスは砕けた顎から血を吐き出して力尽きる。


 ついに支えなく立つことができなくなったアキレウスは、槍を大地に突き立てたままこれで身を支え、最期の咆哮を叫ぶ。


「逃げてばかりの卑怯者どもめ!貴様らを全員道連れにして、アイデスのもとに送り届けてやる!」


 イリオンの戦士たちが恐れをなして、皆アキレウスから逃げていく。アキレウスは必死に防壁の門へと手を伸ばしたが、その手は門を掴むことは出来ず、ついにその魂は彼の肉体から離れた。


 数多の屍が衝撃を和らげ、アキレウスの肉体が傷つくのを遮った。大地に倒れ伏したアキレウスに、イリオンの戦士たちは恐る恐る近づく。


「し、んだ・・・?」


「アキレウスが死んでるぞ!アキレウスに勝ったぞ!」


 にわかに信じがたい事実に喜んだイリオン人は湧き立った。しかし彼らが逃げてアキレウスから離れたばかりに、その屍をアイアースに奪われてしまった。盟友を奪われたアイアースは、仲間の屍を庇いながら敵の防壁を破ることは出来ず、また手ずから乱暴に鍵を壊そうにも、アキレウスには流石に劣るため、これも出来なかった。また矢の雨が降り注ぐ防壁の周辺では盾で兜を守らないわけにもいかず、アキレウスの屍と盾を手にして、防壁から離れるのがやっとであった。


 パリスは急いでイリオン人に訴えかける。


「アキレウスの屍を戦利品にして、防壁の中へ運びたい!みんな力を貸して欲しい!」


 イリオン人最大の禍に打ち勝ったことを誇りとしたい者たちや、身内を奪われた者達が、自然とアイアースのもとへと立ち向かっていく。アイアースはたまらずアキレウスの屍を下ろし、イリオン人を遮りながら後退する。イリオンの戦士からすれば、アイアースは全く自分達の攻撃に動じずに脱出したかのように思えただろう。しかし、アイアースを囲い込むイリオン勢の密集陣形は、アイアースを静かに苦しめていた。それは蜜蜂の群れが、蜜を奪おうとする者に襲い掛かるとき、その身を囲い込んで熱を発した蜜蜂は、侵入者を熱の中に押し込んで命を奪う。そのように、イリオンの戦士たちはアイアースに次々に群がり、この盗人を討ち取らんとする。アイアースは盟友の屍に雑兵の手が近づくたびに、これに猛進して引き剥がし、槍で突き殺した。


 この槍がアイネイアースまでをも傷つけた時、パリスは防壁から降り、アイアースから屍を取り返そうと戦場に繰り出していた。その時には防壁からでは敵を狙えないほど、アイアースによって屍が運ばれてしまっていたのだ。


 さて、アイネイアースが負傷したのを見て、パリスもアイアースを狙って弓を引き絞る。しかし、すかさずアイアースの鋭い眼光がパリスを捉え、アイアースは負けじと石を投じた。


「っ!?」


 パリスの頭上に恐ろしい衝撃がぶつけられる。脳が揺るがされ、よろめく彼が頭を手で庇うと、頭上から罅割れた兜が崩れ落ちた。音を立てて落ちる兜に目を白黒させ、パリスは身を竦ませる。それは脳を激しく揺るがされたからで、パリスはそのまま大地に崩れ落ちた。

 アイアースはすぐに標的を周囲に戻して、恐ろしい槍を繰り出した。

 そのうちに、アイアースを助けるためにオデュッセウスが増援を引き連れて現れる。冷たい唇が重苦しく開かれる。


「アキレウスのことを構う必要はありません。あなた達アカイアの戦士たちは、今生きているアイアースを助けなさい」


 戦場に冷たい空気が漂い始める。オデュッセウスは短い手槍をそっと持ち上げ、負傷したパリスを運ぶ御者に向けて、冷酷な眼光を光らせた。脳を揺さぶられ、死の恐怖に襲われたパリスの心はたちまち凍り付き、仲間たちに呼びかけて言う。


「うっ、たまらない・・・。退却だ、退却!」


 オデュッセウスは、ヘクトールの見事な馬に運ばれて離れていくパリスに視線を寄越したまま、アイアースの後方に群がる敵の戦士に手槍を投げつけた。これは見事に的中し、パリスの知らぬ間にアイアースの脱出口が開かれてしまう。


「退路は作りましたよ!露払いは任せなさい」


 オデュッセウスの声に、アイアースは包囲から強引に脱出した。人一人分の穴はすぐに埋められ、結局アイアースは強引に体当たりをして包囲を潜り抜けた。

 オデュッセウスはアイアースの無事を確かめると、この大男を討ち取ろうと群がる敵を冷静な槍捌きで討ち取った。彼は膝に槍を打ち当てられ、この部分から血を零したが、これにも動じずに、槍で打ち当てるほど迫った相手の前腕を盾で打ち、怯んだ隙に敵に槍を突きつけた。オデュッセウスの無情の槍は敵の盾を破って胸を貫き、バランスを崩したまま倒れる敵を地面に貼り付ける。そのまま命を手放した敵から、オデュッセウスは静かに槍を引き抜いた。


 こうして、攻めるアカイア勢によってアイアースは救われ、アキレウスの屍もアカイア勢の手に残された。


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