メムノーンの最期
激しい戦いは続く。ネストールが一度退いたのち、メムノーンは次々とアカイア勢を討ち取った。
その強さは最早災害と言って差し支えなく、というのもアキレウスがイリオン人にとって、周囲の大地ごと抉り取る俊星のような災いなのに対して、海に船を浮かべるアカイア人にとっては、メムノーンはさながら全てを飲み込む海上の嵐のような災いに思えたのである。
それ程に優れたメムノーンであったが、短い休息を終えたネストールが戦陣に参戦する時、部下たちにこれを一任した。ところが、その知恵深きネストールは意趣返しにメムノーンの部下を討ち取り、勝利の鬨を上げてメムノーンを煽った。
そして、メムノーンはこれを大いに悲しみ、その弔いに多くのアカイア人の首を土産として持たせた。これを見て、さらに恐ろしくなったネストールは、頼みの綱として、すれ違い様にアキレウスに援護を請うた。
「アキレウス殿、儂ではあの男に勝てぬ。どうにかして倅の武具を奪い返してはくれまいか」
これを聞いたアキレウスに否やなどあろうはずもなく、即座に「私がその仇を討とう」と答えて戦列から飛び出した。
アキレウスはすぐさま悲惨な戦場へと辿り着く。アカイア人を死屍累々として大地に寝転がすメムノーンは、顔に返り血を浴び、濁った目でアキレウスを見た。アキレウスは計り知れない嚇怒に震え、兜の内の長髪を振り乱してメムノーンに襲い掛かった。
「ギリシャの勇士達を次々に殺したのは貴様か!」
「いかにもそうだが、戦場に情は不要、智略に優れた人も使いようだな」
「何をふざけたことを言っている!?」
アキレウスは激しい怒りに任せて、メムノーンに襲い掛かった。鋭い槍を盾で受け流そうとしたメムノーンは、その槍が盾を貫通し、自らを傷つけたことに目を丸くした。
「さすがに強い。パリス殿が苦労するわけだ」
「はぁ?なんだと!?」
アイティオペイアを率いる女神の子は、思わせぶりに振舞って、敵の無防備な腕を槍で突いた。しびれる痛みがアキレウスに伝わる。顔を顰めたアキレウスに、メムノーンは余裕綽々とした様子で語り掛けた。
「アキレウス殿、戦場とは騙し合いですな。アカイア勢はいずれも豪傑ぞろい、どうして細腕のパリス殿がここまで粘ってこられたのでしょうね」
「今にも落ちそうなイリオンを、神々の築いた見事な防壁が守っているからだろう!」
アキレウスの槍は真っすぐに盾の破片を胸当ての奥にまで押し込んでいる。いっぽう、メムノーンは、腕に鋭く刺さった穂先を、思い切り捩じって傷口から肉を抉り取った。
「ずる賢い搦め手で抗ったのですよ。いかにも優しいパリス殿では、人を殺めるのは容易ではなかったようですが・・・」
鋭利な槍が鍵穴を捩じるように、傷口からじりじりと血を搾り取る。その痛みは想像を絶するもので、正面から敵に向かった鋭い傷を遥かに凌ぐ苦痛を伴った。
「このアイティオペイアのメムノーンはね、王として処世術を良く学んだのですよ。ね?うまくいったでしょう?賢明なネストール殿に鞭を与えて、預けた飴玉で読み通りに禍を届けてくれましたからね」
品行方正、勇猛果敢なメムノーンは、戦場においては修羅のようであった。
両女神の尊き血を混ぜた緑の血が大地に滴り落ちていく。両者は既に覚悟を決めて、その火蓋を切ったのはテテュスの子であった。
「まず、お前が討ったのは卑怯者ではないぞ。そして、私の母、テテュスが神の内で慕われているのは、海にデュオニューソスやヘファイストスを匿ったり、ゼウスの危機を救ったりしたからだ。その誠実さから生まれたのが、武勇に秀でた私、アキレウスだ。分かるか?そのような痴れ者の斜に構えた態度では、我が身に滅びが降り注ぐことになるだろうよ」
互いに武器を敵から抜き取り、その煌めく血を大地に零して退いた。そして、再び輝く剣を構えると、天にまで届く大音声の雄叫びを上げて、その刃を交えた。
こすれ合う盾はいずれもヘファイストスの手なる物。均整の取れた見事な楯は金属の音を立ててぶつかり、兜は荒れ狂う馬毛を乱してこすれ合った。狡知のゼウスは両者を共に祝福され、その身に神の力をお与えになる。盾のぶつかる音はより速く、その雄叫びもまた激しくなっていく。
平原の上には野犬や野鳥を肥やす死体が転がり、煌めく血飛沫も脛当てを汚す血溜まりの一部となって大地を穢す。馬が食むべき草木は赤く染まり、黒い死があちこちを忙しなく飛び交っている。
ミュルミドンらとアイティオペイア人が主人の雌雄を巡って自らの盾をぶつけ合う。その様を、天の御座におわす神々がご覧になった。ある者はアキレウスを、またある者はメムノーンを支持する。雌雄を求める神々の声は天上のオリュンポスに留まらず、大地に沈む冥府の神々をも喜ばせた。死神が両雄の周囲を舞い、次々に死の嘆きが齎される。手に汗を握る戦いを、息を呑んでご覧になる神々は、その思惑の通りに死神たちが味方に付くことを期待された。即ち、明るい死神が支持する者のところに降り立つのを求めておられた。
水底では女神テテュスが手を合わせお祈りし、天上では馬を駆るエーオースがメムノーンの無事を確かめようと天をお渡りになっていた。
神々は壮絶な戦いを、息を呑んで見守っておられたが、現に刃を交える両軍には神々を見る余裕などなかった。剣と剣、槍と槍とが鍔迫り合いを繰り返す。時に大岩が降り注ぎ、アキレウスはさっと太刀を振ってこれを切り砕いた。また彼らの軍勢は互いの敵を討ち取らんと逸り、血みどろの体を傷つけあった。そして、力尽きた敵や味方は、大地に横たわるのに任せて敵に刃を振りかざした。
永遠に思える戦いにも、ついに終わりが訪れる。アキレウスは見事に、メムノーンの心臓を太刀で貫いた。メムノーンは動きを止め、剣が引き抜かれると、天高くまで血が迸る。やがて弧を描く血が、黒い大地を汚すと、同時にメムノーンは血だまりの中に倒れ伏した。
雌雄を決したその時、天空は黒い雲で覆い隠され、暁は雲にお隠れになって涙をお流しになる。そして、天上に突き上げたアキレウスの剣は、均整の取れた心臓を空気に晒した。
ギリシャ人が彼の神がかった装具を奪う間に、まず、イリオン人が漣のように退き、次にアイティオペイアの人々が、悲しみに沈んで血の海に向けて膝を折った。そして、これらをご覧になった神々が、メムノーンを風でお運びになり、吹き荒ぶ嵐の激しさによって、アカイア勢も足止めを食らった。
アイティオペイア人は風に導かれる王を追いかけ、王の遺体から零れる血の雫は‐‐やがて煌めく川面となるものだが‐‐、大地へと落ちた。
彼らは王がアイセーポス川まで運ばれるのを追いかける。エーオースと女神たちが先んじてメムノーンの遺体に寄り添って涙をお流しになった。そして、女神たちと同じように、彼を慕うアイティオペイア人達がそれを囲んで涙を流した。注がれる涙で血糊を濯がれたメムノーンの素顔は、穏やかとは程遠いものであったが、その苦悶の表情を、エーオースは抱き締めておっしゃった。
「愛しいメムノーン・・・。私は天を渡り世々を照らす使命を負っておりますが、あなたを失った今、その使命を果たす気にはなれません。あなたを見捨てた神々がそうしろというのです。私も冥府へと降り、大地の代わりに、光ない地を遍く照らすことと致しましょう」
エーオースの言葉に、兵士達は嘆きの声を上げた。そして、彼女を匿っておられるニュクスも、また彼女に寄り添われるウラノスも、共にしとどに袖を濡らした。やがてイリオン人の祈りが彼らのもとに届き、エーオースは悲しみ続ける忠実な戦士たちを、鳥に変えてしまわれた。鳥は大地を飛び去ると、空中で主のために互いに体をぶつけ合い、葬送競技に勤しんだ。王の魂は永遠に、この鳥たちとその子孫たちによって弔われ、冥府の中で眠るのであった。
天が黒い雲に隠され、世界に夜が巡り来る中、メムノーンの死を悼んでいらっしゃるエーオースのもとに、天見晴るかす君ゼウスが降って行かれた。
天翔ける暁の君はゼウスのことさえお気づきにならず、昼時だというのに星々が瞬き、世々の営みを阻む夜を晴らすために、ゼウスは雷霆を手に轟かせ、エーオースを諭しておっしゃった。
「エーオースよ。お前の悲しみの深さは良く知っているが、それでも戦車に跨り、天を晴らすその運命を捨てることは許されぬ。天にはヘリオスが駆けているというのに、この暗さは何という事だ。お前が悲しみのあまり冥府に降るというのであれば、こちらはアイデスの御座ごと冥府を動かすことになるだろう」
狡知のクロノスの御子は、手ずから雷霆をエーオースの白い首筋に突き付けてられ、凄き瞋恚を眉間にお刻みになった。
悲しみに沈まれるエーオースは、恐るべき雷霆が首を照らす様に恐れをなして、ゼウスに弁明をしておっしゃる。
「分かりました。今にでも天に昇り、輝くヘリオスの運ぶ戦車に乗り込みましょう。そして、妖しく瞬く闇の中の、赤々としたヘリオスを、白く優しい表情に戻してさしあげましょう。それでよろしいでしょう?私は既に、子を亡くした憐れな身の上なのですから、私を痛めつけて悲劇を重ねるようなことはなさらないように」
このように、エーオースが取り繕って天へと昇って行かれると、ゼウスは輝く雷霆を手の内に収め、オリュンポスの御座までお戻りになった。エーオースが空へとお戻りになると、夜はすぐさま持ち場へと戻り、赤々としたヘリオスの輝きも白く落ち着きを取り戻した。




