ネストールとメムノーンの戦闘
暁が天を駆り巡り来るとき、眠りは人々の瞼を開かせた。メムノーンは即座に飛び起きると、その身を助ける装具を身に纏う。名残を惜しむ暁が、空をゆっくりと染め上げるので、イリオン人は全ての道をその逞しい脛当てで埋めて、いざ戦わんと逸り立っている。
この長大な軍靴の列をかきわけて、メムノーンは俊足の恃むままに道を駆け下りる。まさに戦場と安寧を分かつ城門の前まで辿り着くと、彼は大地に槍の石突を突き立てて、高らかに雄たけびを上げる。アイティオペイアの勇ましい王は、イリオン勢の心を掴み、大音声は戦塵舞う荒野に高らかに響き渡った。
戦場と安寧を別つ門が鈍い音を立てて開かれると、メムノーンを先頭としたイリオンの戦士たちが続々と飛び出していく。雄々しい声を天に響かせ、大地を掠める砂埃を立てながら、アカイア勢の待つ決戦の地まで突撃する。一方、アカイア人の勇士達は、アキレウスを中心に、皆堂々とこれを待ち受けた。
この時、神々は神酒を注ぎつつ、ゼウスの御座を前にご列席なさって、戦場の様子を眺めておられた。
「お前たち、身内がいるからと言って、心を痛めて介入するでないぞ」
尊き神々も、雷を愉しむ君ゼウスを恐れてこれをご承諾された。
さて、神々が盃を交わして戦場をご覧になる中、勇ましいメムノーンが遂にアキレウスのもとに辿り着く。両者はその血も貴き女神の子、両雄は相打って盾をぶつける。アイティオペイアの軍勢がまず進み出てアカイア勢に槍をぶつけ、柄と柄、穂先と穂先とが激しく音を立てる。この凄まじい音にも増して、戦士たちの雄叫びは天をも轟かせ、大地は絶えず砂埃が舞い上がった。
矢の雨がアカイア勢の盾を鳴らせば、穂先がイリオン勢の喉を貫く。この血濡れの槍を拭うかのように、イリオン勢の槍がアカイア勢の胸を突いた。両者は立ち昇る砂塵を顔に塗し、身を汚すままに激しく槍を打ち合った。
メムノーンは、次々と勇士を討ち取ったが、アキレウスもまた、すれ違い様の一撃でさえ、数多の敵の頭蓋を砕いた。このように、両雄は槍を交える前から、恐るべき死を振り撒いたのであるが、中でも、聡しいメムノーンは、暁と重なって飛び上がると、老雄ネストールに襲い掛かった。この老雄が数多の勇士を率いていただけに留まらず、その老獪な頭脳をアカイア勢から奪おうと逸ったためである。しかし、力では遥かに劣るネストールも、その賢しさは抜きんでており、メムノーンの狙いをいち早く読み取り、すんでのところでその身を躱す。辛くも黒い死を逃れたネストールは、続けざまの攻撃に後退しつつも、激しく盾を動かして、槍の穂先を丸盾の傾斜で受け流した。
「ご老人!さすがの手練れですね!」
「まだまだ若い者には負けんよ、メムノーン殿」
しかし、メムノーンの猛攻は凄まじく、ネストールは徐々に後退を余儀なくされる。そこで激しい打ち合いに気づいたネストールの子アンティロコスは、飛びあがるメムノーンとネストールとの間に割って入り、その勇名神にも近きメムノーンに、無情の槍を突きつけた。
アイティオペイアの雄はこの逃れ難い一撃を見事に躱したが、躱した槍がそのまま味方を討ち取ると、激しい怒りに駆られてアンティロコスに襲い掛かる。槍が敵を突き刺したままの状態では躱すことも出来ず、アンティロコスは大地を思い切り踏みつけて、飛び散る中で最も大きな石を掴み、メムノーンに投げた。投じた石は見事にメムノーンに当たったが、威力が伴わず、また狙い定めた目には届かず兜を激しく打ち鳴らしたため、突き出す槍の勢いを衰えさせるには至らなかった。
メムノーンの無情の槍は、アンティロコスの心臓を貫く。黒い血がどろどろと穂先を伝い、大地に滴り落ちていく。恐るべき死を、しかも我が子の死を目の当たりにしたネストールは激しく心を乱し、放心状態で槍が引き抜かれ、地面に崩れる我が子の体を支えた。
「ああ、アンティロコス!何てことだ!」
メムノーンが血を払い、無情の槍で親子を串刺しにせんとする。老雄は類まれな判断力で、我が子を呼んで言う。
「トラシュメーデス!魂を手放した兄を守っておくれ!」
トラシュメーデスは心を痛めつつ、ネストールとアンティロコスを守る。素早いメムノーンの槍に自らの槍をぶつけ、軌道を逸らして身内を守った。
メムノーンは構わずに、トラシュメーデスを払いのける。ネストールに凶刃が向かうたびに、老雄の子が槍で庇った。
らちの開かない戦いに、痺れを切らしたメムノーンは、トラシュメーデスを蹴倒すと、アンティロコスの遺骸を乱暴に奪い取る。その剛腕逞しいメムノーンが、圧倒的な力量で老人から盾と我が子を取り上げると、ネストールは老いた手を伸ばしてアンティロコスの袖を掴んだ。
「トラシュメーデス、手伝っておくれ!」
「おぇ・・・げぇぇ・・・」
ところが、彼の逞しい息子は、装具越しにその身に受けた一撃があまりに強く、立ち上がることも出来ない。何とか這い上がったところで、喉まで上がった胃液を地面に吐き、涙と混ぜ合わせて大地を汚した。
トラシュメーデスがもはや敵ではないと見て取ったメムノーンは、アンティロコスの見事な装具を剥ぎ取ると、その遺骸を弟に投げ返した。
兄の遺体は弟の背に重くのしかかる。トラシュメーデスは胃液塗れの大地に突っ伏し、苦しそうに呻き声を上げた。
そして、無情の槍を伴って、老雄ネストールに迫る。
もはや息子が助からないと見て取るや、ネストールは報復の計を案じ、槍を頼りに立ち上がった。
ネストールは姿勢を低く保ち、僅かに身を横に捩じって、今にも逃げる素振りを見せる。しかし実際は真逆で、彼はメムノーンが彼を殺そうと振りかぶり、無防備となったところを討ち取らんとしたのである。相手を油断させるべく、弱った老人を見事に演じたネストールであったが、その尽きない憎悪の視線を読み取って、メムノーンは憐れみながら語り掛けた。
「おやめなさい、ネストール殿。あなたでは私に勝てそうにないし、子供の前で親を討つというのもどうにも忍びない。どうですか、立ち向かって気でも触れたかと味方に責められるよりは、ここは一旦退いて、身を休めてみては」
メムノーンが負い目を感じて語り掛けるので、ネストールはかえって惨めな心持ちとなって語気を荒げて言う。
「息子の仇を討とうとする老人に、気が触れたなどと言う者があるものか!・・・くそぉ、腰が、もっと若い頃ならば・・・」
ネストール自身、身の限界は既に訪れていた。逃亡の仕草は本物となり、メムノーンのゆったりとした前進に合わせて、老人は腰を労わり後退した。その子もその協力者もまた、兄を抱えて父親の後を追う。全てが終わった後、メムノーンは姿勢を楽にし、喧しく盾を鳴らす次の戦場へと戻っていった。




